見出し画像

雨の物語

[あらすじ]
僕は地方のタウン誌の編集長。住んでいるマンションの管理組合主催のバザー。手伝いの僕はそこで一台の超旧式なワープロに出会う。なんとかガラパゴスなフロッピーを読みとろうと、彼女のレラと苦戦する。そして、そこに書き記された内容に驚愕した。それは過去からの日記であり、その断片(フラグメント)を繋ぎ合わせると悲しい物語が浮かび上がった。


雨の物語


一.零れ落ちるカケラ

僕の彼女はとにかくやばい。
どうやばいかって? 付き合ってみればすぐわかるさ、君も。
やっかいなのは、そのやばさが一方向でなく、多様な方向に向かっていることであり、さらにはその彼女の多面性が僕を魅了していることだった。
よく思春期の少年少女が世間、学校、両親など、周囲のすべてに反抗する時期、反抗期、これは程度の差こそあれ、誰もが経験してきたことだろう。しかし、僕の彼女はハリネズミのように、周囲に鋭い針を向けている。そんな彼女の鋭利な針も、ある時、天使の羽のような優しさに変わることがあった。
彼女の見せる姿は本当に多様であり、その暴力性、凶暴性、慈愛、優しさ、孤独、自閉、どれもが彼女だ。本当の彼女の心がどこにあるか、いまだに僕にはわからない。
それでも、彼女の見せる多様な断片(フラグメント)を組み合わせて、一つの魅力的な女性像を浮かびあがらせることに僕は没頭している。

「純、そこを右に曲がって」
 遠藤レラ、これが僕、鹿居純の彼女の名前だが、彼女が耳元で叫ぶ。
僕は右にバイクを傾けて、県道から車一台通るのがやっとの細い道に入る。今日、僕はレラの案内で浦賀から横須賀米軍基地までのバイクツーリング中だ。
振り返ってみれば、この浦賀のマンションに入居してからすでに一年が経つが仕事が忙しく、横須賀の観光らしい観光はしてなかった。レラがそんな僕を捕まえて、バイクでの観光案内を申し出てくれたのだ。でも、僕のバイクは125CCのちゃちな原付だ、これまで二人乗りなんかしたことなかった。

「たしか免許取得して一年経てば二人乗りOKだよね」
「あたし、ヘルメットだけはいまでも持っているの、ニケツしよ」
「タンデムと言ってくれよ」
レラのヘルメットは半帽タイプのもので、格好いいゴーグルがついている。僕のヘルメットは銀色のジェット型、ごく普通のものだ。後ろに座ったレラは僕のお腹に手を回し、時々あやしい動きをして、僕の運転は危うくなる。でもカーブでのスムーズな体重移動など、レラはニケツに慣れているようだ。
「そこで止まって」
 浦賀の渡しという船着き場で、レラはひらりとバイクを飛び降りる。
「船長さん、往復してくれる?」
 この初老の船長さんとはレラは子どものころからの知り合いのようであるが、返事も待たずに僕の手を引いて渡船に飛び乗る。

「こっちが東叶神社、向こうが西叶神社、一日に両方お参りすればご利益があるのよ」
「何のご利益?」
「良縁よ、彼氏彼女ができるのよ」
 レラは今日も露出の多い服装だ。形のよいすらりとした足を船長に見せつけて、二人の片道分の三百円しか払わない。対岸まではわずか5分で着くが、ちょっと大回りしてくれたのは、船長のサービス心かな。
「船長さん、今度、蛸ちょうだい」
今度は形のよい胸を突き出してねだっている。
「あいよ」
「あの船長さん、このまえナマコをくれたの。船から網を海につっこんでとったんだって。でも、あたしはナマコ嫌い、海に投げ返してやったわ。人助けね」

 東叶神社を過ぎると右手に小さなマリーナが見えてきた。海に突き出したような瀟洒なマンションにひっついて、黄色いマリーナの建物が見える。駐艇場には大小さまざまなクルーザーやヨットが並んでいる。
「その先がかもめ団地。浦賀ドックがあるころは大勢の職人さんがここに住んでたって、お母さんが言っていたよ」 
「お母さんは具合どう」
 ぎゅっとレラは僕の背中に胸を押し付けてきた。これが答えか、僕は少しレラが愛おしく感じた。レラと知り合ってすぐに、僕はなにげなく聞いたことがあった。
「お母さんはどんな人?」
「透明な人」
レラはぽつりと、一言だけ答えた。「透明」とはどういうことか、僕は理解に苦しんだ。存在が希薄なのか、色白なのか、しかしそれ以上、レラに尋ねることはできなかった。ひどく健康を害した母親が入院しているのはどこの病院かな、今度、一緒にお見舞いに行こう。そしてその「透明」な母親に会ってみたいと僕は思った。

十数年前にドックは閉鎖され、いまは廃墟のような姿をさらしている。僕はタウン誌の取材で浦賀ドックを訪れたことを思いだした。広大な敷地は高い塀で囲まれ、多くの建物は解体されており、荒れた野原が広がっていた。かろうじてレンガのドックと朽ち果てた巨大クレーンが、造船所の面影を残していた。浦賀の住民は駅前のその広大な敷地に、ショッピングセンターやホテルができないかと心待ちにしているが、バブルが弾けた現在ではどの企業も手を出さない。

僕が編集長をしているタウン誌「サイドウオーカー」は公称発行部数18万部で、月二回発行で、横須賀市、三浦市に配布されている。もちろん収入のほとんどは広告費だ。社員は4人しかいないし、取材担当は僕を含めて二人しかいない。普通の広告も掲載しているが、記事のようにみせて店や会社の宣伝をする、いわゆる「ステマ」が僕の得意分野だ。この手法だと紙面も賑やかになるし、かなりの広告料をとれるのだ。前号では、横須賀出身・在住の有名歌手の幼少からの贔屓のパン屋を特集したところ、連日お客が殺到しているそうだ。おかげで、そのパン屋さんは一年間、毎号に広告を出すことを申し出てくれた。

「さあ、私の勤める基地までぶっとばそう。と、その前にお昼を食べようよ」
 レラは米軍基地内のネイビーエクスチェンジという売店で働いている。日本人離れした容姿の彼女にとっては、最適の職場のようだ。レラのことだ、きっと米兵に愛想をふりまいて、チップをせしめていることだろう。
広大なかもめ団地を抜けると、視界が一気に開け、レラが目指すカフェはすぐだった。「風」というカフェは、道路と海にはさまれた細長い敷地にポツンとあった。

「いらっしゃい」
 店のママだろうか、中年のなかなかの美人だ。その愛さんというママはニコリと微笑んで僕たちを迎えてくれたが、すぐに窓の外の入り江に目をやって動かない、店内にまるで僕たちが存在しないかのように。その横顔、佇まいが、彼女の波乱の人生を語ってくれているとわかる。レラはなじみ客のように勝手に、窓際の席につく。
「いつもの二つね」
 どうせ僕の意見など無視だろう、メニューも見せてくれない。

 海にむかったカウンターの窓は外に大きく開けはなたれて、すごい開放感だ。初夏の心地よい風が、海から店のなかに吹き込んでくる。
「さあ、はらぺこ」
 レラの頼んだ「いつもの」はサザエのガーリックパスタだった。ニンニクの香りが僕の食欲を誘う。大きなサザエの殻がついてくるが、これは飾りだろうと僕はフォークでつつく。サザエの肝の苦さがほどよいアクセントとなり、美味しい。

「あのワープロはどうだったの、印刷したの?」
 サザエを口いっぱいに入れ、もぐもぐさせながら突然レラが聞いてきた。
「いや、あの、作業中・・・」
 突然の質問に、僕はうろたえた。ワープロの中にあった文書の内容が内容だったからだ。心の整理がまったくついていない僕は、まだ、それらの文書をレラには見せたくない気持ちがあった。
「ねえ、何か私に隠しているでしょう。これからゴジラの足跡を見たら、鹿居くんの部屋に行くよ」
 ゴジラの足跡はたたら浜というところにあり、映画のゴジラがそこに上陸したことになっているようだ。僕はそんな足跡よりは、まだ訪問したことのない観音崎灯台に登ってみたかった。
「ねえ、いいわよね」
 レラは鋭い。僕は観念して、フロッピーに隠されていた文書について、レラに大まかに説明した。僕が話している間、珍しくレラは一言も口をはさまず、神妙に聞いていたのは、ちょっとレラらしくなかったが。

 僕は窓から忍びこむ少し湿った潮風に頬をさしだし、あの厄介者のワープロとの出会いについて思い出す。



二.重すぎる過去

この重さはどうしたものかー
外では小雨が降りしきっている。
半ば無理矢理にマンションの管理人斉藤さんから押しつけられたワープロを前に、僕は途方に暮れた。マンション理事会主催のバザーの売れ残りだが、昔の小型のブラウン管テレビくらいの大きさがあり、重さは十キロぐらいだろうか。こんな巨大で旧式なワープロでは無料でも譲り受ける人はいないであろう。いったい、こんな何十年も前のワープロを住民の誰が出品したのだろう。粗大ごみに出す手間を惜しんだなと、僕はそっと舌打ちする。

「鹿居さん、よろしくね。使うなり、捨てるなりなんなりと」
 僕はもうすでに、ほいほいとバザーを手伝ったことを後悔していた。僕の住むこのマンションは横須賀市浦賀の入り江に面しており、330戸の巨大マンションだ。バブル時代の真っただ中に建てられており、すでに築29年経過しているが、管理がいまでも行き届いており、僕は初めてのマンション生活を快適に過ごしている。
 年に二回、マンション理事会主催のバザーが玄関ロビーで開催されるのが定例となっており、マンション住民だけでなく、近隣の住民も訪れ、かなり盛況である。入居まだ一年目の僕は、半強制的に組合理事会の役員にされてしまっていた。バザーのために広いロビーの片隅に寄付品を置くコーナーが設置され、陶器類、洋服類、文房具、書籍、調理用品、CD、DVDなどが、山のように集まった。無記名で集まったそれらの品を理事総出で整理し、値段付けをした。
 あいにく今日は小雨だったが、例年通り多くのお客が訪れ、ほとんどの品物は売りさばけ、かなりの売上金額が集まった。それらの売上金はマンションの住民のレクレーション費用や、町内会のお祭りへの参加費用に充てられる予定である。
でも、こいつだけは売れ残っている。

