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12世紀 平ノ清盛の略年表と、平ノ清盛の家臣団と軍団

平ノ清盛 公 肖像のつもり

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1156年「保元の乱」「武者の世のはじまり」『愚管抄』 -慈円-


平ノ清盛の略年表(1118~1181) 伊勢平氏。従一位・太政大臣。平家の惣領。


11歳(1129) 1/*:清盛、元服。 父・平ノ忠盛、海賊討伐に勲功。
13歳(1131)鳥羽院、平ノ忠盛昇殿。「殿上闇討ち事件」。<武士の初昇殿>
17歳(1135) 海賊討伐で活躍。
20歳(1138) 平ノ重盛誕生。熊野社普請に功有、「肥後守」に任官。
27歳(1145) 正室に、平ノ時子を迎える。
28歳(1146) 「安芸守」任官。
29歳(1147) 源ノ頼朝誕生。祇園社で乱闘事件。
35歳(1153) 平ノ忠盛死去。清盛跡職継承。
36歳(1154) 鎮西八郎為朝が九州にて兵乱(1151~1155)

37歳(1155) 4/11:源ノ為義解官。義朝が継承。後白河天皇即位。源ノ義賢、甥の悪源太義平に討たれる。

38歳(1156) 7/11:「保元の乱」一門の平ノ忠正を討伐。「播磨守」任官。9/2:鎮西為朝、伊豆大島配流。

39歳(1157) 3/19:奥州の藤原基衡、没。
40歳(1158) 8/10:太宰大弐任官。
41歳(1159) 12/9:「平治の乱」源ノ義朝と抗争、藤原信西が討たれる。12/27:源ノ頼政が寝返り、勝敗決す。源ノ頼朝伊豆に配流。

42歳(1160) 3/11:頼朝を伊豆に配流。安芸厳島参拝。新熊野社を造営。
43歳(1161) 「中納言」任官。妹・滋子が出産(のちの高倉天皇)。
44歳(1162)
45歳(1163)
46歳(1164)
47歳(1165) 二条天皇崩御。
48歳(1166)
49歳(1167) 「太政大臣」任官。
50歳(1168) 清盛出家。新厳島神社を造営。
51歳(1169) 福原に別荘造営。

52歳(1170) 平ノ重盛、息・資盛の復讐に、藤原基房に報復。後白河法皇福原巡幸。宋国特使来日。
53歳(1171) 高倉天皇に、徳子入内。
54歳(1172)
55歳(1173) 大和田泊に経ケ島を造営
56歳(1174) 3/19:後白河法皇・平ノ清盛、厳島参拝。
57歳(1175) 10/14:清盛・重盛・時子・徳子、平家一門厳島参拝。
58歳(1176)
59歳(1177) 6/*:後白河法皇の側近衆「鹿ヶ谷の密議」(平家政権転覆計画)

60歳(1178) <清盛と嫡男・重盛との関係冷却、次男・宗盛の擁立> 平ノ徳子(建礼門院徳子)、男子(のち安徳天皇)を出産。

61歳(1179) 重盛、病没。清盛、武力的に政権奪取。貴族43人の官職を没収。後白河法皇幽閉。

62歳(1180) 安徳天皇即位。3/26:清盛・徳子一門厳島参拝。4/*:以仁王の令旨。5/*:摂津源氏、頼政の挙兵。「以仁王の反乱」。「宇治川の合戦」に平家勝利。6/*:福原遷都。8/*:頼朝、伊豆で挙兵。 鎮圧軍に坂東大庭氏 9/*:木曾義仲挙兵。「南都(大和)征伐」。平ノ重衡「東大寺・興福寺」焼き討ち。関東征伐、「富士川の合戦」に平家軍敗北。

63歳(1181) 清盛、没。

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平ノ清盛の家臣団と軍団

 ⇔印は別ページにも登場する武将。
備前守・播磨守家の家人(内衆)
 1179年平ノ清盛の政変(革命)、後白河法皇の幽閉~1185年平ノ宗盛斬首まで。

平ノ清盛 (1118~1181)播磨守・正三位参議・内大臣・太政大臣・入道(浄海)相国。忠盛の嫡男(白河法皇の落胤カ)。弟に家盛。前室は高階基章の娘。後室は平時信の娘(時子)。義弟に時忠。父の死により家督36歳。「保元の乱」に後白河方。1159「平治の乱」に義朝に勝利。1160年「公卿」に列する。1167年「太政大臣」。1168年「厳島神社」造営。平家一門の公卿10余人、殿上人30余人で知行国は日本の半分を占めると言われた平氏の全盛期を創り上げる。大輪田(のち兵庫湊)の泊りを開発し日宋貿易を行う。1177年院近臣による謀反「鹿ケ谷事件」。後白河法皇との対立が深まり、法王を幽閉する。孫の安徳天皇即位。高倉上皇後見。1180年摂津「福原遷都」。後白河の息(3男)以仁王の挙兵により反平家の気運が全国に波及する。1181年平ノ盛国邸にて「頼朝の首を我が墓前にかけよ」と言い残し熱病により死去。娘(建礼門院)婿に高倉天皇。

