『からほら奇譚』第一話

 ツムグは暗闇の中で、化け物と向かい合っていた。
 羽山津見神――古き神の名を騙る化け物である。
 化け物は白い肢体に薄物を纏い、ぬばたまの髪を長くのばし、勾玉や管玉の装飾具をじゃらじゃらとさげている。それは神に相応しい美しさであったが、それと同時に神を冒涜するような妖艶さと淫靡さを匂いたたせていた。

「うぬは、空っぽじゃな。これほどまでに何も持たない人間を見たのは、初めてのことじゃ」

 神の姿をした化け物はその手の宝剣をツムグに突きつけながら、小馬鹿にしきった声音でそのように言いたてた。

「まあ、我の依り代にこれほど相応しい人間はおらんじゃろう。これまで無為に過ごしてきた分、せいぜい人の世のために尽くすことじゃな」

「うるせーよ、化け物。そんな面倒な真似をするぐらいなら、死んだほうがマシだ」

「ならば、死ね」

 巨大な宝剣が振り下ろされて、ツムグの右腕を斬り落とした。
 何かの冗談のように、大量の鮮血が四散する。
 そうしてツムグが血の海に沈むと、化け物は愉快げに笑い声を響かせた。

「ただし死ぬのは、依り代としての役目を果たしたのちじゃ。せいぜい励めよ、空っぽの人間よ」

「うるせーよ……クソ化け物……」

 化け物の笑い声を聞きながら、ツムグは死のような眠りに落ちた。

     ◇◆◇

 からほら町の北東部に位置する、空丘高等学校――
 ツムグは旧校舎の裏手に存在する、薄暗い芝生の空き地で寝転がっていた。

 昼休みの終了を告げる予鈴が鳴らされても、ツムグは動かない。
 しょせん学校の勉強など、ツムグにとっては意味がないのだ。
 しかしまた、それを言ったらツムグにとって意味のあるものなど、この世には存在しないのかもしれなかった。

(……空っぽで悪かったな、クソ化け物め)

 芝生に寝転がったツムグは、化け物に斬り落とされたはずの右手を鼻先にかざした。
 肉の薄い、いかにもひ弱そうな手である。
 十五歳になるまで出鱈目な生活を強いられたツムグは成長期の発育にしくじって、第二次性徴がほとんど表れていない。身長は百六十センチそこそこで、少女のように繊細かつ柔弱な容姿をしており、おまけに老人のような灰色の髪をしていたため、見知らぬ人間には何かの病気を疑われるほどであった。

「ツ、ツムグくん、こんなところにいたんですね」

 と、ひとりの少女がツムグのほうに近づいてきた。
 小柄だが発育のいいスタイルをした、制服姿の女子生徒である。顔立ちもきわめて可愛らしかったが、彼女は人目をさけるためにショートヘアーの前髪を長くのばしている。なおかつ、その右目は白い眼帯でいっそう厳重に隠されていた。

「も、もうすぐ授業ですよ。教室に戻らなくていいんですか?」

「うるせーな。俺のことは、ほっとけよ」

 ツムグは寝返りを打って、少女から顔をそむけた。
 少女――千栗美空は、くすりと笑う。

「こ、こんな薄暗がりで地べたに寝転んでいると……なんだか、灰色のナメクジみたいですね」

「……お前、容赦なさすぎるだろ」

「え? で、でも……かわいいですよね、ナメクジ」

 顔をそむけても、美空がもじもじしているのが気配で伝わってくる。
 彼女は独特の感性を有している上に、ツムグにだけはいっさい体裁を取りつくろわないという厄介な存在であった。