「純くん、運ぶの手伝うわよ」
 原付で乗り付けバザーを冷やかしに来ていた地元の不良高校生を脅していたレラが、台車を僕に押してよこした。彼女は母親と二人で十二階に住んでいる。レラは、母親がマンションの理事をしていたが、入院しているということで、母親の代役として臨時で理事をしている。白いホットパンツに赤いビーサン、臍だしの短いTシャツ姿と、横須賀のギャルはかなり派手だ。

「どうしよう」
 いつも優柔不断な僕は、レラの露わになった綺麗なお臍をながめながら、不埒なことを考えている。
 しかしながら、この二十数年は経過しているであろう最旧式のワープロは、僕の父が自宅に所有していたものと偶然にも同機種であった。父の大事にしていたワープロはとっくの昔に粗大ごみに出されていたが、目の前の売れ残りのワープロを見ると、タイムマシンか何かにより過去から来たような、言いようのない懐かしい感じがした。この骨董のワープロにより、僕自身の過去の子どものころの記憶が手繰り寄せられ、また逆に僕の方が過去へ入り込んでいくような感じもした。いったい、父親はあのワープロでどんな文書を打っていたのだろうか?
 まあ、どうせ粗大ゴミに出すことになるだろうが、このワープロをしばらくの間、僕の部屋に置いてもいいだろう。そう決心してレラの助けを借り、部屋に運び込んでみると、このワープロは横に置かれた最新式のコンピュータやミニコンポなどに負けずに、かなりの存在感があった。

 すでに多くの会社(この機種が発売されたころは、ワープロは個人の手の届く価格ではなかった)や人手を経てきたであろうこのワープロには、使用説明書などが付いていようもなかったが、5インチのペラペラなフロッピーが何枚か黄ばんで透明度を失ったビニール袋に乱雑に入れられてガムテープで本体に貼りつけられていた。
 はるか何十年も前、子どもの頃に感じた、あの洗練された、未来から来たとも思えたあの斬新なデザインも、今の僕には色あせて感ぜられるのは、やはり時がそれだけ流れたのだろうか。父は絶対にそのワープロに触らせてくれなかったが、今、こうしてなでまわしてみると、筐体のザラザラな感触がなかなかいい感じだ。
「なんだかやらしい手つきね」
 先日、京浜急行電車内で痴漢に尻を触られたレラが、腕組みをして僕を見やる。僕は、痴漢がその後に受けた暴行に同情する。

 さて、僕はレラとこのワープロをいじってみることにした。まず電源コードを差し、スイッチを入れてみる。カシャカシャという何だか頼りない回転音が聞こえて、数十秒で画面が明るくなりメニューが表示された。
「動いた、動いた!」
レラが手を叩いて喜んでいる。黄ばんだビニール袋を破りペラペラなフロッピーを、やはり黄ばんだワープロの、塹壕にあるような細い窓に入れてみよう。細い窓からは、投降する気力さえ萎えた兵士の諦めきった眼がみえるようであった。
「何も入ってないわね」
一応、数十年の月日をすぎても、機械は正常に作動しているようだ。日本の工業製品の品質に僕は感銘した。
 添えられていた3枚のフロッピーをワープロにかけてみたが、予想されたことだが、どのフロッピーにも何の文書も入っていなかった。普通、ワープロやコンピュータは手放す時は、すべてのデータを消去するから、まあ納得だ。

「まあ、みてて」
 僕は鼻を手でこすり、少し気合が入ってきた。僕だって今は横須賀タウン誌「サイドウオーカー」の編集長だ。多少はコンピュータの知識はある。
フロッピーに限らず、あらゆる記憶媒体にはあまり知られてない事実がある。隠されたこの恐ろしい真実は、これだけパソコンやタブレットが普及した現在でもごく限られた一部の人しか知らないことである。僕が推理小説家でもあったなら、このトリックにより短編の一冊ぐらい書けたかも知れない。ふと僕はテレビドラマのコロンボの一場面を思い出す。脚本家が殺人事件を犯すが、コロンボが目をつけたのが書斎のタイプライターだった。コロンボはタイプライターのインクリボンを回収し、そこに打たれた文字跡から犯人を追い詰めたのだ。

記憶媒体の原理は簡単である。そもそもフロッピーやUSB、CDR、ハードディスクなどには決められた記憶容量というものがあり、その容量の範囲のなかでしかデータは記録されないものであることは、誰でもご存知のことであろう。この旧式の5インチの2DD形式のフロッピーでは、記憶容量はA4用紙に800字ほどの文字があるとして、千枚ほどである。そして、不要となった記録文書は「削除」という操作で消されることもご存知だろう。では削除された文書はどこへ行ってしまったのだろう。文字どおりその文書はきれいにそのフロッピーから消え去り、この世から抹消されたと信じて疑わないなら、こんな危険なことはないだろう。
 フロッピーの容量内での作業をしていての記憶文書は、「削除」されてもそのフロッピーの中に残ったままなのだ。ただ、削除文書とされているので、通常の操作しているぶんには、確かに存在しない。しかし、操作を間違えて大事な文書を「削除」してしまった場合の「文書復旧プログラム」なるものがあり、これを使えば簡単に削除された文書を生き返らせることができる。復旧プログラムのことは、サルベージソフトとも呼ばれている。
 この3枚のフロッピーには何か削除された文書が隠されている、そんな気がした僕は、ほんの軽い気持ちで作業を始めた。
幸い、僕は中古のフロッピードライブを持っている。なぜなら、タウン誌の取材で住民のお年寄りに話を聞くことが多かったからだ。彼らの年代のほとんどは当時人気のパソコンPC98を使って文書作成していた。そしてパソコンを捨てた今でも、貴重な資料や文書を保存したフロッピーを持っていた。現代では死滅したそれらの過去のフロッピーを活用するために、僕はアマゾンで中古のフロッピードライブを購入していた。
「ほら、文書データがあったよ」
僕の声に、レラが肩越しに画面を覗き込む。レラの髪が僕の頬を風のように撫ぜた。画面を覗き込むレラの横顔は本当に美しい。しかし左頬の大きな傷が痛々しい。はるか昔の傷のようだが、レラはことさらファウンデーションなどで隠すこともせず、気にしてないようである。レラからその傷ができた経緯は聞いてないし、もちろん僕からも聞くわけがなかった。
レラは母親との二人暮らしだが、父親がいるのかいないのかも僕は知らない。このことも、頬の傷と同様に、聞いてはいけないことだと僕は感じていた。
「たくさんの文書があるわね。私はちょっと用があるから帰るわ。印刷しておいてね」

レラが帰ったあと、僕は鼻歌まじりにデータの復旧作業を始めたが、これらのフロッピーに隠された過去を呼び出すにつれ、心は乱れ、キーボードを操作する指は震えてきた。また、同時に覗いてはならない他人の心の深淵を見てしまったような、後ろめたい罪悪感を覚えた。

「これは、どうしたものか」
僕はまた躊躇する。3枚のフロッピーの中には、おそらく仕事の合間の、それも短時間で打ち込んだと思われる短い文書ファイルが百近くあった。
 その細切れの文書ファイルを、それだけでは脈絡のわからないファイルの連続を、僕は次々にファイルを開き読みふけった。夕食の後に何気なく始めた作業であったが、すべて読み終わった時には空は白んできていたが、僕の気持ちは暗闇の中にいた。

 翌日より、それだけでは意味をなさない断章(フラグメント)ともいえる一つひとつの文書ファイルを並び替え、何かつながりのあるものにしようとする作業に僕は没頭した。まず文書を印刷してみると、100枚ほどの枚数になった。まず、時系列の古そうな内容の文書を選びだした。ファイルのデータ日付は、あてにならない。各文書は何回も書き直されているようだったからだ。最初に数点の文書を選んだが、この並べ方がはたして適当であるかはわからないが、この魂の叫びとも形容できる断片はそんな脈絡のなさを超越して、僕の心を打つものであった。
これらのモザイクのような断片を丹念に拾い集めることにより、一人の少女像がほのかに浮かび上がってきた。この少女が、おそらく世間から隔絶され孤独のなかでこのワープロに打ち込んだであろう文章は過酷で鮮烈なものであった。悲痛な心の発露を図らずも垣間みてしまった僕は、できることならこの少女を救うために、どれほど手を差し伸べたかったことであろうか。しかしながら、今現在の僕にできることは、この少女がその後どのような人生を歩み、今どうしているのであろうか想いを巡らし、ただ少女の現在の幸せを祈ることだけであろう。



三.輝きの断片

文書7
 首筋から始まり、背から腰、さらには尻のくぼみへと、妖しげな感覚が移動してゆく。
畳に押しつけられた頬に、はるか遠くから苦しげな振動がまるで信号のように伝わってきた。天井を向いた耳の、部屋の高い気圧にぺしゃんこになった私の鼓膜をこじあけて、安物のCDラジカセからの曲が虫の群れのように這いずりこんでくる。
尊師の手がうつぶせになった私の背を、かすかにしかし遠慮なく秘密の経絡の迷路をなぞってゆく。