<家宰・執事>

平ノ時忠 (1127~1189)「平関白」・大納言。平ノ時信の息(長男)。時子の弟(姉の時子は平ノ清盛の室)。妹の滋子は後白河院の室。高倉天皇の舅となる。1162年二条天皇呪詛事件に連座し出雲配流。1169年藤原成親の事件に不服を申し立て出雲配流。1174年従二位に任官。1185年平家滅亡後に義経に接近し、危険視した頼朝の命にて能登に配流された。<「この一門(平家)に あらざるものは皆 人非人たるべし」と言い放ったとされる人物。子孫は能登の時国家として続く。>

藤原邦綱 (1122~1181)蔵人頭・検非違使・権大納言・「五条大納言」・国綱。藤原北家良門流。右馬権助・盛国の息。藤原公能の娘婿。藤原忠通の家司。和泉・越後・伊予・播磨・周防・壱岐・遠江の受領。1166年近衛基実の遺領を盛子に相続させ、九条兼実と対立。息・清邦は清盛の養子となる。息に基行、長綱、忠綱。

藤原能盛 (*)少監物・壱岐守・安芸守・周防守・能守・義守・(義盛)・入道。平ノ清盛の家人。1162年福原検地奉行。太宰大弐・清盛の代官として九州を管轄。1158年宇佐神宮普請奉行。<同時代、後白河上皇の側近に同姓同名(周防守)の人物がいるので事績の混同に要注意です。><清盛の側近の重要人物ながら謎が多い。><六条天皇の母、伊岐大蔵大輔・致遠(宗遠)の娘。父の伊岐義盛・兼盛・善盛と呼ばれるこの人物は・・。壱岐守・能盛だったりしないでしょうか?。><能盛の出自は源氏に近い藤原氏の藤原資通の子孫だったりしないのでしょうか。源ノ義忠の縁で平家方についた藤原氏もいるのでは?><例えば鎮西為朝に従った九州の須藤(藤原)家季の一門とか。鎌倉時代に頼朝の敵方は事績が消されたりしないのでしょうか。><公家の藤原定長が、藤原安芸守・能盛の娘と結婚し、藤原清長(1171~1214)が誕生しています。>

土御門通親 (1149~1202)源ノ通親・久我・内大臣・「飛将軍」。村上源氏。内大臣・源ノ雅通の息。弟に通資。清盛の弟・平ノ教盛の娘婿。のち後白河の側近。

高階基章 (*)(源ノ)・右近衛将監。但馬守・源ノ家実の息。母は高階為家の娘。叔父の高階為章(白河院の寵臣)の養子となる。近衛府の役人。1136年右近衛将監に任官。1138年頃平家嫡男・清盛と縁談。娘(実は藤原忠実の落胤とも)婿に平ノ清盛。息に為泰。孫に忠盛、基盛。<源ノ義家の側近にも高階氏あり、子孫は足利家執事の高師直など、高階家は武門と関わりが深い一族です。>

高階為泰 (*)近衛将監。基章の息。1142年近衛将監。平ノ清盛と義兄弟。甥に平ノ重盛。

<準一門衆・御由緒家> 伊勢平氏
北陸方面軍(越中方面軍)。


平ノ盛国 (1113~1183)主馬判官・検非違使・左衛門尉・主馬署首・伊勢守。平ノ盛遠の息(平ノ季衡の息とも)。伊勢平氏。平ノ家貞没後、平家準一門(臣下に降る一門)の長老。清盛の家宰として家政に重きをなす。「保元の乱・平治の乱」に息子・盛俊とともに奮戦。1165年検非違使に任官。続いて東宮の主馬署の長となる。清盛は京都九条河原口の盛国邸にて没した。平家都落ちに都に残り捕縛される。平ノ宗盛とともに鎌倉に護送される。岡崎義実に預けられるが、後に断食して命を絶つ。74歳。息に盛俊、盛信、盛久。

⇔▽平ノ盛俊 (*~1184)左衛門尉・越中守・越中前司。清盛の家宰・平ノ盛国の息。伊勢国壱志郡の領主。準一門(臣下に降る一門)。清盛の側近として処務にあたる。平ノ重盛の側近。「保元の乱」に従軍。「平治の乱」に従軍。1181年平ノ清盛は父・盛国の屋敷で病没する。北陸木曾義仲討伐軍。「景家・忠経と並ぶ勇者」とされる。反平家の勢力に対し丹波国諸荘園総下司として山陰道を抑える。のち東海道尾張、1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。1183「倶梨伽羅峠の合戦」に従軍。1183年退却戦「篠原の合戦」に参陣。落合兼行と抗戦。「一ノ谷の合戦」で猪俣小平太・則綱に討たれる。息に盛綱、盛嗣。<北陸方面軍の旗頭。>

