書き殴り-子供時代について

「『将来の夢はサラリーマンです』なんて言う
小学生はつまらない人間だと思われるだろうな、でも私はクラスのみんなが将来スポーツ選手や
パティシエにならないことを知ってる」って
くらいのドライな気持ちはもうあって。それでも子供らしく先生や親が微笑ましいと思うような夢を適当に言えば良かったんだろうけど、それに気づけるほど大人でもなくて。

私は人より本を読むのが好きで、周りより少しだけ現実を見ながら、小学生にしては高いプライドを持って、周りの目を気にしすぎる小学生時代を過ごしたんだけど、そんな自分を先生はあまり良く思ってないことは子供ながらに感じてた。あっけらかんとしていて素直で無邪気な子が好かれるのは分かってて、でもどうしてもそうはなれなくて。今思うと、やっぱり私の思春期は少しだけ早かったんだと思う。そして周りの大人が私に子供らしさを求めすぎてたのだと思う。小学校高学年にしては早い悩みを抱えて、たくさんの小説を読みながらも私の世界はすごく狭かった。今はスマホで簡単にいろんな界隈・世界を見ることができて、同じ悩みを持つ人と繋がることができるけど、当時の私はすごく小さい世界の中でもがいてた。

そして、それまで何度も褒められてて自分でも
誇りに思ってた「文章を書くこと」が、小6の時突然難しくなって、絵や文章で自分を表現しなさい、気持ちを表しなさいっていうのがすごく困難になった。
どうすれば気取った子供だと思われないように、
スカした子供だと思われないように、
それでもできるだけ自分の本心に沿えるような
表現ができるだろうっていつも人の目を気にして考えてた。

特に、自由に絵の具を使って自分を表現しなさいっていう図工の時間がすごく苦手で、明るい色を使うのは自分らしくないし、かといって小学生なのに黒や白や青色を使うのは厨二病っぽく思われるかな、病んでるんだと思われるかな、何を描けばいいんだろう、無難に可愛い動物とか描けばいいのかな、でもそれは私の描きたいものではないな、じゃあ私が本当に描きたいものって何?って

だから、私が知り合って間もない人の前で
本当の素の自分をプレゼンできない、振る舞えないのはこの子供時代を引きずってるのかな。
小学高学年からだんだん自分が食べたいものも
分からなくなって、家族と外に食べ行っても
何でもいいから代わりに決めて、と言うようになった。
自我が芽生えてなかった保育園生の時「プリキュアになりたい」と言った以来、本当になりたい将来の夢を明確に誰かに言えたことは一度もない。
いまだに、「自由に」何かをしなさい、何かを選びなさいと言われるとすごく不安になる。
『この音楽を聴いて感じたことを自由に書きなさい、どんな気分?どんな情景が思い浮かぶ?』
『この音楽に合わせて自由に体を動かしなさい、
体が動くままに踊って』

高校を卒業して、自分の着る服、髪型、メイクが
全て自由になり、自分の意思で決まるものになった。それすなわち、自分の表面を着飾ってるものが自分を体現するようになった、ということ。
私もあの頃よりは大人になり、流石に人の目を気にして、何を着ればいいか分からない、髪型でどう自分を表せばいいかわからない、と不安に思うことはなくなった。着たい服もある、やりたい髪色もある。そして、レストランに行っても自分が食べたいものをちゃんと自分で注文できる。
幸運なのは、実はこういうことで、いまだに不安を抱えていても、少しずつ私は解放されてるのだと。そう信じたいし、そう信じるしかない。

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