【短編小説】私は何も借りてない


「本を返してください」

 後ろからその声が聞こえたのは、篠田菜々美が1日の業務を終えてパソコンをシャットダウンさせた瞬間だった。菜々美は驚いて振り返る。視線の先には後輩の津山彩夏が立っていて、無表情にこちらを見下ろしていた。

「どうしたの、津山さん。本って何の話? 」

「この前貸した、文庫本ですよ。篠田さん、貸してって言ったじゃないですか」

 彩夏は本のタイトルも口にしたが、まったく記憶にない。菜々美は最近、電子書籍ばかり利用しているため紙媒体の本はほとんど持っていなかった。だいたい、彩夏とは物を貸し借りするほど親しい間柄ではない。少なくとも、菜々美はそう認識していた。

「私は文庫本なんて借りてないよ。津山さんの勘違いじゃない? 」

「ひどいです。どうして嘘つくんですか」

 思ったよりも強い口調で彩夏が言い返してきたので、菜々美は怯んだ。彩夏はどちらかといえばおとなしくて、仕事も黙々とこなすタイプだ。まだ入社したばかりの20代だが、落ち着いた穏やかな雰囲気を持っているので、みんなから好かれている。そんな彼女がこんな風に厳しい口調で誰かを非難している姿は見たことがなかった。菜々美は改めて真剣に彩夏と向き合う。

「それ、いつの話? 」

「先月の第1月曜日です。私が休憩室で本を読んでたら、面白そうだから読み終わったら貸してって、篠田さんが言ったじゃないですか」

 想像以上に具体的な説明をされたので、菜々美は面食らった。だが、残念ながらそれは彩夏の勘違いだ。彩夏とそんな会話をしたなら覚えているはずだし、何より、彩夏が口にした本のタイトルを菜々美は一度も聞いたことがない。

「ごめん。何か勘違いしてるみたいだけど、私じゃないよ。他を当たって」

 菜々美はできる限り申し訳なさそうな表情を作りながら否定し、彩夏を振り切るようにしてオフィスを出る。この話はこれで終わったと思っていた。実際、家に辿り着く頃には、菜々美は彩夏との会話をすっかり忘れていた。
 
+++

「篠田さん。昨日の話ですけど、」

 翌朝、菜々美が出勤すると始業前のオフィスで津山彩夏が再び声をかけてきた。なんの話か本気でわからずに、菜々美は首を傾げる。

「え? 昨日の話? 」

「本です。返してください」

 驚いた。その話はまだ続いていたのか。彩夏は真剣な眼差しでこちらを睨んでくる。普段は穏やかな彼女にこんな表情を向けられること自体、かなりのストレスだ。

「昨日も話したでしょ。本は借りてないよ。記憶にないの」

「でも、確かに篠田さんに貸しました」

 埒が明かない。彩夏は本を貸したと思い込んでいる。否定しても信じてくれそうにない。

「そこまで言うなら探してみるけど、私は借りてないよ。津山さん、他の人にも聞いてみた? 」

「いいえ、絶対に篠田さんに貸しました。返してください」

 彩夏がこんなに強い物言いができるなんて知らなかった。驚くと同時に、菜々美は動揺した。本を借りた記憶は無いが、借りていないという証拠も提示できない。

 その日、帰宅してから本がありそうな場所を一通り探してはみた。だが、やはり本は見つからなかった。

+++

 それから毎日、津山彩夏は声をかけてくるようになった。話の内容はほとんど同じだ。「本を返してください。間違いなく篠田さんに貸しました」と。そして、菜々美も同じような言葉を返すことしかできない。「借りてないよ。津山さんの勘違いだよ」と。
 菜々美はさほど深刻に考えていなかった。何度も否定していれば、そのうち彩夏は諦めてくれるだろうと思っていた。しかし……、
  