平ノ盛嗣 (*~1194)越中・次郎兵衛・盛継・盛次。盛俊の息(次男)。準一門(臣下に降る一門)。気比道弘の娘婿。1180年「以仁王の乱」鎮圧に出動。1181年平ノ知盛に従い源行家軍を破る。1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。1183年平ノ維盛に従い北陸遠征。。1183年退却戦「篠原の合戦」に参陣。「水島の合戦」に義仲軍大将・足利義清を討ち取る。「一ノ谷の合戦」、1185年「屋島の合戦」に先陣。「壇ノ浦の合戦」に生き延び、但馬国城崎郡気比荘の気比道弘に匿われる。朝倉高清に捕縛される。鎌倉にて処刑された。<山陰方面軍の旗頭か。>

平ノ盛綱 (*)高橋盛綱・越中判官・左衛門尉・主馬頭・讃岐守。準一門(臣下に降る一門)。盛国(または盛俊)の息。平ノ重衡の家人。「墨俣の合戦」にて源ノ義円を討取る。1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。のち木曽軍と抗戦するという。<四国方面軍の旗頭か。>

平ノ範高 (*)越中権守。平家家人。1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。1183「倶梨伽羅峠の合戦」に従軍。<越中前司・盛俊の跡職を継承したか。><詳細不明。越中守・平ノ業家との関係も気になります。>

(紀伊方面軍)


平ノ盛久 (*)右衛門・左衛門尉・主馬頭。平ノ盛国の息(三男)。平家家人。紀伊国に所領。1185年「壇ノ浦の合戦」に敗北し逃走。1186年平家残党として捕縛される。<「一ノ谷合戦」に堀近経に囚われるとも。「壇ノ浦」の後に盛嗣とともに京都に潜伏するとも。>

平ノ貞房 (*)庄田貞房・三郎。平家家人。伊勢平氏。平ノ貞季の孫。<詳細不明。>

(摂津方面軍)


平ノ盛澄 (*~*1185)太三郎・男左衛門・左衛門尉・検非違使・摂津判官。平家家人。盛信の息。1168年検非違使。1180年源ノ季貞とともに河内源氏の石川氏(二条義資)を攻撃。1185年「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。宗盛、藤原景経、源ノ則清、平ノ貞経とともに鎌倉へ護送される。<摂津判官か?。盛の字を通じとする一門衆の家系といえば・・。男左衛門=のち男平六と称する三浦義村を連想しますが、三浦氏と関連ある人物なのでしょうか。>

準一門衆・惣領(備前・播磨守家)執事家 伊賀平氏


平ノ盛光 (*)伊勢平氏。平家家人。盛国と兄弟。息に貞光。<詳細不明。盛光は季衡流。貞光の息・家房が貞季流の養子となるか。>

平ノ貞光 (*)木工助・右馬允。伊勢平氏。平ノ盛光の息。貞季に養育される。平ノ盛俊の従兄弟。平家家人。平ノ正盛に出仕。息に季房(家房)。孫に家貞。<詳細不明。貞季→正季→範季の跡職を家房が継承するか。><碓井貞光と同名。武名にあやかるか。>

平ノ季房 (*)しんの・三郎大夫・家房。伊勢平氏。貞光の息。平家家人。平ノ正盛に出仕。忠盛の家臣。貞季流の範季の跡職を継承。息に(柘植)季宗、家貞、家季。

平ノ家季 (*)富田。伊勢平氏。季房の息。家貞の兄弟。平家家人。

平ノ家資 (*)富田進士・家助。伊勢平氏。家季の息。貞能の従兄弟。平家家人。<戦国時代の明智家臣に進士氏あり。>

(九州方面軍)


平ノ家貞 (1084~1167)筑後左衛門・左衛門尉・(筑後守?)。伊賀平氏。伊賀山田郡平田の豪族。平ノ季房(家房)の息。忠盛からの老臣。平氏一族だが臣下に下る。忠盛の執事として、諸政を取り仕切る。1155年筑後守、大宰府平家代官。清盛36歳の時に忠盛が死去し、以後清盛の補佐に務める。1156年「保元の乱」に活躍。1159年「平治の乱」に源ノ義平と六波羅にて合戦。同年、九州に遠征し肥前の日向通良を討伐。息に家実、家継、貞能。<九州大宰府の監察官。1154~1155年頃鎮西為朝の追討使か。>

平ノ貞能 (*)左兵衛・肥後守。鎮西探題。伊賀平氏。家貞の息子(次男)。平家家人。1156年「保元の乱」に活躍。九州の鎮定に勤める間に、木曾義仲が台頭する。肥後の菊池隆直を討伐。菊地隆直、板井種遠、原田種直、山鹿秀遠を率い上洛。豊後の大神惟栄に大宰府を奪取される。1184年の平家西国落ちの間に平氏一門に失望し、平家軍から離れ出家する。のち罪を赦され宇都宮朝綱の家人となる。息に貞頼、貞経。<父の跡職を受け1159~1183年にかけて鎮西探題か。大宰府の藤原義盛(能盛)との関係が気になります。>

