水野忠邦 この男危険につき

 ドイツ陸軍参謀本部はモルトケ以来戦術、戦略とも世界の軍事の最高峰と言われているが、ドイツ陸軍参謀本部では組織の中で最も気危険な人物はどのような人物かと言えば「愚かで活力のある人物」と言われている。「愚かでも活力のない人物」は被害が少ないが活力のあるのは被害甚大であるというわけである。
 江戸時代でいえば、水野忠邦がまさにこれにあたる。水野忠邦の「やる気」は半端ではない。彼はどうしても老中になって幕政に参画したいと考えて国替えを申し出でた。理由は彼の領国は佐賀の唐津で海防の任があり老中にはなれぬ規定があったからだ。しかし、唐津の石高は25万石で海防の任があるので参勤交代が免除されていた。これが静岡浜松の15万石に国替えとなるのだから実質的には収入が半減すると言って過言ではないだろう。あまりに無謀ということで老臣が諌死するが、忠邦はあくまでも国替えを主張して浜松に転封する。
 これほどの意思の強さは全く見上げたものであるが、彼が老中首座となってから行った政策は一言でいえば「昔はよかったのだから昔に戻そう」というだけである。
 「人返し令」は農業だけを産業として考えておらず、「上地令」にいたっては大名、旗本から実質的に領地を召し上げするもので改革とは言えない。
蛮社の獄は腹心であった鳥居曜蔵の実家が漢学の林家であったので、それで洋学を弾圧したとしか思えない。
 政策がどれもあまりに不人気で忠邦は2年で失脚するがその後復活する。
しかし、16万両の賄賂を受け取ったことがばれて減封され山形に転封となり隠居を命ぜられ一生を終える。全く何をかいわんやである。

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