『RAIKA』第二話

『ドージョー・ムナチカ』の二階に位置する、和室の寝室――
 ライカはそこで、安らかに眠っていた。
 その腹に、メディシンボールを落とされた。

 メディシンボールとは腹筋を鍛えるための器具であり、こちらの重さは4キロにも及ぶ。結果、ライカは「ふごわあっ」という妙齢の女子にあるまじき雄叫びをあげることになった。

「ロードワークに行く。五分で準備を」

 メディシンボールを落としたマルティナは、感情の欠落した声でそのように告げた。
 そうしてライカが『ドージョー・ムナチカ』で迎える初めての朝は、華々しく幕が開かれたのだった。

     ◇◆◇

「ウチ……マラソン選手に……なった覚えは……ないんだけど……」

 朝もやのかかる川べりの道。
 マルティナを追って走りながら、ライカはそのような不満を申し述べた。
 まだロードワークを始めて五分も経っていないが、ライカはすっかり息があがってしまっている。いっぽうマルティナは、野を駆ける山猫のように軽快な足取りであった。

「無駄にしゃべると、息があがるぞ」

「もう……あがってるよ……いったいどこまで……走るつもりなのさ……」

「朝のロードワークは、10キロと決めている」

「じゅっきろ……! もうダメ……ギブアップ……」

 ライカは地べたにへたりこみ、ぜいぜいと息をついた。
 マルティナはその場で足踏みをしながら、ライカのほうを振り返る。

「君は体力自慢だと聞いていたが、寺沢さんの見込み違いか?」

「だって……昨日もあれから、何時間も稽古だったじゃん……これじゃあ、体がもたないよ……」

「そうか。腰抜けだな」

 それだけ言い捨てて、マルティナはロードワークを再開した。
 ライカは怒りの形相で飛び起きる。

「待て、このやろー! 誰が腰抜けだー! いっぺん勝ったぐらいで調子にのんなよー!」

 ライカはへろへろの足取りで、マルティナを追いかける。
 一定のリズムで走りながら、マルティナは内心で(チョロいな)とつぶやいた。

     ◇◆◇

 ロードワークを終えたならば、待望の朝食である。
 その内容は、マルティナ特製スムージーであった。
 材料は、パセリ、トマト、ホウレンソウ、小松菜、チンゲンサイ、モロヘイア、ヨモギ、大根の葉、春菊、バナナ、無糖ヨーグルト、そしてプロテインとなる。
 その毒々しい色合いをした物体をおそるおそる口にしたライカは、涙目でテーブルに突っ伏した。

「田んぼ……田んぼの味がすりゅ……」

「そうか。まさしく大地の恵みだな」

 マルティナは悠然とスムージーを飲み干した。

「では、15分のインターバルの後、朝の稽古を開始する」

「待てーい! あんた、気合はいりすぎじゃない!? あの弱小プロダクションから、いったいいくらもらってるのさ!?」

「僕が受け取ったのは、家賃と食費と規定の月謝だけだ」

「だったらなんで、初日からこんなにかっとばしてるのさ!?」

「僕は通常通りの稽古をこなしているだけだ。体力の続く限り、君も同じ稽古に参加させるようにという依頼を受けている」

 テーブルに突っ伏したライカは、そのままでろでろと溶け崩れてしまいそうだった。
 それを尻目に、マルティナはダイニングを出ていこうとする。

「では、15分後に」

「待って待って! せめてシャワーだけでも浴びさせて!」

「……シャワーは昨晩にも貸したはずだが」

「朝晩のシャワーが日課なんだよ! せめて自分のルーティンを守らないと、メンタルがもたないから!」

「……では、20分後に」

 マルティナは退室し、ライカは頭を抱え込んだ。

     ◇◆◇

 白い肢体をシャワーで清めながら、ライカは溜息が止まらなかった。

(ウチ……ほんとにやってけるかなぁ……)

 昨晩は配送屋が運んできた荷物を二階の寝室に運び入れたのち、夜の稽古というものを強要されたのだ。
 内容は、主に筋力トレーニングである。それはライカの基礎体力を確認するという意味合いが強かったようであるが――腕立て伏せに腹筋に懸垂にスクワットと次から次に課題を出されて、けっきょく三時間がかりであった。

(こんなハードな生活してたら、ムキムキマッチョになっちゃうよ。そんなんで、アイドルとしてやっていけんの?)

 シャワーを止めたライカは、もうもうとわきたつ湯気の中で姿見の自分と向かい合った。
 濡れた髪がべったりとへばりついたライカの顔は、想像以上にへこたれていた。

(……ダメだダメだ! こんな顔してたら、何をやったって上手くいくもんか!)

 ライカは両手でぴしゃんと自分の頬を叩き、姿見に向かって笑いかけてみせた。
 ついでに胸の谷間を寄せながら、斜め45度に顔を傾け、ふくよかな唇に人差し指を添えつつ、姿見の自分に流し目を送る。

(よし! 可愛い! めっちゃ色っぽい! ウチ最強!)

