大いなる帰還 #パルプアドベントカレンダー2022

 1927年12月6日。
 狂騒も思わず潜める程にビルの間から覗く陽光は生気がなく、肌を撫でる空気からは柔らかさが、草木から色彩が失われている。パルハーバー・ラシャスから手紙が届いたのはそんな日のことだった。
郵便受けにはいつもと同じようにどうでもいいゴシップと恐怖を煽る広告で満たされた新聞が半ばほどねじ込まれていたが、その上に無理やり便箋がねじ込まれているという部分はいつもと異なっていた。

 新聞と便箋をわきに抱えリビングに戻り、まずは新聞を脇から抜くと同時にデスクに放り投げた。次に便箋を一瞥し、配達中に雨に濡れたのか、かすかに生臭い臭いがして顔をしかめた。そして見知った彼の名と、見知らぬ住所が記載されていることを認めると同様にデスクに放り投げた。引っ越しをわざわざ伝えるような人間ではないから、厄介なことになりそうだと直感したので、日本人が何かしただのと言われる手軽なインスタント・コーヒーではなく、じっくり手間をかけることのできるサイフォンを使うことにした。面倒が起こりそうなときはあえてワンクッション置いてから対面した方がスムーズに事が進むものだ。そういうわけで湯を沸かす間にコーヒーをミルで手引きしつつくだらないゴシップに目を通し、新聞を再び投げ捨ててから沸騰した湯でフラスコをあたため、漏斗にフィルターとコーヒーを入れ、きっちりとねじ込んでから加熱した。便箋をナイフで開け手紙を取り出し、もう一度彼の名と見知らぬ住所を一瞥した。やはりサイフォンにしたのは正解だった。インスタントではありえないコーヒーの濃厚な香りのおかげでさっきの生臭さは見事に消え失せていた。

 パルハーバー・ラシャスと言えば、中肉中背で、おとなしそうな丸い顔つきにそれと似合わぬ鋭い目をした男だった。
大学にいたころに同じゼミの仲間で、最新のテクノロジーとそれによるビジネス議論には誰よりも積極的だった。卒業後も変わらず税率と資金調達の話が大好きで、こちらが話をふるでもなくいつも会うたびに小難しい為替の話と社交界の演説をする絵にかいたような経済人になっていた。
先の大戦における財産差し押さえから逃れる為、イングランドからははるばるアメリカ、マサチューセッツ州まで真っ先に飛んできて、その行動はさながらフランス革命の動乱の中アメリカに逃亡した何百人かのエジプト・フリーメイソン、カリオストロの弟子たちのようであった。大戦後は自身のツテを頼り――もっともカリオストロの弟子らと違い単身できたのだからホラだと私は認識しているが――投資やら節税やらで大いに儲けたのだと半年ほど前に私に意気揚々と話していた。私はその手の話に疎い部類であるから、何やらけっこうなことをしているのだという朧げな認識に留めていたので、その彼が緊急で手紙を差し出してきたことには少なからず驚かされた。
 そうこうしているとコーヒーが十分撹拌されたので、便箋を捨ててから過熱を止めた。コーヒーとフィルターをゴミ箱に、フラスコに溜まったコーヒーをカップに入れ飲みながら読んだ手紙は、いささか興奮気味の書体で以下の様に書きなぐられていた。

