「怒らない恋人」後編
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【後編:彼氏の場合】
「いやー。社交辞令のつもりだったんだけど、まさかほんとに誘ってくるとは思わなかったよ」
先輩がそう言ったのは、居酒屋の飲み放題コースも終盤になった頃だ。
俺の向かい側に座っている先輩はだいぶ酔っているようで、瞼がほんのり赤くなってなかなか視線が合わない。
先輩とは職場で軽く挨拶を交わす程度の仲だったが、先日、たまたま帰り際に世間話をし、「いつか飲みにでも行こうぜ」と誘われたので、その日の夜にいくつか居酒屋の候補を絞って、翌日には連絡した。
先輩はしばらく都合がつかないとのことだったが、俺が「先輩の予定に合わせます」と言うと、今週末ならなんとかなりそうだと返事をくれた。
……で、今に至る。
そうかぁ、社交辞令だったのか。俺はちょっとだけ落ち込んだ。また間違えてしまったみたいだ。
俺は社交辞令によく引っかかる。
大学時代、同期の学生に「今度遊ぼう」と言われたから、俺と遊びたいと思ってくれたんだなと嬉しくなって予定を立てた。でも、具体的な計画を話し出すと曖昧な笑顔でずっと誤魔化されたことがある。その同期生とは卒業まで一度も遊ばなかった。
職場の後輩から、「明日、みんなで飲むんで先輩も良かったら!」と言われたので行ったら、「ほんとに来たの? 」と陰で噂されたこともある。
社交辞令。来てほしくないのに「来なよ」と言う。遊ぶつもりはないのに「遊ぼうね」と言う。それはただの嘘なんじゃないか。社交辞令は人間関係を円滑にするために必要だと聞いたことがあるが、嘘をつかなければ築けない人間関係って、どんな関係だろう。社会人になった今でもよくわからない。
まあでも、社交辞令から始まっていく関係があるのも事実だ。今回だって、先輩と初めてサシ飲みできて嬉しい。
テーブル上の料理はだいたい食べ終わっていて、先輩が飲んでいるビールも空だ。先輩は酒が好きだと言っていたから飲み放題のコースにしたけれど、あまり飲んでいなかったみたいだ。
結局、先輩とは一軒目の居酒屋を出て解散した。午後9時。明日は休日だけど、奥さんの都合でどこかに出かけるらしく、朝が早いらしい。奥さん想いの良い人だ。
今日は俺も楽しかったし、先輩も楽しそうだったし、また今度改めて誘おう。
+++
友人の数は多い方だと思っている。飲み会の幹事を頼まれることも多いし、休日に誘ってくれる友人もいる。俺から誘うことはほぼ無いが、誘ってくれるのはありがたいことなので、ほとんど断らない。
ただ、恋愛はうまくいかなかった。俺は決してモテる方では無いが、学生時代には何度か女子に告白されたことがある。こんな俺を好きになってくれたことが嬉しくて付き合ったけれど、どの女子にも短期間でフラれた。彼女たちは理由を言ってくれなかったが、一人だけ「片想いしてるみたい」と言って去って行った子がいたのを強烈に覚えている。付き合っているのに、どうして片想いだなんて言うのだろう。不思議だ。
とにかく、理由はわからないが俺の生活の恋愛面は充実していなかった。ただ、それも由依と出会うまでの話だ。
恋人の由依からメッセージが届いたのは、先輩と飲みに行った翌日。俺が自分の部屋で遅めの朝食として白ご飯と納豆を食べていた時だ。
『大輝、今日は休み? できれば会いたいけど、疲れてるなら無理しないでね』
相変わらず由依は優しい。メッセージひとつからでも優しさが滲み出ている。彼女の優しさにほっこりしながら返事を打つ。
『ありがとう、由依。由依の言葉には、いつも癒されるよ』
素直な気持ちだった。自分の気持ちはできるだけ言葉にするよう心がけている。どんなにわかり合っている相手でも、やはり言葉にしなければ伝わらないからだ。特に由依には伝えたいことが山ほどある。
由依と初めて出会ったのは恋活のパーティー会場だ。恋活パーティーなんて俺には縁のないものだと思っていたし、恋人は普段の生活の中で自然とできるものだと思っていた。
けれど、職場の女性たちとは恋愛に発展する雰囲気ではなく、友人の紹介で出会った女性たちとは何故か気が合わず、気付けば最後に彼女がいたのは学生時代。俺はもうすぐ25歳。彼女がいなければ恥ずかしいなんて言われる時代ではないけれど、寂しさはあった。
俺が参加した恋活パーティーは立食形式で、大勢の女性と話すには効率的だが、ちょっと疲れた。
パーティーの最後に配られるシートに、女性の名前を第1希望から第3希望まで記入しなければならなかった。つまり、カップルになりたい相手の第1希望から第3希望ということだろう。
けど、俺はそのシートを記入できなかった。大勢の女性と話しすぎて、第1希望も第2希望もわからなかったからだ。どの女性も記憶が曖昧で選べない。というか、みんなわかっているのか? たった2時間かそこらのパーティーで、全員の容姿と性格を記憶して、自分の中でランク付けする。そんなことできるのか?
当然ではあるが、俺は誰ともカップル成立しなかった。
やっぱり向いてなかったな。そう思って会場を出た時に話しかけてきてくれたのが、由依だった。
その時の由依は黒髪をハーフアップにしていて、上品なブラウスに派手すぎないワイドパンツという清潔感のある出で立ち。だけど、そのお手本のような格好はむしろ、頑張って恋活パーティーという場に馴染もうとしている感が満載で、たぶん、学生時代も校則をずっと守っていたんだろうなと想像できる堅苦しさがダダ漏れだった。
パーティーの最中に由依と話した記憶は無い。だけど、照れ笑いを浮かべて俺に連絡先を聞いてきた由依の儚げな雰囲気を今でも覚えている。
その後、由依が誘ってくれて何度か食事に行った。由依と過ごす和やかな雰囲気は想像以上に心地良かった。俺の話を否定せずに聞いてくれる気遣いも嬉しかったし、彼女自身の話も面白い。
もっと彼女を楽しませたい、笑顔になってほしいという気持ちが強くなってきた頃に、由依に告白された。
由依との出会いを振り返っていた俺は、スマホの通知音で我に返る。由依からの返事だ。
『大輝は休みが少ないみたいだから心配。体調には気をつけてね』
由依からの気遣いがひたすら嬉しい。忙しくてなかなか休めないと俺が言っていたのを由依は覚えてくれていたのだ。
仕事の休みが少ないというより、自然と予定が詰まってしまうのだ。相手が誰であっても、誘われると予定を入れてしまうからだ。気付けばスケジュールはいつもパンパン。誘いを断った時の残念そうな顔を見たくない。相手を否定してしまった気分になる。
人気者になりたいわけでもないし、仕切りたがりなわけでもない。できるだけ、誰にも嫌われたくないし、傷つけたくない。細やかな望みだ。
とは言え、確かに身体は疲れているから今日は休んでいたい気もする。ああでも、由依にも会いたい。悩んでいると、別のメッセージが届いた。友人の莉奈からだ。
『今から会える? てか、今すぐ来て! 駅前のカフェ! 愚痴聞いて! はーやーく! 』
