順天堂物語

 順天堂大学と言えば医大の中でも歴史のある中核大学であるが、その設立は大変ドラマチックである。そして、3人の人物がそのドラマチックな設立にかかわっている。
 まず第一は堀田正睦である。堀田と言えば幕末にアメリカ公使のハリスに無理やり日米和親条約を結ばされたふがいない弱気の老中首座と思われているが実は大変開明的な人物であった。蘭学にも造詣が深く天然痘を防ぐために自分の子供に種痘を行っている。そして水野忠邦の天保の改革時の蛮社の獄で蘭学が弾圧された際に佐藤泰然を自領の佐倉にかくまい侍医にするとともに順天堂を開かせた。

 第二は創設者の佐藤泰然である。佐藤は当時優れた医者であり、佐藤泰然の指導の下順天堂は数多くの医者を輩出し当時は蘭方医と言えば西の長崎か東の佐倉順天堂かと言われていた。佐藤の偉いところは順天堂を公の組織と考え自分の子供に継がせなかったことである。子供がボンクラだったからではない。それどころか大変優秀であった。その一人で姉の嫁ぎ先に養子に入った林董は当初医者であったがのちに外交官に転じ外務大臣になっている。そしてさらに秀才なのが松木良順である養子に入った松木家は幕府の侍医であったがその侍医就任について他の侍医からクレームがついた。将軍を診察するのに蘭方医はダメだという訳である。侍医になれずに終わるのかと思いきや、良順は「一か月時間をくれ」と言って漢方医の勉強を行い、一か月後の試験で他の侍医がどんな難問を出そうとたちどころに答え堂々と「漢方医」として侍医となった。

 そして第三は泰然の養子の佐藤尚中である。明治維新後順天堂は東京に進出し東京大学が設立されると大阪の緒方洪庵の適塾が大阪大学の医学部の母体となったように順天堂は東京大学医学の母体となり佐藤尚中は東京大学の医学校の校長となった。ところがここで問題が発生する。外国人教師との路線の対立である。外人教師は研究を第一とすべしと主張するが佐藤尚中は臨床を第一にしようと主張した。
当時の日本の医療事情を考えれば研究以前の段階で一般的な病気治療がまずは必要であること当然であったろう。これは私見だが当時日本に来る医学の外人教師は本国では研究室を持てないいわば落ちこぼれ医者であり、金に釣られて日本に来たわけだが日本にいる間にも自分の研究を継続したいと考えただろう。そして、当時は彼らの方が圧倒的に強い立場にあったので、佐藤尚中は東京大学を去り一般的な臨床を目指してを順天堂を再開することになる。そしてそれが現在の順天堂大学にいたるわけである。

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