四谷怪談は実話だった!?中編
『東海道四谷怪談』が実話かと言われれば、そうかもしれないし、そうでないかもしれないキュイ。まだ断定できないのには理由があって、『書上』には、お岩と伊右エ門が所帯を持っていたのは、貞享年中(1684~1688年)と記述されてるからキュイ。
お岩が死亡したのが1636年ならば、話が合わないキュイ。
ん?そっか、それだとお岩は、死んでから50年以上経ってから、伊右衛門と結婚したことになるなぁ。う~ん、どういうこと?
さきほどの妙行寺の過去帳には、 田宮家の初代から5代目までの名が載っているが、それより後の名はないキュイ。
田宮家の初代当主は田宮伊右衛門といい、その後を継いだ2代目も同じく田宮伊右衛門と名乗ったキュイ。3代目が田宮伊兵衛、4代目が田宮伊織、そして5代目が田宮伊左衛門だキュイ。
ちなみに2代目伊右衛門は1638年(寛永15年)に亡くなってるキュイ。
なるほど。『東海道四谷怪談』では、お岩の祟りで田宮家の家督を継ぐ者が誰もいなくなったとなっているから、伊右衛門は2代目ではなくて、5代目の伊左衛門がモデルなのかも。
でも、もし5代目の田宮伊左衛門の妻がお岩であったとしたら、寺の過去帳の2代目の田宮伊右衛門の妻の項に、「於岩田宮氏」と書き込まれているのはなんでキュイ?
う~ん…。2代目の奥さんも、5代目の奥さんも同じお岩って名前だったんじゃない?
祟りを起こした5代目の妻の法要はしないのに、2代目の法要は行われてるって変キュイよ。
お岩狂走の150回忌が近いので、1825年(文政8年)にお岩に法名を贈ろうと思ったが、過去帳を調べてみたらすでに「得証院妙念日正大姉」という戒名が贈られていた、という内容が『書上』の最後に記載されているキュイ。
150年前というと1675年でしょ?2代目は1638年に死亡してるから、やっぱり5代目がモデルだと思う。「多田三十郎事件」は1694年だし、話としてはおかしくない。
『東海道四谷怪談』では、ふたりが所帯を持っていた時代設定を変えたんじゃないのかな。
うん。そうかもしれないキュイ。でもなんで、2代目の妻お岩に戒名があるんだキュイ?
えっ⁉︎…(考え中)…!!法名を贈ろうとしたのは1825年で、これは『東海道四谷怪談』の初演の年だ。『書上』は歌舞伎の宣伝のために、賄賂をつかって役人に書かせた説があるんだから、150回忌に関する記載は作り話でもおかしくない。
……でもそうすると、過去帳の戒名はなんだ?お岩の法名が彫られてる墓石もあるぞ…??
すごい!いいトコに目をつけたキュイ。実は、妙行寺に残っている過去帳は、江戸時代から伝わっている現物ではなく、明治になってからの写しなんだキュイ。その筆写の際に、何か間違いがあったのかもしれないキュイ。『幽霊の本』に載っている過去帳の写真のキャプションには、「於岩の戒名が改められた形跡も残る」と書かれてるキュイよ。
おお!つまり、2代目の妻のお岩に戒名があるということ自体、後世の創作ということか。じゃあ、お墓の法名もウソ?田宮家の菩提寺にあるお墓に、誰かが勝手に戒名彫っちゃうかな?
鋭いキュイね。四谷怪談研究のパイオニアである江戸学者の三田村鳶魚(1870~1952)は、妙行寺が田宮家の菩提寺だということに疑いを抱いているキュイ。
妙行寺の宗派は日蓮宗なのに、田宮家の先祖の戒名は禅宗系のものばかりなんだキュイ。
妙行寺は、赤坂、赤坂寺町、四谷と転々とし、明治40年になって現在の巣鴨へと移ってきたんだけれど、巣鴨に移動する際にお岩の墓の中には遺骨などは何も入っていなかったと言われているんだキュイ。
つまり、現在お岩さんの墓とされている石作りの五輪の塔の中には、遺骨など何もないキュイ。実在していた人の遺骨が、お墓の中にないってことあるキュイ?
そもそも、『四谷雑談』のお岩さんは、気が触れてしまい行方不明となってるはずキュイ。供養塔ならまだしも、墓所があるのっておかしいキュイよ。
それに、なんで田宮家に子孫がいるキュイ?お家断絶になったんじゃなかったキュイ?過去帳には5代目までしか田宮家の名は記されていないキュイ。
うっ!たたみかけるねぇ。わかった!『四谷雑談』『東海道四谷怪談』のお岩さんは実在しない。でも、2代目の妻であったお岩は実在していて、後世の人たちは『東海道四谷怪談』のお岩さんだと認識していたんだ。
田宮家は実際は5代目で一度絶えたか、何らかの事情で過去帳には6代目以降の名が記載されなかった。話のモデルは、5代目の伊左衛門とその妻なんだよ!で、『四谷雑談』が夫婦の名前だけ2代目夫婦から拝借してきたって感じでどう?
完璧な推理なんじゃないかキュイ?田宮家については、こういう話があるキュイ。1715年(正徳5年)に5代目が死亡したことで田宮家は途絶え、後に同所に越してきた山浦甚平の一族が田宮を名乗ったのではないかというんだキュイ。山浦甚平は確かに実在しており、妙行寺にその墓が今も残されてるキュイ。
そして『書上』によれば、田宮家滅亡の跡地には、元禄年中に市川直右衛門という者がまず越してきて、その後1715年(正徳5年)に、山浦甚平というものが越してきた、とされている。だが、甚平の元で奇怪なことが色々起こったので、甚平は、自らの菩提寺である妙行寺に稲荷を勧進して追善仏事を行なった。すると怪異な現象は止んだそうキュイ。また、1827年当時、現在は於岩稲荷田宮神社が在る土地には田宮家ではなく、 山浦家が住んでいたと記されているキュイ。
そうなんだ。『書上』にも、田宮家の跡地に山浦甚平が越してきたって書いてあるんだ。田宮家が途絶えたのは1715(正徳5年)だから、元禄時代に市川家が住んでいたというのは創作だろうけど、山浦家が越してきたのは5代目が死亡した年なので、信ぴょう性がすごくあるな。
『書上』の一部は創作だとしても、幕府に提出する公文書だから、当時、実際の場所に別の人が住んでいるなんてウソの報告はしないだろうし。
後編へ続く