▼平ノ貞頼 (*)貞能の息。弟に貞経。平家家人。

▼平ノ貞経 (*)貞能の息。兄に貞頼。平家家人。1185年「壇ノ浦の合戦」に敗北し捕縛される。

⇔▽平ノ貞俊 (*)筑前守。平家家人。筑前国司。東国追討使。木曾義仲追討軍。<詳細不明。九州の重鎮、平ノ家貞の一門か。>

⇔▽平ノ時盛 (*)長野時盛・豊前守・(駿河守?)。正盛の息。平ノ忠盛の弟。清盛の叔父。平家家人。息に康盛。<地図上の位置的には遠江守。戦国時代伊勢の国人に長野氏あり。ほかにも上野国人に長野氏あり。豊前に長野氏あり。>

平ノ康盛 (*)長野康盛・修理判官・豊前権守。忠盛の弟・平ノ時盛の息(6男)。平家家人。1157年「保元の乱」の軍功により豊前国司。

(伊賀大和方面軍) 大和(南京)の勢力を威嚇するための軍事力か


平ノ家継 (*~1184)平田家継・入道・家次。平ノ家貞の息。伊賀国山田郡平田荘を領する。平家の軍事力の中核として伊賀・伊勢の旗頭。1180年「以仁王の挙兵」鎮圧に出動。1180年反平家各地の挙兵鎮圧に出動し、近江甲賀に乱入。手嶋冠者・源ノ高頼、柏木義兼を討つ。1183年京都に侵攻する源ノ行家軍を撃退。1184年関信兼、伊藤忠清とともに伊賀・伊勢にて挙兵。佐々木秀義を討ち、大内、山内を追放するが、大内惟義の反撃に鎮圧される。平田城主。

↑▽平ノ家長 (*1152~1185)伊賀家長・服部・伊賀平内左衛門・左衛門。伊賀平氏。平ノ家貞の一門(親子とも)。平ノ知盛の乳兄弟。平家家人。北陸遠征に従軍。「室山の合戦」に第二陣の将。1185年「壇ノ浦の合戦」に乳兄弟・平ノ知盛とともに自害。<高橋長綱が弟とすれば、平ノ盛俊の息ということになってしまいます。系図が混乱しているようです。><戦国美濃の武将・安藤守就が伊賀平左衛門と称するのは彼にあやかってでしょうか。><家長の子孫は子孫は(伊賀の)服部氏を称するようです。>

平ノ長綱 (*~1183)高橋長綱・伊賀・服部・判官。伊賀平氏。平ノ家貞の一門(親子とも)。伊賀家長の弟。平家家人。1180年「以仁王の乱」鎮圧に出動。北陸遠征に従軍。「篠原の合戦」に戦死(または倶梨伽羅峠)。<北陸方面軍所属。><平ノ盛俊(または盛国)の息・高橋盛綱の養子となるか?。><南北朝時代に足利執事・高ノ(高階)氏の家臣に高橋氏あり。><戦国時代の安芸・石見にまたがる有力国人に高橋氏あり。>

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平家一門の支配国  平家郎党、清盛の侍大将
(越中方面軍)


館ノ貞保 (*~1183)平ノ貞保・太郎・貞康・貞安。伊勢平氏。平家家人。越中館荘を所領に持ち館姓とする。1159年「平治の乱」に参陣。1180年「富士川の合戦」従軍。1183年北陸遠征に従軍し戦死。<平家累代の家臣のようです。>

館ノ貞景 (*)平ノ貞景・十郎。伊勢平氏。平家家人。1159年「平治の乱」に参陣。<平家累代の家臣のようです。>

(山陽道方面軍)


難波経遠 (*)(平ノ経遠)・次郎・大夫。吉備津彦神社神職。備前国の豪族。難波経信の息。平清盛の直参郎党。「保元の乱」に活躍。1159年「平治の乱」に参陣。1160年京都に潜伏する源ノ義平を捕縛する。<平家累代の家臣のようです。>

難波経房 (*~1168)(平ノ経房)・三郎。吉備津彦神社神職。備前国の豪族。難波経信の息。経遠の弟。平清盛の直参郎党。1156年「保元の乱」に活躍。1159年「平治の乱」に参陣。京都六条河原にて源ノ義平処刑の奉行。落雷により事故死。<平家累代の家臣のようです。>

妹尾兼康 (*~1183)(平ノ兼康)・瀬尾・太郎。備中の豪族。平清盛の直参郎党。1156年「保元の乱」に活躍。1159年「平治の乱」に参陣。木曾義仲に捕縛されるが脱出し、備中で挙兵する。<平家累代の家臣のようです。>


平安期 桓武平氏の系譜


平家郎党、伊勢藤原氏 
「富士川」敗戦の平ノ維盛と伊藤忠清、敗戦責任問題での対立。
佐藤公清の曾孫・伊藤基景が始祖。

↓△伊藤景綱 (*)(平ノ景綱)・古市・伊藤武者・伊藤五。藤原秀郷流。伊勢の国人、古市荘の豪族。藤原基信の息。平ノ清盛の家人。1156年「保元の乱」に活躍。1159年「平治の乱」に参陣。息に忠清、忠直、有房、景家、(大日房)能忍。<伊勢の藤原で「伊藤」となるそうです。準平家一族として平姓も下賜されているようです。「平家であらずば人にあらず。」ということでしょう。>