あの男たちはどうしているのだろうか、突然、過去の記憶が蜃気楼のように揺らいで浮かんでくる。      
これまでに私の身体をまさぐっていった男たちの、がさつな愛撫の手の感触が思い出された。この四十畳はある大部屋に蠢く人々の群れから、存在感を喪った私の肉体から心は飛び立ち、空(くう)を漂った。
さらには、はるか以前の多くの手の感触が霧につつまれたまま、しかし妙に現実味をもってよみがえった。
女に初めて触れ震える手、女を知り尽くした傲慢な手、そして二本も三本、いや数えきれぬ手が私の体をまさぐっていった。
それでも私はなにも感じることなく濡れもしなかった。
霧に隠された記憶が、自分でさえ存在すらしらなかった記憶が、尊師の御手によって拾い集められていく。

おさわり観音―                      
このなつかしい響き、やはり人々は私のことをそう呼んでいたのだろうか。
感情のない私の無表情な顔を覗きこみながら、洗い晒しの木綿の粗末な服を開き、私の幼い曲線を多くの手が通りすぎていった。ただ、人々がそれ以上の行為におよぶことがなかったのは、私のあまりの幼さや知恵遅れと誤解された対人障害に呵責があったのだろうか。
言葉を使えない私というおさわり観音を多くの男の手が通りすぎ、幾許かの賽銭がそえられた。私はといえば、人々が良心の呵責の免責代金としておいていった小銭を固く握りしめ爪跡のついた湿った手にくるみ、校庭の隅の草に埋もれかけた私だけの観音様、他人からみればただの武骨な石だが、その像に供えるのであった。

「どうですか」                            
遠くから尊師の声がし、私は自分が濡れているのに気づく。
尊師の手により、私の過去の記憶が砂に埋もれた糸が引かれるように姿を現し、私は過去の人々の手に、下着を濡らすほど今激しく感じていた。
「とてもいい気持ちです」                
私は畳に唇を押しつけながらかろうじて声を絞り出した。
畳二枚ほど先の女性が激しい活元状態に入っており、競泳のゴール寸前のように喘ぎながらも激しく、クロールのように腕を回し、畳を叩いていた。そのリズムの崩れた振動が畳を伝わり、私の唇に語りかける。
「あなたも感じていますか?」 
私の心は肉体の呪縛から開放され、捨て去られた肉体は怒りにうち震え、抵抗をします。            
柔らかな手は私の腰から離れ、抜け落ちて空から降ってきた鳥の羽を裏返すように私を仰向けに寝かせる。木綿のワンピースと小さな化繊の布切れの間に風が吹きわたり、私の泉は恥ずかしげにかぐやいだ。

仰臥の姿勢を、私はあまり好きではない。なぜなら、何か忌まわしい過去の存在を私に暗示させるからである。
ある時より、いや隠さずに言ってしまうと私の体の中に氷の塊が入り込んだ時より、その氷の塊の炎に私の肉体は灼かれ、頑なに閉ざされていた心さえ炙りだされてしまったのだ。そして、燃えるだけ燃えた氷は数日すると溶け去り、私はまた、ただの心のない物と化してしまう。その氷の塊が燃え続けている間だけ私は外の世界を感じることができ、存在しない事実や記憶を拾い集めることができる。
存在しない記憶を、それこそ砂に書かれた文字が何回も波に洗われ消えたのを、見てもない残像にしたがってなぞると、かすかに何かが浮き出始めるのであった。

尊師の一方の手の指先は私のこめかみに、もう一方の手の指先は恥骨にあてがわれた。はたして私の泉の湿りを感じているのか、尊師は無表情に愉気を注いでくれている。こめかみから恥骨に気が流れ、体中の関節が弛み、肺がしぼみ、私の普段でさえ力のない手は地球の中心に向かい畳に吸い込まれていった。恥骨からこめかみには、かすかな湿気を帯びたか細い流れが始まり、その流れは私の鼻もとで淫靡な香りをただよわせ、青ざめた頬を赤らめさせる。

文書2
まだ氷の塊が私の華奢な体の芯で燃えさかっている時、その炎のむこうに見え隠れしている記憶や、男が語ってくれる言葉をつなぎあわせ、子どものころの私を私は知るようになった。
小学校に上がるころひどい自閉症に陥った私は、外界のすべてに心を閉ざしてしまい、ついには言葉を失ってしまったようであった。
私の大好きなやさしい父が去り、新しい父という男が現れ、私は母の存在を感じることができなくなり、崩れていった。
霧というか靄というか、晴れることのないかすれた世界、ただでさえ語彙の少ない私にはうまく表現できないが、電源は入っているが、真っ黒なテレビの画面のような世界に私はいた。黒い四角の虫が這いずりまわり、突然意味のある言葉となり浮かびまた消えていく。
小学校一年から中学と、母におくり出され、先生に委託された学級委員長に連れられ登校する毎日であった。主体性のまったくなくなっていた私は、他の自閉症児とは異なり登校拒否に陥らず、肉体だけは学校にはいた。

 鉛筆で机を叩く音がまだ聞こえる
 黒板にはチョークの粉が踊っている
 怒りの音が 不思議そうな目が 
 心にしみこむ
 さよなら 父よ、母よ、友よ、私よ
 人がそばにいることが 心をえぐる

文書31
 白い人形としてしか記憶にない医師と、これまた黒板という暗幕の前の腹話術師たちは何とか私に義務教育を終わらせようと努力してくれたようであった。
そんな教師のなかに、あの男が現れた。中学三年の夏も終わり、皆が進学相談を受けているなか、私は一人広い理科の教室で就職のための適性判定テストを受けていた。
まだ強い陽射しは黒板をより黒く見せ、私と就職相談担当のその男は夏のスポットライトの当たらぬ薄闇で機械的な作業を続ける。簡単な計算や積み木遊びのような作業を男は私に強いた。こんな簡単なことで就職の適性が判別できるのだろうか・・・。しかし、私の手は動こうとせず、宙をさまようばかりであった。

「ワープロを覚えないか」                
私の就職適性テストに絶望したのか、男は唐突に立ち上がる。化石の骨が崩れるような音がし、私のつたない積木細工が飛び散る。理科の教室を出ていった男が戻るまで、私は黒板の暗幕に描かれる雲の影の動きをなぞり、心は太陽へと飛び去り、紅蓮の灼熱に真っ白なブラウスは真紅に染まり、剥き出しの白い透き通るような肌はますます冷たくなり、控えめに輝く露をいだく。
戻ってきた男は、黒い小さな機械を机に置き、その細い長方形の窓、塹壕の細い窓を私に覗かせた。
男は私の人差し指をとり、ひらがなの書かれた積木を押させる。この男が私の体に触れたのは、これが初めてであった。男は私の手の冷たさに驚いたようであるが、男の手の暖かさは心地よく、セーラー服の広いむなぐりから私の凍りつくほど冷えきった胸にも触れて欲しかった。
 男の手は私の指に添えられ、ひらがなの書かれたキーの上に私の冷たく硬直した指を導いた。

  せんせい
   先生

ひらがなは積木の操作により、文字となり漢字となり文書となった。
この男により私は言葉を持った。手では文字を書けても、意味のある言葉を書けなかった私が、指を通して、ワープロの覗き窓をとおして言葉を発することができるようになった。これは、私の手話なのだ、そして私は饒舌になっていく。
これが私の言葉なのだ!  人差し指と中指だけで語る言葉であったが。

そしてまた、液晶というはかない存在の言葉であるが、表現する術を知った私は初めて人を認識できた。この男の喋る声は、今まではどこか部屋の天井の隅から聞こえていたが、今は生身のこの男の口から声が聞こえ、毛ぶかい手の感触などもリアルすぎるほど心に滲みこんだ。
 言葉を知り、人を知り、霧に霞んでいたこの教師の姿が初めて私に実体のあるものとなった。
整った顔立ちながら臆病な牛のような小さな目は、私の固い殻を揺るがし、あいかわらず会話のなりたたない関係ではあったが、放課後の逢い引きのように、この男と私の積み木遊びが続けられた。

 男の名は 
 よしおか  吉岡  吉岡先生

 何度この名前をワープロに打ち込んだことであろうか。「よ」は薬指、「し」は中指、「お」は人差し指、「か」も人差し指、でも私の名は小指ばかりであった。
吉岡先生によりワープロの手ほどきを受けた私は、ワープロの修得にのめり込んでいった。液晶の画面に頼りなげに浮きでる文字は私が語りかけることのできる唯一の言葉であった。
高校受験で忙しい他の生徒は帰りを急ぎ、私は、この積み木を独占して使うことができた。私の指で築かれた積み木の城は毎回、形が違ったが、波に消え去られる砂の彫刻のように、最後は私のつっぱった手により崩された。 

 語りかけても
 何もこたえてくれない
 耳をかたむけても
 何も聞こえない
 それでも私は語りかけつづけ
 宙にさまようことばを
 拾い集め
 再び心に封印する

文書21
私がこの「手の会」なる気功の講習会に参加したのは、昨年の夏のことであった。


文書16
 何とかワープロを修得した私であったが、もとより言葉を喋れない者など(いや、喋れないのではなく、会話というものが不可能であったのだが)雇いいれる会社などなかったが、就職担当の吉岡先生は卒業生のつてを頼んで奔走してくれた。
しかし、いま時、中卒などの採用は一般会社では皆無であった。霧の中の私にとっては、私の進路などはどうでもよいことであり、暖房のない理科室でひたすらワープロで孤独な積み木遊びをしていた。かじかんだ指は徐々に暖まり、冷えきった積み木の一つひとつを公平に暖めたいとするために液晶の上の文字はなんら意味をなさないものとなってしまったが・・・。
 そんな絶望的な状況にあった時、いつものように一人ワープロに語りかけていた理科室に吉岡先生が息せき切って入ってきた。私の背後から伸ばされた手はリズミカルに積み木を操った。

