麝香豌豆と悪魔

「お休みなさいませ、お客様。」
黄緑のセミロングの髪に
アメジストの様な瞳の丸眼鏡の
顔の半分が灰色の肌の縫い目が痛々しい
褐色肌の宿屋の主人はランタンを持ち
全ての客人に就寝の挨拶を済ますと
自分の部屋へと入り、天窓を開け
木できた屋根の上に上がり
星を眺める様に作ったデッキスペースに
ランタンと帳簿を置き
小さく鼻唄を歌いながら、星を眺めつつ
今日の売り上げを確認している。
「ハミュイング。いや、ハミュ。おっと主。この頃冷えるね。風邪を引かれては困るからさ。毛布を持ってきたよ。」
ベージュの髪を長いポニーテールにした
ブーゲンビリア色の瞳の
白のスーツの優男が微笑みながら
ブラウンの毛布を肩に掛ける。
楽しげに首を左右に降っていたハミュは
鼻唄を歌うのを止め
懐からペストマスクを取り出し
身に着けてから優男の方に顔を向ける。
「エプスレンディド。秀麗の悪魔。心遣いには感謝するけど分かってるよね。僕らは契約関係。それ以上の関係はないからね。あの男をさっさと見つけて僕が味わった屈辱を晴らすんだから。それでお前とはお仕舞いだからね。」
ハミュはマスク越しのくぐもった声で
すこぶる嫌そうに言葉を返す。
悪態をつかれても彼は笑みを崩す事なく立っている。
優男は秀麗の悪魔、エプスレンディド。
契約主の負の感情を糧にして願いを叶える悪魔。
巨人の咳き込みと言われる大嵐で
宿が損壊し、修復費用の資金繰りに
困っていたハミュに旨い話を持ち掛けてきた
甘いマスクの男に復讐する為に契約している。
その甘いマスクの男が具体的に何をしたか。
ハミュに一夜だけの肉体関係を求め
応じればその対価に
大金を支払うというものだった。
同性に興味などないハミュだが
顔面と右足を大きく負傷し
宿屋も開店出来る状況では無かったので
渋々、その要求を呑んだ。
しかし、翌朝には男は姿を消しており
純潔を男に奪われた上に
何も得られなかったハミュは怒り狂った。
その後、資金繰りを何とか成功させ
宿屋を無事に復活させたハミュだったが
やはり
あの夜の出来事が大きな心の傷となり
腸が煮えくり返っていた。
そして、整った顔の男の客が来る度に
明るく生真面目なハミュは豹変し
何の罪もない客に怒鳴り散らし
追い払うようになっていた。
昔からハミュを知っていた近隣住民に
哀れまれ、時には嘲笑われ
その度に憎しみを増幅させていった。
憎しみを紛らわせる為に
昔から好きだった
星を見る事と歌を歌う事を行っていたが
それほど効果がなかった。
しかし、良い事もあった。
大嵐は確かに被害をもたらしたが
秘めていたシンフォフィリアという
大規模災害フェチを目覚めさせ
継ぎ接ぎにされた体は己を醜くさせ
鏡を見ても容姿端麗であった男の事を
フラッシュバックせずに済み
傷のお陰で大嵐の脅威ばかりが思い出され
その興奮で怒りを一時的にだが
憎しみを忘れられた。
怪我の功名でハミュは何とか
以前の人格を保たせている。
「そう言えばさ。悪魔はごまんといるのにどうして僕を選んだんだい?憎くて憎くて仕方無い男の事を想起させる僕をさ。」
自身を呼び出す為の書物悪魔図鑑を速読しながらハミュに問いかける。
「お前を使役できる程に僕の負の感情が強いと思ったからだよ。それ以外に理由なんてないね。文句言ってないであの男を絶望させてくれない。」
ハミュは毛布を深く被りながら
イラついた口調で返答する。
「そんなに負の感情を貰っても困っちゃうね。でも、契約はキチンと守るから安心して。もう一つだけ質問させてよ。なんでペストマスクなんて着ける様になったの?近眼なんだから眼鏡を外せばそれで僕の姿を認識しなくて済むのにさ。」
「格好いいからだよ。それに仮面を付ければ僕を認識しなくて済むんだよ。いっつも傷の事を思い出して興奮してたら持たないからね。もういいかな。」
虫を追い払うように手を前後に振って
早く去れとせっついてくる。
「分かったよ。主のハミュイング。秀麗の悪魔、エプスレンディド。通称ディトは主の契約を履行します。なんてさ。行ってくるよ。」
ディトはその場で一回転すると
こめかみから三本の角と背中から蝙蝠の翼を生やし
星空の向こう側へ飛んでいく。
ハミュはその姿を見送り、目視できなくなるほどに遠ざかったのを確認すると
ペストマスクを外し、丸眼鏡を掛け
帳簿を手に取ろうとする。
すると、帳簿の上には手紙付きの仄かなピンクのスイートピーが置かれ