↓▽伊藤忠直 (*~1156)(平ノ忠直)・藤原・伊藤六。藤原秀郷流。藤原景綱の息。兄弟に景家、忠清。平家家人。1156年忠清とともに「保元の乱」に活躍。源ノ為朝の射撃により戦死。<弟の景家が、伊藤六を継承するようです。>

⇔↓藤原清綱 (*)伊藤・伊勢守・(桑名清綱・平ノ清綱?)。伊勢国司。平家の家人。1180年反平家の鎮圧軍を率い知盛(近江へ)、資盛(伊賀へ)とともに出陣。清綱は伊勢国内の鎮圧を担当。園城寺を焼き打つ。<伊勢平氏の桑名清綱と同一人物か。一時「伊勢守」に就任か。古市の伊藤氏とは縁戚関係があるか?。>

(上総方面軍) 

同族の秀郷流・山内首藤家との関係が気になるところです。奥州藤原家臣・佐藤家とも縁戚・・。

⇔↓伊藤忠清 (*~1185)(平ノ忠清)・藤原・伊藤五・上総守・上総介・侍所別当・忠景。藤原秀郷流。古市豪族・藤原景綱の息。平家の家人。1156年忠直とともに「保元の乱」に活躍。「坂東八カ国の侍別当」。1180年「以仁王の乱」鎮圧に出動。1180年「富士川の合戦」に平ノ維盛を補佐。1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。1183「倶梨伽羅峠の合戦」に従軍。1183年退却戦「篠原の合戦」に参陣。今井兼平と抗戦。失脚し平家から離れる。1184年伊勢での平田家継の挙兵に参加。1185年加藤光員の郎党に捕縛され京都にて処刑された。息に景清、忠光、忠綱、光景。<後世の例えでゆうなら平家の関東管領ですね。伊勢の藤原で「伊藤」となるそうです。準平家一族として平姓も下賜されているようです。「平家であらずば人にあらず。」ということでしょう。><白河院の近臣で淡路守・忠清とは一世代程時代が違う為、別人か。源ノ為義が娘婿なんてことは・・。>

↓▼伊藤忠綱 (*~1183)(平ノ忠綱)・藤原・兵衛尉・上総太郎判官・上総大夫判官・上総判官・忠経。藤原忠清の息(嫡男)。平家家人。1180年「以仁王の乱」鎮圧に出動。1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に戦死。<争乱初期に戦死したため、弟が上総介を継承したのでしょうか。>

↓▼伊藤忠光 (*~*1192)(平ノ忠光)・藤原・伊藤・左兵衛尉・上総五郎兵衛・上総五郎。伊勢平氏(実質的な関東管領職に就任した)伊藤忠清の息(五男)。平家の侍大将。1180年以仁王、源ノ頼政の謀反を鎮圧する。北陸遠征軍に従軍。1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。1183年退却戦「篠原の合戦」に参陣。「室山の合戦」に第三陣の将。1185年「壇ノ浦の合戦」に敗走。その後紀伊国に潜伏。永福寺造営に絡み頼朝の暗殺機会を伺うが捕縛され処刑される。


≪個人的感想≫
伊藤氏は藤原秀郷流ということで、当時勢いのあった、波多野氏・山内首藤氏・信夫佐藤氏、そして長井斎藤氏(縁戚)など、
武家の藤原氏と結びつくうえで、重宝されたのではないでしょうか。
伊勢平氏の桑名氏が、伊勢のどこかの神職にある藤原氏(伊勢藤原・伊藤)と血縁的関係を結び、伊勢守・藤原清綱(平ノ清綱)という人物が存在したのかと・・。
頼朝が山内首藤氏を伊勢に配置するのも、一族討伐に向かわせ踏絵的に忠誠心を試しつつ、伊勢の勢力を懐柔せよという意味があったのでは。
その他に山内氏が配される、備後なども平家の時代から、伊藤氏の勢力があった所縁の場所かもしれません。


平家の同盟者支配国
源氏系 平ノ正盛は源氏嫡流・源ノ義忠の岳父


源ノ為長 (*)民部太輔・紀伊守。平家の家人。息に為憲。1156年「保元の乱」に参陣。<源氏ながら平家累代の家臣のようです。源ノ義家の嫡男・義忠の縁でしょうか。>

源ノ為憲 (*)太郎。紀伊守・為長の息。平家の家人。1156年「保元の乱」に参陣。<源氏ながら平家累代の家臣のようです。平氏の婿となった源ノ義家の嫡男・義忠の縁でしょうか。>

源ノ真弘 (*~1159)内兵衛。平家の家人。近江守山の豪族。1159年「平治の乱」に参陣。落ち武者・源ノ頼朝に敗北し戦死。<近江源氏?長田と同じく落ち武者狩りに走るか。>

<後白河院側近兼任、「北面の武士」>


源ノ則清 (*~*1185)美濃守・判官・検非違使。右馬允:豊原章実の息。美濃源氏・源ノ光遠の養子。平家の家人。1585年「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。1185年平ノ宗盛とともに鎌倉に護送される。息に則種。<義朝の家人・八島冠者との関係が気になります。><息・則種は幕府御家人に。のちに土岐氏か。>

