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「辛くない」は大嘘だけど②〜母に聞いた「障害を持っている私が生まれた頃」の話

今シリーズの前回は、父と、そしてそれに付随して離婚についてのお話をしましたが、今回は、そんな離婚後からより母に聞くことが増えた「私が生まれたときの母の気持ち」や「状況」についてです。

前回に引き続き、デリケートなお話でもありますので、お読みの際はご了承のほど、よろしくお願いします。

小さな記憶の1つのドラマ

離婚が決まってしばらく、引っ越しなども終わって日常が戻り始めた頃、知らない間に気張っていた心はヘニョーンと力を失った。

母は用事や仕事で基本家にいないので、夜の私といえばもは抜け殻である。

「あ~もうやだ。あ~もう疲れた。あ~もう死にたい」みたいな、ずっとそんな感じ。

現実逃避をしようにも、自分が今楽しめるものが何なのか、いまいちわからない。
頭を回る、未来への不安と父との記憶。カサカサと希死念慮だけが育っていく毎日。

たしかそんな時でした。
ふと「障害を持ってるお母さんの話があるドラマがあったような…」と思い出しました。

とは言っても、私の記憶の中にあるのは
「なんかすごいもじゃもじゃな先生だった」ということと、「手術服だった」という情報のみ。

「手術服…手術服で赤ちゃんが出てくる…産婦人科だよなぁ…?
…もじゃもじゃな頭の人誰だっけ…えーっと…」

お芝居は好きだけど、当時の私が好きなのは声優で、まだドラマには興味を持っていなかったため、もっと前の記憶なんてあるわけもなく、スマホで「産婦人科 障害 ドラマ」なんて検索したような記憶だけあります。

そこで出てきたのが「コウノドリ」でした。

もじゃもじゃ天パの綾野剛さんをみて「これだ!!!」とすぐにピンときました(特徴的だね)

「見るものもないし…何か変わるかな…」と特に期待せず、コウノドリを視聴し、1話から気づいたときには涙がボロボロと。そこら辺の詳しいお話は、他の回でも関連してくるのでまた改めて。

コウノドリでは、私が生まれた頃に入っていたであろう「NICU」。保育器のある小児集中治療室がよく登場します。
小さな命をすくい上げようとする、そんな大人たちももちろんたくさん。

懸命に生きようとする赤ちゃんや、それをサポートする先生や両親を見ていて、感動の次に私の中で生まれたのは「自分も、産まれてきた時はこんなふうに助けられていたのか」というなんとも言葉にしがたい感覚でした。

そして、コウノドリを見ていく中で「常位胎盤早期剥離」という言葉がよく出てくる印象が私にはあり、いつの間にか「自分が産まれるときも、母はこんな症状になったのだろうか」とも思うようになりました。

それから繰り返しコウノドリを見たりして調べながら自分でも理解しようとしたものの、結局は限界があるということで、母に直接聞いてみました。

「二度と喋らないし寝たきりかもしれない」

私が生まれたときの話は、以前にも何度か聞いたことがありました。

例えば母が知り合いと私の話になったとき。

私が普通にダイニングでご飯を食べていたら、通話中の母の声が聞こえてきました。

「(私)のときなんて、大きくなっても口を利くかわからないし、表情もない寝たきりになる可能性もあるって言われたんだから」と聞いて、小学生の私はめちゃくちゃびっくりした記憶があります。

だって、普通に喋ってるし、普通に歩いてるもん。

当時、今よりも無知な私は純粋に「ん?なに「ヤブ医者」ってやつ?」とか思ってました。(とても失礼)診断を誤ったの?みたいな感覚で。

もちろん、今こうして歩けてるのはリハビリの成果でもありますが、口を利かない重度さとは全く想像がつかない。うっそぉー…?って疑う以外にない。

そして母が通話を終了し、再度確認。

「えー?言われたよ。ほんとに」ときっぱり。

「えぇー…。歩いてんのに」

「うん。まぁ、小さい頃なんてどうなるかわからないもんだからね」という具合に、軽くは昔から聞いておりました。
けど、実際にどんな症状があって、何を思って産もうとしたのか、ということは謎のままだったわけです。

「知りたい」と知的好奇心が働いた私は、コウノドリを見て約2年ほど経ってから母に聞いてみました。

「私が言うのも変だけど___っていう選択肢はなかった?」

私が生まれる前から、母の体からは出血があって、長らく入院での安静を強いられていたというのを聞いた私は、コウノドリで見ていた「切迫早産常位胎盤早期剥離だろうか…」とすぐに見当がつきました。