莉奈はとても正直でわかりやすい。行きたい場所、してほしいこと、全部が具体的だ。だからこそ安心する。社交辞令なんて難しいものは使わない。
男女の友情は成立するか否か。飽きるほど議論されてきたテーマだろう。だけど、俺は成立すると思う。俺と莉奈は間違いなく友人だ。
俺が中学生の頃、莉奈が近所に引っ越してきた。中学生と言えば異性と接触するのに最も敏感になる時期だが、莉奈はまったく怯まない性格で、毎朝のように俺と一緒に登校したがった。
というか、最初は重い荷物を俺に持たせることが目的だったようだが、莉奈の強引な行動に巻き込まれる形で俺は彼女と毎日一緒に登校した。そんな乱暴な性格の莉奈に対して、恋愛感情なんて芽生えるはずがない。
当然、同級生たちからは付き合ってるのかと何度も冷やかされたが、莉奈は俺にずっと友人として接してくれた。高校生になっても、卒業しても、社会人になって仕事が忙しくなっても、莉奈だけは頻繁に連絡をくれた。最初の出会いでは嫌な奴でしか無かったが、いつの間にか最も気が置けない相手になっていた。
ただ、莉奈はトラブルに巻き込まれがちで、今の職場も人間関係がうまくいってないらしい。そのせいで、愚痴を聞いてほしいと突然呼び出されることもある。
どうやら今回も職場で何かあったらしく、莉奈のメッセージからは怒りと不満がひしひしと伝わってきた。仕方ない。大切な親友の愚痴ならいつでも聞こう。
念のためスケジュール管理アプリを確認してみると、あることに気が付いた。来月末は由依と付き合い始めて1年の記念日だ。嬉しくなって反射的に由依にメッセージを送った。
『来月で付き合い始めて1年になるから、当日は盛大にお祝いするよ。楽しみにしてて』
『ありがとう! 嬉しい! でも、無理しないでね。私は記念日とか気にしないタイプだから』
なんだ、由依は記念日を祝うタイプじゃないのか。残念だ。せっかく2人で盛大に祝いたかったのに。
ちょっと落ち込んでいる間にも、莉奈からは鬼のように追加でメッセージが送られてきていた。
『はーやーく! 大輝、寝てるの? 起きてるよね? 既読スルーだめ! 』
莉奈が身勝手なのはいつものことだったので、もう腹も立たない。
今日は特に予定も入っていなかったから、莉奈ともすぐ会える。
『今から準備する』
そう返事をすると、莉奈から最高の喜びを表現したスタンプが送られてきた。
朝食を急いで食べ終え、身支度にかかる。
よし。莉奈の愚痴を聞く代わりに、惚気を聞いてもらおう。恋人の惚気を思いっきり吐露できる相手なんて莉奈くらいだから。
+++
「……で。その先輩がね、ほんとにムカつくの。私にばっかり仕事押し付けてくるし。ちょっとミスしただけなのに、ずっと文句言ってきて。この前なんか……」
俺の向かい側に座っている莉奈は、職場の先輩女性社員がいかに意地悪で無能なのか延々とプレゼンしている。俺は莉奈の話よりも、ふかふかすぎるソファーの座り心地が気になって落ち着かない。莉奈の話はほとんど聞いていないけれど、最終的に投げ掛けられる「ねえ、私が悪いのかな? 」という問いに「莉奈は間違ってないよ」と答えてやれば、すべてが丸く収まると知っている。だから問題ない。
莉奈に指定された駅前のカフェ。店内奥にある4人がけのソファー席に莉奈は堂々と1人で座っていた。そろそろカフェは混んでくる時間帯かもしれないのに、莉奈は勇気がある。でも、俺が来るからゆったりしたソファー席を選んでくれたのかもしれない。そう考えると文句も言えなくて、今、俺はちょっと居心地が悪い。
店員がパンケーキを運んできたタイミングで、莉奈の話は一旦途切れた。テーブルに置かれたパンケーキの上には、宝石みたいに輝く色鮮やかなフルーツたち。イチゴ、キウイフルーツ、ブルーベリー。SNS映えしますよ! どうぞ写真撮ってください! と言わんばかりの主張。
「ところで、由依ちゃんとはうまくいってるの? 」
パンケーキの写真を撮りながら、莉奈が問い掛けてきた。由依の名前が出てきたことに反応し、俺はふかふかソファーに沈みそうになりながらも身を乗り出す。居心地の悪さはいつの間にか消えていた。
「ああ、うまくいってるよ。由依は本当に素敵だ。理想の恋人なんだ」
「えー! すごい! そこまで言えるなんて、相性バッチリじゃん。由依ちゃんみたいな良い人と会えて大輝は幸せ者だね」
莉奈の率直な褒め言葉は照れるけれど、なんだかんだで気分が良かった。ワガママなところもあるが、莉奈は良い奴だ。一緒にいると気が楽で自然体でいられる。職場の同僚や他の友人には照れくさくて惚気なんて言えないが、莉奈が相手なら謙遜の必要もない。
「お似合いだよー。ま、私と潤也くんほどじゃないけどね!」
今度は莉奈が惚気てきた。莉奈の彼氏、潤也くんとは会ったことがないけれど、何度も話は聞かされている。飽きるほど話を聞かされているから、いつか会ってみたい。
「潤也くんとは婚約指輪を一緒に買いに行く約束をしてるんだけど、私が忙しいからなかなか都合がつかなくて。でも、どんな指輪がいいかもう考えてるんだ」
莉奈はスマホに保存している指輪の写真を見せてきたが、どの指輪も同じようなデザインで俺には区別がつかない。写真をスワイプする莉奈の指をボーッと眺めるだけだ。
……そうか。莉奈と潤也くんはもう婚約してるんだった。めでたいことだ。俺と由依もいつか結婚するんだろうか。考えていないわけじゃないけど、まだ具体的ではない。
由依のことは大好きで理想の女性だと思っているが、ひとつだけ気になることがある。由依は、莉奈の名前に敏感だ。俺の口から莉奈の名前が出ると、急に由依の顔から笑顔が消える。莉奈の名前を聞きたくないらしい。
俺は由依と楽しいことを共有したいだけだ。だけど、由依は不機嫌になってしまう。彼女の不機嫌の理由がよくわからない。
「このカフェのパンケーキ美味しいよね。店の雰囲気もいいし。由依ちゃんとのデートにちょうどいいんじゃない? 」
パンケーキの上に乗っているカットフルーツをフォークで崩しながら、莉奈が提案した。
俺は感動する。確かに! 北欧風の落ち着いた内装は女性ウケしそうだし、客層もカップルが多い。きっと由依も喜んでくれる。
「ねえ、大輝。知ってる? イギリスにはパンケーキデイっていう祝日があるんだって。お腹いっぱいパンケーキを食べるために国民全員が走り回るらしいよ。日本にもあればいいのに」
莉奈の話題はすぐに飛躍する。パンケーキデイっていったいなんの話だ。
莉奈の情報にどこまで正確性があるかは疑問である。SNSで拾ってきた情報を自分なりに脚色している可能性も大いにあるが、パンケーキデイの話はちょっと興味深かったのでスマホで調べてみた。すると、本当にパンケーキデイは存在したので驚く。パンケーキを食べる日が制定されているなんて面白い。
よし。由依にも教えてあげよう。「知らなかった! 」と、驚いてくれるかもしれない。
そういえば、由依は今頃どうしているだろう。
今朝、由依から送られてきたメッセージを思い出す。「できれば会いたいけど、疲れてるなら無理しないでね」と。由依はいつも控え目だ。