  しゅうしょく きまった  おめでとう
    (変換)
  就職 決まった おめでとう  

 感情を失っていた私には、興奮している吉岡先生が奇妙に映り、ただ背後のワイシャツが私の髪をそよがせるのが心地よかった。私の小さな手は吉岡先生の手の中にすっぽりと隠れ、私の短く切りすぎた爪を手の平に食い込ませた。
 医薬書房という出版社が面接もせずに私を採用してくれたのだった。これは後でわかったことであるが、医学関係の本を出版しているというその会社は、左翼くずれの社長の考えで社会貢献に熱心で、私の採用も障害者採用というボランティア的発想によるものであった。ともあれ私は、中学を卒業するとワープロのオペレーターとして働くこととなった。

文書1
 この心知る人なし
 この心知る人なし
 この心知る人なし
 手のひらに三度書き
 さらに書こうとするが
 手は固く握られ
 書かれた文字さえ隠してしまう
 あの時知ったかすかな
 触れあいさえ奪い
 さらになにを聞きだそうとするのか

 なにも言ってやらない
 話してやるもんか

 バカ者 バカ者
 よく喋り よく笑う者よ
 すこしは黙し 泣いてもみよ

 後ろ指をさされ、逝ってしまった男の、吉岡先生の最後の言葉、先生により人差し指一本で打たれた言葉が、液晶画面に悲しい。その言葉に何も答えられない私は、唇をかすかに開き、やはり人差し指一本で、先生と同じ積み木をなぞった。

さびしき者は
灯のついたところで語ろう
すこしは心もなぐさむることだろう

 吉岡先生は教え子の私に不純な行為をしたと疑われ、糾弾され学校を去っていった。そしてほどなく、この世を去ったことを私は知らされた。
本当に、本当に、私は先生を救いたかった、真実を言いたかった、でも私は何も言葉を出せなかった。大勢のぎらついた目をした男たちの質問は、私を矢のように射抜き、私は心の中で止まることのない血を流していた。
好奇の眼を逃れ、理科室に帰りついた私は、ただ、ワープロの液晶画面に文字を打ち込むことしかできなかった。

違います! 先生は何もしていません。不純なのは私なのです。


四.拾い集められた断片

「なに、これ!」
 レラがすっとんきょうな声をあげる。無理もない、僕からある程度説明を受けていたとはいえ、フロッピーに秘められた文書は驚きの内容だった。
「すべての文書を印刷したから、並び替えてみよう」
 僕の部屋のダイニングテーブル兼仕事テーブルだけは、部屋に似つかわず、立派だ。天然の一枚板がいい感じだ(そのテーブルは本当は真ん中の一枚とへりの二枚を貼り合わせたものだが)。
 そのテーブルの上に僕とレラは印刷した100枚ほどの紙を並べ、時系列を想像し、紙に通し番号を鉛筆で振っていく。
「楽しいね」
 レラが僕のお尻を軽く叩く。お道化ているようなレラだが、不思議にも顔は少しこわばっている。
「セクハラはやめろよ」
 僕の息で紙が飛び散りそうになり、あわてて押さえる。
確かに、バザー商品の整理、値付け、この文書の整理作業と、レラとの共同作業は楽しい。僕の部屋は賃貸だ、月5万円で借りている。このマンションの2階から4階は賃貸で、5階から最上階の24階は分譲物件だ。僕の部屋1LDKで、この居間の奥は寝室だ。ベッド派の僕は、そこにダブルベッドを入れて、いつも膝をかかえて寝ている。

「えへ」
 僕はレラと寝室のドアを交互に見て、自分でも恥ずかしくなる声を出す。
「フン」
 これが答えか、落ち込む僕にレラが叫んだ。
「見てみて、このあたりの文書がつながっているよ」
 レラの頬の傷が美しいと、僕はその時、初めて思った。

文書39
「・・・だから、新刊がここの机の上に運ばれてくるから、新刊リストに打ち込み、図書カードを作って本にはさんでね・・・」
 資料室担当の上司は子どもに、聞き分けの悪い子どもに言い聞かすように喋っている。中年男独特の脂ぎった瞼の下の瞳は落ちつかず、どこか未開の地のこずるい爬虫類を連想させた。
 この男はとんだお荷物を預かってしまったと思っているに違いない。ただ私のことを、私の体をそんな目で見ないで下さい。
私の体に触りたいなら触って下さい。汚れきった私の体ですが、それで気がすむならいくらでも触って下さい。そしてどうか、やっと見つけてもらったこの職場から追い出さないでください。
 男の太った腹が、ワイシャツのボタンを裂き私の二の腕に触れそうで触れない。この小心な男は通勤電車の中でも、このようなことしかできないでいるのだろうか。ただ男の乱れた息だけが私のうなじを舐めていった。
 幼いころから「おさわり観音」として男たちの手に弄ばれていた私は、いつしれず男たちの欲望に敏感になっていた。そして少しでも渦巻いた欲望を感じとると、私の心は閉ざされ、逆に肉体は開かれ無抵抗となってしまった。 

 与えられた仕事は単調で、対人関係も極端に少なく、私のためにあるような仕事であった。もとより液晶の世界にのめり込んでいる、いや住んでいると言っていい私は、与えられた仕事はほとんど午前中にこなしてしまい、午後はこの映像スタジオを改造した資料室で夥しい本に囲まれて、なにもない暗黒の世界をただみつめていた。

 足元も暗く 頭上も暗く
 前も 後ろも 暗いことは
 ここにて止まれと告げることか

 ただ私が若く(中卒の社員などこの会社では初めてのことであった)、幼い身体の線を残しながら女の臭いを放ち出した肉体のために、若い男性社員が何人か人目を忍ぶように資料室にきては私に話しかけてきた。

 だめ、私に話しかけないで下さい。話しかけるくらいなら、ただ黙って私に触りかけて下さい。私は人と語り合うことなどできません。ただ、心を閉ざし、肉体を開き、沈黙の中でならあなたと語り合うことはできるかもしれません。

 私に興味をもって訪れた社員の男たちは、目を瞬きもせず、じっと男の眼を、焦点を少しずらして見つめ続ける私に、首をひねりながら、ばつが悪そうに必要でもない本を捜し、去って行った。そして半月もすると私に話しかける男など誰もいなくなってしまった。 

 一点をみつめて そらさない
 なにも見てないのに
 みつめて そらさない
 いつしかついた癖

文書5
 真矢さん(会社では、私は尊師のことをこう呼んでいた。それは社会における仮の名であろうと)が私の働いている資料室に配属されてきたのは、春を盛りと桜の花吹雪が舞い、またもや私が現実と霧の世界を行き来していたころであった。
私が働いているこの出版社には信じられないほど良い、いわゆる偏差値の高い一流大学出身の社員が多かった。出版労連に所属し、社員数は200人ほどもいるが、医学系書籍・雑誌のみを出版しているこの会社は、世間的にはまったく無名であった。しかし、医学・看護界という特殊な分野を独占しており、賃金もかなり高額であった。
そんな頭でっかちの社員のなかでも、エリートが集まる書籍編集部から真矢さんは、資料室へ配属になってきた。資料室とは、いわゆる会社のなかの図書館であり、自社で出版された本を分野別にならべ、あと他社のおもだった雑誌なども展示している部屋である。もともとはビデオ撮影スタジオ用に作られたその二十畳ほどの部屋は天井が異様に高く、ゆうに普通の二階分はあった。二階部分に回廊を設け書棚を増設し、螺旋階段を登るようになっていた。スタジオの名残か、天井に敷かれたレールには照明ライトが無数に配置され、二階部分の、今は物置と化したディレクター室の指示を待っていた。
私の机はその螺旋階段の真下といってもよいような位置にあり、螺旋階段の登り降りのたびに目に見えない埃が舞落ちてきた。ある日、私の机の横にもう一つ机が運ばれてきた。その他には文房具が入った小さな箱だけであった。

「はは、左遷にふさわしい古びた机だな」
 声に見上げると、顎髭をたくわえた枯れ木のような男が立っていた。白い木綿のシャツによれよれの麻のズボンの真矢さんは、まるで島流しにあった流人のようであった。
 左遷? あまり私には馴染みのない言葉であった。なぜ左は右より悪いのか、劣るのか私にはわからない。私が感じえたことは、真矢さんは口とはうらはらに、目にも表情にも感情の落ち込みや高まりは感じられなかった。
 その日から資料室で私は真矢さんと二人きりで働く日々が始まった。私の隣に座った真矢さんにとって、私の存在などまるで書棚に並んだ本の一冊にすぎないようなものであった。無視するとか否定するといったものでなく、私の存在に気づいてないに違いなかった。机は並んでも二人の仕事に共通性はなく、真矢さんは他社の雑誌の特集記事を調べたり、医書の出版目録などを作成していたし、私はといえば、あいも変わらずワープロとの対話のみであった。

文書11
 会話などない私たちの日常に変化があらわれたのは、真矢さんの異動からひと月ほどたったころであった。
 そっと私の肩からうなじに触れる手があった。その手の感触はおさわり観音として多くの手を体験したどの手の感触とも異なっていた。その手は躊躇うことなく臆することなく容赦なく私の首筋を、私のまだ少女少女した細い首筋をなぞっていく。
 ああ、そのまま続けて下さい        
 まだつぼみのような乳房ですが、まだ骨ばった背筋ですが、まだか細いうぶ毛を透しても肉襞の薄い蜜壷ですが、触れてください。

 幼き日の手の感触が、どうしようもなくなつかしく、身体の芯から思い出された。私の願いとは裏腹に、首筋のその手は、不思議な熱さと冷たさを合わせ持ったその手は、私の首筋にとどまるのみであった。ただ、熱く冷たい不思議な稲妻が首筋から身体の濡れた芯まで鋭く、穏やかに、穏やかに走った。
 ワープロのキーボード上に置かれた私の指は風にそよぐ産毛のように揺れ動き、意味のない記号が液晶の画面上を這いずり回った。