事前に出血があって安静、ということは「何らかの障害が残るかもしれないよー」と説明を受けていたのでは…?と自分の中で疑問がわきました。でも、母の口からそういったことは出てこず、そもそもそう言われたのかも覚えていない様子。

当時はきっと、出生前診断とかもないわけなので、堕ろすなどと選択しなかったとしても違和感はないのかなと思いつつ、私が産まれ、小さな私を見た父は私を受け入れられなかった。

なら「母はどうだったんだろう」と、コウノドリを見ながら私は思いました。

事実、コウノドリの中でも障害を持っている赤ちゃんへ葛藤するご家族がいくつか描かれています。

「障害があるって産まれる前にわからなかったの?」と聞くと「産まれてから診断されたからね」と言われました。

そして、言葉が見つからなかった私が直接「それでも育てようと思ったのはなんで?」というと、母は「なんでって…」とやや考えた様子。

「だって、父は私のことが無理だったわけじゃん。私が言うのも変な話だけど、それって別に悪いことじゃなくて、なんなら人として自然でもあるというか。母はそうならなかったの?」

「変な話、堕ろすとか簡単に言っちゃいけないのはわかるんだけど、生涯持った子なんて、それまであんまり考えたことないだろうし、色々変わるわけで。
産んだ以上は堕ろすのが無理でも、障害がわかって、よっぽど嫌なら養護施設みたいなところに入れるのもありだったわけでしょ?もちろんおばあちゃんとかがそれを許さないとかもあるかもしれないけど」と補足。

今思うとなかなか親心をえぐるようなこと言ってしまったのではと少し申し訳ない。

けれど母は当たり前のように「親ってそんなもんよ」と言いました。強い。

こんなアニメみたいなセリフを聞くことがあろうとは、と少し驚きながらも「そういうもん…」と漠然としたセリフにポカーンとしていた自分もいたり。

きっと、生まれた当時の頭部写真では、やはりまだ正確なことはわからないだろうし、先生的には「そういう可能性もある」という意味で「歩けない」「喋らない」「寝たきり」というワードが出てきたんだとは思いますが、こんなトリプルパンチを食らってもなお「私を育てよう」と、もし仮にそうするしかなかっただけにしても決めた母の覚悟は「そういうもん」だけでは片付けられないんだろうなと感服しました。

管に繋がれた自分

確か、私は本来の予定日よりも2ヶ月も早く生まれたそうで、そりゃ未熟児だなって話ですよね。

にしても、トイレなんかも全てベット上で行うほど安静を強いられていたのに、それでも2ヶ月も早く産まれたと考えると、やはり病気や症状って恐ろしいものです。

小学低学年のとき、アルバム型の工作があり、その一環で「小さい頃」の話をいくつか聞くことがありました。

出生体重や誕生日、好きなものや嫌いなもの。頑張りたいこと等々、支援学級でせっせこ作っていた記憶があります。

そして、そんな出生体重などを書く欄に1枠
生まれたときの写真を貼る」というものがあったんです。

「使うからちょうだーい」ともらったその写真には、とても小さな赤ちゃんが横たわり、たくさんの管に繋がれている瞬間が。

言われなくてもこれは自分だけど、こんなだったんだなぁ…以外の感想は出て来ない。
だって記憶もないのだから、他人事にさえ感じてしまうのです…

母たちによれば、NICUにいる間、親以外は入室禁止で、姉の面倒を見てくれていた祖母はもちろん、家族である姉さえも入れなかったそう。

親以外のたくさんの手を借りながら、私は徐々に体重を増やしていったわけですね。

終わりに

母は多くを語らないというか、こういう話のときは聞けば応えてくれるけれども、聞いても出てこないときは出てこないので、結構短くなってしまいました。

小さな私が産まれたころ、姉はどう思っていたのか。大きくなっていくにつれて、姉の心に「私」はどう写っていたのか。

今のところ、そんな話を姉とはしたことがないのでわかりませんが、今になってみると、きっと私が生まれた前後は寂しい思いをしていたのだろうか、と思ったりします。

さて、次は「コウノドリ」繋がりで、コウノドリを見ていた当時の私のお話と、長さによっては転換期に入った頃までをお話できればと思います。

今回のお話でわかるとおり、産まれた頃の私は歩けるかは愚か、喋るかさえわからない人間でした。

しかし、リハビリの甲斐もあって、歩くし走る。
喋るのは好きだし、こうやって文章を打つことも好きです。

もしも今、これを読んでいる方の中に「障害を持っている」という疑いのあるお子さんを身籠っている方がいるのなら「案外どうなるかわかりませんよ」とお伝えしたい。

ここに来るまでは家族みんな、決して楽ではないけれど、苦ばかりではない、ということもお伝えしておきます。

ではまた。

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