「いいから、教室に戻れって。お前は、目立ちたくないんだろ?」

「は、はい。でも、あの……ツムグくんと連絡が取れないからと、お社のお父様から伝言をお願いされたんですけど……」

「わざと無視してるんだよ。察してくれ」

「あ、はい。だけど、その……伝言を伝えないと、私が叱られてしまうので……」

 美空の声が、頼りなげな響きを帯びる。
 ツムグは深く溜息をついてから、そちらに向きなおった。

「どうせまた厄介な仕事の話だろ。俺はもう、痛い目を見るのはごめんなんだよ」

「は、はい……でも、ツムグくんが頑張らないと……この町もどうなってしまうかわかりませんし……」

「なんだよ。お前だって、こんな世の中はどうでもいいって思ってたんだろ?」

「は、はい……でも、私はツムグくんに救ってもらえましたから……」

 美空は弱々しく微笑みながら、右目の眼帯に手を当てる。
 そんな姿を見せつけられても、ツムグは溜息をつくしかなかった。

     ◇◆◇

「で? お前ら二人をお供にして、また化け物を退治しろってのか?」

 放課後である。
 旧校舎の一室に集合した二名の女子生徒を前に、ツムグは何度目かの溜息をついた。

 美空の隣には、戸隠乙音という少女が座している。艶やかな黒髪を腰まで垂らして、前髪を目の上で真っ直ぐ切りそろえた、日本人形のように美しくて表情のない少女だ。乙音はからくり仕掛けじみた挙動で、こくりとうなずいた。

「私たち二人をお供にして、またあやかしを退治するべしという指令が下された」

「いちいち反復しなくていいよ。……今回は、どんな化け物なんだ?」

「そ、それはこちらのニュースサイトでご確認ください」

 と、美空のほうがおずおずとスマホを差し出してくる。
 その画面には、『切り裂き魔あらわる!』という陳腐な見出しが表示されていた。

「ああ、若い女が通り魔に襲われたって事件か。でも、死人は出てないんだろ?」

「は、はい。で、でも、もう五人も被害者が出ているそうですし……犯人は、あやかしで間違いないようなので……」

「間違いないって、どうして言い切れるんだよ? 相手がただの通り魔だったら、俺たちなんて返り討ちだぞ? 自慢じゃねえけど、俺の腕力なんてナメクジ同然なんだからな」

「ツムグの腕力は、ナメクジ同然」

「なんでそこを反復するんだよ」

 ツムグは古びた机に頬杖をつきながら、外見だけは整っている少女たちの姿を見比べた。

「大体その通り魔ってのは、女しか狙わないんだろ? そんなやつを、どうやって探すんだよ? お前らが囮にでもなろうってのか?」

「は、はい。お父様から、こちらをお預かりしているのですが……」

 美空はひどく恐縮しながら、床に置かれていた紙袋を取り上げた。

「……なんだよ、それ? 嫌な予感しかしねーんだけど」

「は、はい。でも……ツムグくんには似合うと思います」

「ツムグには、似合うと思う」

「だから、嫌な予感しかしねーって言ってんだろ!」

     ◇◆◇

 学校を出たツムグたちは、公園のトイレで身支度を済ませることになった。
 三人ともに、小洒落た服装に着替えている。ツムグに準備されていたのは、ボーカラーのブラウスとストラップタイプのトレンチワンピースだ。クルーソックスとローファーまで含めて、カラーリングにも隙はない。老人めいた灰色のざんばら髪は、アッシュブラウンのウィッグで覆い隠されることになった。

「……またあの変態親父の新しい性癖を思い知らされちまったよ」

 ツムグが倦み果てた声音でつぶやきをもらすと、美空は申し訳なさそうに眉を下げた。そちらは黒いフリルだらけのワンピースで、大きく開いた襟ぐりや太腿を剥き出しにするミニスカートによって、彼女の卓越したプロポーションが嫌と言うほど強調されている。おまけに長い前髪をヘアピンで留めているものだから、その可愛らしい顔まですっかりあらわにされていた。

「わ、私もこんな格好は恥ずかしくてしかたないのですけれど……と、通り魔の被害者は、みんなこういう華やかな女性らしいファッションをしていたそうです」

「恥ずかしい割には、髪までセットしてノリノリじゃねーか」

「こ、これはその……乙音さんがセットしてくれたので……」

 その乙音は、白いワンピースに淡いピンクのカーディガンである。この中ではもっともシックな装いであったが、もとが人形めいた美少女であるため、華やかさには事欠かなかった。