「だいぶ肩がこっているね。一日中ワープロばかり打っていちゃ体によくないよ」
 真矢さんは不思議な手を持っていた。その熱く冷たい手に導かれ私は霧に包まれた世界をさまよい、私一人ではどこにあるのか、いやあることさえわからない出口を捜し求める生活が始まった。
 真矢さんは大学でインド哲学を学び、インドに渡りヨガの修行もしていたが、ある時、取材活動のなかで気功の存在を知り、野口晴哉という気功の大家に師事し、修行をつんだ今では気功の指導者として、「手の会」という気功の会を主催していた。気功の世界に深く入り込むにつれて、真矢さんにとって、西洋医学への懐疑の気持ちが強くなっていった。現在の日本の医学は西洋医学に立脚したものであったので、この医学出版社においても出版される本はすべて西洋医学の本であった。
 医学書の編集者として、自分の信じる気功の説く教義と自分の編纂する本の内容との絶望的な乖離に苦しんだ真矢さんは、編集者としての自分を自ら抹殺し、閑職とも窓際仕事とされているこの資料室という職場に配置転換を願い出たのであった。


文書12
 私が真矢さんに誘われ、初めてその「手の会」に参加したのは、5月になって間もないころでした。3月からのトレーニング期間も過ぎ、不器用な私でもやっと仕事になれてきて、一日の中に余裕のある時間ができてきたころであった。
「手の会」は世田谷区立の「梨園センター」という施設を借りて毎週水曜日に定期的に行われていた。電車に乗るのもおぼつかない私は、会社が終わると親鴨の後を必死についていく子鴨のように、真矢さんの後を付いていった。タイムカードを押すところから、私は社員たちの好奇の視線にさらされた。真矢さんはといえば、私を誘っておいて、どんどん先にいってしまう。一度も振り向きもしない真矢さんですが、私にはわかっていた。真矢さんが背中いっぱいで私の存在を探り、私が付いて行けるように歩幅を調節してくれているのを。  

 帰宅ラッシュの中央線を真矢さんのシャツの背中をつかみ耐えた。木綿のシャツの感触はとても心地よく、洗いざらしのごわごわの向こうに痩せた真矢さんの背中が感ぜられた。
明日、私も木綿のシャツを買おう。真っ白い木綿のシャツは、人々の手垢で汚れた私の身体をどのようにつつんでくれるのだろうか。お給料で買う最初のものに木綿のシャツはふさわしいと思われた。
 真矢さんには家庭があり、奥さんもお子さんも二人いるのは組合の社内報で知った。誰が置いたかわからないが、私の机の上に置かれていた社内報に見慣れた真矢さんの名前が大きな活字で踊っていた。 

 奇人変人偉人列伝特集 第1回
 エスケープドゴート真矢さん

 見出しのカタカナ部分は真矢さんの風貌によるものでスケープゴートをもじって「野性化した山羊」という意味とのことであった。記事の内容は真矢さんの奥さんが二人目の子供を自宅で産んだ顛末が奥さんにより書かれているが、それに対する真矢さんのコメントは真矢さんの現代医療に対する考えをはっきりと示しており、後の社内での真矢さんの孤立と、予想だにできなかった大きな不幸を暗示するものであった。

「わが社の偉人・変人・奇人・(1)
 本シリーズのトップバッターとして医薬書房のescaped goat(野生化したヤギ)こと真矢さんに登場してもらいました。

はじめに
 このコラムの標題にあるごとき特異な存在であることを自ら認めてかかるのは、だれにとっても何がしか抵抗のあるところであろう。
 偉人でもないことは当然として、変人であるとも自ら思うわけもあるまい。奇人なる存在は嫌いではないが、私にはその「資格」がない。奇人にはある種の天性が必要である。ただ、本稿依頼の主旨が、昨年夏の私の一身上の出来事・つまり、いくらか風変わりなわが家の出産の模様と、その背景をなす考えのようなものとを語らせることにあると理解し、相当に場違いな話題ではあろうが、超私的な出来事の一端を紹介してみることにする。
次に記すのは、私の「つれあい」が助産院で書かされた感想文の再録(一部)である。人の書いたものを用いるので気がひけるが、これ以上に事実をよく伝えてくれるものはないと思うからである。

 本人もビックリ、超スピード自力分娩!
ナ・ナ・ナント、この私が陣痛四十分余りで、自宅で、それもひとりで、子供を産んでしまったのです。その顛末はというと。
 三十九歳という高齢出産ですが、妊娠中はずっと調子よく。二十代の妊婦さんにひけをとらず元気に予定日まですごしました。ところが、予定日を過ぎてもちっとも気配がなく、近所の奥さん達から毎日「まだあ?」と言われながら十二日がたちました。この日もちっとも気配がないまま、子供を夕方六時まで公園で遊ばせ、やっと公園から追い立てて六時三十分頃家に戻りました。そして、七時頃まで子供に食事をさせ、七時頃から子供が昼寝に入りました。
 ― 略 ―
 そのうち、私はフト気づき、「ああ、そうだ。頭は出たけど、それ以外はまだ私のおなかに残っているのかもしれない」と思い、軽くイキんでみました。すると、肩がヌルッと出てきて、「オギャー」と泣きました。
 「ああ、泣いた。大丈夫だったんだ」
 と、ここまでが七時四十分までの四十分間の出来事です。
 そして助産婦に電話をすると、うちに来てくださると言う。よかった。
 子供も赤ん坊の全容が見えてから、落ちついてきて、自分のフトンを貸してくれたり、電話を私の手もとまで動かしてくれたり、何かと手伝ってくれました。
 十五分もすると夫が帰宅。
 「もう産まれちゃったのよ」
 「ええーっ」
            (一九八八年7月)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   セルフ・ケアの愉しみ

 以上の記録に明らかなように、ひと昔前までなら、比較的ありふれた出来事であったことであろう。それが珍しがられる時代になっている。たまたま見た統計によると、年間に全国で約一五0万件の出産があるようであるが、自宅での出産は二千五百件くらいでしかない。しかも、医師も助産婦も立ち会わないケースとなるとその一割程度のようである。世上、自然分娩だとか自宅出産だとかが話題に上ることも多くなっているように感じられるが、実態はそんなものなのかなという数字である。生まれることも死ぬことも病院一辺倒で、自分たちの命の問題を自分たちの知恵で処していくことが誤ったことのように思いこまされ、またその能力も奪い去られている現実がここにも反映されているようである。
 とはいえ、その当時、例年になく長かった梅雨の晴れ間のある土曜日、家から電話を受けて私が外出先から帰ったところ、なんと部屋の入り口の畳の上に、上掛け一枚をかけてはいるが母子が臍の緒をまだつなげたまま、並んで寝ている光景を目にしたときは、さすがに肝をつぶした。しかし、程なくしてかねてなじみの助産婦さんいかけつけてもらい、その指導を得ながら、臍の緒は私自信の手で切ることができた。
 ところで私の家では、妊娠中も出産後も病院等で検査一つ受けたことがない。現実にその必要をかんじなかたからである。おかげで、生まれた子の血液型さえいまだに知らないでいる。交通事故など特殊な場合を除けば実際上の必要はまずないが、それではいくらか不便なので、いつか調べてもらうつもりでいる。また、今回の出産でいわば唯一の立会人にとなってしまった子どもも、同じお産婆さんにとり上げてもらったが、生まれてから今日に至るまで一度も病院に行ったことがない。予防接種も受けさせたことがない。やはりその必要を感じないからである。心身の状態をよく観察していれば、何が必要かはわかるはずである。動物ならみんなそのようにして身一つで暮らしているのだから。
 そんなことを言うとひどく野蛮なことをしているように思われるかもしれないが、事実はその逆であると言ってもよい。このような暮らし方が可能になるあめには、逆にきわめて細やかに神経と感覚をはたらかせることが要求されるのである。
 また、たとえば予防接種を受けないことは、接種禍などが恐いからではなく、ハシカやオタフクなど、子どもが成長過程で一度はかかっておくべき必要な病気にかからないことで、逆に子どもの生命力(抵抗力・免疫力・成長力など)を弱めさせ、ひいては現代に特有の(特に子どもの)難しい病気を多くさせる一因をなしていると考えているからである。少なくとも、ハシカをしなければ呼吸器が十分発達せず、オタフクをしなければ生殖腺の発達に問題を残すことは確実である。過剰な予防と過剰な治療が体の自然をそこない、別の矛盾を生み出している現実にそろそろ気づいてもよいのではあるまいか。
 子どもだから時おりは病気もするし、ケガもするが、そんなときでもすべて自分たちの手で解決している。その方法はここでは省略するとして、それで間に合うからそうするというよりも、そのほうがはるかに確実で好い結果が得られるからである。ケガにせよ病気にせよ、発育の状態にせよ、体の問題であるからは、必ず体を通してその結果が具体的に確認できるのだから、これは単なる信念とか主観による判断ではない。
 そして、このようなことは決して偶然のことでもなければ、私だけにできることでもなく、やろうと思えばだれにもできる生活法であると思っている。
 じっさい、私たちはあり余るほどの知識と専門家と施設に囲まれながら、いっこうに望むような健康に近づかないばかりか、むしろますます不安をつのらせたり、苦痛や時に悲劇がくり返されている現状を、一度疑ってみる必要があるのではないだろうか。
 そんなことを考えている私は、やはり「変人」なのであろうか」

文書44
 いつの日からか私は一日の出来事を日記のようにワープロに打ち込み保存するようになっていた。30センチ X 20センチの四角い板に私の言葉が凝縮されて押し込められ、いつか迸りでるのを待っているかのようであった。

