「お金ください」

トルコの田舎を歩いていた。
慣れた道も初めての道も散歩するたびに新鮮な気持ちで。

地方都市の商店街、くらいの規模の街の中心地。
チェーン展開する大型スーパーマーケットや
イオンモールみたいな映画館の入ったショッピングモールがある。
とはいえ根強くローカルな持ちつ持たれつが息づく個人商店の連なり。
道路はコンクリート製で、たまに落とし穴サイズのポットホールが出現する。

あー、日本でお世話になってるトルコ語の先生がここの高校出身って言ってたなーなんて思いながらただただ歩いていた。

私はもっぱらのアジア人顔なので、アーモンド型の目やら白い肌やらが稀有に見えるらしく
まあまあ道行くトルコ人に話しかけられたり挨拶されたりする。

この時も話しかけられた。

「日本人!」

おい、そこのお前!
みたいなニュアンスの「日本人!」呼び。

腰が曲がり杖をついたお婆さんだった。

「日本人だろ。」

「はい、そうですけど。」

「お金、金持ってるんだろ。
 ちょっとよこしなよ。

貧しい感じの雰囲気だった。
目つきが普通じゃなかった。
言っては悪いかもしれないが、見た目が浮浪者っぽかった。

お金に困ってるのは本当かもしれない。
たぶん本当だろう。
ただ、あげられるお金があったとして、いくら渡したらいいんだろう。
その前にまず、私はほとんどお金を持っていない。
飛行機に乗って遊びにきている身でおかしな言い分かもしれないが、
一週間を3000円(夕飯一食が500円くらいの感覚)ですごすくらいの所持金だ。
やすやすめぐんでさしあげられる余裕がない。

「ごめんなさい、お金あんまり持ってないんです。」


「ケッ。この日本人が。」

すみません、海外に遊びに行くことが贅沢と言われたら何もいえないけれど、
たしかにお婆さんは1日を過ごすのも大変なのかもしれないけれど、
知らない人にお金くださいって言われて渡すのって、私、難しいかもしれないと思った。

お金を渡すことによって、その人自身が自立する可能性を否定してしまう気がする。
100円でも欲しいって言うかもしれないけれど
(いや、”ケッ、100円ってなんだよ。もっと出せよ” って言われそうだけど)、人のことを憐んでいるような罪悪感がある。
100円じゃ逆に失礼でしょうっていう人もいると思う。

もっと思ったのが、「お金ください」ってなかなか言えない言葉じゃないかということ。
お金がないことが恥ずかしい、情けないみたいな気持ちだったり、
一生懸命働いて人が手にしたお金をやすやすと「ください」なんて言えないとか
人には多かれ少なかれプライドがあるだろう。

何かの役に立つことができない、能力が認められない、機会すら与えられない、それを認めてしまったら、自分自身を支えるプライドが壊れてしまう。

見ず知らずの人にお金をめぐんでくださいって、なかなか言えないと思う。

ささやかにメリークリスマス🎄

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