 そうしてライカは、いざ稽古場へと足を向けることになった。

     ◇◆◇

 稽古場では、マルティナが正座をして待っている。
 本日は黒い道着ではなく、サーファーのようなラッシュガードとハーフスパッツの姿だ。かたやライカはセミロングの髪をアップにまとめて、ダンスのレッスンで使用していたTシャツとジャージのボトムを着込んでいた。

「お待たせー! 遅刻はしてないっしょ?」

「2分ほど遅れたようだが……まあ、今日のところはよしとしよう」

「堅苦しいなー! マルっちって、それが素なの?」

「……マルっち?」

「そーいえば、呼び方を決めてなかったなーと思ってさ! ムネチカマルティナって、なーんか早口言葉みたいだよねー!」

「……どうしてまた、無礼な言動に戻ってしまったんだ?」

「気合を入れなおした結果だねー! ウチにとっては、これが素だからさ!」

 そのように言い放ち、ライカはぐっとサイドチェストのマッスルポージングを取ってみせた。

「さー、なんでも来やがれだ! なんなら、もういっぺんマルっちとやりあってあげようかー?」

「……本日から、当道場の基本稽古に取り組んでもらう。まずは、ブラジリアン柔術の基本ムーブからだ」

「ブラジリアン柔術? ウチはMMAとかいうやつでプロを目指すんじゃないの?」

「近代MMAは、ブラジリアン柔術を基盤にしている。いずれもMMAで活用できる稽古なので、心して取り組むように」

 そうして、朝の稽古が開始された。
 まずは、前転と後転。いわゆる、でんぐり返りである。稽古場の端から端まで往復すれば、これも立派な重労働であった。
 その次は横回りで、その名の通り横方向にでんぐり返りをする。これが見た目以上に、慣れを必要とする動きであった。

 次は、エビ。体の側面を下にして横たわり、上側の足でマットを蹴って頭の方向にずっていく。その一回ごとに左右を入れ替えて、やはり稽古場の端から端まで移動するのだ。
 次は、逆エビ。下側の足でマットを蹴り、はずみをつけて足の方向に移動する。これは通常のエビよりも、コツをつかむのが難しかった。

 次は、背中歩き。
 両方の手足は宙に上げながら、マットについた背中だけで移動をする。頭方向、足方向、右方向、左方向、その場の回転で右回り、左回りと、合計で6パターン。

 次は、後ろ受け身からの柔術立ち。
 立った状態から背後に倒れ込み、衝撃を逃がすために両手でマットを叩く。その状態から上体を起こし、片方の腕をマットにつき、対角線の足の膝を立てる。それぞれ反対の手足は前側に突き出し、膝を立てた足を支えに立ち上がる。これを左右交互に20セット。

 次は、ブリッジ。
 腕は使わず、首と片方の肩を支えにして、身をひねりながら腰をはねあげる。ゆくゆくは首だけで体重を支えられるようにと命じられた。これも左右交互に20セット。

 最後は、足回し。
 マットに背中をつけて、大股を開きながら足を上げ、膝から先を回転させる。内回転、外回転、自転車をこぐような縦回転の3パターンを1分ずつの3セット。

「以上。ここまでが、ウォームアップの準備運動となる」

 ライカは「ぎゃーっ!」と絶望の雄叫びをあげた。

「ナニがウォームアップだよー! もう1時間近く経過してるんですけど!?」

「数時間に及ぶ稽古のウォームアップなのだから、それぐらいの時間は必要だ。体を温めながら大事な基本動作を反復するので、こんなに効率のいい話はない」

「効率が聞いて呆れるよ……」

 シャワーで清めたライカの肢体は、再び汗だくになっていた。
 日常生活では使うことのない筋肉が酷使されて、全身が悲鳴をあげている。そんなライカを見下ろしながら、マルティナは「ふむ……」と下顎に手をあてた。

「実にぶざまな姿だけど……それでも、最後までやりとげたな」

「……人がへたばってると思って、ずいぶん煽ってくれるじゃん」

「煽っているつもりはない。君の基礎体力は、標準値を大きく上回っていると思う」

「そりゃーウチだって、ダンスで鍛えてきたんだからね! 好きなもんを食べるには、カロリー消費が必須だったしさ!」

 マットに寝そべったまま、ライカはにっと白い歯をこぼした。
 マルティナは感情を押し殺し、ぎゅっと口もとを引き結ぶ。

「……どうやら君は、本気で稽古に取り組んでいるようだね。昨日の態度とは大違いだ」

「今はこれしか、頑張るネタがないからね! アイドルとして返り咲くためなら、なんだってしてみせるさ!」

 そんな風に言ってから、ライカはまじまじとマルティナの顔を見つめた。

「あんたこそ、なんでこんなハードな稽古をこなしてるの? 何か目的でもあるわけ?」

「僕は――」と、マルティナは言いよどんだ。
 そこで、入り口の扉が開かれる。そこから姿を現したのは、おそろいのトレーニングウェアを纏った二名の女性だった。

「なんや、このオンボロ道場はまだ潰れてなかったんか。往生際の悪いこっちゃね」

 マルティナは、殺気のこもった眼光でそちらを振り返った。

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