 日記は
 くずれそうな生活を
 ささえる詩だ
 冷たい
 さわると冷たい
 無骨なワープロに
 手と頬をあてて
 まだ来ぬ人への
 私の詩を書こう
 まだ見ぬ人の
 私への詩を聞こう



五.崩れ落ちる断片

 そっとレラの頬の傷に触れてみた。白い肌理こまかい頬にある一筋の傷を、人差し指でそっとなぞる。ベッドの上のレラは目を閉じ微動だにしない。

「そこかよ」
 微かにレラの唇が動いた。レラは洗いざらしの青いシャツのボタンを自ら外し、まだ陽に焼けてない真っ白な胸が露わになった。まだ少女のような小さな乳首に、そっと僕は唇をよせた。性感帯のボタンを押したようにレラがかすかにのけぞった。
 僕はレラとの最初の夜を思い出している。
 あれだけ活動的で攻撃的なレラの身体から突き出した無数の針は、今はどこに行ったのだろうか? レラは目をつむり眠っているように、ただ横になっている。いつ、あの危険な針どもが飛び出してきて、僕を刺すかわからない、僕はそっとレラの中に身体を沈めた。彼女は確かに生きた熱い身体をしていたが、レラの心というものを僕は感じ取れなかった。

 君の心は氷なのか
 僕とレラは結ばれたまま、ただ夜明けの陽光か射すまでじっとしていた。
 僕とレラのセックスは奇妙なものかもしれない、ただ結ばれ眠っている。そして、朝の陽光が射すと、僕らの結合は解け、身体を話した二人を結ぶ細い糸が、陽光を浴びて輝きながら切れる。そして、僕は自分の身体の軽さから、数えきれないほど射精していたことを知る。


文書19
 駅で降り、せまい商店街を抜けると、はるか昔に知っていたような臭いがした。五月の日差しがいやというほど当たりながら、冷たく黒い壁が冷蔵庫を想像させる病院をすぎると、こぎれいな二階建ての建物があった。看板には「梨園地域センター」とあり、一階のロビーにはすでに会の人が何人か集まっていた。会員たちは、真矢さんが自動ドアから風のように現れると姿勢を正してお辞儀をした。さらには真矢さんの陰に隠れている私にさえお辞儀をした。私はただうつむき自分の靴先をみつめることしかできなかった。

 この「手の会」は毎週水曜日に定期的に開かれており、「愉気の会」の日と「活元の会」の日が交互に割り当てられていた。
「愉気」とは他人の体に息を通すことで、人間の気が感応しあおうことを利用して、お互いの体の動きを活発にする方法とのことである。
「活元運動」とは、自然の要求に従って体が動きだし、そういう動きで体を整えることで、真矢さんが会員を指導していた。
 二階の四十畳ほどの大広間が会場であった。畳は最近替えられたのか、まだ青さを残していたが、部分的にはひどく擦り切れていた。
 今日は「活元の会」であり、当日の参加費の二百円を箱に入れ、参加名簿に名前を書き込むと、参加者はおもいおもいの場所に散っていった。
 初めての参加者は活元運動のやりかたを簡単に書いた紙を渡された。手渡された紙に書いてあることを理解するには、私の指は文字をなぞり見えないワープロに打ち込まなければならなかった。

「活元運動の誘導

一、邪気の吐出をする。両手で鳩尾を押さえ、そして息を吐く。老廃の気を全部吐き出すような気持ちで、体をこごめるようにして吐く。鳩尾が柔らかくなり欠伸が出てきたら、欠伸にまかせて、もうやらないでよい。
二、背骨を捻る。正座して自分の背骨を見るように、縮んでいる上体を伸ばし、左に捻り、急に力を抜いて戻す。こえを左右交互に、七回ずつ行う。
三、訓練法
1  拇指をにぎりしめ腕を上げ、徐々に息を吐きながら、体をうしろへ反らしてゆく。
2  奥歯をかみしめ、首から背骨に力をギューと入れるようにして、入れ切って急に力を抜く。これを三回やります。人間の運動は息をつめる時に力を入れるのです。力を抜くと息を吐いてしまうのです。それをアベコベにやるのです。息を吐きながらやる。そうすると背骨に運動が起こります。
3  手を上向きに膝の上におき、目をつぶります。目をつぶって首を垂れる。そして自分の背骨に息を吸い込むような、背骨で呼吸するようなつもりでいる。すると、少しずつ体が動くような感じがして、やがて動き出してきます。あとはそのまま何もしない。体を自然に任せきります。
4 動き出したら、その動くままに、動いている処に息を吸い込むようにすると、もっと動きが大きくなってきます。首が動いたら首へ、腰が動いたら腰へというように息を吸い込むようにします。運動が出て止めようと思っても止まらなくなるほど、大きくなることもあります。また、長い時間動き続けることもありますが、止めようとしないで、終わりまでやるのがよいです。
5 運動が終わったら瞑目したままで、しばらくポカンとしております。」

 正座して露になった、まだ白めく大腿に、赤く跡がつくほど強く、紙に書かれた文字を打ち込んだ。


文書20
 声もなく
 涙がとめどなくほとばしり
 母のたもとで泣きじゃくる子のように
 感情のままにふるまえるよろこびを知る

 尊師の指が私のこめかみと頭部にあてられ、私の体は氷の彫像のように微動だにせず、ただ凍ってない涙だけが閉じた固く閉じられた目から流れ落ち、私のまとう白い木綿の服をつらぬき、赤く跡のついた大腿を優しく濡らし、密かに私はかぐやぎ、氷のなかに灼熱の火がともり、彫像は内部から溶けだし、火照った肉に薄い氷の皮膚をまとい、涙がこぼれつづける。


文書51
「手の会」ですっかり脱力してしまった私は、会の仲間のあとをついていくのがやっとであった。あがらぬ足先は、何度歩道の石畳につまづいたことだろう。真矢さんは仲間たちと何か話し込みながら私の存在など無視してずんずん歩いていってしまうが、混雑したせまい路地の曲がり角などで私が遅れて見失なわないように真矢さんは歩を緩めて、集団の動きをコントロールしてくれていた。道のはじしか歩いたことのない私には、つらい道であった。

 駅から私一人ではとても出口を見つけることのできないような狭い迷路をかいくぐり、たどりついたのは、ひなびた小さな店であった。
「ちゃんぷる亭」
 手書きのつたない文字が店の汚れて黄色を失ったテントに勝手気ままに踊っていた。
「ここの主人は童話を書いているんだ」
「味はどうなの」
「注文の多い料理店と同じくらいさ」
 皆は活元運動で高揚したのか、言葉が踊り陽気であった。

 ちゃんぷる
 沖縄ラーメン
 医食同源
 食是命也
 沖縄そば

 沖縄の明るい海の原色の魚のように、色とりどりの文字が書かれていた。そんな店の看板は、私には抽象画のように見えた。看板に見入っている私は、そでをひっぱられ店の中に入った。一階はカウンターと調理場だけで、五人も入るのがやっとのようであった。店の主人は髭ぼうぼうで禿げた頭にはバンダナのようなものが巻かれており、ドヤドヤと客が入ってきたというのに迷惑そうな顔でチラと見ただけであった。沖縄の人というよりはアイヌを連想させるような風貌であった。
 真矢さんは店の主人に何やら目で合図をして、一言も声をかけずに二階への階段を登り始めた。その階段は、登るという言葉がピッタリなほど急な勾配であった。階段の数を足の裏で数えながら、私はその天空への梯子をやはり最後に登った。わずかの段数が活元運動で抜けてしまった私には最後まで数えることができなかった。暗いトンネルを抜けると二階は8畳ほどの部屋となっており、板張りの床にゴザが敷いてあった。裸電球ひとつに照らされた座布団は私には何の草かわからなかったが、沖縄特産の草で編まれていた。
 真ん中に位置したテーブルのまわりに会員たちは、まるで座る位置が決められているかのように迷うことなく座った。いちばん遅れて登ってきた私は椅子取りゲームで負けた子どものように立ちつくしていたが、そのまま膝の力が抜けへたりこんでしまった。
「さあ、何にしようか。とりあえずビールだな」
 そう呟いた作務衣を着た男は渡辺といい、「手の会」では真矢さんに次ぐリーダーであった。知らない人たちが見れば、いかにも気功の導師です然としたこの男がリーダーと思うだろうし、真矢さんなどは気功にすがってきた、疲れたただの中年男に見えることだろう。運ばれてきたビールはオリオンビールといい、やはり沖縄特産のものでラベルにその名のとおりオリオンの星が描かれていた。八人が輪になったテーブルのコップに何か大事な聖水のようにビールがそそがれ、
「乾杯」
 渡辺という作務衣男の音頭に皆が和した。アルコールなど勧められたことも、飲んだこともなかった私は、その琥珀色の液体、水よりも粘ちょうな液体を美しく思った。天井の裸電球が水面に月のように赤く浮かび、コップの側面にはビールのラベルの星が輝き、心なしか裸電球が暗くなったようだ。
 この猥雑な繁華街で、この粗末な沖縄料理店のまた小さな二階の部屋で、外界から隔絶され、私はオリオンの星に導かれ意識を失っていった。


文書33
 日本語さえ満足にあやつれない私であったが、不思議と中学での英語の授業は理解できた。もちろん理解はできても表現する術のない私の英語の試験はいつも白紙であったが。私にとって英語は日本語よりもさらに音のない言葉であり、ただ書かれた文字のみ頭のなかで理解できた。頑なな心は言葉を喋らせず、書かせず、ただ文字のみの認識を私に許していた。