⇔↓源ノ季貞 (*~*1185)飯富庄司・右衛門尉・判官・検非違使。満政流清和源氏。若狭の豪族で平ノ忠盛の家臣・源ノ季遠の息。平ノ清盛の家人。平ノ宗盛の側近。後白河院「北面の武士」。上総飯富庄を領する。稲沢盛経とともに河内源氏・源ノ義基(義忠弟の子孫)を討伐する。1181年平ノ盛澄とともに九州の鎮定に向う。1185年「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。1185年平ノ宗盛とともに鎌倉に護送される。<平家方の源氏旗頭のようです。>

稲沢盛経 (*)源ノ・散位・小源太・兵庫大允。平家の家人。義忠の嫡男・河内経国の息。後白河院「北面の武士」。盛経は下野の叔父・義国と、舅の児玉経行の後援で武蔵河内(稲沢)荘を開発。源ノ季貞とともに河内源氏・源ノ義基(義時の息)を討伐する。1183年木曾軍との「篠原の合戦」に戦死。<河内秀国の一門か。><検非違使になったてなら河内判官と呼ばれてもおかしくない人物です。>

<その他、由緒家>


平ノ維繁 (*~1167)右衛門尉・検非違使・惟繁。隠岐守・繁賢の息。1156年「保元の乱」に平ノ清盛軍とは別部隊を率いて後白河院方に参陣。

平ノ実俊 (*)判官・検非違使。平家の家人。1156年「保元の乱」に参陣。関信兼とともに清盛軍から独立して部隊を率いる。後白河の命で出家する重仁親王の護衛を担当。

東条* (*~1159)五郎。安芸の豪族。平家の家人。1159年「平治の乱」に参陣。斎藤実盛に敗北し戦死。<平家累代の家臣のようです。>

大木戸* (*~1159)八郎。讃岐の豪族。平家の家人。1159年「平治の乱」に参陣。後藤実基に敗北し戦死。<平家累代の家臣のようです。>

河内秀国 (*~1183)判官・検非違使・季国。平家家人。1180年「以仁王の乱」鎮圧に参陣。北陸遠征に従軍。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に戦死。<源氏の嫡流家で。平ノ正盛の婿だった総領・源ノ義忠の子孫が、河内判官と代々尊称されていたらしいです。歴史から抹消された源氏嫡流でしょうか。義朝に属した河内経国(*~1156)の子孫かもしれません。義忠の弟の子孫で土着した河内石川源氏とは敵対関係か。>

武蔵有国 (*~1183*1185)(平ノ有国)・三郎・武蔵三郎左衛門・(武蔵守?)。平家の家人。1180年「以仁王の乱」鎮圧に参陣。北陸遠征に従軍。1183年退却戦「篠原の合戦」に参陣。野宮光宗に討たれる。<「壇ノ浦の合戦」に参戦し戦死とも。><立場的には義朝の関東進出により圧迫を受けていたようです。><河内経国の息・稲沢盛経は下野の叔父・義国と、舅の児玉経行の後援で武蔵河内(稲沢)荘を開発。武蔵有国はその一門なのかもしれませんね。><平ノ有盛の息に平ノ有国、その息に平ノ(山田)有経。平ノ有国に相当するか。>

画像4

平家一門 清盛 子息の家臣団 


(平ノ重盛・維盛の家人)←別ページに詳細あり。

新藤家泰 (*~1159)平ノ・左衛門。平家家人。平ノ重盛の家人。1159年「平治の乱」に参陣。重盛を退却させ、義平と組み討つ。鎌田正清に敗北し戦死。<藤原姓?。重盛に忠節の武将。>

平ノ景安 (1137~1159)平ノ・興三兵衛・与三左衛門尉・景泰・景康。平ノ重盛の家人。1156年「保元の乱」に参陣。1159年「平治の乱」で重盛を守り、源ノ義平に敗北し戦死。<重盛に忠節の武将。>

平ノ重景 (1157~1184)平ノ・興三兵衛・与三兵衛。平ノ重盛の家人。維盛の乳兄弟。維盛と常に行動を共にする。維盛に従い入水自殺。<親子二代に渡り主家に忠節。>

平ノ宗親 (*~1183)源ノ・安房守。源ノ有仁の息(養子か)。平ノ維盛の側近。「一ノ谷の合戦」敗戦後に平ノ維盛とともに高野山に出家。<詳細不明。>

(平ノ知盛の家人) 伊勢藤原


伊藤景清 (*~1196)平ノ景清・藤原・伊藤・悪七兵衛。伊勢平氏(実質的な関東管領職に就任した)伊藤忠清の三男。平家の侍大将。平ノ維盛、知盛の家人。1180年安徳天皇の滝口の武者。以仁王、源ノ頼政の謀反を鎮圧する。三保谷十郎の兜のしころを引き千切る武功が有名。北陸遠征軍に従軍。1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。「室山の合戦」に第三陣の将。「壇ノ浦の合戦」後も生き延びる。1196年「平ノ知忠の挙兵」に参陣。<伊勢の藤原で「伊藤」となるそうです。準平家一族として平姓も下賜されているようです。「平家であらずば人にあらず。」ということでしょう。>