「篠田さん。本を返してください」

「いい加減にして」

 その日、菜々美は強い口調で言い返してしまった。借りてもいない本の返却を毎日求められて、もう1週間以上が経つ。そのうち諦めるだろうと思っていたが、彩夏は今や、朝の挨拶の代わりに「本を返してください」と言ってくるようになっていた。
 菜々美は次第にイライラし始めていた。彩夏が本を大切にする気持ちはわかる。菜々美自身も、学生時代に漫画本を借りパクされて怒った記憶があるからだ。わかるからこそ我慢していた。だが、彩夏は菜々美の言い分を少しも聞き入れようとせず一方的に責めてくる。しかも、彩夏は他の社員には本を借りたかどうか確認している様子がない。菜々美が本を借りパクしていると決めつけ、まるで犯人扱いだ。そのことにも、菜々美は腹が立っていた。

「いつまで疑ってるの。借りてないって言ってるでしょ。他の社員には確認してみたの? 私に貸したって決めつけてるみたいだけど、他の人かもしれないじゃない」

 菜々美が強めに反論すると、彩夏は唇をきゅっ…と引き結んだ。悲しげな表情だ。儚くて守ってあげたくなる雰囲気。彩夏はいつもそういう雰囲気を持っている。

「本って借りても返さない人が多いんですよね。私、そういう人が許せないんです。たかが本じゃないかって、篠田さんも思ってるんでしょう? 私にとってはすごく大事なんです。お金よりもずっと」

 俯きがちに彩夏は切々と訴えてきた。態度と表情こそしおらしいが、彩夏の言葉には強い信念が感じられる。

「ひょっとして、間違えて捨てたんですか? だったら正直にそう言ってください」

 会話が噛み合っていない。目眩がしてきた。
 これはハラスメントなのだろうか。でも、「本を返してくれ」と言われ続けるハラスメントなんて聞いたことがない。というか、彩夏は本を返してもらえないと本気で信じているみたいだから、彼女の方こそハラスメントを訴えてきそうだ。

「謝ってください」

 彩夏の要求に、流石に菜々美は呆れた。バカバカしい。どうして私が謝らないといけないんだ。借りてもいない本のために謝罪するなんて。

「思い出が詰まっているとても大事な本だったんですよ」

 彩夏は今にも泣き出してしまいそうだった。彩夏の切実な表情とは裏腹に、菜々美の感情は冷ややかになっていく。そんなに大切な本なら、どうして貸したんだ。いや、借りてないけど。

「そんなに疑うなら、私の家まで来て気が済むまで本を探せばいいでしょ。私は借りてないんだから」

 深く考えずに菜々美はそう言っていた。彩夏は完全に黙り込む。少し口調がきつかったかもしれないと反省したが、こちらも我慢の限界だ。いつまでも本の貸し借りの話題なんかで時間を取られたくない。しかも、借りていないのに。

+++

「篠田さん。彩夏ちゃんに本は返してあげたの? 」

 翌朝、オフィスでそう声をかけてきたのが先輩社員の佐野玲子だったので、菜々美は自分の耳を疑った。佐野さんには入社当初からとてもお世話になっていて、社内でも信頼が置ける先輩だ。その先輩が、津山彩夏の本について話している。

「彩夏ちゃんにちょっと相談されたのよ。篠田さんが本を返してくれないって。彩夏ちゃん、ずいぶん悩んでたみたいだから気になったの。ひょっとして揉めてる? 」

 信じられない。まさか仕事に無関係な悩み事を佐野先輩に相談するなんて。けれど、彩夏ならあり得る。彩夏が困った表情を浮かべていると「どうしたの? 」と思わず声をかけてしまう。守ってあげたくなる雰囲気。

「揉めてません。私、本なんか借りてないんです。私も困ってるんですよ」

 菜々美は慌てて否定した。彩夏が佐野先輩に相談したなら、私だって同じことをしてもいいはず。入社当初から何かと世話を焼いてくれた佐野先輩は菜々美の憧れで、佐野先輩に気にかけてもらえる彩夏が少し羨ましくもあった。佐野先輩と仲良くなりたいという気持ちはあるのだが、菜々美は職場でプライベートな話をするのが苦手だった。