「こんな姿で町をうろつけってのかよ。クラスメートにでも出くわしたら、人生の終わりだな」

「い、いえ。ツムグくんはすごく可愛いので、きっと正体がバレることはないと思います」

「ツムグは、すごく可愛い」

「やめろよ。俺まで新たな性癖に目覚めちまったら、どうしてくれるんだ?」

 ツムグはそのように言い返したが、内心ではすでにあきらめていた。ツムグはもともと人生をあきらめていたので、もはや失うものもないのだ。

「もういいや。とっとと片付けて、とっとと帰るぞ。ほら、先頭はお前だよ」

「ど、どうして私が先頭なんですか?」

「お前が一番色っぽいからだろ。俺がどんな妄想をしてるか知りたいなら、眼帯を外せよ」

 美空は透き通った微笑をたたえて、「いえ」と言った。

「そうしたら、私も平静ではいられなくなってしまうので……今は我慢します」

「我慢って何だよ。変態の筆頭は、やっぱりお前だな」

 そうして一行は、夜の街に繰り出すことになった。
 とはいえ、地方都市の片隅にひっそりと位置する辺鄙な町である。こんな格好をした若い娘に似合うのは、駅前のちょっとした繁華街ぐらいしかなかった。

「さすがにこれだけ人通りがあったら、通り魔も怯むだろ。これまでの被害者は、どこで襲われたんだ?」

「え、ええと……みんな、駅からの帰り道だったみたいですね。きっと駅前で獲物を物色して、人気のないところまで後をつけたんだんだと思います」

「ふーん。でも、こんな三人で固まってたら、さすがに狙われないんじゃねーの?」

「い、いえ。最後の被害者は、二人まとめて襲われたそうです。あやかしの力を持っていたら、相手が何人でも関係ないんでしょうしね」

 それは、まったくその通りである。そんな物騒な力を持っているならば、どんな屈強の男でも相手にならないはずであった。

(それでも、あえて女ばかり狙ってるってことか。そんなゲス野郎なら、こっちも遠慮なく――)

 そんな風に考えかけたツムグは、慌てて雑念を打ち払った。

(正義の味方にでもなったつもりかよ。こんなもん……化け物同士でいがみあってるだけなんだからな)

 そうしてツムグたちがあてどもなく駅前の通りを徘徊していると、「君たち」と背後から声をかけられた。
 振り返ると、制服姿の警官が立っている。まだ若い、陰気な目つきの警官であった。

「通り魔事件のニュースは見ているだろう? 危ないから、遊んでいないで家に帰りなさい」

「あ、は、はい。ど、どうもすみません」

 美空はひとりで、ぺこぺこと頭を下げている。彼女は奴隷根性が身にしみついているのだ。だからツムグの父親にも、いいように使われているのだった。

「……お前さ。もう親父なんかと連絡を取り合うなよ」

 警官のそばを離れながら、ツムグは小声でそのように伝えた。
 美空は、左目だけをぱちくりとさせる。

「で、でも……私も、いちおう氏子ですし……」

「お前は、俺の氏子だろ。クソ親父のパシリになる必要はねーよ」

 ツムグがそのように言いつのると、千栗美空は気恥ずかしそうに微笑んだ。

「も、もちろん私は、ツムグくんの氏子です。だから、ツムグくんとお父様の橋渡しをしているつもりなのですけれど……」

「橋渡し? でっけーお世話だな」

「す、すみません。でも、ツムグくんはできるだけお父様に近づきたくないでしょう? ツムグくんは……お父様のことを心から恨んでいますもんね」

 ツムグが思わず口をつぐむと、乙音が「ツムグはお父様を心から恨んでいる」と反復した。

「……そりゃあ、こんな馬鹿げた人生を押しつけられたら、恨みたくもなるだろうがよ」

「はい。だけど私は、そのおかげで救われたので……なんとか、ツムグさんのお役に立ちたいんです」

「ツムグのお役に立ちたい」

「うるせーな。だったら、お前らであのクソ親父を退治してくれよ」

 そんな風に語らいながら、ツムグたちは夜道を突き進んだ。
 気づけばずいぶんと人気のない路地に踏み入っている。まだ駅前から数百メートルていどしか離れていないはずだが、実に閑散とした様相であった。

「空振りだな。もういっぺん駅前に戻って――」

 ツムグがそのように言いかけたとき、一陣の風が走り抜けた。
 その風が、ツムグの左頬を大きく切り裂く。薄暗がりに、赤い血とウィッグの毛先が四散した。

「とっとと帰れって言っただろ? 聞き分けのない女どもだな」

 ツムグたちが背後を振り返ると、路地をふさぐように人影が立ちはだかっていた。
 さきほどの、陰気な目つきをした若い警官である。

「なんだ、お前が通り魔だったのかよ」

 溜息をつくツムグのかたわらで、美空は存分に慌てふためいていた。

「ツ、ツムグくん! 血が……!」

「わかってるよ。それより、お前の出番だろ」

 美空は泣きそうな顔になりながら、右目の眼帯を外した。
 その右目の瞳は、ぽっかりと空いた黒い穴のよう何の輝きも灯されていない。美空はその虚ろな瞳で警官の姿を見据えた。