伊藤景家 (*)平ノ景家・藤原・伊藤六・飛騨守。藤原景綱の息。忠清の弟。平家の家人。1180年以仁王、源ノ頼政の謀反を鎮圧する。北陸遠征軍に従軍。1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。1183「倶梨伽羅峠の合戦」に従軍。1183年退却戦「篠原の合戦」に参陣。楯ノ親忠と抗戦。<息に伊藤景経とも。><1156年「保元の乱」に為朝の弓で戦死する伊藤六とは別人。戦死後に養子となり相続するか?。>

<甲斐源氏> 1180年知盛が名を揚げた近江制圧に従軍するか?。


⇔▽秋山光朝 (*~1185)源ノ・加賀美・武田・太郎。甲斐源氏。加賀美遠光の息。平ノ重盛の娘婿。平家の家人。平ノ知盛の郎党。領地に戻り反頼朝。1185年親平家派と考えられ頼朝に討伐される。両鳴城にて防戦するも自害。家督は上総弘常の娘婿の弟・長清が相続。<武田有義とともに平家党でしょう。平家方が東国で勢力を培うために懇ろに都で教育されたのではないでしょうか。><戦国時代、武田信玄の上洛に秋山氏が別働隊を率いるのも家柄的に問題がないということか。>

⇔▽加賀見長清 (1162~1242)源ノ・加ケ美・小笠原・次郎・二郎・信濃守・遠義。甲斐源氏。加賀美遠光の息。母は和田義盛の娘。平家の家人。平ノ知盛の郎党。1180年頼朝の挙兵時に京都在番、兄・光朝は在留するが京都から脱出。秋山光朝の弟。鎌倉幕府に出仕。1181年上総広常の娘婿。1184年「宇治川の合戦」範頼軍。1186年信濃国伴荘の地頭。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。「承久の乱」に東山道大将軍として上洛。阿波守護となる。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。<同族に義朝の側近だった平賀義信。>

(平ノ宗盛の家人) 伊勢藤原


伊藤景高 (*~1183)平ノ景高・藤原・伊藤・太郎・飛騨大夫判官。藤原景次の息。平ノ宗盛の乳兄弟。平家家人。1180年以仁王、源ノ頼政の謀反を鎮圧する。北陸遠征軍に従軍。1182年第四次北陸道遠征に維盛に従い出陣。1183年退却戦「篠原の合戦」に参陣。根井行親(行近)と抗戦。北陸にて戦死。

伊藤景経 (*~1185)平ノ景経・藤原景経・伊藤・飛騨三郎左衛門。藤原景次の息(景家の息とも)。景高の弟。平ノ宗盛の乳兄弟。平ノ宗盛の側近。1180年以仁王、源ノ頼政の謀反を鎮圧する。「壇ノ浦の合戦」に戦死。<捕縛され、平ノ盛澄、平ノ貞経とともに鎌倉に送られたとも。>

<甲斐源氏>


逸見有義 (*~1200)源ノ・武田・右衛門尉・兵衛尉。義光流甲斐源氏。武田信義の息。平ノ重盛の家人。平ノ宗盛の家人。平家の参勤交代・京都大番役を勤める。父に従い平家を離反し、京都の妻子は処刑される。1184年「宇治川の合戦」範軍。1184年2月平家追討軍として摂津在陣。1184年「一ノ谷の合戦」範頼軍。一条忠頼の誅殺後、甲州武田軍を率いる。1184年8月鎌倉に召集され頼朝激励、出陣式。1184年源ノ範頼に従い西国に遠征。中国攻め範頼軍。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1200年梶原景時の謀反に同心し、戦死。<当初武田一門でも一条や安田に対して、有義の方が頼朝に親しく重く用いられている様子です。一族分断作戦ですね。><のちに武田家惣領。弟の石和信光に惣領職を奪われる。元・平家の大将の重盛の太刀持ちで、頼朝が自分の太刀も持たせようとしたところ断って不興を買ってしまったとか・・武士の意地ですね。>



平家一門 池ノ家 (白河上皇の側近・藤原宗兼の娘、藤原宗子(池ノ禅尼)の一門)


清盛弟の家盛・頼盛の家臣団 後白河院に取り込まれ清盛と対立した平氏。

平ノ家盛 (*1120~1149)池ノ家盛。忠盛の次男。池禅尼(藤原宗子)の息。清盛の異母弟。清盛の存在を脅かすが、1149年に病没するという。娘は平ノ重盛の養女となり、太宰少弐・原田種直に嫁ぐ。

<平ノ家盛の家人> 貞衡流平氏、伊勢の平家勢力。

安濃津貞清 (*)平ノ貞清・三郎。伊勢安濃津の豪族。貞衡の息。平ノ忠盛に出仕。息に維綱、清綱、家衡。

鷲尾維綱 (*)(平ノ維綱)・桑名・安濃津・阿野津・三郎・右衛門尉・惟綱。伊勢の豪族。安濃津貞清の息(または清綱の息)。平ノ家盛家人。西国海賊征伐に軍功。平ノ宗清は娘婿。息に良平。孫の摂津守・恒平は「奥州征伐」に従軍。