今すぐ会いに来てと言ってくれれば飛んでいくけれど、由依は滅多にそんなことを言わない。恋人とはあまりベタベタするタイプじゃないのかもしれない。
たまには俺からも由依に連絡したいけど、何か用事が無ければ連絡してはいけないような気がする。だけど、カフェに一緒に行きたいという理由があれば、由依に連絡できる。莉奈のおかげだ。
由依にパンケーキデイの話を聞かせたらどんな顔をするだろう。このカフェに連れてきたら喜んでくれるだろうか。
+++
「莉奈もパンケーキが好きなんだ」
俺が莉奈の名前を出したのは、メニュー表を開いた由依が「パンケーキにしようかな」と言ったからだ。莉奈が聞かせてくれたパンケーキデイについての豆知識を披露しようとしたのだが、由依の表情が凍りついていることに気が付いて黙り込む。由依がメニュー表を閉じた。
「大輝。今は私とデートしてるんだよね? 」
由依が唐突に当たり前のことを聞いてきた。何かの冗談かと思ったけれど、由依は真剣そのもので、俺の答えを待っているようだった。
先日、莉奈と一緒に訪れたカフェに、今日は由依を連れて来ている。どうしても一緒に行きたいカフェがあると伝えたら由依は喜んでくれた。カフェに入った瞬間も嬉しそうだった。でも、今は険悪な雰囲気。
由依は何かを不満に思っている。だけど、俺は由依の気持ちがわからない。莉奈の名前を出しただけで、いつも由依はぴりぴりする。何故だろう。何度も考えてたけど、わからない。
「やっぱり俺は、由依が何を不満に思っているのかわからない」
「私の前で、莉奈さんの話をしないで」
それは何度も言われたから、俺もわかっている。だけど、由依は誤解しているのだ。俺は莉奈の話をしようとしたわけじゃない。パンケーキデイについて話そうとしただけだ。由依に遮られたから最後まで話せなかった。もっと話を聞いてほしい。楽しかったことや、嬉しかったこと。すべてを由依に聞かせてあげたいけど、由依に嫌な想いをさせているのも事実だ。
「そっか、ごめん。でも、莉奈は俺の大切な友人だから、そんなに嫌わなくてもいいだろ」
由依が莉奈を嫌っているのは悲しい。会ったこともないのに、俺が口下手なせいで莉奈の印象が悪くなっているし、由依も辛そうな顔をしている。
「嫌ってはないよ。ただ、私の前で莉奈さんの話をされると複雑な気持ちになるの。わかる?」
ひとまず由依が莉奈を嫌っていないと聞いてホッとした。だけど、由依の気持ちがますますわからなくなってしまう。嫌っていないなら、俺が莉奈の名前を出しただけで、どうしてそんなに辛そうな顔をするんだ。考えても考えてもわからないので、正直に答える。
「いや……。わからない」
「恋人の女友達について話を聞くのは嫌なのよ」
ますますわからない。わからないばっかりだ。好きな人のことは何でも知りたいから、俺は由依が友達について話してくれたら嬉しい。その友人が男であっても女であっても。でも、由依は違うのか。
ひょっとして、由依はまだ大きな誤解をしているのではないだろうか。莉奈が俺の浮気相手だと疑っているのではないか。ただの友達だと何度も説明しているのに。
「俺と莉奈はただの友達だよ。やましいことは何も無い」
「それはわかってる。でも、嫌なの」
それも違うのか……。聞けば聞くほどわからない。浮気を疑っているわけでもないのに、どうして嫌がるんだ。
由依とは恋人同士なのに、こんなにわかり合えないなんて悲しくなってきた。
「悲しいよ。莉奈は本当に良い奴なんだ。優しいし、話してて楽しいし、きっと由依も仲良くできると思うのに」
ちゃんと話を聞いてくれれば、由依も莉奈のことを気に入ると思うのに。どうして話を聞いてくれないんだろうか。
ふと見ると、由依も悲しそうな顔をしていたので罪悪感に押し潰されそうになる。頑張って由依を喜ばせようとしているのに、失敗してしまった。
「俺は由依のことが大切だから、由依が嫌がることはしたくない。どうすればいいか考えるよ。いつも苦しめてごめん」
とりあえず、今は謝るしかできなかった。由依が悲しそうな顔をしているのは嫌だ。由依には常に笑顔でいてほしい。
「わかった。私も言い過ぎた。大輝の友達を悪く言っちゃってごめんね」
由依が笑顔になったので安心する。良かった。由依は怒っていない。険悪な雰囲気は霧散して、和やかな時間が戻ってくる。やっぱり由依には笑顔が似合う。何があっても笑顔でいてほしい。
「いや、いいんだ。それに、多少悪く言われても莉奈は気にしないさ。あいつ、本当にいい奴だから」
俺の言葉に、由依は黙って微笑んだ。由依と目が合うと嬉しくなって自然と笑顔になる。このカフェは莉奈が教えてくれたんだと自慢したくなったけど、由依がパンケーキを注文しなかったので、もしかしたらメニューが気に入らなかったのかもしれないと不安になり、言えなかった。
だけど、由依は莉奈を嫌っていない。それがわかっただけでもじゅうぶんだ。いつか理解してくれる。莉奈も由依も、とても素敵な人だから。
+++
「莉奈さんに会ってみたいな」
由依がそんな驚くべき提案をしてきたのは、カフェで揉めてから1週間後のことだ。
仕事終わりに由依と2人で入ったイタリアンレストラン。そのレストランで俺がメニューを吟味している最中、先に料理を選び終わっていた由依が、突然言ったのだ。莉奈に会いたいと。
莉奈の名前を聞くのも嫌がっていた由依がそんな申し出をしてくれるなんて思いもしなかったので、最初は驚いた。申し訳なさそうに「大輝が嫌ならいいんだけど」と付け加えてくる由依の言葉を慌てて遮る。
「嫌なわけないだろ。きっと莉奈も喜ぶよ」
俺が反対する理由は何も無い。莉奈と由依が仲良くしてくれるなら俺だって嬉しい。というか、一番望んでいたことだ。
早く莉奈に教えてやりたい。莉奈も由依に会いたがっているだろう。由依のことを褒めていたし、俺の惚気話も聞いてくれていた。
その場でスマホを取り出して、莉奈にメッセージを送る。
『由依が莉奈に会いたいって言ってるんだ。近いうちに3人で会わないか? 』
返事が待ち遠しかったが、既読にならない。「お腹減っちゃった」という由依の声が聞こえたので、スマホから視線を上げた。そういえば、まだ何を注文するか決めていなかった。
飲食店でメニューを選ぶ時は、いつも面倒で憂鬱な気分になる。急かされているわけではないが、店員や他の客からのプレッシャーを感じてしまう。誰かが代わりに決めてくれればいいのに。
「今度、飲み会をセッティングするから楽しみにしててくれ」
そう言って由依に微笑みかけたが、誰よりも俺自身が楽しみだった。
由依との食事を終えて帰宅してから、すぐに莉奈に電話をかけた。実は、由依と食事している最中にも莉奈から何度も着信が入っていたのだが、由依が不機嫌になるのが恐くて応答できなかった。せっかく由依が莉奈に会いたいという最高の申し出をしてくれたのに、彼女の機嫌を損ねて「やっぱり会わない」と意見を翻してしまう事態だけは避けたかった。それに、莉奈の用件は簡単に予想できる。「やっと由依ちゃんに会えるんだね! 楽しみ! 」という喜びの電話に決まっているのだから。だが……、
