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ヒルズボロの悲劇

この記事ではウィキペディアや海外メディアの報道を引用し、ヒルズボロの悲劇とは何か、発生直後から現在まで、The Sunとの関わりなどについてまとめました。

ヒルズボロの悲劇とは

1989年4月15日、ヒルズボロ・スタジアムで開催されたFAカップ準決勝リヴァプール対ノッティンガム・フォレスト戦にて発生した事故。

立見席に収容人数を大幅に上回る人数が集まり、フーリガンを規制するための金網や鉄柵に押し付けられたり安全柵が壊れ将棋倒しが発生するなどして96人が圧死・766人が負傷したイギリスのスポーツ史上最悪の事故。

犠牲者の内には当時10歳で最年少の犠牲者となったスティーヴン・ジェラードの従兄弟が含まれる。

亡くなった理由は過密状態となりサポーター同士が互いの身体を圧迫したことによる窒息や酸欠、転倒による頭部強打、転倒後に群衆に踏みつけられてしまったことによる内蔵破裂や骨折など。

17歳の男性は植物状態となったあと生命維持装置により延命されていたが、1993年に両親が求めた尊厳死が認められた。


The Sun

飲酒したリヴァプールサポーターによる略奪や警察と救急隊に対する暴行があったという報道の中でも、4月19日の The Sun の報道は特に酷いものだった。

The Sun は【THE TRUTH (真実)】という見出しの下に

一部のサポーターが犠牲者のポケットを漁った

一部のサポーターが勇敢な警察官に排尿した

一部のサポーターが人工呼吸中の警察官を暴行した

と続け、警察官や救急隊に卑猥な言葉を浴びせたり、殴り蹴り尿をかけたと編集者ケルヴィン・マッケンジー氏の署名入りで報道。

遺族らから信憑性の問い合わせや抗議が相次いだが報道内容については謝罪せず。

リヴァプールの新聞販売店は The Sun の在庫を全て廃棄、市民は購読をキャンセル、The Sun と書くことも口に出すことも嫌がる人や名前を捩り The Scum(クソ、クズ) と呼ぶ人もいる。

1993年、マッケンジー氏は『後悔している。警視正の同意がなければ報道しなかった。』と謝罪したが、2006年11月には The Sun のオーナーからの指示があったから謝罪しただけと述べて謝罪を撤回。

2012年9月、『責任転嫁したい警察の計画だった。』、『The Truth (真実)よりも The Lie (嘘)と書いた方が遥かに正確だったと気付くまで20年以上が必要だった。』と改めて謝罪したが、Don't Buy The Sun (The Sun を買うな)という言葉とともに不買運動は続いている。

遺族による記者会見などは全て出入禁止、2017年2月にはリヴァプールも The Sun の記者の出入禁止を発表。


テイラー・レポート

事故調査担当に任命されたピーター・テイラー判事による報告書。

1989年8月に発表された中間報告(事故当日の出来事など)と1990年1月に発表された最終報告(スタジアムの安全性について)の2つの報告書をまとめてテイラー・レポートと呼ばれる。

※中間報告と最終報告の文字をクリックorタップすると報告書のPDFが表示されます。

サウスヨークシャー警察はリヴァプールサポーターの到着の遅れ、酩酊状態で試合開始までに入場しようとして混雑を誘発したことなどが原因だと主張していたが、テイラー判事はそれを否定。

○警察の対応の悪さ(中間報告書より)

スタジアム内の状況を把握せずに退場者用のゲートCからも入場させるよう要求、警備責任者ダッケンフィールド警視正がスタジアム内の警備には伝えずにゲートC開放を許可したことなど、警察の意思疎通の不足や誘導・対応の遅れこそが原因である。

既に満員だった立見席の第3、4ブロックに続くトンネルはゲートCを開放するしないに関わらず封鎖されているべきだった、ゲートCが開放された時にその指示が出されていればサポーターは空いているエリアに誘導され事故を回避できた可能性があると指摘。

○リヴァプールサポーターの飲酒(中間報告書より)

飲酒したサポーターがいたことは事実だが、目撃証言などから考慮すると大多数は酔っていなかったし酩酊もしておらず、失態を正当化したい警察による主張だと指摘。

○スタジアムの安全性(最終報告書より)

立見席の廃止と椅子席の設置、酒類販売の禁止、猥褻表現や人種差別行為などのサポーターの問題行動に対する法規制を提案。


ほかにスタジアムの保有者であるシェフィールド・ウェンズデイが1978年に依頼した調査によりスタジアムの安全基準が満たされていないと明らかになっていたことや、そういった問題を放置したシェフィールド市議会などに対する非難も含まれた。