「そうなの? でも、彩夏ちゃんは間違いなく貸したって言ってたわよ」

「それは……津山さんの勘違いです」
 
 そう答えながらも、菜々美は不安になってきた。……私、本当に借りてないよね? あまりにも毎日言われるから自信がなくなってきた。しかも、彩夏だけではなく佐野先輩にまで。
 そもそも、借りていないと断言した理由は何だろう。電子書籍を利用しているから。借りた記憶がないから。それだけだ。
 電子書籍を利用していても、文庫本を借りることはじゅうぶんあり得る。どうしよう。不安になってきた。

「とにかく、もう一度探してみて? 彩夏ちゃんは絶対に貸したって言ってたから」

 それだけ言い残して佐野先輩は去って行った。菜々美は呆然とその場に立ち尽くす。不安が募っていた。
 記憶が曖昧な部分を他人から断定されると不安になる。「そんなはずない」と自分の中では否定するのに、他人から自信を持って指摘され続けると揺らいでしまう。どうして彩夏は、あんなにも自信満々なんだろう。佐野先輩まで巻き込んで。ひょっとして、間違っているのは自分なのか。彩夏が正しいのだろうか……。

+++

「どうしたんだ、菜々美。こんなに散らかして」

 帰宅した夫が驚きの声を上げるまで、菜々美は自分が部屋を散らかしていることに気が付かなかった。我に返って周囲を見渡すと、家の中は強盗が侵入した直後みたいに物が散乱している。

「いったい何やってるんだ」

「その……本を探してて」

 夫の声に答えながらも、菜々美は自分が何をしているのかよくわからなくなってきた。
 今日、職場で先輩の佐野玲子が津山彩夏の味方をしたことが、菜々美を余計に追い詰めていた。
本を借りていないと思っていたけれど、実は勘違いしているのは自分の方なのではないか。本当は彩夏から本を借りたのではないか。もしそうなら、早く返さなければ。彩夏に謝らなければ。そう考えながら家の中をひっくり返すようにして本を探していたのだ。

「本って何のことだ? 大切な本なのか? 」

 夫が心配そうな声で問いかけてきたので、菜々美は事情を説明する。彩夏との間に起きたことを説明しながらも、夫がどんな反応するか怖かった。軽蔑されてしまうのではないか。本を借りたかどうか覚えていないなんて無責任だ。相手にすぐ謝るべきだ、と。

「は? なんだそれ。そんなことで追い詰められるなんて、ちょっと考えすぎだぞ。疲れてるんじゃないか。大丈夫だから、今日はもう休んだらどうだ」

 驚いたことに、夫は菜々美の話を軽快に笑い飛ばした。そのあっけらかんとした態度に、菜々美は肩の力が抜けていく。我に返った気分だった。
 確かにそうだ。オフィスという限られた空間の中で起きた出来事だったせいか、視野が狭くなっていた。しかし、外の世界に居る夫から見れば笑い飛ばせてしまうことなのだ。本の貸し借り。ただそれだけ。

「菜々美は気にしすぎる性格だからな。そんな性格だとストレス溜まるだろ」

 笑いながら夫が言ったので少しムッとしたが、事実でもあったので言い返せなかった。人の言葉を気にして気持ちが左右されすぎるのは、菜々美の悪い癖だった。

+++

 昼休みの休憩室は噂話と愚痴で満ちている。熱心に噂話をするメンバーはだいたい決まっていて、内容も似たりよったりだ。上司への悪口、仕事や家庭の不満。同じような話題が繰り返される負のエネルギーが充満した空間が苦手で、菜々美はいつも外でランチを済ませてくる。今日も例外なくそうだった。
 ランチから戻ってくると、休憩室から女性社員たちの話し声が漏れ聴こえていた。どうせいつもと同じ噂話や愚痴だろうと思って休憩室に入ろうとしたが、できなかった。