 親愛なるウィンター・バルニールへ

 突然の手紙となり申し訳ない。
知っての通り僕はファイス・ツール・インダストリーを始めとした掘削機械メーカーに対していくらかの投資をし、それだけで自身の生活を賄える程度の収入を得ている。いや、正確には収入を得ていたというべきだ。勘違いしないでくれたまえ。投資自体は実にうまくいっていたし、ダイナマイトにも耐えうる金庫にしまい込んだ株券がある日突然ただの紙切れになるような事態も起こってはいない。ファイス・ツール・インダストリーも実に順調で少なくともあと三年、そう三年間それが続くだろう。だが現実として僕は今はそのすべてを売却して、ここロードアイランド州ビードーブリッジの片隅でそれらと一切のかかわりをもたない生活を送っている。その訳を何とかして君に説明したいが、これは到底社会性を保った人間がまともに向き合えるような内容じゃないし、なによりあのじめじめした陰険とした精神病院に自ら収容されるような真似はしたくない。君を疑っているわけじゃないんだ。ただ、それくらい荒唐無稽な、まったくの戯言――それだったらどれほど嬉しいことだろうか――としか思えない質のものなんだ。僕の今の願いというのは、このどうしても自分の中に留めておけないこの忌々しい事実をきれいさっぱり打ち明けたいということだけなんだ。訳あってこれは君にしか頼めないことなんだ。都合よければ僕が今住んでいるこの家に来てほしい。本来君の家に訪れるべきなのはわかっているが、あのマサチューセッツの、名前を出すのも憚られるあの土地を一歩でも踏み入れれば僕は永遠に、それこそしみったれた精神病院にいた方がマシだと叫ぶほどの精神状態に陥ってしまうだろう。

 読み終えた私はカップを置くと同時にため息を吐いた。想像通りの厄介な事態になった。少なくともこれから私はコーヒーでぐちゃぐちゃになった便箋から見知らぬ住所を読み解かなければならない。

 1927年12月25日。
 私は一人ビードーブリッジの寒空の下フォードを走らせていた。
何も変わり者の知人を助けたいなどという義侠心ではない。ただ金儲けから一切身を引いたという部分があまりにも私の知るパルハーバー・ラシャスという男の姿からかけ離れているから興味がわいたというだけだった。
 街の外は降誕祭でありながら外には人影が見当たらず、パルハーバーはどうにも人とかかわりを持ちなくない生活をしているのだと感じられた。それもまた私の中の彼のイメージとは真逆だった。
 彼の家に着くころには日が沈みかけていた。フォードを停め、ドアを開けた瞬間身が凍るような冷気に思わず肩を震わせた。その家は典型的なジョージア王朝様式の2階建てで、切妻屋根にはうっすらと雪が積もり、白く塗られた外壁はところどころ経年によって地の色が顔をのぞかせていた。5つの窓はすべてカーテンによってふさがせており、その中をうかがうことも人が本当に住んでるのかもわからない状態だった。だが、エンジン音を聞いたのだろうパルハーバーが顔玄関から出てきたことでその考えは払拭された。

 「よく来てくれた。会えてうれしいよ。」
 決まり切った文句に決まりきった返事をしようとした言葉は喉のまで出かかってついぞ出ることはなかった。久しぶりに見る彼の容貌があまりにも記憶のそれと異なるからだった。その顔は血色の悪い土色で、疲労によって丸みが失われつつあったし、何より常に世の機微を察知してきた目からはまるでそれが全くの出鱈目かのように淀み切っていた。体格も一回り小さくなったようにみえるのはすっかり背筋が曲がり、肩も垂れ下がっているからだろう。わずか半年でここまで変わり切った彼にかける言葉を模索するのはモハベで一粒の砂金を見つけるより難しいことだった。私は黙って彼に手を差し伸べた。こういう時は無理に言葉を探す必要はない。そして握った彼の手は寒空の中冷え切ったハンドルを握り続けていた私の手よりも冷たかった。何もかもが私の知る彼と異なっていた。あまりにも異なりすぎていた。いったい彼をここまで変えた出来事とは何なのか、興味よりも気味悪さが膨れ上がった。