「ちょっと、大輝。どうして由依ちゃんが私に会いたがってるの? 」
スマホ越しに聞こえてきた莉奈の声が予想していたものとまったく違っていたので、俺はたじろぐ。てっきり、SNS映えするパンケーキを目の前にした時と同じように、期待と喜びに満ちた声で歓迎してくれると思っていたのだが、莉奈の口調は不満と警戒心に満ちている。
「そりゃもちろん、莉奈と仲良くなりたいからだろ? 他に何があるんだよ」
「ふーん……。そうなんだ」
俺は即答したが、返ってきた莉奈の相槌がこれまで聞いたことがないほど冷ややかに感じられて、急に不安になる。莉奈が何に対して疑問を抱いているのか理解できない。この温度差は何なんだ。どうして莉奈は喜んでくれないんだ。莉奈はいつも由依のことを褒めていたし、俺の惚気話も笑顔で聞いてくれた。莉奈も由依に会えるのは嬉しいはずだ。
「来週末あたりに、由依も呼んで3人で飲み会しないか」
「来週は潤也くんとデートだから無理」
俺の提案は即座に却下されたが、理由を聞いて納得した。莉奈は誰よりも潤也くんを大切にしている。デートの時間を邪魔されたくないのだろう。だが、俺も予定が詰まっているので、来週末を逃すと次はいつ由依を莉奈に紹介できるかわからない。その間に由依の気が変わってしまうかもしれない。
「せっかく由依が会いたいって言ってくれたんだ。なんとかならないか。そうだ。潤也くんも連れてこいよ。4人で一緒に飲もう」
我ながら名案だ。俺も潤也くんには一度会ってみたかったし、莉奈もデートを中止しなくていい。
莉奈は「えー……」とか「うーん」とか言いながらしばらく考え込んでいたが、結局、「まあいいや」と軽い口調で承諾した。
「潤也くんも一緒なら会ってもいいよ。それに、行ってみたい居酒屋があるの。みんなで行こう」
そう提案してきた莉奈の声から、冷ややかさはすっかり消えていた。
+++
結論から言うと、飲み会は大成功だった。
もしかしたら、莉奈は由依に会うのを嫌がっているのではないかと懸念していたが、いざ飲み会が始まってみると、莉奈は真っ先に由依の向かい側に座って自ら笑顔で挨拶したのだ。
「初めまして、由依ちゃん!由依ちゃんの話は大輝からたくさん聞いてるよ。大輝がお世話になってます。大輝はだらしないとこあるから、色々と大変でしょ? 由依ちゃんに迷惑かけてない? 大丈夫?」
まるで保護者のような冗談混じりの挨拶だった。その口調に由依も和んだのか、安堵したように微笑んでいた。莉奈と由依が笑顔で向かい合っている光景を目の当たりにして、俺は嬉しくなる。由依と莉奈はどちらも俺の大切な人だ。その2人が仲良くしてくれている。感動的な場面だった。
莉奈が選んだ居酒屋は半個室で、個室内は適度な騒がしさに満ちていた。仕切りを隔てた隣の個室からは笑い声が上がっているが、会話の中身までは把握できない。莉奈は店選びのセンスがある。
俺は由依と並んで座った。向かい側には莉奈の恋人の潤也が背筋をぴんと伸ばして座っている。
「初めまして、潤也といいます」
俺と視線が合うと、潤也は礼儀正しく頭を下げて名乗った。まるで就職面接みたいだったので、堅苦しくてちょっと笑ってしまう。
「大輝です。いつも莉奈がお世話になってます。うちの莉奈が迷惑かけてませんか? 」
堅苦しい雰囲気を和ますために、莉奈を見習って冗談混じりの挨拶をしたが、潤也は緊張気味に俯いてしまった。
「潤也くんったら、ちょっと緊張してるの。ごめんね」
莉奈が割り込んでフォローを入れたおかげで、潤也がやっと微笑んだ。それでも、まだぎこちなさが抜けていないが。
4人で乾杯を済ませたあと、莉奈が積極的に話を進めていた。俺が由依の惚気話ばかりしていることも暴露していたので恥ずかしかったが、由依は黙って相槌を打っているだけだ。少し拍子抜けする。
潤也は物静かなタイプに見えたので飲み会を楽しんでくれるかどうか不安だったが、よく見ると彼は、莉奈に料理を取り分けてあげたり、飲み物の減り具合を確認してあげたり、莉奈の世話を焼くことに忙しそうだった。莉奈を大切にしているのがこちらまで伝わってきて、そんな2人の様子を見ているのはとても微笑ましい。莉奈の大雑把で危なっかしい性格は知っているが、俺は莉奈に対してこんなに甲斐甲斐しく世話を焼くことはできない。
莉奈は潤也の気遣いを知ってか知らずか、由依と話し込んでいる。女同士の話に割り込むのも気が引けたので、俺も潤也に声を掛けた。
「莉奈は世話が焼けるからなぁ。潤也くんも大変だろ? 」
「……別に大変じゃありませんけど」
俯き加減に答えた潤也の返事が少し不機嫌に聞こえたのは気のせいだろうか。それとも、まだ緊張しているのだろうか。
「潤也くん、莉奈とは婚約してるんだろ? 婚約指輪を選びに行くって莉奈から聞いたんだ。おめでとう。結婚式の日程が決まったら教えてくれよ。莉奈は俺の妹みたいなもんだから、スピーチでも余興でも、何でも引き受けるよ」
潤也があまりにも無口なので、少し饒舌になってしまった。いきなり結婚式の話題を持ち出したせいか、潤也は少し驚いたように瞬きを繰り返していたが、やっと緊張も解れてきたようで、「ありがとうございます」と答えてくれた。潤也とは初対面なのに、真面目で誠実な雰囲気がひしひしと伝わってくる。莉奈は良い相手を選んだみたいで良かった。
しかし、目の前の潤也と向き合っても、莉奈が結婚するという実感が未だに湧かない。ただ、莉奈はとても派手な結婚式をしたがるだろう。それだけは簡単に想像できた。お色直しは最低でも3回以上、ブーケもウェディングケーキも特大サイズ。ケーキカットで必死に背伸びをしている莉奈の様子を想像すると、ちょっと笑えてきた。
「良かったー。由依ちゃんとは良い友達になれそう!」
突然、莉奈が甲高い声を張り上げたので、視線を向ける。すると、莉奈は由依と向き合って満面の笑みを浮かべていた。その笑顔を見て、やっぱり飲み会を開いて正解だったなと確信する。
由依は微笑んでいたが、戸惑ったような眼差しを俺に向けてきた。由依は人付き合いに慎重なタイプだから、莉奈に対して、まだ人見知りしているのかもしれない。安心させるように頷いて、由依に声をかける。
「莉奈と気が合ったみたいで嬉しいよ。俺の大切な人同士が仲良くなってくれるなんて夢みたいだ」
心の底からの本音だった。由依と莉奈。この2人は、どちらも俺の大切な人だ。その2人が仲良くしてくれるなんて、こんなに喜ばしいことはない。
「由依ちゃん。今度は2人でランチにでも行こうよ」
「おお! いいね! 」
莉奈が由依を誘ったので、つい先走って俺が返事をしてしまった。だが、由依も笑って頷いていたので、俺と同じ気持ちなのだろう。
とても気分が高揚していたが、ふと、潤也を置いてきぼりにしていることに気がついて慌てて視線を戻す。しかし、潤也は莉奈の横顔ばかりを見つめていた。とても一途で印象的な眼差しだった。