「借りたものを返さないなんて信じられない」

「だらしない人だなって前から思ってたのよ」

「彩夏ちゃんも大変ね。家まで取りに来いだなんて。無責任にもほどかあるわよ」

 彼女たちの話題が何なのか、菜々美もすぐわかった。津山彩夏との本の貸し借りの件だ。というか、本を返してくれないことを、彩夏が周囲に吹聴しているのだ。信じられない。借りていないと何度も言っているのに。それに、家に取りに来いなんて乱暴な物言いをした覚えはない。

「篠田さんも悪気はないと思うんです。私も軽い気持ちで貸してしまったから……」

 彩夏の声だ。彼女の口調はとても弱々しく、むしろ菜々美を擁護しているかのようにも聞こえる。しかし、その口調が彩夏を被害者に、そして菜々美を加害者にしていた。
 違う。違う。私は本を借りてないし、彩夏が勘違いしているだけだ。むしろ、被害者はこちらだ。
 今すぐ乗り込んでいって大声で否定してやろうか。そう思った矢先。

「彩夏ちゃんは悪くないわよ。篠田さんって、少しずれてるのよね。協調性が無いっていうか」

 休憩室から響いてきたのは、佐野玲子の声だった。いつものように優しい声音ではなく、少し強張っている尖った声音だ。
 
「篠田さんって、こっちの話が通じない時が多いのよね。会話が噛み合わなくて。いまいち空気も読めないし。正直言って、篠田さんの指導をするのは疲れたわ」

 佐野先輩の言葉は止まらない。もはや本の貸し借りとは無関係な悪口にまで到達していた。そして、他の女性社員たちも、小さく笑いながら佐野先輩の言葉に同調している。
 あまりのことに、菜々美はそのまま踵を返して休憩室から走り去った。女子トイレの個室に逃げ込む。自分の耳で聞いたはずなのに、現実を受け入れられなかった。津山彩夏は被害者で、篠田菜々美は加害者。そういう構図がいつの間にか社内で出来上がっている。信頼して憧れていた佐野先輩まで露骨な陰口を言っていた。そして、自分は確実に孤立している。知らなかった。
 彩夏から本を借りてないことさえ証明できれば……。そうすれば、少なくとも菜々美は加害者ではなくなる。でも、どうやって?
 そもそも、本当に自分は借りてないのだろうか。佐野先輩に言わせれば「篠田さんって、少しずれてる」らしい。ずれているのは私の方? 私が間違っている? これも気にしすぎ?

+++

 津山彩夏が菜々美の家までやって来たのは、翌日のことだ。その日は休日で、菜々美の夫も在宅していた。リビングで寛いでいる最中にインターホンが鳴ったので、菜々美が玄関まで迎えに出た。
 彩夏はまったく悪びれる様子もなく、むしろ、にこやかな表情で玄関に立っていて、挨拶をするよりも先にこう言った。

「本を返してもらいに来ました」

 菜々美は完全に怯む。穏やかな微笑みを浮かべて何度も同じ要求を繰り返す彩夏に不気味さすら感じるようになっていた。追い返してしまおうか。けれど、休憩室で聞いた会話を忘れられない。ここで彩夏を追い返したら、あとで何を言われるか。悲しそうな表情の彩夏が「篠田さんに追い返されてしまったんです」と訴えれば、女性社員の悪口は間違いなくエスカレートするだろう。
 迷ってるところに割り込んできたのは、なんと菜々美の夫だった。