 パルハーバーがドアを開けると、建付けが悪いためか耳障りな木材同士がこすれる音がこだました。そしてその音は同時に夜に墓場で死体をついばむ忌み嫌われる穢れた野鳥の叫び声を彷彿とさせ、私の眉間のしわを深いものにするのだった。玄関脇の階段を通り過ぎ、左に曲がりリビングに入ると仮にも成功したまま引退した経済人とは思えないような質素な空間が広がっていた。部屋の中央には一般的な暖炉とその前に置かれたテーブル、その周りに配置された古めかしい――ヴィンテージではなくもただ経年によって痛めつけられたといった具合の――ソファがあり、その一つにはすっかりしおれた毛布が無造作にかけられていた。奥には小さめの炊事場があるが、ほとんど何も置かれておらず、越してきてから一度も使ったことがないのではないかとすら思われた。暖炉の反対側の壁にはいくらかの書物が納められた本棚が一つあるだけだった。そしてそのすべてがうっすらと埃で覆われていた。対面した時の印象と言い、彼の精神状態をさらに不安に思ってしまった。哀れなパルハーバーは寝室に行くこともなくこの埃にまみれたソファの上で生気のない緩慢な動きで毛布に包まり一人夜を過ごしているのだろう。階段を横切ったとき、ちらりと見た限りではそのステップには足跡がまるでなかったのだから。それに、かすかにだが酷い雷雨の日に時折感じる生臭さがあり、精神がどうであれおよそ近寄りがたい雰囲気を醸していた。
 すっかり気が滅入ってしまった私を気遣ってか、それとも以前の社交界での習慣が抜けていないのか、パルハーバーは奥のキッチンからグラスを二つ持ってきて、どこに隠していたのか上質そうなミードを注いだ。夕日に照らされて太陽のように赤く美しいミードだった。私たちは向かい合ってソファに座った。乾杯しグラスの3分の1ほどを流し込むと冷え切った体に熱が宿り、ミードの美しさも手伝って幾分か生気が戻ってきたようだった。
 一息ついてからミードの入ったグラスを回しやがてため息とともにデスクに置くと彼は語り始めた。いつもの演説ではなく、何とかして喉を絞って捻りだしたかのような声だった。

 「僕は以前言ったように、ファイス・ツール・インダストリーに目をつけていた。従業員数十名にも満たないような企業だが、そういう企業こそ成長した時の利益というものが大きいものだし、なによりそうなる確信があったからだ。あの会社は掘削工具に関連する企業から表には言えないような取引の末に尻尾切りにされた技術者ら数名が立ち上げた会社でね、企業規模に対してあまりにも不釣り合いな技術力を持っていたんだ。だからコストを少しでも下げたいし、風変わりな見積もりにも応じてくれる企業を探すのが趣味な研究室からご指名されることになったんだ。パーボディ教授さ。君も知ってるだろう。再来年に南極探索を行うメンバーの一人だ。僕はこれを5年前にある友人から教えてもらってね、企業全体の3%の株を所有したんだ。当然その後投資家連中からも注目されて、こういう世界を取り仕切ってる組織も動いた結果普通に働いたんじゃ何回人生をやっても手に入らない金を手に入れた。僕ら末端のマネーゲームに興じる根無し草が唯一成功する方法はこうやって前もって寄生することだけだからね。あの時は最高の気分だった。しかしそれも、数か月も満たないうちに最悪の現実の前にたちまち消え失せてしまった。その結果僕は全部から手を引いて、ここで人目につかない生活をしているというわけだ。幸運なことに”資産”はここら一体に住むどんな人間よりも持ち合わせているから、必要な時だけ呼び出せる奴を雇えばそういうこともできる。」
 そこまで言うと、グラスに残ったミードを飲み干し、半ばほどまで注いだ。
「それで、ここからが本題なんだ。三か月前、9月15日、僕はいつもと同じようにクラブにいた。クラブといってもそこいらにあるような酒と女を楽しむところじゃ、ああ失礼。まあつまりは僕のような人間が集まって金稼ぎの算段をするための場所さ。そこに見慣れない奇妙な格好の男が喚き散らしながら入ってきた。
そういう手合いはあまり多くないが珍しいものでもなかった。いわゆるルサンチマンってやつさ。汗水流してその日を食つなぐ自分たちには絶対に手の届かない金を指一本動かさず手に入れいていることに我慢ならないという手合いだ。でもその男はそうじゃなかった。場所は違えどもその男も僕たちと同じクラブの会員で、むしろ自分たちの方が歴史的に尊重されるべき立場なのだと喚いていた。丁度投資家連中とのおしゃべりにも飽きてきたころ合いだったから僕はその男がガードにつまみ出される直前に声をかけて人の少ないブースに避難させてやった。思えばこの気まぐれが間違いだったのかもしれない。それがなかったら、破滅するにせよ幸せな無知のままでいられたのだから。」
 空になった私のグラスに2杯目を注ぐと、自分のグラスにも同じように注いだ。
「男は懐から数センチばかりの水晶玉を取り出した。それは中で複雑な屈折をしているのか周りの景色を一切映さない代わりに絶えず揺らめくもや、あるいは燃え盛る炎、青白い燐光、なんとも形容しがたい様相を絶えず映していた。怪訝な顔をする僕に男はもっとよく覗くんだ、心をこの水晶玉に落とし込むように、と声を潜めて囁いた。そうすれば真実が見れると。まるで白兎を追うような話し方だったが、不思議な魅力を感じて僕はその通りにしてしまった。
 心を水晶玉に、そうイメージした瞬間、まるで水晶玉から見えざる手が僕の身体の芯に突き刺さったかのような感覚に襲われ、それと同時に意識のすべてが水晶玉の内側に引きずり込まれてしまったんだ。僕の目は確かに男が持つ水晶玉を見つめている。だが、僕の意識はその水晶玉の内側から僕の身体を見ていたんだ。しかしそれも一瞬で光のもやに遮られて何も見えなくなった。それからどれくらいたったのだろう。しばらくして不意に視界――肉体のそれではなく意識のということだが――がはれた。
 そこは丘陵地帯のさびれた村だった。僕はその頂にある環状列石のなんらかの遺跡を見下ろしていた。夢でよくあるように、細かい部分はもやがかかっていたし、視界を動かすこともうまくできなかった。するといきなり頭を万力で締め付けられたような痛みに襲われ、僕は叫び声をあげた。すくなくとも意識の中では叫んでいた。視界の中央にはある老人が書物を抱え、なにかを叫んでいた。そして叫び終わると同時に僕の意識は真っ暗になり、次の瞬間水晶玉と、それを持つ男の手が視界に現れたんだ。私の意識は僕の体の中に戻ってきたんだ。」