+++
「潤也くんの誕生日プレゼントを一緒に選んでほしいの」
莉奈がそんな内容の電話をかけてきたのは、4人で飲み会をした翌日のことだ。俺は仕事が終わって帰宅したばかりだったので少し疲れていたが、莉奈の電話の内容の方が気になった。潤也の誕生日プレゼント? どういう意味だろうか。
「潤也くんの誕生日は来月なんだけど、いつも一人で選んでたらプレゼントも似たようなやつばっかりになるでしょ? だから、他の人の意見もほしいんだよね」
莉奈の説明は説得力があった。確かに、長く付き合っているカップルの場合、プレゼントもマンネリ化してしまう可能性はある。それを打破するために、第三者の意見を取り入れるのは良いアイデアかもしれない。
「わかった。昨日の飲み会では潤也くんとあまり話せなかったから、誕生日くらいは俺も祝いたい」
「ありがとう、大輝! きっと潤也くんも喜ぶよ」
莉奈のはしゃいだ声を聞いて、俺も嬉しくなった。やはり莉奈は、明るい声が似合う。
「そういえば、由依とランチに行く約束してたよな? もう日程は決まったのか? 」
飲み会の話題が出たので、ついでに聞いてみた。莉奈と由依はきっと気が合うし、2人が仲良くしてくれるなら、俺と由依の間に共通の話題も増えるだろう。何より、莉奈の名前を出しただけで由依が不機嫌になる……なんて事態には二度とならないはずだ。
「……あぁ。忘れてた。そうだったね」
莉奈の声が明らかにトーンダウンした。どうしたのだろう。気乗りしないのだろうか。
「最近、休日は予定が詰まってるんだよね。だから、由依ちゃんとランチ行くのもいつになるかわからなくて」
なるほど、そういうことか。俺も予定を詰め込みすぎるタイプだから、莉奈の気持ちはわかる。由依とのランチに行きたくても、予定が詰まっているせいで日程を組めず苛立っているのだろう。それに、由依は莉奈と違って積極的に連絡を取るタイプではないから、話が進まないのかもしれない。
「俺から由依に連絡してみるよ。由依は人見知りするタイプだからな」
「え? いやいや、いいよ。由依ちゃんには私が自分で連絡するから。大輝は気にしないで」
莉奈は強引に話を終わらせて通話を切ってしまった。遠慮するなんて莉奈らしくないなと思ったが、干渉しすぎるのも良くない。まるで保護者ではないか。昨夜、潤也に向かって「うちの莉奈が云々」などと挨拶したことを思い出した俺は、1人で苦笑した。
+++
後日、仕事が早く終わる日があったので、莉奈と2人で百貨店に出かけた。約束通り、潤也の誕生日プレゼントを選ぶためだ。
恋人への誕生日プレゼントだから、財布や時計等のオシャレな小物類を勝手にイメージしていたのだが、莉奈が向かったのはキッチン用品を取り扱っているフロアだった。流石に実用的すぎるのではないかと思ったが、そんな俺の考えを見透かしたかのように、
「潤也くんは料理好きなのよ」
……と、莉奈が先回りして言った。それを聞いて一旦は納得したが、プレゼントの候補をキッチン用品に絞っているなら、俺の意見を聞く必要があるのか疑問だ。俺は来なくてもよかったんじゃないか?
莉奈は陳列されている鍋を見て回っているが、俺にはどの鍋もほとんど同じに見えた。色や大きさぐらいでしか区別できない。莉奈は違いがわかっているのだろうか。
「由依とのランチはどうだった? 」
鍋についてアドバイスするのは俺には無理そうだったので、気になっていた事柄を問い掛けてみた。由依から聞いたところによると、莉奈とは何度かランチに行ったらしいが、詳細は教えてもらっていない。
「ランチ? あ、うん。楽しかったよ」
莉奈の返事がずいぶんあっさりしていたので、拍子抜けした。てっきり、由依とのランチについて饒舌に語り出すかと思ったのに。女同士の秘密なのだろうか。だとしたら、俺が割り込むのは無粋だ。しつこく聞き出そうとするのはやめよう。莉奈と由依が仲良くなってくれただけでじゅうぶん嬉しい。
「あ、見て。この鍋、カワイイと思わない? 」
莉奈が指差したのは圧力鍋だった。料理好きな人への誕生日プレゼントとして圧力鍋が適切なのかどうか俺にはわからないが、莉奈はとても気に入ったらしい。色のバリエーションが豊富で、丸みを帯びたフォルムが印象的な圧力鍋。
「どの色がいいかな? 」
莉奈がまるで洋服を選んでいるかのようなノリで聞いてきたので、俺は苦笑する。潤也へのプレゼントが圧力鍋だろうが財布だろうが、何も変わらなかったのだ。陳列棚に吊り下がっているポップ広告には、小さな文字で圧力鍋の説明が書いてあるが、莉奈が重要視しているのはデザイン性だけ。結局、莉奈は自分なりの「カワイイ品物」を選ぶだけなのだ。
とは言え、俺も電化製品に詳しいわけじゃないから、建設的なアドバイスはできない。説明書きを読むのもめんどくさい。しかし、潤也のイメージを思い浮かべることは俺にもできる。物静かでミステリアスな雰囲気。そして、とても一途。そんな潤也に似合う色。
「そうだな……。青色が潤也くんのイメージなんじゃないか? 」
「えー? 却下。緑色にする。潤也くんは絶対に緑色が似合う! 」
半ば予想はしていたが、俺の意見はあっさり却下された。莉奈は深緑色の鍋を両手で抱え、満足気に笑っている。そして、思わぬことを口にした。
「大輝もたまには、由依ちゃんに何か作ってあげたら? 恋人の手料理って愛が詰まってて最高」
きっと莉奈は、潤也の手料理を思い出しながらそう言ったのだろう。嬉しそうに口許を緩め、ホクホク顔で鍋をレジに運ぶ。幸せに満ちたその表情を見て、俺も由依に手料理を振る舞おうと決意した。
潤也への誕生日プレゼントはすぐに決まったが、その後も莉奈には付き合わされた。百貨店の中のレストランで夕飯を食べながら職場の愚痴を聞かされ、更にオシャレな雰囲気のバーを近くで見つけたので、そこに入ってお互いの恋人の惚気話を披露しているうちに時間が経ち、帰宅したのは真夜中近くだった。
帰宅してスマホを確認すると由依からメッセージが届いていた。液晶画面に由依の名前が表示されているのを見ると、無条件に気持ちが高揚する。こんな気持ちになるのは由依に対してだけだ。
『仕事忙しかったの?』
液晶画面に表示されている由依からのメッセージは、その一言だけだった。意味がわからずに困惑する。仕事が忙しいなんて由依に話した覚えはない。むしろ、今日は早上がりだったのに。
『今日は仕事が早く終わったから、さっきまで莉奈と会ってた。潤也くんの誕生日プレゼントを選んでたんだ』
素直に今日のことをメッセージで説明した。以前の由依は莉奈の名前を出しただけで不機嫌になっていたが、今はもう違う。遠慮することはない。むしろ、喜んでくれるかもしれない。
送ったメッセージが既読になった途端、由依から音声通話の着信がきたので驚く。
「どうしたんだ? 」
慌てて電話に出て問いかけたが、返事はない。由依の戸惑った息遣いと重苦しい空気だけがスマホ越しに伝わってきた。どうやら、何かしら深刻な事態が起こっているようだ。
「ちょっと声が聞きたくて……」