「どうぞ、上がってください。菜々美がいつもお世話になってます」

 意外なことに、夫は突然の訪問者である彩夏を歓迎した。菜々美が戸惑っている間に、彩夏に愛想よく声をかけている。

「あっ、旦那さんと一緒だったんですね。お邪魔してすみません」

 遠慮がちな言葉を続けながらも、彩夏は菜々美の夫に促されるまま室内に足を踏み入れた。
 愛想が良く穏やかな雰囲気を持っている彩夏は、初対面ではほとんど誰からも好印象を抱かれる。菜々美自身も、こんなことが起こるまでは彩夏に対して悪い印象はひとつも持っていなかった。

「菜々美から話は聞いたよ。君でしょ? 本を返してほしい人って」

「そうです。津山彩夏といいます。本棚を見せてもらっていいですか? 」

 挨拶もそこそこに、彩夏は本題を切り出した。他人の家まで押しかけて本棚を物色しようとするなんて異常としか思えないのに、何故か夫は上機嫌で彩夏を本棚の前に案内している。

「津山さん。何度も言ってるけど、私は借りてないのよ。この本棚も探してみたけど、どこにも無かった」

 案内された本棚の前に立っている彩夏に向かって、菜々美は説明した。しかし、彩夏が菜々美の話に耳を傾けている様子は無い。真剣な表情で本棚に視線を走らせている。
 この家の本棚に並んでいるのは古い小説や学術書ばかりだ。もう何年も新しい本は買っていないし、もちろん、人から借りた本も並んでいない。

「僕も学生時代に同じようなことで友達と揉めたよ。なんだか懐かしいな」

 唐突に会話に割り込んできた夫が何の話をしているのか、誰に話しかけているのか、菜々美は一瞬わからなかった。しかし、夫の視線がずっと彩夏に注がれているのを見て愕然とする。夫が必死で彩夏の気を引こうとしているように感じられたからだ。

「ゲームを貸したのに返してくれないんだ。しかも、そいつは借りてないって言い張るし。結局、失くしてたんだよな。ほんとムカつく」

 夫が言葉を続けていく度に、情けなさと恥ずかしさが込み上げた。やめてよ! と叫びたくなってくる。自分の夫が後輩の女性社員の気を引こうと必死になっているなんて考えたくもない。気のせいだと思いたい。それに、夫は菜々美が彩夏に本を返していないと決めつけている。夫は信じてくれていると思っていたのに。
 彩夏は菜々美の夫の話に「そうなんですねー」と、柔らかな笑顔で相槌を打ちながらも、本棚から視線を逸らさない。

「ありませんね……」

 一通り本棚に視線を巡らせたあと、彩夏が小さく嘆息した。諦めてくれたのだろうか。これでもう解放されるのだろうか。

「せっかくだし、お茶でも飲んで行ったら? 」

 彩夏が諦めるのを待っていたかのように、夫が声をかけた。その軽薄な口調がまるでナンパみたいに聞こえたので、菜々美は開いた口がふさがらない。いや、やはり自分が気にしすぎているのだろうか。妻の後輩が家に来た時の夫の態度として、これが正しいのだろうか。失礼がないように、社交辞令として誘っているのか。

「いえ。結構です。お邪魔してすみませんでした」

 彩夏は本棚を物色しただけで帰って行った。本当にそれだけだった。本一冊のためにそこまでする彼女の行動を菜々美は奇異に感じたが、夫は気にする様子もない。それどころか、感心したように呟く。

「本を返してもらうために先輩の家まで来るなんて、彩夏ちゃんはずいぶん行動力があるんだな」

 夫はどうして彩夏を下の名前で呼ぶのだろう。私は彩夏を「津山さん」としか呼ばなかったのに。夫への不信感ばかりが募っていく。こんなことは初めてだ。

「私、津山さんから本を借りてない。信じてよ」

 菜々美の声のトーンが真剣味を帯びていることに気が付いたのか、夫は笑顔を掻き消した。

「……たかが本だろ。ムキになるなよ」

 拗ねたように吐き捨て、夫は菜々美から顔を背けてしまった。そして、リビングのソファーに座ってスマホを操作し始める。きっと、最近ハマったソシャゲをしているのだ。こうなるとしばらく話を聞いてくれない。

