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矢印を自分に

Jour 151-155

9月20日-24日。
明日から、活動が再開します。
そしてセネガルに赴任して5ヶ月になります。

隣の芝生は青い

隣の芝生は青く見える。
隣の芝生は青い。
ことわざ、慣用句の一つです。

こっちに来て、セネガルで活動する日本人を見て、そう思います。
先輩隊員や、同年代の大使館職員さん、同年代の国際機関で働く職員さん、同年代のJICAの専門家さんなどなど。
みんな尊敬します。すごいです。
めっちゃ年上とか、明らかに専門家って感じの人は分かるんですよ。
でも、同年代でバリバリでやってると、スゲーなと。
学歴とか経歴とか語学とか、あげたらキリがないほど敵わないことばかりです。笑
単純に妬むというか、「いいなぁ〜」って思います。

隣の芝生は青く見える。

いや、隣の芝生はめちゃくちゃ青い。
と言うより、そもそもの庭が広いし、手入れもしっかりしてるし、他にも色んな綺麗な花とかも咲いてる。
たぶんうちのは芝生でもないのかもしれない。笑

なんかここまで来ると納得がいくというか、逆にスッキリする。
比べてもしゃーないなと。
それに隣の芝生っていうか、みんなすごいけど、自分は自分でいいやって思う。

今日も明日も、自分にできることを変わらずやっていこう。

答えを探すか、問題を探すか

来月の25日でセネガルに赴任して半年が経つ。
そして、赴任から半年で、僕の配属先での活動計画を
①配属先
②JICA事務所(VCさん)
③僕(JOCV)
の3者で協議して、策定していく。

この流れは、どの国のJOCVも同じ。
だから、それまでに情報収集をしたり、配属先の人たちや関係者の方たちと信頼関係を築くために、人間関係を育んでいく必要がある。
じゃないと、活動計画を策定できないようになってる。
(あくまでJICAが用意している活動計画表のフォーマット上の話)

とりあえず今は、その活動計画を策定するにあたっての準備をしています。
明日から活動が再開するにあたって、より一層注力していきたいと思います。

その上で、どうしても「答え」を探してしまうというか、求めてしまう自分がいる。
なぜなら、それが活動計画に直結するし、ゆくゆくは活動成果にも繋がるから。
自分がすべき活動とは何か?という、その答えを求めてしまう。
そして、その答えは、おそらく要望調査票に載っている。
僕たちJOCVは、その要望調査票を見て、自分にマッチするかを精査して、各職種に応募して、試験を受けて、合格となる。

つまり、「あなたは現地でこういう活動をします」と書かれているので、どうしても、「自分が現地でする活動はこういうことなんだ」と刷り込まれるというか。
それはそれで確かに合ってるし、間違ってないと、実際に現地に来てみて思うと同時に、本当にそれでいいのかな?とも思う。
(もちろん、中には「全く書いてあることと違う」とかこれまでの先輩隊員さんによっては色々あるみたいですが。)

ちょうど1年前に「グローカルプログラム」(派遣前型)に参加しました。


グローカルプログラムについて

そのグローカルプログラム(GP)でも、今と同じように要望調査票なるものがありました。
僕はそのGPを島根県海士町で実施させてもらいました。

はじめは、GPは3ヶ月という短い期間というのもあり、「目に見える結果を出さなきゃ」と焦っていました。
しかも案の定、中間報告や最終報告なるものがあるので。

ただ僕は、そのGPで、要望調査票通りに活動をしていません。笑

要望調査票に書いてあるようなことは、何一つできなかったけど、自分の中では満足しているし、後悔もしていない。

なんで要望調査票通りに活動をしなかったのか?
たぶん、コーディネーターさんや海士町という自治体がすごかったから。

今は分かんないけど、日本各地で行われているGPは、基本的に活動が決まっている。
受け入れ先や活動先が決まっていて、要望調査票があるから、何をするのかはGPの前からだいたいの想像がつく。
でも海士町のGPでは、要望調査票はあるけど、活動先は決まっていない。

そのため、活動先は海士町に到着してから決める。
色んなタイミングとか、コーディネーターさんの気まぐれで、受け入れ候補先は、毎隊次変わるらしい。
その人たちの話を、僕たちは聞きにいき、聞いてみて、自分で活動先を決める。
もちろん、自分で見つけてきて、活動をしてもOK。