「この人は……警官の偽物です。佐川春清、十七歳。高校を中退した後は、定職にもつかずに遊び歩いていたそうです」

 偽物の警官は、ぎょっとした様子で身をすくめた。

「な、なんだ、お前? どうして俺の名前を――」

「通り魔の犯人は、この人で間違いありません。この人は……クラスメートだった女性に手ひどくフラれて、それで女性を憎むようになったそうです」

 そのように語る美空の右目の周囲に、不気味な黒い紋様が浮かびあがっていた。
 右手に垂らした眼帯の裏には、小さなお札が張られている。その封印が解除されて、あやかしの力が発動されたのだった。

「この人は、風を操って人を傷つけます。でも、骨を断つほどの力はないそうです」

「なるほど。おおかた、カマイタチか。雑魚でよかったぜ」

 左頬の血をぬぐいながら、ツムグはそのように言い捨てた。
 偽物の警官――佐川春清は、憤怒の形相で帽子をむしり取る。すると一緒に黒髪も外れて、茶色の短い髪があらわにされた。

「手前ら、何なんだよ! 白状しねえと、切り刻むぞ!」

「俺たちは、お前とおんなじ化け物だよ。……乙音、復唱」

「復唱」と繰り返してから、乙音は静かに語り始めた。

 古き時代、正体の知れない不可思議な現象には妖怪としての名前や姿が与えられた。
 人間は、そうして埒外の存在を自分たちの道理の中に収めたのだ。
 しかし長きの時間を経て、妖怪の意味を読み解くすべは失われた。
 妖怪は、再び人の世と乖離して――災厄の因子として人に憑依することを覚えた。

「で、そんな化け物どもがあちこちで暴れ回ったら、この国もおしまいだろうからな。妖怪よりもタチの悪い神主どもの手管で、妖怪の因子をかき集めることになったんだとよ。で、関東圏の集積所が、この辛気臭い町ってこった」

「…………」

「理解できたか? お前は集積所に集められたゴミクズに憑依されちまったんだよ。人様に迷惑をかけないように調教してやるから、黙って首を差し出せや」

「ふざけんな!」と、佐川春清は怒号をあげた。

「何がゴミクズだ……俺は、人を超えたんだ……俺の邪魔をするなら、切り刻んでやる!」

「ったく。馬鹿と化け物につける薬はねーな」

 そんな風に応じてから、ツムグは横目で美空を見やった。

「お疲れさん。あとは、俺と乙音で何とかなるだろ」

「いえ。何があるかわからないので、私も見守ります」

 美空はきつく眉をひそめながら、敵の姿を見据えている。
 彼女が持っているのは、サトリの力である。彼女はその目で見る者の思考を余すところなく覗き見ることができるのだ。

「……下劣な想像はやめてください。とても不愉快です」

 美空は感情を殺した声で、そう言い捨てた。
 佐川春清が、何かよからぬ思いを浮かべたのだろう。美空や乙音のように見目のいい少女を前にすれば、たいていの男は猥褻な妄念にとらわれてしまうのだ。

「……ツムグくんは、そんなふしだらな真似はしません。今すぐ、その妄想を消してください」

「わーっ、やめろやめろ! ……くそっ、とっとと片付けるか」

 ツムグは乙音の腕を引っ張り、先頭に立たせた。
 それと同時に、佐川春清が右腕を振り払う。
 突風が渦を巻いて、乙音に襲いかかり――そしてそれが、佐川春清のもとまで弾き返された。

 佐川春清の左肩が風の刃に引き裂かれて、赤い血をほとばしらせる。
 佐川春清はうめき声をあげて、地面に片方の膝をついた。

「手前ら……今度は何を……」

「だから、こっちも化け物だって言ってんだろ」

 乙音が持っているのは、木霊の力である。それは、いかなる攻撃も相手に反射させる能力であった。

「ふざけんな……どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがって……!」

 佐川春清の顔が、憤怒に歪んでいく。
 そしてさらにその顔が、黒ずんだ獣毛に覆われ始めた。あやかしの力が、肉体までをも変質させたのだ。

「待て待て。そんなに同調が進んでんのかよ」

 ツムグは美空の腕を引っ張り、乙音の背後に隠した。
 その瞬間、これまでと比較にならない暴風が路地を吹き抜ける。
 乙音よりもわずかに大柄であるツムグは、そこからはみ出した手足や頭を引き裂かれることになった。
 アッシュブラウンのウィッグは弾け飛び、灰色の頭があらわにされる。そしてその灰色も、半分がた赤く染められた。