 ……たかが本。そうかもしれない。

 でも、本の貸し借り以前に、夫はこんな人だっただろうか。不器用だけど誠実で優しくて、いつでも私の味方になってくれる人。そして何より、女性に対して奥手で、この人なら絶対に浮気なんてしないと思った。そう確信したから彼と結婚した。初対面の若い女性に鼻の下を伸ばして積極的に話しかけるような人ではなかった。むしろ、緊張と人見知りでうまく話もできなくなってしまうようなタイプだったはずなのに。
 いつも一緒にいるはずの夫が、知らない顔をしているような気がした。

+++

「篠田さん。本を返してください」

 翌朝、始業前のオフィスで再び彩夏からそう声をかけられた時、菜々美は目眩すらした。自宅にまで押しかけて本棚を確認したというのに、彩夏はまだ同じことを繰り返すのか。どうすれば満足するんだ。

「もういい加減にしてよ。うちにまで押しかけてきて、それでも満足しないの? 借りてないって言ってるのに」

「押しかけてないです。篠田さんが取りに来いって言ったんじゃないですか。それなのに返してくれないなんて、ひどいですよ」

 まったく話が通じない。取りに来いなんて言った覚えはない。佐野先輩は「篠田さんは話が通じない」と菜々美が悪いように言っていたが、彩夏こそ話が通じないではないか。この異常なまでの執着は何なんだ。どう考えても彩夏はおかしい。彩夏の異常な執着ぶりを他の社員にも見せてやりたいが、始業前のオフィスには彩夏と菜々美以外、まだ誰もいなかった。

「わかった。新品を買って返すから、うちに二度と来ないで」

 これから先もずっと彩夏に付きまとわれるなんて絶対にごめんだ。その一心で、菜々美は口走っていた。もっと早く思いつけばよかった。そうすれば、他の女性社員たちに誤解されることも無かったし、彩夏が自宅まで押しかけてくることもなかったのに。
 しかし、彩夏は首を縦に振らない。

「そういう問題じゃないんです。あの本はとても大切な思い出が詰まってるって言ったじゃないですか。新しいものを買えばいいってわけじゃありません。それに、もう絶版になってると思います」

 驚いたことに、彩夏は涙ぐんでいた。菜々美以上に必死で切羽詰まった表情をしている。その表情を見て、菜々美は唖然とした。彼女は純粋に本を返してほしいだけなのだ。職場での人間関係を意図的にややこしくしようとか、菜々美を陥れてやろうとか、そういう姑息な企みは微塵も持っていない。彼女に裏表はないのだ。そのことが余計に怖かった。

「ていうか、篠田さん、認めましたよね。新品を買って返すって、今、言いましたよね。やっぱり借りてたんじゃないですか! 謝ってくださいよ! 」

 もう駄目だ、気が狂いそうだ。このままずっと、彩夏に「謝ってください」と言われ続けるのか。そして、ずっと加害者は私。彩夏は被害者。耐えられない。

「……ごめんなさい」

 もう終わってほしかった。毎日毎日、責め続けられるのは耐えられない。謝罪で彩夏が諦めてくれるならそれでいい。それに、謝罪の言葉を口にした瞬間、これで自分も被害者になれるかもしれないという安堵の気持ちが広がっていた。素直に罪を認めて謝罪した者を責め続けることは、いくら彩夏でもできないはずだ。

「やっぱり、失くしちゃったんですか? 」

 問い掛けてくる彩夏の声は震えている。それは怒りなのか悲しみなのか、もっと別の感情からなのか。
 菜々美自身もわからなくなってしまった。本当に自分は、本を借りていなかっただろうか。謝罪を口にすると、不思議なことに自信が奪われる。自分の記憶すら信じられない。菜々美が考え込んで答えないでいると、彩夏は俯いてしまった。

