(旧)『RAIKA』第一話
ライカこと虎徹蕾花、17歳。
身長165cm、体重はシークレット。
スリーサイズは90-59-89。
セミロングの髪はアッシュベージュ、インナーカラーはブラッドオレンジ。
アイドルグループ『ぴーきー☆ぱんきー』のお色気&体力勝負担当で、ついた二つ名は『令和の肉弾サンダーボルト』。
歌はアレだがダンスは抜群で、他のメンバーが嫌がるような体を張った仕事も率先して引き受けて、グループの屋台骨をがっしり支えてきた――つもりであった。
「お前は、クビだ」
ライカが事務所に足を踏み入れるなり、そんな言葉を投げつけられた。
日本有数の芸能プロダクション『リュウセイ・ファクトリー』のオフィスである。声の主は事務所の所長であり、その隣ではマネージャーの寺沢が素知らぬ顔で耳をほじっていた。
「ク、クビ? なんでウチがクビにされないといけないのさ!」
ライカがそのようにわめきたてると、所長はうんざりした面持ちで湯呑みの茶をすすった。
「また現場のほうから苦情が入ったんだよ。今回は、よりにもよってプロデューサーを蹴り飛ばしたそうだな」
「だって! あいつがおしりをさわろうとしたんだもん!」
「そんなもん、スキンシップの一環だろうがよ。そんなことでガタガタ騒ぐのは、お前ぐらいだぞ」
「へーっ! つまりは、セクハラを受け入れろってこと?」
ライカがすかさずスマホを取り出して録音機能をオンにすると、所長は「それだよ」と顔をしかめた。
「どうしてお前は、そこまでガードが固いんだよ? そんな乳ぶらさげてセクハラはカンベンなんて、ほとんどハニートラップだろ」
「その発言も、セクハラ案件だと思うんだけど! SNSで拡散しちゃおっかなー!」
「勝手にしやがれ。素行不良で契約解除された元・アイドルのたわごとなんざで、うちの事務所はビクともしねえよ」
所長は、小バエでも追い払うように手を振った。
「じゃ、お疲れさん。こっちのマンションはとっとと引き払ってくれ。二度と会うこともないだろうが、達者でな」
そうしてライカは、これまでのキャリアと住む場所をいっぺんに失ったわけであった。
◇◆◇
(エロオヤジのセクハラを撃退しただけでクビなんて、そんなのアリかよ)
ぐつぐつと煮えたつ憤懣の思いを抱え込みながら、ライカはあてどもなく街をさまよった。
目立つ頭にはキャップを目深にかぶり、オーバーサイズのカットソーとだぶだぶのアラジンパンツで肉感的なプロポーションを多少ばかりは隠蔽しているが、匂いたつような色香は隠しきれず、今も数多くの通行人がライカを振り返っている。
そんな持ち前の魅力を活かして、ライカはアイドルを志したわけであるが――それはわずか二年間で終止符を打たれてしまったわけであった。
(またオーディションを受けまくるとしても、まずは住む場所を何とかしないといけないし……今さらどんな顔して、実家に出戻りゃいいってんだよ!)
