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当たり前の幸せのために

Joker(ジョーカー)という映画を観たことありますか。この映画、今の時代をよく表現していて、衝撃的でした。社会的地位の差は自分の概念の問題でしょ、と思っていましたが、でもその概念はしっかり構築されてるなぁと感じたものです。

主人公は、突然笑いだす病気を持っていますが、動揺したり緊張したりするといきなり笑いだすので、真剣に話している相手は怒って主人公を殴ったり、苛立ったりします。でももし、みんなが安心して喜びを持って生きていたら、そんな主人公への対応も違うのかもしれません。
この映画では、経済破綻など不安定な社会の中で生きる人々と、エリートの人々が出てきて、主人公は前者の1人として古いアパートに母親と住んでいます。ネタバレになるのであまり書けませんが、主人公を見ててどんどん心が苦しくなっていくんです。この人を抱きしめてあげたい、と思いますが実際この人が目の前にいたら、果たしてそうできるのか。。。同時に「私、自分がこうなるのを恐れているなぁ」とも思いました。


私たちが、自分を「劣っている」と思ったり、「ダメな奴」と思うようになったのは、どうしてなんだろう。

「これがないと完全ではない」と伝え続けるコマーシャルを見続けたから?できることで判断される教育を受け続けたから?苦労は美徳だという洗脳を受けたから?まぁー、いろいろあると思います。

よくよく考えたら、すごく変なことですよね。気持ち悪いこと。どうして人と同じことができないと「ダメ」なのか。その人がその人として存在していたらいけない世の中なのか。それって完全に、人権無視。なのにそういうことがまかり通ったり、普通になってる社会。めっちゃ変ですよねぇ。。。

ある日、友人と学生時代の部活の話になりまして。友人は強豪校にいたのですが、休日返上でキャプテンだからとコーチの趣味に付き合わされたり、先輩が絶対に扱われたり、、、耐えられない。(だから私学校も辞めたんだろうな笑)
学生時代は学校がその子の社会だから、信じちゃうんだよね。大学生になってもその精神で部活してる子もたくさんいた。もう大学ですよ?自由ですよ?大人になっても、その精神で会社で頑張っちゃう人もいる。

保育業界だって、もれなく。女ばかりの社会なのもあってか?上司の伺いを立てて言いたいことを言わない、うまくクラスをまとめられないと「そういう目」で見られる、先に動かないと怠けているみたいに見られるなど。どれだけ明るい職場でもそういう信念が蔓延っている所もまだまだ、あります。本当、どこからきているんだろう。

そういうのが悪いと言ってるんじゃないけれど、苦しいんだったらやめようよ。でもね、体験したから分かるけどそうやって頑張っていると責められないから、楽なんですよね。誰も責めないよ?誰も見張ってないよ。

そして、そうやって上から見張られながらも頑張ってるのって楽なんです。「自分で考えない」から。でも、それでいくら頑張っても、本当の喜びにはたどり着かない気がします。

もう、今までの生き方ではない選択をしないと、と思います。社会情勢も際どいところまで来ているし。

物や、お金や、数字や結果などではなく、これからの人を支えてくれるのは優しさ、勇気、信頼性などといった「人間としての要素」かなと感じています。真心とか、愛の要素があるもの。

シンプルに、そこを本気で、本気で第一優先にしたら、みんな幸せに生きていけるんじゃないか。。少しずつ私も実践していきたいと思います。





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