やっと由依が答えてくれたが、その声はとても寂しそうだった。由依はいつも穏やかな優しい声で俺を癒やしたり励ましたりしてくれるが、今は由依自身が癒やしを欲しているように感じられる。
「由依、元気ないよな? 大丈夫か? こんな時間に突然連絡してくるのも珍しいし……。ひょっとして、何か話したいことでもあるのか?」
由依が落ち込んでいるなら今すぐ助けたい。何かあったのだろうか。もしかして、夜道で変な男に付きまとわれたとか。莉奈も以前、似たような理由で夜中に助けを求めて電話してきたことがある。「知らない男が駅からずっと付いてきてた! 」と怖がっていたので飛んで行ったが、同じアパートに住んでいる人と帰宅時間が被っているだけだった。しかも、男性ではなく大柄な女性だったので2人で大笑いして終わった。
莉奈の場合は勘違いで済んだので良かったが、由依は莉奈と違って慎重なタイプだ。助けを求めているのなら、かなり深刻な状況かもしれない。
「何でもないよ。本当に声が聞きたかっただけ」
由依の答えに拍子抜けしたが、まだ腑に落ちなかった。こんな夜中に寂しそうな声で電話をかけてくるなんて、絶対におかしい。何らかの理由で由依の気分が落ち込んでいるのなら、それを解決してあげたい。
「正直に話してくれないか。由依に嫌な思いはさせたくないし、困らせたくない。嫌なことがあるなら、解決しよう」
由依を心の底から心配する一方で、俺は少し感動もしていた。由依が俺を頼ってくれている。こんなことは初めてだ。由依は滅多に自分の要望を口にしない。由依が控え目な性格だというのは理解していたが、本当は、もっと俺を頼ってほしかった。遠慮せずに思いっきりワガママを言ってくれれば、俺が叶えてあげられるかもしれないのに。
スマホの向こう側で由依が息を呑み、言葉を発そうとする気配がした。俺は由依の声を黙って待つ。
「あのね、大輝。今日……じゃなくて、昨日が何の日だったか覚えてる? 」
昨日が何の日? いったい何の話だ?
予想もしていない話題だったが、反射的に卓上カレンダーで日付を確認する。そして、気が付いた。
「あっ。ごめん……」
気が付いた瞬間、考える間もなく謝罪していた。昨日は由依と付き合い始めて1年の記念日だったのだ。
「忘れてたよ、本当にごめん」
俺が原因で由依を悲しませているとは思いもしなかった。しかし、由依は記念日は気にしないタイプだと自分で言っていた。だから俺も油断して忘れてしまったのだ。
「……でも、由依は、記念日は気にしないタイプって言ってたじゃないか」
思わず呟いた途端、申し訳ない気持ちと同時に、場違いな嬉しさも込み上げてきていた。由依は記念日を気にしないタイプなのに、俺との記念日は覚えていてくれたのだ。それなのに、俺はメッセージのひとつすら送らなかった。完全に俺の失態だ。
「今度、由依が欲しいものを一緒に買いに行こう」
もっと気の利いた提案をしたかったが、他に何も思いつかなかった。由依はどんなプレゼントが欲しいのだろうか。由依と2人で買い物をしながらプレゼントを選ぶのもいいかもしれない。そう考えると楽しくなった。……が、
「違うの。プレゼントが欲しかったとか、そういうわけじゃなくて」
突然の否定。由依へのプレゼントに想いを巡らせていた俺の思考は強制的に遮断された。そして、混乱する。プレゼントはいらない? だとしたら、記念日には何をすればいいんだ。それに、記念日を忘れていたお詫びとして、謝罪を何らかの形にしなければ俺の気が済まない。
「たまには私のことを優先してほしいだけなの」
続いた由依の口調がやけに切羽詰まっていたので、俺は怯んだ。
「え? 俺の中では、いつでも由依が最優先だよ」
怯みながらも、はっきりと告げる。考えるまでもない。俺の中では、由依の存在がいつだって最優先事項だ。忙しくて会えない日もあるけれど、互いの存在を信じていれば問題ない。気持ちが通じ合っていれば、会えない日も寂しくない。
「俺は由依が一番大切だし、いつも由依のことを考えてる。仕事してる時でも、友達と遊んでる時でも、莉奈と一緒にいる時でも、俺の中には由依の存在が居るんだ」
由依への正直な気持ちを口にしながら、ふと、この気持ちを言葉にしていなかったのは俺の落ち度かもしれないと思えてきた。どんなに由依を想っていても、言葉にしなければ何も伝わらない。そのせいで、由依を不安にさせているのかもしれない。
「由依は俺にとって、誰よりも特別な存在だ。いつも一緒にいてくれてありがとうな」
頭で考えなくても、淀みなく言葉が溢れ出てくる。自分でも驚くほど、俺は常に由依を想っているらしい。意識していなかったのに、自然と感謝の言葉まで口にしていた。
「ちょっと待ってよ。これからも2人が一緒にいるために、お互いの不満を解決することは大切だと思うの」
不満? 由依は、俺が由依に対して不満があると思っているのか? とんでもない勘違いだ。由依は優しいから、ありもしない俺の不満を感じ取って不安になってしまったのかもしれない。
「何言ってるんだ。俺は、由依に対してなんの不満もないよ。由依は俺にとって、完璧な理想の恋人だ」
そう。由依は俺の理想の恋人だ。不満なんてひとつも無い。はっきり否定したのに、何故か重苦しい沈黙が落ちた。俺の言葉に嘘はない。由依は信じてくれないのだろうか。
「そっか……。ありがとう、大輝」
由依から感謝の言葉が返ってきた瞬間、胸の奥が安堵と多幸感で満たされた。俺の気持ちはしっかり伝わったみたいだ。
「うん。大好きだよ、由依」
好きとか愛してるとか、基本的な愛情表現を口にせず内側に溜め込んでしまったせいで破局してしまうカップルは多い。俺はそうなりたくない。確かに愛の言葉を口にするのは照れくさいが、口にしなければ気持ちは伝わらないのだから。
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記念日を忘れていたお詫びとして、由依に手料理を振る舞う約束をした。本当は何かプレゼントを渡したかったが、由依はいらないと言っていたし、莉奈の「たまには手料理を」というアドバイスを実践する絶好の機会だとも思った。
しかし、俺が真剣にフライパンや包丁と向き合ったのは、残念ながら高校時代の調理実習が最後である。普段は惣菜やレトルト食品やファストフードばかり食べている俺みたいな料理初心者が何を作ればいいのかさっぱりわからなかったので、莉奈に相談してみた。すると、「ハンバーグに決まってるでしょ! 」という答えが返ってきたので、さっそくレシピを調べてみた。玉ねぎを正確にみじん切りできるかどうかは微妙だが、それ以外は材料を混ぜて焼くだけなので、俺にもできそうだ。
そんなわけで、由依との約束当日、俺はハンバーグの材料を買い込んで準備をしていた。何かのおまけで貰ったけれど一度も使わないまま押し入れに放り込んでいたエコバッグは今日初めて活躍し、ハンバーグの材料が詰め込まれてキッチンテーブルに置かれている。普段はほとんど使わないキッチンだが、由依のために使えると思うと嬉しい。好きな人のために料理の準備をするのはこんなに楽しいのか。初めて知った。
