走り出したおばさんを捕まえて。(つまりシソンヌの演技が好きな話。)
シソンヌについて書くとき、憑依という言葉を使って演技を褒めてしまうことがある。
間違ってはいない気がするが、シソンヌじろう氏(注1)を「憑依型」ではない言葉で表現したい。
憑依という言葉は、全く違う人格や性格が乗り移ったり、乗り移りにいったりするような印象を与える。じろう氏は自分で台本を書き、自分で演じる。憑依よりもっと良い言葉があるような気がしていた。
それに対するヒントを、堀井憲一郎著「いますぐ書け、の文章法」の中に見つけた。(注2)この本では、文章を書くときに起こるある現象を「文章の自走性」と表現する。
文章を書き始めたとき、言いたいことがあって、どこに行くかが決まっているときに限られるのだけれど、文章は自走しはじめる。
ネタを書くときの感覚がこれに近いのではないかと予想している。キャラクターと、展開と、入れたいボケがいくつかあって、それが決まってくると、点同士が繋がって線(物語や、あるシチュエーション)になる瞬間があるのではないか。それを、「降ってくる」と言うこともあるだろう。
文章が自走するのは紙の上だけではない。結婚式のスピーチが例として出される。
(中略)いきなり少しだけ話してくれと頼まれて、しかたなく喋るときがあるが、さて、そういうとき、スピーチが自走しはじめて、止まらなくなったことがありませんか。
ある。(注3)
急に話すように言われ、言葉は出てくるものの、自分ではもはや内容のコントロールができず、ただひたすら発している言葉に追い付こうとする瞬間が。
当然ながら、この現象は、本人の持つ語彙や文法からしか生まれてこない。どんなに切羽詰まろうが、1単語も1文法も知らない言語を無意識のうちにすらすらと話しはじめることはない。
これと同じようなことが、コントのキャラクターを作り、演じるときにも起きているのではないか。
つまり、全く別の人格に乗り移るのではなく、元々持っている気質を取り出す行為が行われているということである。
ある「おばさん」を演じるとき、日々のストックとして身体に刻み込まれた「おばさん」の記憶が放出される。身体が自走し、キャラクターが自分の意識より前に出てくる。
新しい造形を生むのではなく、記憶の中の姿を再現する。そういった過程を経て、コントのキャラクターは命を吹き込まれていくのではないか。(注4)
ただ、観客がそれを見る段階(つまり本番)では、演技はもはや段取りや作業までに高められている。私は、じろう氏の演技をよく「集中力が高い」と表現するが、それはその水準が常に高く、作業であることを感じさせないという意味である。言うまでもなく、作業というのは良い意味での表現であり、言い換えれば、プロであること、ブレがない、ということである。
色々なキャラクターを出すことができるということは、その数だけの記憶のストックがあるということだ。じろう氏の中には、たくさんのおばさんが住み、身体を出て走り出すのを待っているのだろう。(注5)
(注1)
好きな人のことを氏呼びするのは恥ずかしい。ただ、敬称略や~さん、と表記するのもしっくり来ないので、じろう氏としてみました。じろう氏。長谷川氏。
(注2)
正確には、この本をたまたま読んでいて、「これってシソンヌの話じゃん」と思っただけですが。色々な考えの帰着がシソンヌになりがち。自分の「好き」とは、あらゆる事象を好きなことに当てはめて考えることなんですね。(他人事)
(注3)
電話を掛けて、繋がった瞬間に要件を忘れ、適当に話題を作って思い出すまでの時間を稼いだ経験が何度かあります。
(注4)
言うまでもなく、おじさんやお兄さんや中学生のキャラクターでも同じことです。
(注5)
長谷川氏(この表記はやはり恥ずかしい)の演技についてはまたいつか。私はよく、瞬発力が良いと言っています。シソンヌ二人の演技アプローチはかなり違うので、見ていて面白い。
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