ときたまメモ①感情の共感について


まず人は生まれてから自我が芽生え、そこから外部の言動によって自身のセルフイメージを形成していく(大抵は親)

次にそのセルフイメージが「幸せに生きるのにはもってこい」なものであれば人生で問題が起きても対処できないが、「不幸にする脚本」を設定するとことあるごとに問題が生じてしまう

※人によって大小さまざまであるが
人はそこで生きづらさや嘆き、辛さを感じる

まず自分がなぜ生きづらいのかを考え始める

自己啓発や自己肯定感を高める書籍やコンテンツに手を出し始める

やった気やわかった気になり満足する

結果、似たようなパターンの現実に遭遇した時、同じ※の感情を味わう
これのループ

ループを繰り返していることに気づいたもののなぜか変わらないと思った人間は「どうしたらいいかわからない」と人生に詰まり、誰かに頼りたいとコーチをやとったりする

生い立ちが辛かった等の共感というプロセスはもちろん大事です
一方で共感自体が目的となってしまい、「その行為に快感を覚え始める」
・仕方ないよね ・そういわれて辛かったよね

ここが落とし穴で「一度その快感が癖になると、ほかの観念にも反映されてしまうということである」

そして「共感はするが変わっていかない自分」というセルフイメージが作られる

それはある程度の段階までは絶対に必要なものであるが、
苦しいことには変わりがない

結果「共感はしたものの何も変わっていない自分」がいるだけである

例えば言いたいことがいえずに苦しんでいる人が、過去に両親から言いたいことを言ったら怒られたという経験があったとする。

すると「そういわれて辛かったよね」「自分をもっと表現したかったよね」となる

この共感というプロセスで終わってしまった場合、「言いたいことが言えずにいるのは変わりがない」ということがお分かりいただけるだろうか?

同じ状況に陥った時に自分がどうありたいかの姿にそぐう言動か?と俯瞰して見ることは意識して行動する癖がない場合は難しい

ましてや日頃仕事や娯楽など時間の消費教材はいくらでもある中で、その精神的な成熟度の話は目に見えないから「後回し」「気づかないようにしている」ことが多い

だから自覚と共感、言動の変化を常に3点セットでやっていく必要があるということである。

共感を待っていると共感しつつ言動を変えていく人とは全く違った形になっている

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