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1987年のプログレ的風景:ジェネシス2度目の来日に、もめた挙げ句のピンク・フロイドとイエス、それぞれの明暗

 前年86年のピーター・ガブリエルとジェネシスの大ヒットがまだ続いていた1987年です。というのも、ピーター・ガブリエルの Big Time がこの年3月にビルボード最高位の8位を獲得。同じ3月にジェネシスのInvisible Touchから5曲目となるシングルカットの Tonight, Tonight, Tonight が3位を記録したりしているわけです。

 そんな中、この年3月、ついにジェネシスが2回目の日本公演を実現させるのです。前年12月に初めてピーター・ガブリエルのライブを見たと思ったら、次にジェネシスもまた日本を訪れてくれるという、まあジェネシスファンとしては、引き続き信じられない事態が続いていたわけです。

 ジェネシスの2度目の来日公演。東京の会場はようやく武道館でした。さすがにこのときはジェネシスの絶頂期。武道館は全公演Sold Outでして、熱気あるライブを堪能できたわけでした。とはいえ、このときジェネシスは、海外ではスタジアム級の会場で演奏していたのですが、日本では武道館がやっとだったわけです。でも、逆にこのときはこれくらいの規模の会場が良かったのですね。会場がインドアだったため照明効果はバッチリでして、彼らが開発したバリライトの完成形ともいえるライブ演出を堪能することができたのでした。

このツアーの映像作品としては、この英ウェンブリースタジアムでのライブ映像があるのですが、夏のイギリスというのは日が長く、なかなか前半は照明が映えないのですね。武道館ではオープニングのMamaの段階から照明効果が最大に発揮されていて、それはもう驚くほどのライブ体験だったわけです。

 さらに、4月にはピーター・ガブリエルの Don't Give Up が、ビルボード最高72位とアメリカではあんまり売れませんでしたが、イギリスでは9位までアップしたりしてたわけです。こんな感じで87年の前半は、プログレ関係というと、ピーター・ガブリエルとジェネシスだけしか見かけないという状況だったのですね。

 ところが9月になると、大御所が相次いで登場します。1983年以来、4年ぶりとなるピンク・フロイドとイエスの新譜が相次いでリリースされるのですね。

A Momentary Lapse Of Reason(邦題:鬱) / Pink Floyd

 待望の新作なのですが、主要メンバーであったロジャー・ウォーターズはすでに85年にピンク・フロイドを脱退しており、このアルバムはデイブ・ギルモアが中心となって作られたアルバムだったわけです。もともとロジャー・ウォーターズは、デイブ・ギルモアがピンク・フロイドを継続することに反対しており、もめ事は法廷闘争にまで発展した末に、The Wallの権利をロジャー・ウォーターズが独占的に保有することなどを条件に和解してようやくこのアルバムのリリースとなったということなんですね。メンバー間でのゴタゴタは、まあロックバンドでは日常茶飯事ではあるんですが、このときのピンク・フロイドのもめ方も、まあファンから見てあまり楽しいものではなかったですよね。

 ただ、結果として出てきたこのアルバムは、ロジャー・ウォーターズのソロアルバムとまで言われた前作 Final Cut よりわたしには刺さりました。ピンク・フロイドについては、皆さんいろいろと一家言あるとは思うのですが、わたしは、The Dark Side Of The Moon(邦題:狂気)以降のピンク・フロイドというのは、プログレと言われながらも、デイブ・ギルモアのブルースギターがものすごくアクセントになっていたバンドだという印象が強かったのです。プログレ系のバンドの中で、あんなにもブルースを感じさせるギタリストって他にいなかったのではないでしょうか。つまり、ピンク・フロイドが、プログレマニア以外にもあれほど好かれた一つの理由は、ギルモアのブルースギターにあったのではないかと思ってるのです(異論は認めますw)。そういうわたしにとっては、デイブ・ギルモアが中心となって、よりブルースギター度が高くなったピンク・フロイドは、以前のロジャー・ウォーターズが仕切っていた頃のフロイドより、聞きやすくなったという印象を受けたのでした。結局なんだかんだいって、ロジャー・ウォーターズの言うような精神性とか批評性なんて、普通の人にはどうでもいいんですよね(^^;)

