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先祖のお話

たまたま実家で資料を見つけたので簡単に書いてみます。

私の母は瀬澤家ですが、家系図がありまして丹波篠山藩にもいたそうです。

丹波篠山城城下町図
城下町に住んでいました

城下町図に名前がありました。
高五十石三人扶持 瀬澤孫左エ門政謀とあります。

高五十石三人扶持(こうごじっこさんにんふじ)は、江戸時代の幕府の役職制度における一つであり、江戸幕府において重要な役職を担った者に与えられた待遇のことです。

瀬澤孫左衛門(せざわまござえもん)が「高五十石三人扶持」の扶持を受けた場合、一般的には以下のような役職や待遇が与えられることがありました。

  1. 役職:瀬澤孫左衛門が担当した役職は、例えば老中や大目付、若年寄などの高位の役職であった可能性があります。これらの役職は江戸幕府の中枢を担う重要な役割を果たしており、政治や行政の運営に深く関与していました。

  2. 給料:高五十石三人扶持の役職に任命された者は、50石の米を支給されるとともに、三人扶持の待遇を受けることができました。50石はその当時の庶民の年間の食糧消費量に相当する量であり、高位の役職者に与えられる待遇でした。三人扶持とは、本人の他に家族や使用人など三人までの家族を扶養することが認められた制度です。

青山家との関係

東京の青山は今日、その洗練された雰囲気とモダンな文化で知られていますが、この地名に込められた歴史は深く、徳川時代初期まで遡ります。青山という地名は、徳川家康の信頼厚い家臣であった青山忠俊に由来しています。青山家は三河国(現在の愛知県)の国人であり、青山忠俊の祖父の時代から徳川(当時は松平)家に仕えていました。

青山忠俊は特に、徳川家光(家康の孫であり、徳川秀忠の次男)の教育係としての役割で知られています。彼の指導は、将来の将軍に対する深い愛情と厳格さを兼ね備えていたことで評価されています。青山忠俊の父、青山忠成は家康から特別な信頼を得ており、家康の命により現在の青山地域にあたる土地を与えられました。この土地には忠成の屋敷が建てられ、青山一帯が青山家によって管理されることとなりました。

青山家が丹波篠山藩の城主となった経緯は、その後の世代における徳川家との深い関係によります。青山家は徳川家康及びその後継者たちに対する忠義を示し続け、徳川幕府からの信頼を確固たるものにしました。この信頼関係が基となり、青山家は丹波篠山藩の支配を任されることになります。篠山藩は兵庫県に位置し、戦国時代から江戸時代にかけての重要な戦略拠点の一つでした。青山家が篠山藩を治めることになったのは、彼らの武勇だけでなく、政治における洞察力と徳川家への忠誠心が評価された結果です。

青山家の篠山藩支配は、地域の発展に寄与しました。農業の振興、治水工事の推進、そして文化の花開きに力を入れ、藩政の安定と藩民の福祉向上に努めたと記録されています。青山家の治めた丹波篠山藩は、彼らの統治下で繁栄を享受し、多くの歴史的遺産を残しています。

瀬澤家はこの青山家に仕えていたため江戸から丹波篠山に移住したと考えられます。(瀬澤家家系図)
そして廃藩置県を丹波篠山で迎えたのではないでしょうか。

青山家家系図

https://genealogy-research.hatenablog.com/entry/aoyama


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