「とても大切な本だったのに……。許せないです」

 俯いた彩夏の頬に涙が伝っていたので、菜々美はぎょっとする。これでは、まるで自分が彩夏を泣かせたみたいではないか……。
 彩夏があまりに切羽詰まった様子だったので、菜々美は何も言えなくなってしまった。たかが本の貸し借りの話だけど、彼女はとても真剣だ。彩夏は涙を拭いながら言葉を続ける。

「失くしたって早く言ってくれれば、私がわざわざ篠田さんの家まで行かなくてもよかったじゃないですか。それに、篠田さんの旦那さんにじろじろ見られて気持ち悪かったです。だから、逃げたんですよ。私は本を返してもらいに行っただけなのに」
  
 最後にこれだけは言っておかなければならないとばかりに、彩夏が吐き捨てた。
 菜々美は衝撃と混乱で立ち尽くす。どうすればいいかわからない。自分の夫の無礼を妻として謝ればいいのか、それとも夫の文句を言われたことを怒ればいいのか。とにかく気持ちが混乱していた。夫の距離感のおかしさは気のせいではなかったのだ。彩夏も同じように感じていた。
 混乱のあとで、菜々美は激しい羞恥に襲われる。妻の前で堂々と他の女性に下心を抱いていた夫の無神経さと、その下心に気付かない振りをしていた自分の浅ましさを彩夏に見抜かれていたことが恥ずかしかった。

「もういいです。疲れました。この件はこれで終わりにしましょう。でも、許してませんから」

 何も答えられないでいる菜々美に向かって、彩夏が一方的に告げた。
 疲れたのはこっちだ。たかが本の貸し借りなのに、とても疲れた。でも、彩夏が本を諦めてくれるならこれで元通りになるはずだ。許してもらえなくても構わない。もともと、彩夏とは友達でも何でもないのだから。 

 ……元に戻るのだろうか。本当に?
 
 不意に、そんな不安に駆られた。
 この数週間で、自分の置かれている環境が何もかも変化してしまったような気がする。そんなはずないのに。
 自分が職場で孤立しているなんて思ってもみなかった。積極的に人付き合いはしないものの、嫌われてはいないと思っていた。だけど、昼休みの休憩室では菜々美についての悪口大会が行われていた。そんなこと、知りたくなかった。
 今後も休憩室での噂話は続いていくのだろう。自分がランチに出かけている間、休憩室では女性社員たちが好き勝手にお喋りをしている。想像しただけで悲鳴を上げたくなった。
 彩夏は菜々美が借りた本を失くしてしまったと吹聴するに違いない。そして、菜々美の夫が彩夏をじろじろ見ていたという件も話すかもしれない。そうすれば、彩夏は再びかわいそうな被害者だ。
 どうしてこんなことに。本を借りてないことを証明できなかったから? 借りてないはずなのに。何も悪いことはしていないはずなのに。

+++

「篠田さん、ごめんなさい。本の件、私の勘違いだったみたいなんです」

 目の前で頭を下げている彩夏を、菜々美は呆然と見つめた。彩夏が「この件は終わりにしましょう」と宣言した翌日。仕事を終えて帰宅しようとした菜々美の前に、彩夏が現れた。そして、彩夏はいきなり頭を下げて菜々美に謝罪したのだ。
 彩夏の謝罪の声は思いの外大きく、オフィス内に響いた。仕事を終えたばかりの他の社員たちの視線がこちらに向く。

「家の中を改めて探したら、本があったんです。本当にごめんなさい」

 彩夏の言葉に菜々美は衝撃を受ける。……勘違いだった? あんなに大騒ぎして、家まで押しかけてきて、毎日毎日、しつこく付きまとったのに?
 菜々美は咄嗟には返事ができなかった。彩夏に対する怒りで頭が混乱している。こんなに怒りが溜まっているなんて、自分でも思ってもいなかった。謝罪されてもすぐには許せない。だけど、大勢の社員の目があるこの状況で怒りを爆発させることはできないとわかっている。「そんなに気にしないで」と笑って答えるしかない。けれど、菜々美はどうしてもその一言を口に出せなかった。
 彩夏がいつまでも頭を上げないので、「何の話? 」と周囲が騒がしくなり始めた。いち早く状況を把握したらしい佐野先輩が周りに説明している。菜々美が何も答えないので、彩夏はまだ頭を上げない。