手紙には「趣味を楽しんでいこうね。楽しい事は大切さ。」
と、だけ記されていた。
「あの悪魔、性格だけは良いから完全に憎めないんだよね。気に掛けてくれてありがとう…。」
手紙を側に置き、帳簿を付けていく。

ディトは既に男を見つけていた。
男を見下ろすように上空を羽ばたき
口端を上げながら行動を監視する。
ディトは数日前に客として男に
好みの同性に姿を変え、取り入り情報を得ていた。
男は女衒を取り締まる小悪党で
ハミュと寝たのは単に見た目が趣味で
弱っている人間は丁度の良い鴨だったからという
軽い理由らしく処罰の重さを詳細に決める為に彼の事を覚えているかどうか
問い掛けてみたが
道端に咲く小さな花程度にしか
覚えていなかったが故に
ディトはハミュが望むよりも
恐ろしい報いを受けさせようと画策していた。
「幻影の悪魔や醜悪な悪魔は本当に偉いと思うよ。上級悪魔であるあの方は褒め言葉として残虐でおぞましいと言いたくなる程にえげつないのは分かるけどさ。あの真面目な醜悪な悪魔まで外道になるなんてさ。外道…そう。悪魔としての道を外れてる彼があんなに愛されてさ。羨ましいよ。僕もハミュに愛されてみたいね。だから…君をそれはそれは素敵な負の感情渦巻く花園に招待してあげよう。主を満足させれば認めて貰える筈だからさ。」
手首のスナップを効かせながら掌を開く。
すると男の回りに
黄色のスイートピーが咲き乱れる。
花によって外界から線引きされた男は困惑し辺りを見渡す。
ディトは天使の様に音もなく静かに優雅に着地する。
「こんばんは。綺麗でしょ?黄色のスイートピーの花言葉は『分別』。スイートピー自体の花言葉は…。」
ポンッと弾ける音を立てて
赤のスイートピーがディトの右手に現れていた。
それを口元に翳し微笑む。
「これから起こる悪魔的な所業の中で理解していってね。」
男は目の前に現れた秀麗な悪魔に
怯えながらも口汚く暴言を吐く。
何故こんな目に
合わなければならないのか。
自分は何もしていないと。
「無知が罪なのさ。知らない。覚えてない。それはとてもとても罪深いのさ。」
花びらを巻き込んだ風が男を包み込む。
花弁が男の体に触れる度に
細かな傷が体に刻み込まれていく。
じわりとした痛みが苦痛で仕方がない。
ディトは微笑みながら距離を取り
顔の前で花を揺らしながら、悶える男を眺める。
男が悶える度に
何処から声が聞こえてくる。
「もっとだ…!もっと苦しめろ!!僕の受けた痛みや苦しみはこんなもんじゃないね!!苦しめぇ!!苦しみやがれぇ!!!」
凄まじい怨嗟の声の主は勿論ハミュ。
ディトが自身の目を介して
手紙にこの景色を写し見せているのだ。
スイートピーが滴る血で真っ赤に染まった頃。
男は顔以外をズタズタにされ
身動きが出来ずに
うつ伏せに倒れていた。
ディトは屈み込み男の顎を持ち上げる。
「何も出来ないって辛いよね。とっても良く分かるさ。でも、傷さえ治療すれば君は何度でもやり直せる。だって綺麗な顔は…何ともなっていないんだからさ。」
耳元で耽美に囁く。
男の血の気がすぅーっと引いていくのが分かる。
この言葉は男がハミュに放った言葉。
男は暫く血の気が引いていたが
拳を強く握り震えだし
目を見開き、口をキツく噛み締める。
「ふふっ…少しだけ罪が軽くなったね。思い出してくれてありがとう。スイートピーの花言葉の一つにさ、あるんだよ。『私を忘れないで』ってさ。ね?理解してくれたかな。」
顎から手を離し立ち上がる。
「その悔しそうな顔。反省なんてしないと思ってたさ。そういう性格…精神病質だったね。でも、僕は悪魔。そんな異端者にも心を与えられるのさ。いっぱい共感して欲しいね。人を知るとね…。」
手を広げ空間を大きく撫でると
スイートピーが紫に変わっていく。
「君に送ろう。この花言葉。『永遠の喜び』嬉しくないって?僕が嬉しいのさ。」
男は頭を抑えて悶え出す。
怨嗟の声が脳内に直接訴えてくる。
それに全く理解できなかった
苦しみや憎しみが一気になだれ込み
頭が割れるように痛む。
「僕は悪魔だけどね。人の気持ちを知りたくて堪らないのさ。」
ディトは話ながら男の回りをゆっくりと歩く。
持っていた赤のスイートピーが白色に変わっている。
「『ほのかな幸せ』魔の力でも人を笑顔に出来るからね。本当に心から喜ばれたら形はどうあれ嬉しいからさ。小さな幸せを積み重ねていくと気分が良いよ。悪魔っぽくない?負の感情は美味しいけれど、たまにはスイーツが欲しくなる。そんな感覚さ。」
