重秀と白石 貨幣論の実験

 重秀とは江戸時代5代将軍綱吉と6代将軍家宣に勘定奉行として仕えた荻原重秀であり、貨幣の質を落として徳川幕府の収入を増加した節操のない財政家として描かれていることが多い。白石は言うまでもなく正徳の治の新井白石である。この二人は貨幣は金による裏づけが必要か否かで対立し自身の主張に沿った通貨政策を実施した。それはまさに貨幣論の実験であった。
 徳川幕府は当初かなりの金を保有しており、また産出量が世界一位だった佐渡金山を保有していたので戦がなくなり平和になったことにより経済が発展し通貨が必要となっても小判の発行に困ることはなかった。しかしながら、綱吉の時代に入ると金の保有も底をつき佐渡の金山も遂に金を掘りつくしてしまった。経済の発展に対し小判の量が不足していたので物価は上がり経済は混乱していた。勘定奉行であった荻原重秀は金の含有量を減らした小判を発行し物価を安定させ、徳川幕府に多大な備蓄を発生させた。重秀は「通貨は瓦礫でもよい」と発言しており、通貨は金の裏づけは不要とする考えであった。重秀にとって不幸だったのは発生した徳川幕府の備蓄は将軍綱吉の無用な散財に使われたため散財の為に小判の質を落としたと誤解されたことである。
 これに対し新井白石は通貨は金の裏づけは不可欠と考えており、重秀の政策は民衆から富を搾取すると考えていたようだ。時代は変わり家宣の世となり白石は当時病床にあった家宣に対し「重秀を罷免しなければ、自身は切腹する」とせまり重秀を罷免させた。白石は激しい人であったので切腹するというのはあながち脅しだけではないように思う。
そして、金の含有量を元に戻した正徳小判を発行するが物価は高騰し経済の混乱を招いた。白石は清廉潔白な優れた政治家であったが通貨政策に関しては誤っていたといえるだろう。白石は小判の質を落として備蓄を生み散財することが許せなかったのだがそれは重秀はなく散財をした綱吉に向けられるべきだった。
 白石は激しい人であったが、重秀も激しい人であった。重秀は罷免されたのち食を絶って自ら命を絶っている。切腹ではなかったのは切腹は罷免した将軍に対しての抗議となり、御家断絶となるからでらる。

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