「ツムグくん! 大丈夫ですか!?」

「だから、お前は頭を出すんじゃねーよ」

 ツムグは背後から覆いかぶさるようにして、乙音ごと美空の身を抱きすくめた。
 そこに、さらなる颶風が巻き起こる。ツムグの肩や背中が裂けて、新たな鮮血が闇に散った。
 木霊の力で反射された分は佐川春清に襲いかかるが、そちらは新たな風の刃で相殺されてしまう。

「ざまあ見やがれ……ちょっとツラがいいだけで、調子に乗りやがって……その自慢のツラを、ズタズタにしてやるからな……」

 怨念に満ちみちた声を振り絞りながら、佐川春清は身を起こした。
 その顔は、すでに半分がた獣と化している。まだ半分は人間の面影を残しているのが、いっそう不気味であった。
 さらに両手の甲からは、大きく湾曲した刃物の切っ先が生えのびている。そこに触れた空気がちりちりと焼けたような音をたてて、切り刻む相手を物色しているような風情であった。

「モテない男の怨念なんざ、見るに堪えねーな」

 全身から血を流しつつ、ツムグは乙音の背後からまろび出た。
 そして、ブラウスの右の袖をまくる。ブラウスの生地はズタズタに引き裂かれていたが、右腕だけは血の一滴も流していなかった。

「貧血で倒れそうだから、とっとと終わらせるわ。……畜生め。こいつを使わずに終わらせたかったのによ」

「うるせえ……! まずは、手前からだ……!」

 佐川春清は、刃の生えた両腕を振りかざした。
 颶風が無数の刃となって、ツムグに襲いかかる。

 ツムグは、右腕を振りかざした。
 その腕が蒼白の輝きに包まれて、ひとまわりも大きくなる。そして、その手に顕現した宝剣が、颶風の刃を斬り払った。

 妖力を失った突風が、ツムグたちの髪や衣服をなびかせて、路地の奥まで吹き抜けていく。
 ツムグは「ふう」と息をつきながら、横目で自分の右腕をにらみつけた。
 もとの腕よりは大きいが、しなやかな曲線を描いた美しい腕だ。青白い光を帯びたその右腕と宝剣は、かつてツムグの右腕を奪った化け物のそれであった。

「な、なんだよ、その腕は……手前はいったい……」

「だから、化け物だよ」

 ツムグは宝剣を振りかざし、背後にたたずむ乙音の胸もとに柄頭を叩きつけた。
 神の名を騙る化け物の膂力である。その力が木霊の能力で反射され、ツムグの肉体を前方に――敵のほうに吹き飛ばした。

 スカートの裾をひるがえし、真っ赤な血を尾に引きながら、ツムグは宝剣を構えなおす。
 佐川春清は慌てて疾風の刃を生み出したが、ツムグはその見えざる斬撃ごと相手の胴体を薙ぎ払った。

 佐川春清は、獣そのものの絶叫をほとばしらせる。
 ただし、その身から飛散したのは真っ赤な鮮血ではなく、どす黒い妖力の欠片であった。

 佐川春清は、後ろざまに倒れ伏す。
 ツムグはその心臓に、宝剣の切っ先を突きたてた。

 佐川春清はさらなる絶叫をあげながら、苦悶にのたうち回る。
 剣の先から羽山津見神の名を騙る化け物の妖力が流れ込み、佐川春清の全身に黒い不気味な紋様を浮かびあがらせた。

 化け物の力が、化け物の力を蹂躙し、凌辱しているのだ。
 やがて調教が完了すると、黒い紋様は肉体の内側に溶け込み、佐川春清は人間としての形を取り戻した。
 意識を失った佐川春清は、ぐったりと弛緩する。その寝顔は、憑き物が落ちたように安らかであった。