そうしてライカが深々と溜息をついたとき、ころんとした人影が眼前に立ちはだかった。
「失礼いたします。虎徹蕾花さんですね? わたくし、こういう者です」
ライカよりも背が低くて丸っこい体型をした中年男性が、笑顔で名刺を差し出す。
そこには『ゴンドー・プロダクション 代表 権藤三蔵』と記されていた。
◇◆◇
「いやあ、ライカさんのご活躍は前々から注目していたのですよ」
手近なカフェまで移動すると、そのあやしげな人物は得々と語り始めた。
「ルックスやスタイルもさることながら、まずは根性が素晴らしい。そして何より特筆すべきは、その身体能力でありますね。幼少期にはバレエをたしなまれていたそうですが、他にも何かスポーツを?」
「……別に。自己流でダンスを頑張ってたぐらいだよ」
「ほうほう。では、天賦の才能というわけですな。ライカさんなら、新時代のアイドルとして天下を取ることも夢ではないでしょう」
権藤なる人物は、ずっとにこにこと笑っている。目が左右に離れていて鼻面がいくぶんせり出ているためか、カピバラやヌートリアを思わせる面相だ。その手もとに置かれているドリンクは、甘ったるそうなキャラメルマキアートであった。
「……で、ウチをスカウトしようってわけ? でも、なんでウチがクビになったことを知ってんのさ?」
「それはまあ、蛇の道は蛇ということで」
「うさんくさいなー。だいたいこの事務所って、アイドルなんかひとりもいないじゃん」
と、ライカはスマホの画面を権藤に突きつけた。
そこに表示されているのは『ゴンドー・プロダクション』の公式ウェブサイトで、所属タレントの名がずらりと並べられている。ロックバンドに演歌歌手、お笑い芸人にマジシャンと、実に雑多な顔ぶれであったが、アイドルに類する存在は皆無であった。
「ですからここで、ライカさんのお力をお借りしたいのです。ゴンプロ初のアイドル育成ということで、スタッフ一同奮起しておりますよ」
「でもさー、言っちゃ悪いけど弱小だよね。ウチはいちおー、天下のリュウセイ所属だったんだけどなー」
「ことアイドルに関しては、リュウセイさんの天下でありますね。だからこそ、そこに風穴をあけたいのです。それに――」
と、権藤は虫も殺さぬ顔でにっこりと微笑んだ。
「ライカさんはあらゆる大手プロダクションのオーディションを経て、最後にリュウセイさんに行き着いたのでしょう? 選り好みをするのは、ちょっと難しいのではないでしょうか?」
「……でもウチだって、この二年でキャリアを積み上げたもん」
「はいはい。そのキャリアとともに、数々の武勇伝も積み上げたようでありますね」
権藤はにこやかな面持ちのまま、キャラメルマキアートをひとすすりした。
「とりわけ今回のプロデューサー氏に関しては、ずいぶんな騒ぎになってしまったようですね。たいていのプロダクションはかのプロデューサー氏とおつきあいがありますので、ライカさんをお迎えすることも難しいでしょうな」
「えーっ! 悪いのはあっちなのに、どーしてウチが干されなきゃならないのさ!」
「それが、芸能界というものです。幸いわたくしどもは弱小なもので、あのような大物プロデューサーとはご縁の持ちようがなかったわけですな」
ライカはテーブルに突っ伏して、思うさま憤懣と悲嘆の思いを噛みしめた。
「……わかった。ちょっとケントーしてみるから、契約条件を教えてくれる?」
「はいはい。ではまずこちらの企画書に目を通していただけますかな?」
「企画書?」と首を傾げるライカの鼻先に、書類の束が差し出された。
『アイドルファイター・ライカ育成プロジェクト』
その書類の表紙には、そのような文字がでかでかとプリントされていた。
◇◆◇
翌日――スマホのマップ機能を頼りにその場所まで辿り着いたライカは、溜息とともにつぶやいた。
「……すっげーボロ道場」
高架と土手の狭間にぽつんとたたずむ、古びた木造の建物である。二階建てで、やたらと幅の広い造りをしているが、ちょっとした地震で倒壊してしまいそうなほど年季が入っている。その入り口には、『ドージョー・ムナチカ』と刻まれた看板が掛けられていた。
ここは、格闘技の道場である。
ライカはこの道場で稽古を積み、アイドルファイターを目指すのだ――と、巨大なげっ歯類を思わせる弱小プロダクションの代表はそのように熱弁していたのだった。
