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令和四年 文月 かぶく

侏儒の自省録」とは、わたしの思想を伝えるものではない。わたしの思想の変化を時々うかがわせるのに過ぎない。宇宙全体からすれば人生は一瞬であり、死後の名声もすぐに忘却され、全ての物事はやがて消え去る。快楽や苦痛を統御し、揺るぎなき自己を全うするために、未熟な自分が未熟であることを、起業家としての生活と、日常生活を重ね合わせて、かえりみる。

このマガジンについて

大阪と東京で違う味噌汁の位置

大阪出身の私が東京に来て感じた違いは色々あるが、大阪らしいなと愛着を感じた違いは、味噌汁の位置だ。大阪は左奥で、東京は右手前。伝統的には右手前だが、メインディッシュがどーんと手前にいたほうが見栄えが良く、食欲をそそる。だから大阪の商人気質と食い倒れと呼ばれる食文化がそうさせたそうだ。

そんな大阪への愛”国”心をもった私も(笑)、就活では、残念ながら大阪にIT企業の求人は少なく、やむおえず東京に来て10年が経った。
社会課題をスケーラブルなビジネスで解決することを20代、30代のテーマにして、挑戦を繰り返してきたわけだが、経営者として一つ大きな発表をさせていただいた。

資金調達の発表は、スタートアップにとって、わかりやすい成長の分岐点で、ファンファーレのことを、採用候補者、投資家、顧客に知っていただく貴重な機会だ。特に今回の調達では、採用への効果を期待してPR活動を行った。
PR活動の一つとして、代表である自身のコンテンツ化を期待されることが増える。ところがどっこい、これが私の性分と非常に相性が悪い。”地道に”、”一歩一歩”、”伝統的な”産業に向けて事業を創業していることが何よりの証拠であるように、”バズる”、”キラキラ”、”イケている”みたいなものを自らの手でつくりだすのがとても苦手である。考えただけで虫唾が走る。

一方で、私の性分などは気にせず、仕事としてやるべきことだ。
そこで、この心理的な負荷を軽減するためにはどのような気持ちで向き合えばいいのかを、距離の近そうな「かぶく」という言葉をヒントに考えてみたい。


バランスを崩すのが「かぶく」

まずは、「かぶく」という言葉の成り立ちについて調べてみた。かぶくというと真っ先に、思い浮かぶ漢字は「歌舞伎(かぶき)」ではないだろうか。しかしこれは当て字で、「傾奇(かぶき)」が本来の漢字である。つまり何かに対して傾倒して変わっている様ということである。

言葉としては、”傾奇(かぶき)”ではなく、”傾奇者(かぶきもの)”という用例が頻出のため”者”をつけて調べてみた。
すると、”傾奇者”の言葉の由来として、茶道や和歌などを好む人を意味する”数奇者(好きもの)”という言葉が関連語として出てきた。”傾奇者(かぶきもの)”は”数奇者(好きもの)”より程度が強い言葉として使われていたそうだ。
語源としては「数奇に傾く者(好きなものに傾倒する人)」で、その最後の”傾く者”だけを切り取って変化したものが”傾奇者(かぶきもの)”という説が有力だそう。

これは現代でも似たような変化は見られる。例えば「お茶を愛する」を、「お茶を偏愛する」ということで好きの程度を強調するように。

この言葉の変化から、その時々の社会通念から、過度に逸脱した振る舞いが様式美として認められたのが「歌舞伎」であると理解できる。もっというと「あの人は物好きだね〜」と、自分のバランスの崩してもなお、楽しそうに立っている奇妙な立ち姿に一貫性を持たせることができれば、文化として認められているかどうかはさておき、かぶいていると言えると解釈した。

かぶく際に、心理的な負荷が高いワケ

自分が不特定多数に注目されるために個人のコンテンツ化を考えると虫唾が走る原因は二点の理由で、圧倒的に勝ち目がないことに挑んでいると自覚しているからであるように思う。

一点目は、注目されることが苦手であること。つまりコミュ障

不特定多数に注目されることによって得たい本質的な目的が何かあったとしても、注目されること自体が目的化している人の方が結局は強いと考えている。(好きはものの上手なれ)
私のように鳥肌を立てながらやる人に勝ち目がない。私は個人をコンテンツ化させて、直接的なコミュニケーションをとるのが苦手な分、自分が生み出したインターフェイス、プロダクト、事業などを通じて、間接的にユーザーや顧客のなど不特定多数の人との双方向のコミュニケーションに楽しみを見いだしてきた。だからこそUXerとして10年以上も楽しく働けてきたと思っている。

二点目は、好むコンテンツをシェアしあえる母集団が極小であること。

ワールドカップであってもサッカーはみないし、日本で開催されようともオリンピックはみないし、スタートアップ界隈にいてもサウナには行かないし、テレビもみないし、ハロウィンイベントにもいかないし、卒業式にもいかないし…以下略。
かといって、マス層に対しての二項対立となるようなマイナーメジャー層が消費するコンテンツにも触れない。アイドルとか、ゲームとか、漫画とか、非匿名性の高いSNSとか…以下略。

小さい頃からうまくコンテンツを消費できず、馴染めず、教室の片隅の方で絵だけを描いて自分の箱庭につくった極度にカスタマイズされたコンテンツを消費して生きてきたので、幅広い層に受け入れられるためのコミュニケーションのプロトコル調整のお作法が身に付いていない。


無理なくかぶき続けるために

ただ、かぶくの言葉の意味を振り返ると、アテンション獲得大会に出場せずとも、自分の偏愛っぷりが、「もの好きだねぇ〜」と刺さる人には刺さる刺さり、たとえそれに共感してくれる人が少なくとも、その期待をもってくれた人を裏切らない一貫性を持続することとして捉えるなら無理なくできそうな気がする。

まとめると、かぶき続けるために守りたいのは以下3つ

  • 偏愛するコンテンツしか発信しない

  • 個人と、個人の偏愛を発信するキュレーター(傾奇者)としての個人を別物として扱う

  • キュレーターの生み出した個人と、傾奇者に共感してくれた傾奇者達と一緒に様式美をつくりあげていく

これらを守っている限りは、心理的な負荷をかけずに、かぶけそうだ。

そんなことを考えながら、ふと目にしたツイートが上記の”かぶく”ための行動規範ではなく、”かぶく”ためのマインドセット示している気がした。

このツイート自体は日本の大衆性に対しての、批判的な気持ちを含んでいるようにも見てとれたが、私はもう少しフラットにとらえた。
つまり、共感してくれる母集団の多さ、少なさに限らず、個人と切り離したメディアの中の人(傾奇者)として社会に向き合う場合には、すべてのコミュニケーショは形式に則った様式美の中で、偏愛的な感情を込めることが最も効率よい方法ということだ。

書き初めは、うまく”かぶく”ためのには、大衆性をどう取りいれるのかを論点にしていたが、
記事の推敲を通じて、形式に則った様式美の中で、偏愛的な感情を込めることができているかが論点になるという上書きができた。これで、私は虫唾が走る思いをせずに、個人をメディア化できるマインドセットが獲得できた気がする。

はぁ、スッキリ。

これからも、そっと味噌汁を左奥に

東京流の右手前でお膳が出されたときには、私は自分なりの郷土に対しての偏愛を表明する(かぶく)行為だと思い、そっと大阪流の左奥に位置を変えようと思う。私はそんな無駄なこだわりを愛をもって続けることで、傾奇者になれて、また傾奇者たちに出会える気がするから。

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