 ツムグがそのかたわらにへたりこむと、右腕が人間の形状を取り戻し、宝剣も消滅する。
 そこに、美空と乙音が駆け寄ってきた。

「ツムグくん! 大丈夫ですか!?」

 子供のような泣き顔になった美空が、ツムグの肩をつかんでガクガクと揺さぶる。そのたびに、赤い血が地面にはねた。

「お前の手でとどめを刺されそうだよ……あー、失血死ってのも、悪くねーかもな……」

「死んじゃ駄目です! 乙音さん、お社に連絡を!」

 乙音は人形のように無表情のまま、すでにスマホを操作していた。
 美空はぽろぽろと涙を流しながら、ツムグの両肩をつかんでいる。その虚ろな右目も、真っ直ぐツムグを見つめていた。

「……ドサクサまぎれで、人の心を覗き見るんじゃねーよ」

「ごめんなさい」と言いながら、千栗美空はあどけなく微笑んだ。
 ツムグの心が、覗き見されてしまったのだ。それを不本意に思っていることも、この厄介な娘は見て取っているはずであった。

『美空たちが無事でよかった』

 そんな本音を見透かされて、ツムグが楽しいわけはなかった。

     ◇◆◇

「ツ、ツムグくん。お加減はいかがですか?」

 二日後の午後――美空が、見舞いにやってきた。
 町内の病院の一室である。こちらの院長は父親の手下であるため、いつでも秘密裡に入院することが可能であった。

「見ての通りだよ。死ななかったのが、不思議だな」

 ツムグは右腕を除く全身に包帯を巻かれていた。頭や手足や肩や背中に二十箇所以上も裂傷を負って、合計百針以上の大惨事であったのだ。ベッドでうつ伏せになったツムグは、それこそ死にかけたナメクジのように惨めな姿であった。

「あのままほっといてくれたら、安らかに昇天できたのによ。このオトシマエは、どうつけてくれるんだ?」

「ど、どうもすみません。……でも、この御方が何とかしてくれるはずですので……」

 美空と一緒に入室していた人物が、「ど、どうも」とツムグの視界に割り込んできた。
 ツムグは思わず、溜息をついてしまう。それはよれよれのアロハシャツを着込んだ、佐川春清であったのだ。

「せ、先日は本当に申し訳ありませんでした! 俺、あのときは頭がどうにかしちゃってたもんで……」

「化け物に憑依されたんだから、それが当たり前だろ。お前だって、もうこの馬鹿げた状況は把握してるんだろ?」

「は、はい! ツムグさんは、体を張ってこの国を守ってるんスね! 俺、感動しちゃいました!」

「……俺は体を乗っ取られて、クソ親父のいいように使われてるだけだよ」

「でも、そんなズタボロになるまで頑張ってるんでしょう? やっぱり、ご立派だと思います!」

「ズタボロにしたのは、お前だろうがよ」

 佐川春清はいかにも不良少年めいた風貌であるのに、子供のように目をきらきらと輝かせている。それがツムグにもういっぺん溜息をつかせた。

「ツムグさんに調教された俺は、氏子ってやつになるんスよね! これからはツムグさんのために死ぬ気で励むんで、どうぞよろしくお願いします!」

「わかったわかった。で? こいつが何をどうしてくれるって?」

「あ、はい! なんかカマイタチってやつは、人を切り刻むだけじゃなくって傷を治すこともできるみたいッス! 普通のケガを治すにはアホみたいに妖力を使うみたいッスけど、自分でつけた傷ならラクショーっぽいんスよね!」

 そんな風に言いながら、佐川春清は赤面しつつもじもじとした。

「ただ、あの……ケガを治すには、直接傷口をさわらないといけないみたいなんスけど……それで問題ないッスか?」

「……そんなツラで言われたら、何か問題があるんじゃねーかって不安に思っちまうよ」

 すると、美空が珍しく怒った顔で佐川春清をにらみつけた。

「春清さん。くれぐれも、妄想は禁止です」

「わ、わかってますってば! 大恩人のツムグさんに、下心なんて持ってないッスから!」

「……お前、女にフラれた腹いせで暴れてたんじゃなかったっけ?」

「は、はい! だから、その……すっかり女嫌いになっちまったんスよね」

 ツムグは三度目の溜息をつきながら、枕に顔をうずめることになった。
 美空と佐川春清は、その枕もとで喧々と言い争いを始めている。それをBGMに窓の外へと目をやると、今日も空は長閑に青く晴れわたっていた。


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