「これまでにもアイドルファイターやアイドルレスラーというものは数多く存在しましたが、芸能界と格闘技の両面で天下を取った御方はおられません。ライカさんこそ、その偉業を達成する史上初のアイドルファイターとなるでしょう」
そんな言葉にのせられて、ライカはのこのことこんな場所までやってきてしまった。
しかし、ひと晩で頭は冷めている。ライカがそのような偉業を達成できるとは思えなかったし、そもそもそれが偉業なのかどうかも判断はつかなかった。
「あー、やめたやめた! もっとマトモな事務所をさがそーっと!」
ライカはくるりときびすを返した。
するとそこには、よくよく見知った人物が立ちはだかっていた。
「そうはいくかよ。きりきり入門しやがれ、このヘボアイドル」
「て、寺沢さん? なんで寺沢さんが、こんなとこにいるのさ!」
それは『ぴーきー☆ぱんきー』のマネージャーたる寺沢であった。
ざんばら髪に無精髭、痩せこけた体によれよれのスーツを纏った、四十路間近の中年男性である。寺沢は、地縛霊のように陰気な目つきでライカをにらみつけた。
「お前が尻尾を巻いて逃げ出すんじゃないかと思ってな。まったく、わかりやすいやつだぜ」
「い、意味がわかんないんだけど! 寺沢さんは、もう関係ないでしょ?」
「関係なら大ありだよ。俺は今日から、ゴンプロのスタッフだからな」
「はあ? 何それ! リュウセイはどうしたのさ!」
「昨日づけで退職したよ。で、今日からはお前個人のマネージャーだ。腐れ縁も、ここに極まれりだな」
ライカは口をぱくぱくとさせてから、「わかったー!」と声を張り上げた。
「蛇の正体は、あんただね! あのカピバラ、ウチのことにくわしすぎると思ってたんだよー!」
「べつだん俺がリークしなくても、お前の悪名は業界の隅々にまで轟いてるけどな」
寺沢はもともと緩んでいたネクタイをさらに緩めながら、そう言い捨てた。
「そら、納得がいったんなら道場に入れや。今日からは、ここがお前の鉄火場だぞ」
「やだよーだ! アイドルファイターなんて、ウチはまっぴらだねー!」
「まっぴらったって、お前は契約書にサインしただろうがよ?」
「あれは、その……気の迷い! 気の迷いだから!」
「気の迷いでも、サインはサインだよ。それともお前は、アイドルを廃業する覚悟を固めたのか?」
「はあ? そんなわけないじゃん!」
「そうか。この契約を破ったら、向こう二年は芸能活動をしないって条件だったよな」
ライカが言葉を失うと、寺沢がその襟首をひっつかんだ。
「さあ、行くぞ。まずは道場主にご挨拶だ」
「ドナドナが……ドナドナが聞こえてきたよー……」
寺沢に引きずられて、ライカはその道場の扉をくぐることになってしまった。
その向こう側に広がっていたのは、まさしく道場と呼ぶ他ない空間である。
床には一面に薄いマットが敷き詰められて、端のほうにはサンドバッグが吊り下げられている。大きさは、小学校の教室ほどだ。あまり換気がよくないのか、むわっとした熱気がたちこめていた。
しかし、その広々とした空間に存在する人間は、ただひとりである。
その人物は、一心不乱にサンドバッグを叩いていた。
無造作なショートヘアーで、くっきりと褐色の肌をした、ライカと同世代の少女である。
黒い道着に黒い帯をしめ、手には指先の露出するグローブをはめている。小柄で、ずいぶんほっそりしていたが――彼女は何か青白い炎のような気迫をほとばしらせており、それがライカの目と心を奪った。
(なに、こいつ……?)
その少女は、ただサンドバッグを叩いているのみである。
しかし、髪の先から汗を散らし、黒い瞳を鋭く光らせたその姿は、ライカがこれまで目にしてきた如何なる芸能人よりも鮮烈で、魅力的に見えてしまった。
「稽古中に失礼します。先日ご連絡を差し上げた『ゴンドー・プロダクション』のもんです」
寺沢が声をかけると、少女はこちらを振り返ってきた。
とたんに、気迫の炎は消え失せる。それでライカは、すみやかに我を取り戻すことになった。
「失礼しますよ。えーと、靴下であがってかまいませんかね?」
「どうぞ」とハスキーな声で答えながら、少女もこちらに近づいてきた。
