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インスタストーリーアレルギー

目の前でモンブランを絞ってくれるカフェに行きました。

動画撮らなくていいのかい?と祖母に言われ、店員さんにもどうぞ〜☺️と言われてしまった。
撮りたいと思ってなかったけど、2方向からの撮りなよという矢印が向けられたら、確固たる信念を持って撮りたくない訳でもない私は撮るしかなくなってしまう。

それでもなんとなくの反骨心は抜けないもんで、なんとも微妙な画角で撮ってしまった。 全てが中途半端。

カメラを構えて画面越しにモンブランが絞られていくのを見ると、一枚スマホというレイヤーを挟んだからか、わーって思うより先に、こういうところで働くと顔をSNSにあげられちゃって大変だなぁとか、ただのカフェよりエンターテイメント性が求められて大変だなあとか考えてしまってダメでした。
SNSの画角になってしまうからでしょうか?

どこか実体験からかけ離れていく感じがある。目の前で起こっていなそうな感じ。

モンブランを口に運びながら、なんでみんなはSNSに、特にインスタのストーリーにこういう動画をあげるんだろうとずっと考えてしまいました。

わかりやすい理由としてパッと考えつくのは、自慢とか、自分の体験をみんなに共有したいからとか。でもなんとなくだけど、どっちとも違う気がする。
自慢みたいなちょっと歪んだ?卑屈な?浅ましい?考え方をする人はインスタにはいない気がする。少なくとも友人/知り合い間に向けて運営してる人の中には。

ただ、”みんなやってるから”でやっていそうだなと思った。

私はこんなおしゃれなカフェに行ったんだということよりも、そこのトイレの冷房が異常に強かったことの方がストーリーにあげたくなっちゃう。
あとコップの影がコースターとまるきり同じサイズだったとか。

いま言ったのもだけど、自分のインスタのストーリーは隣に人がいたらあげなくていい内容だなっていつも思う。

ねーみて、とか、ねーきいて、って会話すれば、この共有したさは消費されてあげる必要もない。もっと多くの人に言いたければあげちゃうかも。

だから私のSNS更新頻度は現実の充実度に左右されてます。すごいエンジョイしてたら一切あげない。めちゃくちゃ楽しくてそこで完結している場にいたら、その場にいない友達に話しかける必要ないから。
もしかして、私が極狭のアカウントでないと好き勝手できないのは、誰かに話しかけてる気持ちでいるから、なのかもしれない。顔見知りぐらいの人に100%自分を曝け出して会話なんでできないみたいな感じで、まあある程度何でも話せるよなっていう人に向けてしゃべっている感覚なのかも。

他の人も、会話の延長なのかなぁ。
えーそこ行きたい!とか、えーそこ行ったよ!とかおいしそー!が返ってくることを想定してるのかなぁ。
うーん、ここまで具体性は持ってない気がするけど、そうなのかもしれない。

ただ、なんとなくインスタ聡明期に始めた人はそう(会話の延長)だったんじゃないかって思った。
私が”人に共有したい話題として出したい内容”と、他の人たちの”出したい内容”(化粧品とか、行った場所とか、彼氏彼女とか)が違いすぎたせいで、わかりにくくなってただけで、
根底にあるのは同じなのかもな。

今は映えとかイケてるひとの模倣としてストーリーを上げてる人も多そうだから理由がわからないのかもって思った。上げることが目的になってる人もいそうだし。
ストーリーが一般化されて、なんであげるのかを考えなくなった人が増えたのかも。

人の数だけ理由はあるだろうし、とある人は見えてないところで別垢の運営をしていてそこでは違うストーリーを上げてるのかもしれないし、こんなことは考えたって無駄なのですが、無性にどうしてだろうと思って仕方がないのです。

モンブランは美味しかったです。
家に帰ってから、ストレージがいっぱいだったので微妙な画角の動画を捨てました。

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