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私たちに喪服は似合わない

サングラスをかけて歩いとるよ。いつかのあんたみたいに。

私はおばあちゃん子だった。両親が共働きで、家にいることの多い祖母によく預けられていた。
物心ついた頃から、私は絵を描いたり、歌をうたうのが好きだった。弟とぬいぐるみで即興演劇をするのも好きだった。その延長で文章も書き始めた。最初の観客や読み手は祖母だった。祖母はそうしたものの痕跡を大切に取っておいてくれた。鏡台には今でも私の下手くそな絵が飾ってある。

箏・三絃の師範で、もとは画家になりたかった人だった。服やアクセサリーが好きで、仕立ててもらった真緑のセットアップだとか、とても派手なものを着ていた。レシピを見ずに料理をする人だった。文学や美術の本を沢山買い込んでいた。いつも香水と線香と防虫剤の混ざった匂いがした。

ふと自分のことを考えてみると、祖母から受け継いだものがあまりにも多い。派手ではないけれど服に凝っていて、レシピを見ずに料理をして、文学や美術の本を買い込んで、香水と線香と防虫剤の匂いをまとっている。くせ字や言葉遣いもそうだ。今の私があるのは、あんたのせいだったね。

その祖母が死んだ。かぞえ年96の大往生だった。
祖父が先に亡くなって、心を弱らせて施設に入って、数年が経った日のことだった。
いつまでも生きている感じの人だった。孫の私が死んでもまだ生き続けるような、生命力の強い人だった。
あんまり寂しくはない。私の中にまだ生きとる気がするから。

心残りはいろいろあるけれど、いちばんは結婚式に呼べなかったことだな。

祖母は繰り返し、私の花婿姿が見たいと言っていた。孫の幸せを願ってのことか、家の将来を経済的に案じてのことかは分からない。その両方かもしれない。とにかくそう言ってくれていて、私も必ず招待するつもりだった。

今でもそれがいつになるのか、そもそも実現するのかもあやしい。ただその時は、遠くに行ったあんたにも届かすくらい盛大にやるもんで、好きな服を着て、美味しいものでも食べて、楽器を爪弾いて、おじいちゃんと喧嘩でもしながら、気長に待っとってください。

祖母は、もしも私が女性に生まれていたら「むらさき」という名前を付けたかったらしい。私たちに喪服は似合わない。

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