(旧)『RAIKA』第三話
「門下生は、のきなみ逃げ出してもうたんやろ? こないなボロ道場はさっさと畳んだほうが身のためなんちゃう?」
いきなり道場にやってきた二名の女性の片方が、悪意のこもった声音でそのように言いつのった。
うねうねと渦巻く黒髪を肩まで垂らした、ひどく妖艶な女である。切れ長の目で、唇が赤く、毒蛇が人間に化けたような風情であった。
もう片方は厳つい顔立ちで、金色の短い髪にトライバルのラインを入れている。
おそろいのトレーニングウェアはホワイトを基調にしており、胸もとに『TRAP』というロゴが刺繍されていた。
「……何をしに来た? 試合は、来月のはずだ」
その目に殺気をたたえたまま、マルティナは感情を押し殺した声をあげた。
毒蛇の雰囲気を持つ女は、赤い唇を吊り上げて微笑む。
「その試合について、話したいことがあったんよ。……あんた、試合をキャンセルしてくれへん?」
「……何故?」
「だって、時間の無駄やろ? 弱いもんいじめは、うちのジムの流儀やないんよ」
マルティナは、ぎりっと奥歯を噛み鳴らした。
マットにあぐらをかいたライカは、そこでようやく発言する。
「あのさー、ちっとも話が見えないんだけど! あんたたち、いったい誰なわけ?」
「……そういうあんたは、どこのどなたさん?」
蛇のように冷たい目が、ライカに向けられた。
その迫力に気圧されないように、ライカはもともと張っている胸をさらにぐっと張る。
「ウチは、ライカだよ! いちおー新人門下生ってやつだねー!」
「へえ……そらあ酔狂の極みやねぇ。何が楽しゅうてこないなボロ道場に入門したん?」
「こっちにはこっちの事情があるんだよ! あんたたちは、誰なのさ?」
「うちは姫鶴一乃で、こっちは桑山保子。『トラップMMAラボ』いうジムの門下生やね」
「あー、やっぱり同業さんなわけね。で、試合がどうこうってのは、なんの話?」
「せやから、来月の試合をキャンセルしてほしいんよ。こないな体格差で勝ち星を拾うても、なんの自慢にもならへんしなぁ」
そう言って、姫鶴は桑山の背中を叩いた。
桑山は姫鶴よりも5cmほど小さいが、それでも160cmはあるだろう。そして、しなやかな体格をした姫鶴に対して、桑山は男のようにがっしりとしていた。
「そっちの桑山さんとやらが、マルっちと対戦するわけ? ふーん、面白そうじゃん」
「おもろいことあらへんわ。規定に届かんウェイトで試合に挑むなんざ、横紙破りもええとこやろ」
「……毎回、規定のウェイトには達している」
マルティナが口をはさむと、姫鶴は「ははん」とせせら笑った。
「試合のたんびにドカ食いして、無理くりウェイトを上げとるんやろ? 涙ぐましい努力やねぇ。……せやけど、あんたの平常体重はアトム級の48キロにも届いとらんはずや。それでリミット52キロのストロー級に挑むんは、横紙破りやろ」
「へー。ちなみにあんたたちは、何キロなの? 52キロじゃきかなそうだけど」
「うちらの平常体重は60キロオーバーやね。試合前日の計量までにはドライアウトしてリミットまで落とすさかい、試合当日には60キロていどまでリカバリーするんや」
「えーっ! 一日で8キロも戻すなんて、無理くない?」
「うちのジムには優秀なトレーナーがそろうとるんよ。こないな嬢ちゃんがひとりで踏ん張っとるオンボロ道場とは、わけがちゃうわ」
怒れるマルティナに、姫鶴は妖艶な流し目を向ける。
「ちゅうわけで、こないな試合は迷惑なだけなんよ。勝って当然、負けたら大恥やなんて、まるでメリットあらへんやろ? ま、うちの門下生なら万が一にも大恥さらす可能性はあらへんけど……ええかげん目障りやから、さっさと消えてくれへん?」
「……お前を王座から引きずりおろすまで、僕は勝ち抜いてみせる」
「そのストーカー根性が目障り言うとるんよ。逆恨みも大概にしてほしいわ」
「何が逆恨みだ! お前は……その口で、僕の父を侮辱した!」
マルティナの小さな体から、凄まじい気迫があふれかえった。
しかし、姫鶴はいっそう愉快げに嘲笑う。
「侮辱て何やねん? 事実を口にしたまでやろ? 雑魚は雑魚らしく大人しゅうしとれば、のんびり余生を過ごせたやろうにねぇ」
「貴様――!」と、マルティナが足を踏み出そうとした。
ライカは「ストーップ!」と、その細い腰にしがみつく。
「道場で暴力は禁止なんでしょー? あんたがケンカしてどうすんのさ!」
「せやせや。雑魚は大人しゅうしとらんと、父親の二の舞やで?」
姫鶴はくつくつと咽喉で笑う。
ライカはマルティナの腰にしがみついたまま、そちらをにらみつけた。
「あんたもいちいち煽んないでよ! マルっちのパパさんが、いったい何だってのさ?」