それに加えて、海士町という自治体がきっとスペシャルなのもあって、活動を後押ししてくれるというか、舞台を整えてくれる。

実際に、GPで海士町を訪れて、オリエンテーションを受けて、実習受け入れ候補先の人たちから話を聞いて、その人たちの想いに共感して、僕も一緒にやりたいと思って、活動をしました。
だからか、要望調査票に書いてあるようなことは何ひとつしていないけど、要望調査票に書いてあるのは、ほんの一部だということも気付きました。

それと、GPでの活動をしていて、思ったのは「なんのために活動をしているんだっけ?」と。
人にもよるだろうけど、僕は結果や答えばかりを追い求めていると、迷うことが多い。笑
だから、「なんのために活動をしているのか」や、そもそもの問い、問題は何なのか?
そして「本当にこれが問題なのか?」と問い直すこと。
って結構大事だなと、思います。

なので、自分の今後の計画を策定するにあたって、要望調査票に書いてあるような答えも大事にしつつ、同僚や現地の人たちの話を聞いて、一緒にやってみたいなと思えるようなこと、立ち止まった時に立ち返れるような問題も大事にしたいと思います。

矢印を自分に

毎日があっという間に過ぎていく気がします。
なんか日本にいた時よりも、日が経つのが早く感じる。
そんな本質は変わらないんだろうけど、それだけこっちに来て考える時間が増えたんだと思う。

あと、体力?をすごい使う。
買い物しに行ったりだとか、フツーに暮らしているだけなのに、一日家にいて、作業しているだけなのに、疲れて寝ちゃう。笑
よく「毎日、生きているだけで充分。」って先輩たちが言うように、本当に生きているだけな日もある。笑
それでも生きていれば色んな感情が湧くし、色んなことを思う。

少し話は飛んで、先輩隊員の一部に「はーちん」と呼ばれてます。笑
決して、僕が「はーちんと呼んでください。」と言ったわけではなくて、セネガルに一緒に来た再派遣の先輩たちと、首都で過ごしている時に「なんかあだ名ある?」って言われて、「ないです。」って答えたら、そうなりました。
そして、それが波及して他の先輩たちにも同じように呼ばれます。
いや絶対「はーちん」って呼ばれるようなキャラじゃない…笑

まぁそれは置いておいて、先週かな。
その先輩たちの任地を訪問したり、また別の先輩たちがダカールに上がってきてくれて、一緒に過ごすことが多かった。
他にも、ありがたいことに色んな人たちとこの5ヶ月で、愚痴も含めて色んなことを話してきた。

当たり前だけど、みんなそれぞれ不安や不満、モヤモヤを抱えている。
うまくいかないことも多いし、理不尽なことって実際に多い。
日本人同士でも、隊員同士でもうまくいかないことってある。
日常生活でも、日本じゃあり得ないことも、セネガルではフツーに起きるし。
「セネガル(アフリカ)だから仕方ないよね」って言い合うことも、自分を納得させることも多い。

その中で、「はーちんは優しすぎるよ。」「ハヤトくんは優しすぎ。」「優しさが滲み出てる。」「なんではーちんはイライラしないの?」「ハヤトくんって怒らないでしょ?怒るのが想像できない。」「落ち着きすぎ」って、良くも悪くも、先輩たちに言われることが何度かあった。
うん。すごくありがたい。素直に嬉しい。

でも、なんか腑に落ちない。
優しさってなんだ?って。笑
だって、みんな優しいじゃん。って思うし。
「いや、僕だってイライラするし、怒ったりしますよ」って返すも、「えー。絶対そんなことなさそう」ってなる。

それで客観的に考えてみた。
僕だって、イライラするし、カチンとくることもある。
じゃあそれを、外に出すかっていうと、そういうのは少ない。
感情的になることや気持ちの波は少ないかも。
だから「落ち着いている」って言われるのかも。

まぁ愚痴を言うことはある。
でも、自分から言うことってほとんどないなって。
周りのノリとかお酒が入って言ってしまうことがあるから、それは反省しなきゃなっって思うけど。
基本的に、そういうイライラとか愚痴とか負の感情とかモヤモヤを、他者に吐き出すことはたぶん、ほとんどないのかもって色んな人たちと過ごす中で、最近気づいた。
他者との関わりを通して、自分を知るって感じ。笑

個人的に、そういうイライラとかを発散するのは、好きにすればいいと思っているので、別に他者やモノに当たろうが、公然と愚痴を言うとか、そこに関しては特に人それぞれだから、そうすればいいと思う。
ただ、自分はしないなってだけ。

じゃあストレスをどう発散しているのか?と言われると、どうしているんだろう?って逆に思う。
そう考えると、このnoteを書くこと、文字にすることは一つのストレス発散なのだと思う。