但し、このレポートがあるにも関わらず、1990年に警察、シェフィールド・ウェンズデイ、シェフィールド市議会などは証拠不十分により不起訴。


死因審問

犠牲者の死因を究明するための死因審問はサウスヨークシャーの検死官ステファン・ポッパー氏により行われた。

試合中止が決まった15時06分から呼吸が止まったとして、15時15分には全ての犠牲者が亡くなっていたと判断。

遺族は怒り、失望や不満の意を表明したが、1991年にポッパー氏の判断を基に犠牲者は不法殺害ではなくあくまでも事故死であるとの評決が下された。

遺族はポッパー氏が警察側に近すぎると感じており、遺族の1人は評決後に警察のパーティーに参加するポッパー氏を目撃。


独立委員会による再調査

事故から20年後の2009年4月15日にアンフィールドで行われた追悼式典ではイギリス文化省のアンディ・バーナム大臣のスピーチ中にチャントの合唱が起こり、大臣は事故に関する文書の公開を政府に働きかけることを約束し翌日の閣議にて問題を提起。

2009年末にヒルズボロ独立委員会が設立、2011年には政府が文書の公開に同意し独立委員会へ引き渡し、2012年9月12日に独立委員会による再調査報告書が発表される。

※再調査報告書の文字をクリックorタップすると報告書のPDFが表示されます。

再調査報告書の内容について Guardian は、96人中41人は処置が早ければ救える可能性があった、警察などは自分達への非難の矛先を変えることに熱心だった、警察に不利な証言の164個中116個が削除・修正されていた、警察が子供を含めて血中アルコール濃度チェックを行ったのはサポーターの評判を落とすためであったと判断されたことなどを書いている。

再調査結果を受けてデイヴィッド・キャメロン首相は、事故により命を落としたことだけでなく警察やメディアにより死後も苦しめられたという二重の不正について謝罪。


2度目の死因審問

新たに死因審問を行うための異議申し立てや警備責任者への訴訟などを何度か試みては退けられていたが、2012年10月12日に独立警察苦情委員会が事故当時の警察の行動・行為について調査すると発表。

10月16日には司法長官が元の死因審問を破棄するための申請をしたと明かし、12月19日に高等法院により元の死因審問の評決の破棄と新たな死因審問を行う評決がなされた。

2013年7月12日には独立警察苦情委員会の調査により更に55人の警察官が証言を変更していたことが発覚。

2014年3月31日に2度目の死因審問が開始。

2016年4月26日、ヒルズボロの悲劇の犠牲者は警察の悪質な職務不履行により殺害されたこと、サポーターの行動が事故を招いたわけではないとの評決が下された。

陪審団は警察のミスにより立見席に人が溢れた、本来出口であるゲートCを開いた警備責任者の判断は誤りだった、警察や救急が重大事故宣言を遅らせたため救助活動が遅れた、シェフィールド・ウエンズデイがスタンドのブロックごとに回転式改札を設置する提案を了承しなかったことなどを認定。

陪審団が法廷を後にすると弁護団や前述のアンディ・バーナム氏らが涙ながらに遺族を抱きしめ、『陪審団に神の祝福を』と叫んだ女性もいた。

娘2人を亡くしたトレヴァー・ヒックス氏

『我々は成し遂げた。』

18歳の息子を亡くしたマーガレット・アスピノール氏

『私たちは歴史の一部を変えた。96人が残してくれたものだと思う。』

18歳の息子を亡くしたバリー・デヴォンサイド氏。

『こんな決断が下されるとは夢にも思わなかった。ベストを尽くした。これ以上はできなかった。』

法廷の外で You'll Never Walk Alone の合唱が響いた。


最後に

実はヒルズボロの悲劇に関する裁判はまだ続いており、BBCは昨日10月8日付けで証言を改ざんしたとされる元警察官と警察の弁護士らの裁判が2021年4月に延期されたと報じています。

それと、個人的に覚えていてほしいのは、負傷者や生存者の中にも事故に伴う精神的苦痛による後遺症から自殺してしまったりアルコールや薬物の問題に苦しむ方がいること。

更には、仕事の都合で観戦できなくなり試合当日に友人にチケットを売ったが、その友人が犠牲者の1人となってしまったことを長年抱え続け、約22年が経った2011年2月26日に自ら電車の前に飛び込み亡くなってしまったスティーブン・ウィットルさんのように当日スタジアムに行っていなくても苦しんでいる方がいるということ。

最後まで読んで下さりありがとうございました。

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