 私は我慢しきれなくなって空のグラスを置くとともに口をはさんだ。
「少し待ってくれ。君が投資家連中らが金稼ぎのタネを探すためのクラブにいて、そこに変な奴が入ってきて、君が興味本位にそいつの話にのっておかしな体験をした。それはわかった。その水晶は何か催眠的な、人の気を変にさせるようなもので、それに君はひっかかった。それもいい。禁酒法の所為でいろんなドラッグが出回っているし、そういう効果を歌うインチキ道具も毎日のように新聞の広告欄に載っている。だが、それのどこが君をここまで苦しめ、変貌させた要因になりうるんだ。それに、どこも埃だらけで見たところ雇った使用人が来ているような様子もないじゃないか。何から何までわからないことだらけだ。」

 パルハーバーは答えた。その口調は次第に熱を帯び、かつての彼口ぶりを思わせた。
「僕は、僕の意識が僕の身体に戻る直前に一瞬だけ別の光景を目にしたんだ。丘の上で空を見上げていた。だがその視界はうっすらと空以外のものを映していたんだ。それは悠久の穴から漏れ出た無数の蠢く泡で、陽光のもとに輝く蜻蛉の羽、甲虫の殻のように絶えず変化する色の揺らめきで、僕たち人間ではどんな手段をもってしても表現できない、この世の摂理から離れた容貌をしているんだ。その泡の一つ一つに宇宙が内包されているかのように僕の意識を吸い取り、無限に拡散させ、あるいは原子一つにも満たない領域に潰し込むんだ。確かに一瞬の光景だったが、僕にはそれが同時に永遠にも感じ取れた。無からビッグバン、そう、僕はビッグバンをみたんだよ。哀れな研究者の数式と観測による間接的なものじゃない。直接この目で、いや、目で見るよりももっと本質的な器官で知覚したんだ。それは二流雑誌が大げさに表現した爆発にイメージされるような球体じゃないんだ。それはあらゆる不自然さを備えた無数の蠢く触腕といった方が近いものだったんだ。そして宇宙が現れ、あらゆる事象が一定の、"すべてを司る法則"に基づき展開され、悠久の膨張の果てに突如元の原子一粒に収縮する破滅の歴史を、悠久の穴から漏れ出る泡の数繰り返し、僕の意識にそれをねじ込むんだ。僕はそうしてこの世界の、この世界以外も含めたすべての歴史を人間のちっぽけな意識にねじ込まれてしまったんだ。わかるかい。僕はすべて知ってしまったんだよ。
 この世界が、この世界以外のすべてが、これからどうなって、どう破滅するのか。僕という存在があとどれだけ僕という物質としての在り方を保っていられるのかを。だからもう僕はそれまで興味のあったすべてがどうでもよくなったんだ。もうこれまでの僕の意思というものはねじ込まれた意識によってすっかり押しつぶされ、霧散してしまったんだ。そして理解してしまったんだ。さっきまでの老人を見ていた僕の視界というものは、まさにその名状しがたい蠢く無数の泡そのものの視界だったということに。」