 そして、シングルカットした Learning To Fly は全米70位と、まったく振るわなかったのですが、それでもアルバムが売れるのがピンク・フロイドなんですね。ヒット曲がなくても、全米アルバムチャートで3位、全英でも3位という堂々たるヒットを記録するのです。ロジャー・ウォーターズが主導した前作 Final Cutは、全英は1位でしたが、全米は6位どまり。つまりアメリカでは前作より受け入れられたということなんですよね。そして、ピンク・フロイドは、久しぶりの大規模なワールドツアーを開始するわけです。

このときのツアーは凝ったライティングが話題になりました。このライトこそ、ジェネシスが出資した会社が開発して、ジェネシスが最初に使ったバリライトであり、言ってみればピンク・フロイドもこの照明システムの広告塔となったわけなんですよね。このとき、久しぶりのツアーだったピンク・フロイドのマネージメントは、バリライトを採用したこともあり、すでにバリライトを使ったスタジアム級のツアーを多数こなしていたジェネシスのマネージメントにいろいろとアドバイスをもらったんだそうです。

 そしてこちらも久々、ピンク・フロイドと同じく1983年以来4年ぶりとなるイエスのニューアルバムです。

Big Generator / YES

 83年の Final Cut からのシングルヒットに恵まれなかったピンク・フロイドと違って、イエスには Owner of a Lonely Heart という全米No.1ヒットの勢いがあったわけで、こういうときは翌年くらいに次のアルバムを畳み掛けるのが普通なんですよね。これは、売るための鉄則だと思うのですが、イエスの人たちというのは、どうもそういうことに頓着がないというか、なんというか。このときもこのアルバムの制作を開始したのは、ヒットから2年も経過した85年に入ってからだったのですね。そして、売れた 90125 のときと全く同じメンバーとプロデューサーで制作を開始したにもかかわらず、途中でいろいろもめちゃうんですよね。結局、プロデュース担当のトレヴァー・ホーンが降板して、ギターのトレヴァー・ラビンがプロデューサーを兼務することになって、ようやくこの年リリースにこぎつけたというような状態だったわけです。

 こうして、難産した頃にはもうイエスの全米No.1の余波というか、熱もすっかりさめていたのでした。シングルカットした Love Will Find A Way(全米30位) 、Rhythm Of Love(全米40位)は、いずれもそれほどのヒットにはならず、アルバムも全米チャート15位が最高という状態となったわけなんです。

 もめた挙げ句にようやくリリースした作品が、たいしたヒットにならなかったことで嫌気が差したのか、今度はジョン・アンダーソンがイエスを抜けてしまうわけですね。ところが、脱退したものの、イエスを名乗る権利を持っていなかったジョン・アンダーソンは、アンダーソン・ブラッフォード・ウェイクマン・ハウという、「イエスと言えないからみんなの名前並べました」みたいなバンドを結成したり、あげくにその後、またまたイエスとヨリを戻したりと、イエス流浪の歴史はここからはじまるのでした。

 さてこの年、プログレとしてはもう1作品紹介しておきます。それが、マリリオンの4thなんですね。

Clutching at Straws(邦題:旅路の果て) / Marillion

 このアルバムは、けっこうコテコテのコンセプトアルバムだった前作とは異なる作品で、シングルカットした、Incommunicado(邦題:さらば青春の光)が全英6位を記録するヒットとなり、アルバムも全英2位を獲得するのです。まあアメリカではやっとアルバムチャート103位と、相変わらず売れていないのですが、やはりイギリス、ヨーロッパでの人気は根強かったわけなのです。ただ、このアルバムを最後に、ヴォーカルのフィッシュが脱退。その後、スティーブ・ホーガスというヴォーカルが加入して、今も活動を継続しているのですが、やはりマリリオンの人気のピークは、フィッシュが在籍していたこの頃だったのだと思います。

Incommunicado(邦題:さらば青春の光) / Marillion

マリリオンの歌詞はほとんどヴォーカルのフィッシュによるものですが、この人はなかなかの詩人で結構歌詞が難しいんですよ。でも、この邦題はちょっとねえ…(笑)

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