 就職活動のためのワープロの習得が、徐々にではあるが私の思考プロセスを変えていった。ワープロの前では私は雄弁であり、詩人であり、哲学者であり、人一倍喜怒哀楽の激しい多感な少女であり、オンナであった。
 会社から私に与えられたワープロはオアシスというかなりの年代ものの機種であり、社内をまわりまわってきたものであった。ワープロの内部メモリーにはそれこそ雑多な文章が残されていた。学習機能によりそのワープロはあたかも人格をもっているかのように、かってに変換の漢字を選ぶようになっていた。
 私はそのワープロがとどめている古い記憶を一つひとつ丹念に消し去り、生まれたばかりの赤子のように、いや遺伝子の記憶さえもない白く輝く脳に私の指により記憶を刷り込んでいった。


文書39
「鍵開け人」
「手の会」での私に与えられた役割は「鍵開け人」であった。毎水曜日六時すぎに「梨園センター」に到着し、受付に書類を提出して部屋の鍵とラジカセを受け取り、鍵で部屋を開ける。空気の入れ替えと、お茶の用意をする。受付の名簿ノートと参加費を入れる箱を用意する。お茶の用意をして、座布団を並べる。もとより会社を五時に出るなど私にしかできないことであり、誰言うとなく私は「鍵開け人」となった。この単純作業は苦でなく、私の心を落ちつかせさえした。
 まだ、誰もこない大きな広間の真ん中に仰向けになり、目を閉じる。

 ひとり目を閉じる
 多くの悲しみがまわりをかけめぐり
 いつまでも去らない
 自分の悲しみのみならず
 他人の悲しみさえも感じ 背負い
 知らず知らず 手を合わせて祈る
 私の神の姿を閉じた目のうちにさがし
 かつて心が禁じた訴えを告げる
 たえず風の吹きすさぶ音を聞きながらも
 神を呼ぶことができなかったら
 人をにくむところだった
 心に神をむかえて話す時
 人を愛し孤独を忘れる


文書64
 忘れえぬこと
 それは私の神よりの話し、教え、ことば
 迷いこみ
 光があたるところがまぶしい私は
 くずれながらも生きていく
 そして
 そのことばを受ける者はここにいる
 そのことばを伝える者はここにいる
 いつしか
 私の神に人はひれふし
 祈り
 私は人々にことばを伝える


文書59
 その高木史彦という医師に私は恐れを抱いた。その穏やかな顔、物腰の背後に、その細身の白衣の下に隠された鍛え上げられた肉体に、そして何よりもその柔らかな、あるリズムをもった語り口に、私は恐怖した。

 いけない
 この人に会ってはいけない
 この人と話しては危険です、真矢さん!

 私は奥歯をかみしめながら叫んだが、声なき私の叫びを聞きつけたこの男は仮面に笑顔を凍りつけさせて私を睨んだ。他人と目をあわせるなど決してしない私であったが、目をそらせてはいけない!
 どこからこのような強さが私にでてきたのか、男の眼光にも負けず、私は目をそらさなかった、いや、そらすことができなかったのか。

 高木医師は真矢さんの気功活動がテレビのニュースで報道されたのを見て、真矢さんに手紙を送りつけ、わざわざ九州から上京してきたのだ。そしていつのまにか、「手の会」をとりしきるようになっていた。
 今、「手の会」の会場で高木医師は饒舌に語っている。会場は押し寄せた新規会員でいっぱいである。
「私は大学医学部で現代西洋医学を学んだ外科医です。そんな私が、なぜ気功という一見したところ『非科学的』な異端医学の道に踏み込んだのか、その遍歴の過程について話します。
所属した救急救命センターでは確かに私は多くの先端医学技術を学ぶことができましたが、内科病棟も経験すると頭を抱え込むことになってしまいました。大病院の内科には多くの難病患者が殺到し、これらの難病患者に対して現在の内科学は多くの場面で無力でした。例えば、高血圧患者には、現代医学では半ば恒久的に降圧剤を投与しつづけるしかありません。また、感染症患者には、抗生物質を投与しても副作用をもたらすだけで一向に病状は根本的に改善しません。救急医療の第一線には、不定愁訴をかかえた患者が押し寄せ、私たち医師は種々の検査を行って、異状が見つからないから病気ではないと説明するか、精神安定剤やビタミン剤などを偽薬として与えて、お茶を濁すしか方法がないのが実状なのです」
会員たちは静かに聞き入っている。真矢さんも、「手の会」の古くからの会員たちもじっと聞いている。

会場の雰囲気に気をよくして、高木医師はさらに続ける。

「このような現代医学の難病や不定愁訴に対する無力さに対して疑問を持った私は、数年前、一念発起して漢方医学に着目しました。現代医学では不定愁訴とされる病気が漢方ではなんと定愁訴であるのです。仮に医学をコンピュータに喩えてみるなら、それに処理させるソフトウエアが西洋医学と漢方とではまったく違う言語系を持っていると言えばよいのかもしれません。東洋医学のコンピュータで患者という情報を診ると、西洋医学では読めないことが読めるようになってきました。私は漢方医学の勉強にのめり込み、鍼灸も学びました。そして、西洋医学、東洋医学を極めた治療者としての私のもとには、現代医学では治らない患者が押し寄せてきました。
そして患者さんを診るにつけ、非常に疲れやすくなっていることに気がついたのです。体力に人一倍自信があった私ですが、なぜもこうも疲労を覚えるのか。そんな疑問を抱えていた私はほどなくして「気」というものの存在に気がつきました。患者さんの病んだ気に私が共鳴し、私の気が消耗することからこの疲れは生じているのではないのか。精神科の医師は燃えつき症候群となったり、抑欝状態になったりすることが多いと言われている。これらの事実は治療家と病者が気を交流させ、患者の邪気を医師がもらって病状を呈するのではないのか、と私には思われました」
聴衆は皆、頷き、ただ高木医師の声だけが会場に響いている。私も高木医師の言わんとすることは理解できた。

「そして、偶然、私は中国の気功家が人体科学会という学会で気功セミナーをやろうとしていることを知り、参加しました。そして脳外科の専門家であり日本に医学留学していた黄明正師という気功師との出会い、私は気功の修行を始めました。そして、私は薬で治療効果が上がらない患者さんを集めて気功法を一緒にやってみました。そこで私が用いたのは『小周天』という気功法です。小周天法とは、人間の身体を循環している気のエネルギーを、一定の訓練によって人体の正中線上に周回させる功法のことです。
もちろん真矢尊師もこの気功法を用いています。この小周天法を体得すると、身体をくまなくめぐっている十二正経という経路の気の停滞は解消し、諸病が癒えるのです」
会場が少しどよめき、動揺が走ったのが見てとれる。真矢さんは、そういう言葉はあえて使っていなかったからである。

「両手の間につくったいわゆる『気のボール』を利用して、まず初めに頭部から下腹部に気を通しました。しかし、気をなかなか体得できない患者さんのために、私は『小周天バンド』なるものを開発しました。これは小周天法を達成するための補助器具であり、磁気を利用したものです。気は磁力線測定器で計測できるという性質があるので、逆に磁気で刺激を与えれば気の流れを実感しやすいのではないかと考えたからです。
これが実物です。小周天バンドは頭にかぶって使うように設計されており、頭部正中線に磁気が一定の方向で流れるように、数百ガウスの人体に悪影響を与えない五つの特殊な磁石を入れたバンドを装着して気を通していくというやり方である。この、小周天バンドの効果は絶大で、正当に評価されれば私はノーベル賞に値すると信じています。いつぞやなど、私が開いたある企業セミナー(自己開発セミナーという名にしましたが)で五十人の参加者にこの小周天バンドを装着してもらいレッスンしたところ、五十人中の四十五人がその場でスプーン曲げをやってのけてしまいました。あらためて、私は自分で開いたセミナーにおいて、この小周天バンドの威力を再確認した次第です。
ただ、この小周天バンドはそのすごさゆえ、正しい指導者のもとで使用されなければ危険を伴うものです。希望者にはこの小周天バンドをお分けしています。値段はですって? 私の本業は医師であるし、またコスミックエナジー研究所を経営し企業セミナーを主催してがっぽり儲けていますので、会員の皆様には、ほんの実費でお分けしていますよ」

聞き入っていた会員から拍手がわき起こり、多くの会員が高木医師のもとに殺到した。そして、真矢さんはひとり静かに会場を去っていった。


文書61
 また師怒る
 腹が立って声が高くなる
 ここにいることはもうできないのか
 心はただその怒りにおびえ
 どうすることもできず
 心のうちで手を合わせる

高木という医師が「手の会」の運営に参画してからというもの、なにかが狂い、尊師と「手の会」は変容していった。高木医師のマスコミへの「手の会」の紹介と小周天バンドの執拗な売り込みにより、「手の会」は尊師の手を離れ、一人歩きを始めていた。
会員は驚くほど増え、「鍵開け人」の私がセンターに着くと、すでにロビーには待ちきれない人々が溢れ、鍵をかざした私の歩みに人垣が割れ、人々は私に手を合わせた。

 会場には、頭に小周天バンドをした人々がひしめき、会の雰囲気を高めるために高木医師に雇われた数人が激しい活元運動を演じていた。あちこちで取材のフラッシュが稲妻のように走り、私は真っ黒な雲とやがてくるであろう雷雨をおそれた。目をぎらつかせた高木医師は、大きなダンボール箱より「小周天バンド」をとりだし、列をなす新会員に売りつけていた。