近くで見ると、なお小さい。ライカよりも十センチ以上は小さそうなので、せいぜい154cmといったところだろう。猫のようにまなじりの上がった目が印象的で、鼻や口の造作は小さく、ずいぶん可愛らしいように思えたが――ただその顔には、愛想の欠片も存在しなかった。
「えーと……あなたが宗近さんですか?」
寺沢の問いかけに、少女は「ええ」とうなずいた。
「道場主の、宗近マルティナです」
「えーっ! こんなちっちゃいコが、道場のボスなの? トシなんて、ウチと変わらないぐらいじゃん!」
ライカがわめきたてると、宗近マルティナと名乗る少女は猫のような目を半分だけまぶたに隠した。
「……こちらが、入門希望者ですか?」
「はい。虎徹蕾花っていうチンケな娘です。礼儀も何もなってないんで、好きにしごいてやってください」
「門下生の態度で稽古の内容が左右されることはありません。まずはそちらが必要最低限の礼儀作法を身につけていただきたく思います」
宗近マルティナは、路傍の石でも見るような目でライカを見る。
その目つきに、ライカはカチンときた。
「なんだよー! ウチだって、好きでこんな場所に来たんじゃないんだからねー! ドージョーヌシだか何だか知らないけど、でかい顔しないでもらえる?」
「やめろ、馬鹿。いやホント、申し訳ありませんね」
「謝罪には及びません。……ですが、今回の話はなかったことにしていただきます」
と、マルティナはライカたちに背を向けた。
さしもの寺沢も慌てた様子で「ちょっとちょっと」と声をあげる。
「うちはこのプロジェクトに社運をかけてるんですよ。こいつの失礼な態度にはおわびを申しあげますってば」
「謝罪には及びません。ただ、契約内容に無理があったと思ったまです」
「はい? それはつまり――」
「あなたがたは、そちらの女性をプロファイターに育成しようという考えなのでしょう? その見込みはないように思います」
「なんだよそれ!」と、ライカはいきりたった。
「ウチだって、そんなもんは目指したくもないけどさ! でも、なんであんたにそんなことがわかるのさ!」
「……そんな志では、何も為すことはできない」
それだけ言い捨てて、マルティナはサンドバッグのほうに戻っていく。
ライカは「こいつー!」とわめきながら、その尻を蹴り飛ばそうとした。
しかし、ライカの足先が道着の生地に触れようとした瞬間――マルティナは、ふわりと前方に跳びのいてしまう。目標を失ったライカは「おっとっと」とたたらを踏むことになった。
「……道場で暴力沙汰など、言語道断だ」
「へーんだ! 道場ってのは、暴れる場所なんでしょ? だったら文句をつけられる筋合いはないね!」
「……暴力と格闘技の区別もつかない人間に、道場に踏み入る資格はない」
ライカとマルティナは向かい合い、眼光の火花を散らすことになった。
すると、寺沢が「まあまあ」と割り込んでくる。
「宗近さんの仰ることは、いちいちごもっとも。でも、こっちも簡単には引き下がれない立場でしてね。よかったら、入門テストでもしてみちゃくれませんか?」
「……入門テスト?」
「ええ。こいつにファイターとしての資質があるかどうか、じっくり検分してやってください」
「おーっ! やってやろーじゃん!」
ライカはオーバーサイズのカットソーとアラジンパンツを脱ぎ捨てた。
その下に着込んでいたのは、タンクトップとショートパンツである。胸の谷間や肉感的な太腿があらわにされて、寺沢に顔をしかめさせた。
「おいおい、むやみに男の煩悩を煽るんじゃねえよ。この人間凶器め」
「なーに言ってんのさ! ウチの爆裂ボディは見飽きてるでしょ? この果報者!」
「撮影現場と道場じゃ勝手が違うってんだよ」
「とにかく、勝負をつけよーよ! あんたみたいなちびっこには、ぜーったい負けないからねー!」
ライカは、妙に昂揚してしまっていた。
先刻のマルティナが見せていた気迫が、ライカの何かを刺激したのだ。
マルティナは不機嫌な山猫のような目でライカの姿をねめつけてから、「いいだろう」と言い捨てた。
「僕もさっさと稽古に戻りたい。自分の未熟さを好きなだけ思い知るといい」
「あれあれー? あんたってボクっ娘だったんだー? 見た目に寄らず、あざといじゃん!」
「お前、本当に人様を煽るのが得意だな」
そんな風に言ってから、寺沢はにやりと笑った。
