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”ダンディー・トーク”ー読後感

自動車を評論する、といってもいろいろな目線がある。それはクルマというものが持つ顔の数だけ切り口はあるわけである。分かりやすいところでいえば、乗り心地はどうとか、ステアリング・フィールがどうとかといったことだ。ここまでは自動車評論家ならだれもがやっていることであろう。ここからがこそ、その評論家の個性、独自性が出てくるのである。ある評論家は面白おかしい文章を書くのに長けていたり、またある評論家はクルマの挙動とそれを引き起こす機械的な要因を分析するのに長けていたりする。

こういった個性の中でも習得するのが難しいものはなんだろう、と考えると、私は一つとして車の纏う雰囲気を察する能力が挙げられる気がする。これがあるかないかでクルマ好きは二分される、といっても過言ではないかもしれない。この雰囲気に対するセンスがない人に、古いイタリア車の優美さを説明しても納得してもらうのは難しい。そしてそのセンスはある種先天的なものなのではないか、と私は感じている。

そして雰囲気を察するという点において、私が知る中で最も敏感な自動車評論家が徳大寺有恒氏だ。

徳大寺氏の最も有名な著作といえば、言わずもがな「間違いだらけのクルマ選び」シリーズであろう。それまで許されていなかった辛辣な自動車評論をすることでその後の自動車評論業界に大きなインパクトを残した氏であるが、非常にクルマの雰囲気を掴むのに長けている自動車評論家であった、というのが私の印象だ。氏のファッションなどの車以外の趣味や海外経験などによるクルマに対する文化的理解は私の自動車に対する価値観に大きな影響を与えた。

そんな自動車評論業界の巨匠、徳大寺有恒氏が自身の美学について綴ったエッセイである”ダンディー・トーク”。なんと今から30年前に書かれた本であり、その中では氏の”ダンディズム”を軸とする美学や考えについて述べられている。ここでは細かな内容は割愛するが、高い感受性と強い拘りを持った氏の生きざまは、20の若造である私にもとても格好よく感じられた。

さて、この本でテーマとなっているダンディズムについてであるが、ダンディズムとは流行に囚われることなく、自分の美学を首尾貫徹する生きざまとするならは、徳大寺氏がダンディであるのはもちろん、 ―こんなことを言うのは照れくさいが― 私もダンディであろうとする人間の一人であると思う。私は同年代の人と比べて興味の対象が大幅にずれているし、それを直そうとすら思っていない節がある。というのも、我ながら私はいろいろなものに考えを巡らせたりするタイプなので、流行のもであっても自分のこだわりと相容れないものであったりすることも多いからだ。しかし、私は私で考えた結果こうなっているのだから、思考を放棄して流行に合わせている連中と自分は違うぞ、という歪んだ自信もあるのである。これはわかる人にはとてもわかる話であろうし、分からない人からは全く理解されない話であろう。

しかしながら、こういった流行といったものに逆流するような人間は自分のこだわりが時に障害となって物事がうまく運ばないことも多いだろう。そして、時には自分が拘りを持っていることが恨めしくなったりするだろう。しかし、私はこの徳大寺氏の自分の美学を貫いてカッコよく生きた人の生きざまから、やはり自分はこだわりを持って美しく生きよう、と再び決意するのであった。



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