ハンバーグのレシピを確認しようとしてスマホを取り出した瞬間、液晶画面にメッセージの着信を告げるポップアップが表示された。開いてみると、莉奈からだ。
『助けて! 潤也くんが出て行っちゃったの!』
そのメッセージを読んだだけでは、意味がわからなかった。しかし、続けて送られてきた『潤也くんが私と別れるって言うの! 』というメッセージで全てを察する。莉奈は潤也に別れ話を切り出されたのだ。
『俺にできることはあるか? 』
気付いた時には、そうメッセージを返していた。莉奈の力になりたい。その一心だった。
『わかんないよ。私、もうどうすればいいかわかんない』
莉奈はかなり混乱しているようだ。無理もない。あんなに潤也のことが好きだったのだ。結婚の約束までしていたのに。いったい何が起きたのだろう。
『潤也くんを説得しに行くから、大輝も一緒に来て』
慌ただしく送られてくる莉奈からのメッセージに目を通しながら、俺は流石に躊躇った。突然のことで驚きはしたが、別れを切り出したのは潤也なりに考えがあってのことだろう。別れたくない莉奈の気持ちもわかるが、俺が潤也を説得できるかどうかは自信がない。
『お願い! 大輝が何を言えばいいかは私が考えるから! 』
莉奈の焦りと混乱が文面から伝わってくる。予想外の出来事に直面した莉奈は、誰か親しい人に傍にいてほしいのだろう。本当なら潤也がその役割を担うはずだが、その潤也が去ってしまった。だから、俺を頼っている。それなら、友人として助けるべきだ。
莉奈に返事を送ろうとした瞬間、インターホンが鳴った。そこでようやく、自分が手料理を作ろうとしている途中だったことを思い出す。慌てて玄関の戸を開けると、そこには由依が立っていた。俺の顔を見て優しげに微笑み、「おじゃまします」と丁寧に挨拶しながら部屋に入る由依。そんな由依を見ていると、何故か俺の胸に安堵の感情が込み上げてきて、つい口にしていた。
「莉奈が大変なんだ。潤也くんに別れを切り出されたらしいんだ」
当たり前ではあるが、俺の報告に由依は驚いたようだった。言葉を失っている。無理もない。莉奈と潤也はとても仲が良いお似合いのカップルだったから、こんな展開は想像もつかなかっただろう。
今日は由依に手料理を振る舞う約束をしていたけれど、延期するしかなさそうだ。莉奈と潤也が破局寸前になっている状況で手料理を振る舞っても、彼らのことが心配で手料理デートを楽しむことはできない。
そうしている間にも、莉奈からメッセージが何通も届いていたので、スマホを確認する。
『潤也くんにアカウントブロックされちゃってる! 信じられない! 』
潤也がそこまで莉奈を拒絶するなんて、俺も信じられなかった。つまり、本気の別れ話ということだ。俺が行っても潤也を引き止められるかどうかはわからない。けれど、今の莉奈には支えが必要だ。
「俺、莉奈のところに行かなきゃ」
「は? なんて?」
「莉奈は今から潤也くんを説得しに行くらしい。俺も一緒に行く」
「なんで大輝が、そんなことしなきゃいけないのよ」
由依がそんな質問をしてくるなんて意外だった。大切な友人が辛い状況に陥って助けを求めているのに、助けない選択肢があるのだろうか。
「だって、頼まれたから」
俺がそう答えた途端、由依の表情が凍りついたように見えた。
「ちょっと待ってよ。そもそも、大輝が行ったからって解決するの? 莉奈さんと潤也さんの問題でしょ?」
「わかんないけど、莉奈が来てくれって言ってるし。由依だって、莉奈と潤也くんが別れるなんて嫌だろ? 」
大切な友人が恋人と破局してしまうなんて嫌だ。できることはしてあげたい。
「大輝だって潤也さんとはあんまり話したことないでしょ? 何を話すの? どうやって説得なんかするの? 」
由依は俺が潤也をうまく説得できるかどうか心配してくれているらしい。確かに別れ話の仲裁には大きな責任が伴うかもしれないが、このまま放ってはおけない。
「台詞が決まってるから、大丈夫だと思う」
「は? 台詞?」
「莉奈が考えた台詞を、俺が言えばいいってことになってる。俺が莉奈をうまくフォローすればいいんだ。莉奈の長所をアピールする」
説明しながら、これが最善策のような気がしてきた。潤也がどうして莉奈に別れを切り出したのかは不明だが、第三者が介入して説得することで冷静になれる可能性がある。あの2人はとてもお似合いのカップルだ。別れるなんて間違っている。
「由依も来ないか? 由依がいてくれるなら心強いし。莉奈も喜ぶよ」
今日、由依と俺が会う約束をしていたのは運が良かったと思う。もし、ここに由依がいなかったら、俺は1人で莉奈と潤也の別れ話を仲裁しに行かなければならなかった。由依に連絡をする余裕も無かっただろうし、そうなると由依が蚊帳の外になってしまう。
莉奈から助けを求めるメッセージがスマホに届き続けているので、液晶画面に視線を落としてひとつずつ確認していく。
『早く来てよ! 潤也くんに嫌われたくない! 』
『大輝からも言ってよ! 潤也くんを引き止めてよ! 』
莉奈の切実な叫びがメッセージとなって表示される。早く返事をしないと。
ふと、由依も真剣な表情で横から俺のスマホを覗き込んでいることに気が付いた。きっと由依も莉奈たちのことを心配しているのだろう……、
「ほっとけばいいじゃない。莉奈の自業自得よ」
由依が発したその言葉と共に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。俺はスマホから顔を上げてまっすぐに由依を見る。由依の言葉が信じられなかった。嘘だろ? 由依も莉奈のことを心配しているはずだ。しかし、由依の顔には、無表情という表現では足りないくらいに何の感情も浮かんでいない。初めて見る顔だ。
「自業自得って。なんで?」
「わかんないの? とにかく、大輝は行かなくていいよ」
素っ気ない返事。由依がそんな態度を取る理由がわからなくて、俺は慌てた。莉奈の自業自得という発言も意味不明だ。予想していない人物から予想していない発言が飛び出すと、どうやら人間の思考は麻痺してしまうらしい。状況がまったく飲み込めなかった。
「でも、莉奈には嫌われたくないし。長い付き合いだからさ」
状況を把握できないながらも、弱々しく反論した。由依は莉奈のところに行かなくていいと言っている。けれど、行かなければ莉奈は俺に見捨てられたと思うだろう。莉奈は俺との友情すら信じられなくなって、二度と口をきいてくれなくなるかもしれない。莉奈との友情が終わるのは嫌だ。
「誰からも嫌われない方法なんて存在しないよ。少なくとも、私は大輝のことを嫌いになり始めてる」
聞き間違いかと思った。しかし、由依の真剣な眼差しが突き刺さってきて、間違いではないのだと実感する。今、確かに由依は「嫌い」と口にした。俺のことを嫌いになり始めている、と。