「ま、思う存分しごいてもらえや。こいつが社運をかけた一大プロジェクトだってことを忘れんなよ?」
「そんな話は、知ったこっちゃないね!」
ライカは鼻歌まじりにストレッチを始めた。
そうして身動きをするたびに、タンクトップの胸もとがゆさゆさと揺れる。『ぴーきー☆ぱんきー』のお色気担当は伊達ではなかった。
すると、壁際の棚に近づいたマルティナが、そこからつかみ取ったものをライカに投げつける。
それはけっこうな勢いであったが、ライカは軽々とキャッチした。
「何これ? グローブ?」
「オープンフィンガーグローブ。寝技や組み技にも支障が出ないように開発された、MMAのグローブだ」
「えむえむえー?」
「ミクスト・マーシャル・アーツ。日本語で言うなら、総合格闘技。……君はMMAの名も知らずに、プロファイターを目指そうとしているのか?」
「あー、あの馬乗りパンチもオッケーな格闘技ね! いいねいいね! 面白そーじゃん! ……これ、どうやってはめるの?」
寺沢は溜息をつきながらグローブの装着を手伝いつつ、横目でマルティナのほうを見やった。
「でも、こいつの頭でいきなりMMAのルールは把握できないでしょうね。ルールのほうは、どうします?」
「……ルールは、バーリトゥードで」
「へえ」と、寺沢は不敵に笑った。
グローブの装着を終えたライカは左右の拳を打ち合わせながら、小首を傾げる。
「ばーりとぅーどって? ウチにもわかる言葉でしゃべってくれない?」
「バーリトゥードはポルトガル語で『なんでもあり』って意味だ。反則になるのは、頭突きと目潰しと噛みつきぐらいだな」
「へーっ! そんなの、ほとんどケンカじゃん! あんた、ケガしても知らないよー?」
「君の攻撃は当たらないし、こちらも病院が必要になるほどの怪我は負わせないと約束しよう」
ライカとマルティナは、道場の中央に進み出た。
肉感的なライカと向かい合うと、マルティナはいっそう小さく見えてしまう。そしてライカも、マルティナに負けないほどの気迫を漂わせていた。
「時間は、三分で。体力が続かないようだったら、その場で申告を」
「ふーんだ! 三分もかけずにKOしてあげるよ!」
「それじゃあ、始め」と、寺沢がスマホのストップウォッチを作動させた。
ライカは嬉々として、右の足を振り上げる。
フォームも何もなっていないが、えらく勢いのある蹴りである。なおかつ、足の肉感が力感を生み出していた。
マルティナは軽くステップを踏んで、その蹴りを回避する。
ただその眉が、いくぶんけげんそうにひそめられた。
「こんにゃろー!」と、ライカは再び足を振り上げる。
今度はさきほどよりも打点が高い。マルティナの顔に届くほどの高さである。
それを回避してから、マルティナが発言した。
「君はずいぶん、関節が柔軟なようだな」
「ええ。バレエでつちかった柔軟性ですね」と、寺沢がすました顔で答えた。
二発の蹴りをかわされたライカは、両腕を左右に振り回す。フックと呼ぶもおこがましい無茶苦茶なフォームであったが――ただ、勢いだけは立派なものであった。
(こいつはもともと馬鹿力だし、関節の柔軟性も攻撃力の増加にひと役買ってるんだろう。肩や腰が回らなけりゃ、パンチもキックも威力は半減だろうからな)
寺沢はそのように考えた。
ライカの乱暴な攻撃をすべてステップワークで回避したマルティナは、アウトサイドに踏み込んで左ジャブを射出する。
スピードを重視した、軽い攻撃だ。
しかしライカは「わっ」と身をのけぞらせて、それを回避した。
マルティナはいっそう眉をひそめながら、小刻みにステップを踏む。
そして、立て続けに左ジャブを放ったが――ライカは「ひゃーっ」と頭をぶんぶん動かして、それらもすべてかわしてしまった。
(やっぱりな。こいつはやたらと、目がいいんだ)
寺沢は、スマホをぎゅっと握り込む。
ライカはアイドル時代、バラエティー番組などでさまざまなミニゲームに挑戦していた。その際に、卓球対決やらパイ投げ対決やらモグラ叩きやらで、異様なまでの動体視力を発揮していたのだ。
(まあ、柔軟性も馬鹿力も動体視力も、みんな素人の範疇だろう。ただ、それがこいつの気合やら根性やらで、上手い具合に組み合わされれば――)