ハミュの恨みのこもった楽しげな声は
過激さを増し、ついにこの単語が放たれた。
「殺せ」
ディトは白いスイートピーにキスをして消すと。
苦笑いを浮かべる。
「それは駄目さ。ハミュは分かってないね。生き地獄って知ってる?そこの方が苦しいんだよ。ハミュも知ってると思ったんだけど。僕は長く在るからね詳しいのさ。」
悶える男の側に近付き、額に触れる。
すると傷は治らないが
頭の痛みが引いていき
痛みから解放された男は呻くのを止める。
呆然とした表情で静かに涙を流す。
「泣き顔も綺麗だね。今の君は体がズタズタにされて動けない上に心が芽生えて他人の負の感情に押し潰されそうになってるのさ。辛いでしょ?そのまま生きていくんだよ。はい、スイートピー。」
白いスイートピーを軽く振ると
色が真っ赤に戻っている。
それを手に握らせ満面の笑みを浮かべる。
「最後までお付き合いしてくれた君ならもうこの花の花言葉分かるよね?分からないなら教えて上げる。スイートピーの花言葉は『さようなら』さ。これまでの心無い小悪党からさようならして人の痛みがよく分かる素敵な男性になれるのさ。良い門出を迎えさせて上げる。それじゃあ、人の世界に帰ろうか。」
顎を持ち上げ、男に深い口付けをする。
目を丸くし、暫し抵抗していた男だが
そのうち脳を駆け巡る快楽に落ちる。
そのまま眠ってしまい
目を覚ますと花畑は消え去り
意識がハッキリしてくると
自分が病院で手当てされている事に気が付く。
看護師にどういう状況で
運ばれてきたのか尋ねる。
自分の働く風俗街で
いきなり姿を消したと思ったら
朝方に傷だらけで倒れていたので
近隣の店のボーイが男を抱えて
病院に駆け込んだらしい。
早めに治療を受けた為
もう少し療養すれば
完治する程度で済んだらしい。
悪い夢かと掌を見ると
真っ赤なスイートピーが握られていた。
昨晩の事を思い出す忌々しい花
しかし、手放す事も
目をそらす事も出来なかった。
恐怖で息を荒くする男に
落ち着くように声を掛け微笑む看護師。
微笑みさえもおぞましい。
あの悪魔の顔が脳裏にこびりつき
フラッシュバックする。
最終的には精神的苦痛に耐えられず
嘔吐してしまった。
新たに吐瀉物を片付けに
病室を後にした看護師の代わりに
他の看護師が入ってくる。
その手には大きなスイートピーの花束が持たれ
見下すような微笑みを浮かべていた。
女から放たれる声は男のもので
その声は聞き覚えのある恐怖そのものの声だった。
「生き地獄へようこそ。」
それだけ残し花瓶に花を生けると
消えるようにいなくなっていた。
そこで男は気を失っていた。

「ただいまハミュ。おおっと、主。いや、主なんて呼べないからハミュイングと呼ぼうかな。気は晴れた?」
シーツを洗濯し干している
ハミュに微笑み掛ける。
「秀麗の悪魔。良くやったよ。気は晴れたね。あいつも僕と同じ運命を辿るんだ。死ぬまで。フフッ…ハハッ…アッハッハッハッハ!!!」
振り向く事なくシーツを干していた
ハミュは狂気の減った掠れた笑い声を上げる。
「これで僕達お仕舞いだね。さようならか。悲しいよ。」
ディトの物悲しげな声に
干す手を止め、振り返らずに
ボソリと言葉を放つ。
「居ても良いよ。」
「ん?良く聞こえなかったや。もう一度言ってくれないかな。」
「エプスレンディド!お前は僕に仕えろ。負の感情なんて人間は生きていればいくらでもあるよね。だから…居て欲しい。」
ピンと張ったシーツに
ぐしゃりと皺が寄る。
勢い良く振り向いて
ハミュは初めてディトの顔を
マスクもなしに対面する。
「気持ち悪いよ…。やっぱり無理…。これが治るまで付き合う。そういう契約結んでくれる?」
顔面蒼白で吐きそうになり
顔をそらすハミュを見て
今まで上げた事のない声を上げる。
「アッハッハッハッハッ!!!良いよ。その契約。承ったよ主のハミュイング!」
ディトは初めて心から笑った。
己が焦がれてしまった醜悪な悪魔のように
素敵な主が出来るかもしれないと
そう思うと嬉しくて仕方無かったのだ。
一度きりでない関係は初めてだったから。ハミュに渡したピンクのスイートピーの花言葉「繊細」お互いにそうだったのだろう。
こうして凸凹な悪魔と人間の関係は続いていく。

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