日本にいると、当たり前だけど日本語で会話をする。
だから文字にしたり、書いたりすることも日常生活でも多いけど、仕事で同僚たちと話し合ったり、生活をしている中で困ったことや、情報を得ようと思う時は日本語を使用して、意思疎通を図る。
でも、セネガルにいると日本語を使う機会ってほとんどない。
ましてや一人で暮らしていると、日本語を使う機会ってほぼない。
たぶんLINEと、このnote、メールのやり取り、活動系の作業をフランス語で考える前に、日本語で一旦書いたりする時くらい。

ここは僕の語学力の問題だけど、現時点で基本的な生活に困ることはほぼない。
だけど、突発的に困ったこととか、本当はこう伝えたいけど、語彙力のなさから、違う言い回しをして伝えることが多くなるし、細かいニュアンスを伝えるのは難しい。
そこは今ぶつかっている、語学の壁の一つなんだけど。
どうしても、まだ定型文になるというか、応用ができないというか、柔軟に変換ができない。

とまぁ、ここが一つのストレス発散になっているとして、愚痴とかは書いてないと思う。
僕はTwitterとか裏垢なるものはやってないし、持ってないので、そこに愚痴を書き込んだりはしない。
デスノートも持ってないし、人形に釘を打ちつけたりもしない。
大声や奇声をあげたり、出したりもしないし、定期的に運動とかもしてない。

じゃあ負の感情をどこに向けているのか?
僕は真面目だけど、テキトーでもあると思っている自分では。
スゲー悩むときもあるし、すぐ忘れちゃうこともある。
そして、自己解決人間だと思う。
まぁ解決できているかは別として、イライラしたり、カチンときたり、悩んだり、モヤモヤしても、とりあえず一旦考えて、消化していく。
もっと人を頼れるようになりたいと思っているけど、何でも自分でできるようになりたいとも思ってるんだよな〜。笑

とにかく大事にしているのは、「自分に矢印を向けること。」
どんな時も、どんな場面でも、どんな感情でも、自分に矢印を向ける。
相手がどうとかじゃなくて、自分がどうあるか。
理不尽なこともあるし、嫌なこともあるけど、そんな時こそ自分に矢印を向けること。
難しいし、じゃあ100%できているかと言われたら、そうじゃないと思う。完璧じゃなくても、それが少なくとも自分の軸になっているのは確かだと思う。

そんな風に物事を考えるようになったのは、たぶん高校生の時。
仏教の学校だったのと、部活の顧問の先生の影響だと思う。
僕は仏教徒じゃないので、誤解もしているだろうし、合っているか分からないけど、仏教では座禅みたいに自分と向き合うことが多い。
お釈迦様も、説法の中で相手がどうこうとかの前に、自分がどうあるべきかを説いていることが多かったと思う。
今思うと、イスラム教は誤解を恐れずに言うなら、「神様しだい」「神様が望むなら」って感じだから、どっちかと言うと、「神様任せ」「最後の判断は神様」ってとこが仏教と違うとこかもしれない。
間違っていたら、すみません。

顧問の先生は、すごく熱い人で「サッカーを通して、人生を学ぶ」をモットーに掲げている人だったから、サッカーだけじゃなくて、色んなことを部活で学んだと思う。
この話は、長くなりそうだから、また今度ってことで。

とにかく、そういう影響もあって、「自分に矢印を向ける」習慣がある程度身についているのだと思う。

だから、少し話は戻って。
不満もあるし、イライラすることもある。
愚痴もあるし、理不尽なこともあるし、セネガル(アフリカ)だからしょうがないって思うこともある。
でも、それを言い訳にしたくないって思う。

セネガルで生活していて、協力隊として活動していて、今でさえ薄々と感じるけど、きっとここでの経験ってめちゃくちゃ貴重だと思う。

技術的にすごい成長したとか、とんでもないスキルが身についたとか、頭が良くなったとかじゃないけど、ここでの経験はすごく価値がある気がする。

明日何が起こるか、この先の協力隊として過ごす中でどんなことが起きるのか、全く想像できない。
だからこそ、言い訳にしたくない。
全部楽しみたい。
良いことも、嬉しいことも、嫌なことも、悩むことも。
全部、ここでしかできないことだから、誰かのせいにしたり、しょうがないって片付けないで、できる限り自分に矢印を向けて、自分の中で消化して、自分のものにしたい。笑

明日から活動が再開する。たぶん。
明日、どんなことをするのか分からない。
すごく楽しみだ。

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