 私は意識がぐらつくのを感じた。ミードによるものではけしてなかった。
自分の行動の愚かさに辟易するとともに、さっさとここから退散しようと思った。だがこのあまりに荒唐無稽な話に対して、どうしても一つ聞きたくなることがあった。
「なあパルハーバー。一つだけ教えてくれ。なぜこれを私に、私だけにしか話せないことだと思ったんだ。」
彼は静かに答えた。助かる見込みのない病名を患者に告げる医師の様に。
「僕はすべてがどうでもよくなったと言ったね。だがそれはありとあらゆるものに対してではないんだ。あの無数の蠢く泡が見せたすべての宇宙のすべての歴史に対してというだけなんだ。だから知ることのできない事柄があったんだ。この宇宙や異なるありとあらゆる宇宙のあらゆる事象が一定の、"すべてを司る法則"に基づいて展開されていると言っただろう。あの時最後まで知ることのできない存在があったんだ。その存在にこの"すべてを司る法則"を取り込ませるんだ。そうすることで僕は僕があの時知れなかった唯一の理を知ることができるんだ。」

そこまで言うと、彼はいきなり声の調子を上げた。何か心底面白がっているような声だった。
「ああ、そういえばさっき君は僕が雇った使用人がどうとか言っていたね。変なことを言うじゃないか。僕は一言も”人”を雇ったなんて言っていないよ。"総てを司る法則"だよ。その一部、傀儡を雇ったのさ。あの一瞬の悠久の時間の中で得た大いなる"資産"によってね。」

 彼は私とその足元を観るとうっすらとほほ笑んだ。
彼の――というにはあまりにも鋭すぎた、まるで別人に意識を乗っ取られたかのような――視線を追うと、いつの間にか私の手からグラスが落ちていてカーペットにシミをつくっていた。そして、私の足になにか透明な、ほんのわずかな光の屈折でうっすらと認識できる触腕のようなものが絡みついていた。普通だったら悲鳴をあげていただろう。だが、まったく声が出なかった。それどころか息を吐くことすらできなかった。そいつからは酷い雷雨の日に時折感じる生臭さ――この家の階段から感じた臭い、そして、彼の手紙にもあった臭い――が漂っていた。息がつまり、陸に打ち上げられた魚のように口を動かすことしかできなかった。視界の端では彼が懐から小さな水晶玉――周りの景色を一切映さない代わりに絶えず揺らめくもや、あるいは燃え盛る炎、青白い燐光――をとりだしていた。

 私は吸い寄せられるようにその水晶の揺らめきを見つめていた。それを見てはいけないと本能が、理性が、私の精神すべてが警告を発していた。そして、それらすべてが意味をなさなかった。

「あの時、あの驚嘆と栄光に満ちた時間の中で、最後まで知ることのできなかった存在。そう、それこそが君なんだよ。なぜ君なのか、それを知りたいのさ。『もっとよく覗くんだ、心をこの水晶玉に落とし込むように』そうだ。その調子だ。そしてこれで全宇宙で本来起こりえない君の"大いなる帰還"を見届けることができるんだ。この私だけが。」

水晶から見えざる手が私の身体の芯に、私の本質と言えよう何かに突き刺さり、私は意識を手放した。

https://note.com/mh_fk/n/n3cfb5074ca60


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