「私、大輝が莉奈とばっかり仲良くしてるのがすごく嫌だった。莉奈のことも大嫌い。莉奈と過ごす時間よりも、私との時間を優先してほしかった。莉奈に会ってる暇があるなら、私と会ってほしかった」
由依の口から立て続けに「嫌い」という言葉が出てきて動揺する。しかも、莉奈に関しては「大嫌い」だ。
確かに、俺は由依よりも莉奈と過ごす時間の方がが多かったと思う。けれど、莉奈はあくまで友人だ。浮気していたわけじゃない。それに、由依と莉奈は飲み会で意気投合して仲良くなったはず。俺と由依、そして莉奈と潤也。4人全員が仲間になったと解釈していた。
「そんなに俺と莉奈が仲良くしてるのが嫌だったのか? どうして言わなかったんだよ。言ってくれれば、もっと由依との時間も作ったのに」
たとえ莉奈がどんなに大切な友人だったとしても、由依との時間を増やすことはいつでも可能だった。それをしなかったのは、他の誰でもない由依自身が望まなかったからだ。由依の口から「会いたい」という言葉を聞くことは滅多に無かった。
「言ったよ。私の前で莉奈の話をしないでって、何度も言ったよ! 私を優先してって言ったじゃない! 」
由依が俺の前でこんなに声を荒げたのは初めてだった。我慢の限界。まさにその表現が相応しい。問題は、どうして由依がそんなにも我慢していたのかということだ。我慢なんてする必要はないのに。
少し前にも「優先」という言葉を由依の口から聞いた。付き合い始めて1年の記念日を俺が忘れて、由依が電話をかけてきた時。あの日、俺は由依に自分の気持ちを伝え、2人の絆が深まったと感じていた。由依は違ったのだろうか。
「だって、由依は一度も怒らなかったじゃないか。いつも許してくれただろ? 莉奈のことも嫌いじゃないって言ってたし。それに、由依は会いたいって滅多に言わなかったから」
反論しつつも、俺は自信がなくなった。由依はずっと無理をしていたのだろうか。俺は由依と一緒にいる時、ひたすら幸せで何の不満も無かった。だが、由依は我慢していた。どうして? 不満もワガママも、すべて打ち明けてくれれば良かったのに。「もっとたくさん会いたい」と言ってくれれば良かったのに。
スマホの通知音だけが部屋の中に鳴り響いて、無言の時間が流れていく。由依は何かに耐えるかのように唇を引き結んでいた。顔のすべてのパーツが悲痛に歪んでいる。どうして涙が溢れていないのか不思議なくらい悲しみに満ちた表情。由依の悲痛な表情を見ていられなくて、視線を足元に落とした。
「由依が俺のことを嫌いになるっていうなら、もう俺には引き止める資格はないよな。由依を困らせることだけはしたくない。今までごめん」
今の俺にできることは、たったひとつだけ。由依にこれ以上悲しい顔をさせないことだ。俺と一緒にいると、由依は悲しむ。それなら、離れるのが最善策だろう。
「由依を困らせてばかりで本当にごめん」
もう一度謝罪を口にした瞬間、由依が俯いた。もしかしたら、由依が「別れるなんて嫌だ」と否定してくれるのではないかと期待した。だが……、
「さよなら」
短くてありきたりな別れの言葉だけを残して、由依は部屋を出て行った。本当に出て行ってしまった。
部屋には俺一人だけがぽつんと突っ立っていて、他に人の気配は無い。当たり前だが、由依は戻ってこない。もう二度と。本当に終わってしまったのだ。現実味がじわじわと押し寄せてきて、胸の奥が抉られたように苦しくなる。これから先も、由依は俺の傍にいてくれるものだと信じて疑わなかった。ほんの数十分前まで、俺は由依に手料理を振る舞うつもりでいた。それなのに、俺はその由依と別れてしまった。
スマホが鳴っている。どうしてこんなにメッセージ通知が多いのだろう。液晶画面を確認して、やっと思い出す。……そうか、莉奈だ。驚いたことに、莉奈の存在を忘れていた。莉奈も潤也に別れを切り出されて大変な状況なのに。俺が考えていたのは、由依のことだけ。
手の中でスマホが振動し、莉奈から音声通話が来たことを告げた。ほとんど条件反射で通話に応じると、莉奈の高い声が耳元で響く。
「大輝、何してるの。早く来てよ! 潤也くんが……」
訴える莉奈は涙声だった。俺もつられて泣きそうになる。俺も莉奈も、そして去っていった由依も泣きそうな顔をしているなんて滑稽だ。莉奈に別れを切り出した潤也も同じような顔をしたのだろうか。俺はただ、みんなに笑っていてほしいだけだったのに、どうしてこんなことになっているのだろう。
「俺も由依にフラれたんだ」
自然と口に出していた。同情してほしいわけでもないし、慰めてほしいわけでもない。ただ、この悲痛な事実を誰かと共有したかった。
「そんなことより、早く潤也くんを説得してよ」
そんなこと、か。莉奈にとっては、それだけなのか。莉奈が自分勝手な性格なのは知っている。莉奈が俺のために動いてくれるとは期待していない。自己中だけど、しょうがない奴だなぁと笑いながら付き合ってきた。これまではそうだったけど、今後もそうだろうか。
俺が答えないでいると、莉奈が涙声で続ける。
「私、婚約してたんだよ。結婚したら仕事も辞めるって、もう上司にも話しちゃったのに。SNSで友達全員に結婚の報告しちゃった。今更撤回できない。どうしたらいいの」
なるほど、莉奈の方が俺よりも失ったものが多い。友人として莉奈を支えてやるべきだろう。そう思うけれど、声が出ない。由依を失った悲しみを後回しにすることがどうしてもできない。
「……わかったよ。すぐ行く」
かろうじて答えを返した。莉奈が安堵の息を吐く気配がして、通話が切れる。
部屋に静寂が戻ってきた。すぐに莉奈のところに行かなければならない。けれど、足が動かない。この場から動かなければ、由依だけでなく莉奈までも失ってしまう。それはわかっていた。でも、足が動かない。
由依と付き合い続けるためには、莉奈と縁を切ればよかったのかもしれない。だが、それは俺にはできなかった。莉奈と会う頻度を減らすことは可能だっただろうけど。
莉奈は大切な友人だ。しかし、由依のことも大切だった。恋と友情は同じ秤に乗せられない。どちらがより大切かなんて決められない。恋人ができた途端、友情を蔑ろにする人間がたまにいるが、俺はそんな風になりたくない。もちろん、恋人も大切だ。だからこそ、友人と恋人には仲良くしてほしい。その考えは間違っていたのだろうか。
莉奈と由依が仲良くなって、みんなで楽しく過ごせれば良かったのに。
莉奈から婚約の話を聞いた時、俺も由依との結婚を考えた。そして将来的には、莉奈と潤也、俺と由依。4人で家族ぐるみの付き合いができれば最高だと思った。それは子供っぽい幻想かもしれない。けれど、理想的な形だった。
ふと、キッチンテーブルの上に置きっぱなしになっていたエコバッグが視界に入る。中にはハンバーグを作るための材料。由依に笑顔になってほしくて、頑張ってハンバーグのレシピも調べてスマホに保存した。そのレシピを何気なく開いてみると、ハンバーグを作らないのはとても愚かなことに思えてきた。
……莉奈のところに行くのは、ハンバーグを作ってからにしよう。
食べさせたい相手は、もういなくなってしまったけれど。
【了】