マルティナの鋭い攻撃をすべて回避したライカはカンガルーのようにバックステップを踏んでから、「おりゃー!」とあらためて突進した。
その身が、途中で横合いにスピンする。
バレエの回転技、ピルエットの応用である。いつもガサツなライカが、その瞬間だけは限りなく優美に見えた。
そして、直角に折りたたまれていた右足が旋回の途中で振り上げられて――マルティナの身に襲いかかった。
完全に虚を突かれたマルティナは回避が間に合わず、右腕でガードを固める。
その右腕にライカの右足が激突すると、勢いに圧されたマルティナは何歩もたたらを踏むことになった。
ライカはぜいぜいと息をつきながら、にっと白い歯をこぼす。
「ちっくしょー! 防がれたかー! 次は絶対、KOしてやるからねー!」
マルティナは無言のまま、大きく踏み込んだ。
その右拳が顔面に飛ばされて、ライカは「おっと」と身をのけぞらせる。
そのがら空きの胴体に、マルティナが組みついた。
今のは右フックをフェイントにした胴タックルであったのだ。
さらに足を掛けられたライカは背中から倒れ込み、「ぷぎゃっ」とおかしな声をあげる。
そのくびれた腰に、マルティナがまたがった。
「くそーっ! どいてよー!」
ライカは両腕を突っ張って、マルティナの上体を押しのけようとした。
マルティナはその左腕を両手で抱え込み、横合いに身を倒す。さらに、両足でライカの左腕をはさみこんだ。
柔道やブラジリアン柔術の基本技、腕ひしぎ十字固めである。
そのまま肘関節を真っ直ぐのばされれば、この勝負も終了であった。
しかし――左腕がのびきる前に、ライカはブリッジをして、そのままマットを蹴った。
後方転回して、両名はうつ伏せの状態となる。それと同時に、ライカはするりと左腕を引き抜いた。
いかにも強引な逃げ方である。ライカほど関節が柔軟でなければ、肘の靭帯を痛めていてもおかしくはなかった。
「よーし! 勝負はここから――」
そのように言いかけたライカの右足が、マルティナの左手にすくわれた。
ライカは呆気なく倒れ込み、その上にマルティナがのしかかる。そしてマルティナはするすると蛇のようにのたうって、ライカの背中にへばりついた。
マルティナの右腕が、ライカの咽喉もとに差し込まれる。
これもまた柔術の基本技である、チョークスリーパーだ。
ライカは声にならないわめき声をあげながら相手に右腕を引き剥がそうとしたが、すでにクラッチは固められている。
頸動脈を圧迫されて、ライカの目がふっと虚ろになる。
その目が完全に光を失う寸前、マルティナは技を解除した。
ライカはしばらくぼんやりしてから、がばりと身を起こす。
たちまち目がくらんで、ライカはマットに手をついた。
「なんだよ、今の……死んだばーちゃんが見えかけたんだけど?」
「昇天しなくて何よりだったな。見込み一本で、お前の負けだよ」
寺沢がそのように告げると、ライカは「くっそー!」と大の字に倒れ込んだ。
マルティナはマットに片膝をついた体勢で、わずかに肩を上下させている。それを見下ろしながら、寺沢はにんまりと笑いかけた。
「で、入門テストはいかがでした?」
マルティナは、何も答えない。
その代わりに、「すみませーん」と道場の扉が開かれた。
「荷物をお届けに来ましたー。こちらにサインをいただけますかー?」
「ああ、来た来た。宗近さん、よかったらよろしくお願いします」
マルティナはやはり無言のまま、入り口のほうに向かった。
首をひねりながらそれを追いかけたライカは、玄関の外に山積みにされた荷物を見て「わーっ!」と雄叫びをあげる。
「これ、ウチのマンションの家財一式じゃん! なんでこんなところにあるのさー!」
「もうお前のマンションじゃねえだろ。リュウセイとの契約は打ち切られたんだからよ」
寺沢は両腕を広げて、道場の全体を指し示した。
「今日からは、ここがお前のホームだよ。立派なアイドルファイターを目指して、せいぜい踏ん張れや」
ライカは「とほほ」と肩を落とし、マルティナは無言のまま配送屋の伝票にサインをする。
かくして、アイドルとしての座と住む場所を失ったライカは、この古びた道場で再起を図ることが決定されたのだった。
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