 果てた何もかもと
 高く低く叫ぶに
 その声に立ちどまるものなし
 黒い雲が空をおおい
 預言者のわたしは
 きたる雨に
 不吉な物語を
 雨の物語を説く


文書83
 胸の内で思うこと
 すべてかなえられないことばかり
 ならば去れと告げるに
 去らない

 私は会社の資料室の染みのついた絨毯の上に仰向けになる。固く閉じた目を、睫のからまりを感じながら、大きく見開く。白い漆喰に天井ははるか遠く、黄ばんだ部分は夕焼けにそまった雲のようである。
天井の横のレールに装着された照明ライトがすべて一斉に点灯され、その容赦ない光の洪水に、私は首をすくめ両の手で目を覆う。固く顔に当てていた手を緩め、そっと指を開くと真矢さんの顔がディレクター室のガラス越しに見えた。

 口を閉じて無音の言霊をさがす
 話せと告げる者もなく
 話そうとつとめることなく
 胸のうちに何かを求めて話す
 声のないかたらいは
 むなしくふるえて
 いつかくずれてしまう

 真矢さんは静かに螺旋階段を降りてくる。
 仰向けに横たわる私の白い布靴が、左の靴が、右の靴が剥がれ、さらには私の好きな向日葵色の靴下が、右の靴下が、左の靴下がそっと取り去られ、もがれた蝶の羽のようであり、私の足は蛹から脱皮したばかりのように、白く恥ずかしげに、降りそそぐ光のシャワーを浴び、濡れた産毛は光にざわめく。
 仰向けのまま、天の雲を見つめながら、尊師としての手ではない真矢さんの手を感じ、身を委ねようとする。洗面器に熱いお湯を入れてきた真矢さんは、私の片足を湯のなかにつけ、五本の指を一本ずつ丁寧に揉みほぐす。

 微かに開いた私の唇をみてください
 ことばを語れない唇ですが
 微かに吐かれる息を
 聞きのがさないでください
 ひとに閉ざされた胸のうちですが
 波うつ胸の震えを
 指先で感じとってください


文書99
 風もなく音もなく
 凍りついた空に星もなく
 その空の一点から赤い炎が落ちてきた
 下界をなめつくし
 また音も光もない世界となる
 あの一番暗いところへつれ去ってほしい
 叫んでも空からのことばは返ってこない

 ひれ伏した真矢さんの頭を抱え、私は愉気をそそぐ。激しくうち震えていた細い肩は微かに揺らぎ、真矢さんは静かに起き上がり正座し、心地よい活元状態に入っていった。
「手の会」の会場の人々はこの光景にため息をつき、私に愉気を求める。愉気をそそぐことのできなくなってしまった真矢さんに代わり、私が会員に愉気をそそぐ役割となっていた。
真っ白な作務衣姿の私は巫女のように彼らには見えたのであろうか、私の手により、人々は皆、簡単に活元状態に入っていった。人々の間を夢遊病者のようにさまよいながら、私は手かざしを続ける。
幼いころ「おさわり観音」といわれた私を、信者たちは「手かざし観音」と呼び、崇める。多くの人々に囲まれながら、私はかつてないほどの、あの霧に包まれていたころでさえ感じたことのないような孤独にあった。

 尊師の力はどこへいってしまったのだろうか

 他人の血を己の体内に入れてしまった真矢さんは、くずれてしまった。病院のベッドで意識を取り戻した真矢さんが、私の腕をつかみ真っ先に問いただしたことは輸血されたかどうかであった。
 私は忘れられない、あの真矢さんの絶望の目を。私の腕をつかんでいる自分の腕の輸血跡ですべてを知った真矢さんから、光が、輝きが失せていくのがはっきりとわかった。私はそうして告げるべき言葉を飲み込んでしまった。暗黒のベッドに、壁に向かい、人々に背を向けて横たわる真矢さんは、光を失い暗黒のなかに飲み込まれていきそうであった。
 癌の進行がとまらないと逆恨みした会員に真矢さんが刺されたと連絡を受け、私がその「手の会」の会場の近くの病院に着いた時は、すでに真矢さんは出血多量で意識不明の重体であった。他人の血を輸血されてまで生き延びるということは、真矢さんにはとうてい容認できないことであった。週刊誌に掲載された癌患者を数多く治したという高木医師の自慢話を真に受けた男は、家を売り払った札束を抱え、「手の会」に参加してきた。高木医師はこの男のために、小周天バンドに加え、「大周天リング」「不練周天腹巻き」という怪しげな機器を特製してあつらえた。高木医師により風呂に入ることを禁じられた垢にまみれた男は、やはり二十四時間つけっぱなしのため垢まみれとなったそれらの「奇跡」の鎧をまとい、尊師の愉気にすがり、奇跡を待っていた。

 真矢さんの光を奪ったのは私だ。「エホバの証人」の輸血拒否裁判が世間を騒がしており、輸血を逡巡した担当医は私に輸血をするかどうか尋ねてきたのだ。私はただ尊師を助けたかった、それがどんなに愚かなことか心のうちでは知っているのに。
 そして真矢さんは命をとりとめたが、心は死んでしまった。

文書81
 するどい目
 するどい顔をして
 一点をみつめる
 今日だけは
 自分をにらみつける

 新しく改良したという小周天バンドを発表した高木医師の苦痛に歪んだ顔を、私は思い浮かべる。浅はかな高木医師は100ボルト電源の小周天バンドを開発し、多くのマスコミ、会員の前で自らを被験体として、お披露目したのだ。小刻みに身体が揺れ、静かな活元状態に入った高木医師は、ほどなく激しい活元状態に入り、さらには痙攣状態となった。何も知らない聴衆は拍手し、カメラのフラッシュが瞬いた。「手の会」の会場で、小周天バンドを頭につけ、孫悟空がお釈迦様に頭を締められるように、天の怒りの、私の憎しみの、一億ガウスの磁気に、白目を剥いて悶絶していった男など、もう忘れなければならない。



六.最後の文書

「今日はありがとう」
 レラは、今日はいつもの露出の多い服装ではなく、Gパンに白い木綿のシャツだ。こんな清楚なレラもいいなと僕は思う。もう病院は目の前だ。
 霧のような雨が降りしきっている。
「物語の初めと終わりは、いつも雨」、どこかで聞いたフレーズが頭をよぎる。

 レラの母親の病状が悪く、それほどもたないと聞いて、レラについて僕は初めてレラの母親を見舞うことにしたのだ。横浜市内のその病院は患者を安心させるには十分な大きさだった。
「遠藤つぐみ」
 病室のドアに掲げられた名札を僕は声にだして読む。四人部屋の病室には、レラの母親ともう一人の患者の二人が、入院していた。
「お母さん、見舞いにきたよ。こちらは彼氏」
 えっ、僕が彼氏? たしかに僕とレラは付き合っている。何だかうれしくもあり、恥ずかしかった。
おそらくレラは母親を安心させようと、一見好青年風の僕を彼氏と紹介しただけだろう。母親はレラの呼びかけにこちらを向いたが、何もしゃべらない。その母親の、背後まで透けて見えるような透明な顔に僕は息を飲んだ。
 これが死に行く人の透明感か、そこには何の悲しみも怖れも見てとれない。
 母親は僕をじっと見つめている。この目はどこかで見たことがある、間違いない、どこだろう。確かにレラの目に似ているが、透明感がまったく違う。

「えっ」
 母親が無言で僕を小さく手招きしているではないか。僕とレラは母親のベッド脇に近づき立ちつくす。柔らかな手が僕とレラの手をとり、その手は僕たちに語りかける。
母親の手は暖かくも、冷たくも感じられ不思議な感触だ。彼女は静かに目を閉じ、さらに僕たちに無言で語り続ける。僕の身体にこれまで経験したことのない稲妻のような刺激が走った。それは痛くなどなく、逆に心地よい稲妻だった。そして、僕の脳内に煌めく映像が走り回った。母親の左手首の深い古い傷跡がブレスレットのように見える。

「お母さん」
 レラが叫び、母親の手から光が消えていった。僕は母親の、死の直前の無言の語りかけを確かに聞いた。そして、すべてを悟った。

「この人はあの少女だ!」

 病室の窓ガラスの雨の雫が、レラの涙が、僕の涙が、静かに物語を終わらせる。
「いわなければいけないことがあるの」
 いいんだ、レラ、もう何もいわなくてもいいんだよ。
声に出さずに、僕はあの少女がしたように下唇を噛む。そして、少女の物語が終わったことを理解する。


文書11
 熱かった湯がすっかり冷めてしまっても、真矢さんはまだ私の足を洗い、丹念に指を揉みつづけている。資料室のなかに、湯の音だけがなまめかしく防音壁に吸い込まれていく。
 私の責任なのだ、私のせいなのだ、真矢さんから光を奪い取り、輝きを失せさせたのは。
力を失った真矢さんだが、私にとってはいまでも尊師であり、あってほしく、あらねばならない。いま、真矢さんを導いてあげることは、私の使命であり、真矢さんへの愛であり、私にしかできぬことであろう。
 感情のかけらもなく私の足を洗いつづける悲しい人に、天のことばを告げなければならない、
たとえ血がでるほどはげしく下唇をかみながらも、告げなければならない、たとえこれが最後の手かざしとなっても、天のことばを告げ、救わなければならない。

 知った時より
 心の中の人だった
 だから今も心のなかで生きる
 私が死ぬ時
 心の中の人も息絶える
 同じ運命の命

 死ぬまで失われない二つの命
 生まれた時から持っている命と
 心に生きると信ずる命

 大切がゆえに
 隠して知らさない
 心のうちに秘め
 ただ同じ血を
私の与えた汚れた血を
 ここに ともに流そう



(完)






【参考文献】
野口晴哉 「健康生活の原理 活元運動のすすめ」(全土社)
野口晴哉 「風邪の効用」(全土社)
干 永昌  「潜在能力開発気功」(新人物往来社)
久保紘章 「天の鐘」(ルガール社)
別冊宝島 「気は挑戦する」(JICC出版)
人体科学会 掲載議事録 No.2
唐内道真 「宗教か心理療法か」(風媒社)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?