「その嬢ちゃんの父親が、うちの師匠との試合で再起不能の寝たきり状態になったんよ。そないな話で相手を恨むんは筋違いやろ」
「ふざけるな! あんな卑怯な手で父を陥れたくせに――!」
ライカを腰にぶら下げたまま、マルティナは姫鶴たちのもとに近づいていく。
「わーっ! マルっちも、ちょっとは落ち着きなって! 何か事件でも起こしたら、試合に出られなくなっちゃうんじゃないの? それこそ、こいつらの思うツボじゃん!」
マルティナは、ぴたりと立ち止まった。
その身が、小さく震えている。ライカは溜息をつきながら、立ち上がった。
「ったく、マルっちも意外に短気なんだなー。ま、そーゆーのはキライじゃないけどさ!」
ライカはマルティナをかばうようにして、姫鶴たちの前に進み出た。
「じゃ、さっさと謝ってくれる?」
「……何やて?」
「いや、だいたいの事情はわかったけどさ。悪いのは、どう考えてもあんたのほうじゃん。寝たきりのお人を雑魚よばわりとか、鬼畜の所業でしょ」
姫鶴は何かを透かし見るように目をすがめた。
「何やそら? あんた、何がしたいねん?」
「だから、あんたに謝らせたいんだよ。どんな事情があったとしても、人の家族を小馬鹿にするなんて――」
その瞬間、姫鶴の左足がしゅるりと舞い上がった。
シューズをはいた爪先が鎌首のようにもたげられて、ライカの顔面に襲いかかる。
ライカは「わーっ!」とわめきながらのけぞって、その場に尻もちをつくことになった。
「いきなり何すんのさ! あんた、頭おかしいんじゃない?」
「当てるつもりはあらへんわ。……かわされるつもりもなかったんやけどな」
蹴り足を下ろした姫鶴は、にいっと唇を吊り上げた。
「腹立つ人間の周りには、腹立つ人間が集まるもんやね。……ほな、お疲れさん」
姫鶴はさっさときびすを返して、道場を出ていった。
最後まで口をきかなかった桑山も、影のように追いかけていく。
裸足のまま土間に出て扉を叩き閉めたマルティナは、ライカに背中を向けたまま低くつぶやいた。
「……あいつの師匠であるミゲル・ダ・シルバという男は、昔から父と因縁のある相手だった。それで……二年前に、ブラジルで試合をすることになった」
「……それで、パパさんが寝たきりになっちゃったの?」
「そうだ。しかも、卑劣な反則技のせいで」
マルティナは懸命に感情を押し殺していたが、その肩は小さく震えていた。
「試合中は、僕も気づくことができなかった。でも、病院で父と対面してみたら……右目が損傷していて、左の前腕には噛み痕が残されていた。バーリトゥードでも反則になる卑劣な攻撃を、あいつはMMAの試合で二回も行っていた。だから父は、敗北し……しかも、頭に深いダメージを負って目覚めぬ身となった」
「それで、事件にならなかったの?」
「ならなかった。きっと病院や警察の連中も、あいつに買収されていたんだろう。プロモーターも騒ぎになることを恐れて、事件は闇から闇に葬られた」
マルティナは、血がにじみそうなほど拳を握りしめていた。
「しかも、あいつらは……事あるごとに、父を侮辱した。弱い人間が試合に出るのは、格闘技に対する冒涜だ、と……だから、僕は……」
「試合であいつをぶっ飛ばそうって決めたわけね。立派な話じゃん。だったらなおさら、短気を起こしちゃ駄目だよ」
そんな風に言ってから、ライカはにっと白い歯をこぼした。
「ま、ウチも人のことは言えないんだけどさ! ウチなんて、蹴りの一発で職を失うことになっちゃったんだから! マルっちも気をつけないと!」
「…………」
「んー? なんか言った?」
「……父の尊厳を守ろうとしてくれて、感謝している」
ライカはきょとんとしてから、マルティナの小さな背中に跳びついた。
「なんだよ、もー! いきなりそんな素直になられたら、クラっときちゃうじゃん! やっぱマルっちって、あざといなー!」
「う、うるさい。気安くさわるな」
「ふふーん! これはウチに火をつけたマルっちの責任だからねー!」
マルティナの首もとを抱きすくめたライカは、やわらかい黒髪に頬ずりをした。
「じゃ、おたがい目標に向かって、頑張ろっか! マルっちは、打倒・ヘビ女! ウチは……アイドルとして、返り咲く! 契約の都合で稽古は続けないといけないから、今後ともよろしくねー!」
「き、君の軽薄な物言いは好きになれない。あと、背中の感触が気色悪い」
「気色悪いって何さ! コレはウチの最大の武器なんだからねー!」
ライカは満面の笑みで、マルティナの顔を覗き込む。
マルティナは必死に笑うのをこらえるように、口をへの字にしていた。
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