「勘違いは誰にでもあるよ。そんなに気にしないで、彩夏ちゃん」

 その言葉を口にしたのは、菜々美ではなかった。2人の様子を伺っていた他の女性社員の中の1人だ。

「そうそう。学生じゃないんだから、本の貸し借りでそこまで大袈裟にしなくても」

「彩夏ちゃんは律儀だなぁ。そんなの誰も気にしないよ」

 待っていたかのように、他の社員たちも口々に言葉を発する。
 菜々美は呆然と周囲の言葉を聞いていた。私は何も答えていないのに、どうして周りが先に許すのだろう。私は彩夏の勘違いのせいで苦しんで、追い詰められた。夫への信頼は地に落ちたし、頼りになると思っていた佐野先輩も私の味方をしてくれない。毎日毎日、彩夏からストーカーみたいに付きまとわれて苦しかったのに。
 だいたい、大袈裟に一人で騒いでいたのは彩夏の方だ。おかしいのは彩夏だ。

「本当にすみませんでした、篠田さん」

 周囲の励ましと労りの声で、彩夏が頭を上げる。とびきりの笑顔だ。その笑顔は、コンサートのアンコールに応えるアーティストを連想させた。少なくとも菜々美には、それくらい場違いな誇らしげな笑顔に見えた。

「彩夏ちゃんは気にしすぎるところがあるから。あんまり思い詰めないで」

 佐野先輩がそう言って、周囲も同調する。この話は終わり、という雰囲気。佐野先輩が締め括ったことで、周囲もこの話題からは興味を失い始めている。渦中の人物であるはずなのに、菜々美は一言も声を発さずに置いてきぼりだ。
 菜々美の中に、ぐるぐると暗い想いが巡る。
 謝ればすべて済むの? 謝られたら許さなきゃいけないの? だって、私が謝った時、彩夏は許してくれなかったのに。
 
「返して」

 その言葉は、とても自然に菜々美の口から滑り落ちた。彩夏が不思議そうに振り返る。「え? 」と、愛らしく首を傾げている。

「返してよ! 」

 菜々美はもう一度、今度は明確な意思を持って叫んだ。
 返して。私の日常を。
 知らなくてもよかったことを、次々と知らされた。休憩室で繰り広げられている私の悪口。下心を隠した夫の視線。職場での孤立。誰も味方がいない。どれもこれも、知りたくなかった。
 嫌なことは何も知らなくていい。毎日を淡々と平和に過ごしていたかった。平凡でいいから。多くは望まないから。それなのに、あなたは全てを壊した! 許したくない!

「どうしたの、篠田さん、落ち着いて。大丈夫? 」

 誰かの声がした。いくつもの視線が突き刺さる。恐怖と好奇心が入り混じったような視線だ。「大丈夫? 」の声が何度も聞こえるけれど、誰も本気で心配してくれていないのがはっきりわかってしまう。
 菜々美は無意識のうちに蹲って頭を抱え込んだ。以前は気付けなかった負の感情に、今は気が付いてしまう。相手の言葉を素直に受け入れられない。

「篠田さん。私は何も借りてないですよ」

 彩夏が静かに答えた。そうじゃない、と思った。だけど、うまく説明できない。
 彩夏に注がれているのは、同情と心配の視線。
 彩夏ちゃんは大変ね、災難だったね、気にしないでいいからね……。まだ彼女は被害者だ。そして、私は加害者。
 どうすればよかったんだろう。どうすれば私の日常は壊れなかったんだろう。どうすれば……。

《了》

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