鷲尾家衡 (*)(平ノ家衡)・桑名・安濃津・阿野津・家平。伊勢の豪族。安濃津貞清の息。平家の家人。<藤原氏?柘植家清と近しい関係のようです。>

鷲尾清綱 (*)(平ノ清綱)・桑名・安濃津・阿野津・富津・次郎・(藤原・伊勢守?)。伊勢の豪族。安濃津貞清の息。平家の家人。1180年反平家の挙兵に対し知盛、資盛とともに出陣。園城寺を焼き討つ。息に惟綱。<伊勢守・藤原氏?伊勢藤原氏「伊藤」との関連が気になります。「伊勢守」藤原清綱はこの人と同一人物か。><伊勢に勢力を持つ、山内首藤氏(秀郷流藤原)・山内経俊との結びつきを強め、婚姻関係となり藤原を称したなどでしょうか。>

平ノ頼盛 (1131~*1186)池ノ頼盛・三河守・常陸介・入道重蓮。忠盛の五男(兄・家盛と同母・宗子<池禅尼>)。1156年「保元の乱」に清盛軍に参陣。1159年「平治の乱」に清盛軍に参陣。1179年重盛死後に後白河法皇に寵愛され、兄・清盛とは不仲。<『平家記』が頼盛の子孫に伝来していたらしいです。>

<伊賀平氏>


服部季宗 (*)平ノ・柘植季宗。阿拝郡柘植郷の豪族。平ノ忠盛に出仕。平ノ季房の息。弟に家貞、家季。<戦国時代の北畠氏、織田信長・信雄家臣に柘植氏あり。>

柘植宗清 (*)(平ノ宗清)・右兵衛尉・弥平左衛門尉・弥平兵衛。伊賀平氏。伊賀の豪族。平ノ季宗の息。家貞の甥。桑名維綱の娘婿。平ノ頼盛の家人。1159年尾張目代(守護代)。1160年「平治の乱」に源ノ頼朝を捕縛するが、主の母・池禅尼に助命を嘆願した。1163年後白河院の北面の武士。平家都落ちに従う。<北伊勢の重鎮か。平ノ頼盛家人は微妙な立場となるようです。>

柘植家清 (*~1184)(平ノ家清)。伊賀平氏。伊賀の豪族。平ノ頼盛の家人。平ノ宗清の息。母は鷲尾維綱の娘。1184年「近江合戦」にて戦死。<祖父・季宗は服部姓も名乗る様子。>

<平ノ頼盛の家人> 

<主の離反に従い、名字が剥奪されたか?>
平ノ成重 (*)大監物。平ノ頼盛の家人。<調査中。登場人物の順番的に成重は大監物と結びつくと解釈しました。句読点とかの問題なんじゃないでしょうか?>

平ノ時重 (*)少監物・太郎。成重の息。平ノ頼盛の家人。<調査中。監物太郎・時重は少監物に結びつくと解釈しました。>

平ノ資綱 (*)八幡・三河左衛門・藤左衛門尉・助綱。平ノ頼盛の家人。<三河に由来のある平家の武士ということでしょう。「藤」は本来は藤原姓ということでしょうか。>

平ノ家俊 (*~*1159)兵藤内。平ノ頼盛の家人。1159年「平治の乱」に参陣。息、家継を見捨て出奔。<出奔したので平家の苗字を剥奪されたのでしょうか。>

平ノ家継 (*~1159)藤内・太郎。平ノ頼盛の家人。1159年「平治の乱」に参陣。奮戦し戦死。<「子を捨てる親がいるか」と回顧する知盛に繋がる話ということで、創作なのでしょうか。伊賀平氏の平田(平ノ)家継と同名別人。>

中原清業 (*)(平ノ清業)・対馬守・対馬前司。平ノ頼盛の家人。後白河上皇の代官。備前・播磨の目代。1185年大隈守。1190年太宰少弐。<平家と対立し朝鮮高麗に出奔した藤原親光に替わり対馬守。> 


《個人的感想》 源氏でいうなら八幡太郎義家の弟の・義綱の一党、戦国時代なら尼子家の新宮党のような立場でしょうか。


<有力外様衆> 
 

平ノ清盛の外様家老衆
 (1)北陸支配の代官
義朝戦死後1160~1180年の20年の平家政権。
京都大番役。


<出羽国>
藤原尹明 (*)(平ノ尹明)・兵部権少輔・出羽守。藤原知通の息。母が平ノ忠盛の娘。平家の家人。「平治の乱」に義兄弟・藤原惟方の源氏離反を即す、二条天皇脱出に尽力。清盛の信頼を得る。「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。1185年出雲に流罪。

<越後国> 城氏について詳しくは→ 奥州安倍・清原・藤原氏
⇔△城ノ資国 (*)平ノ資邦・九郎・助国。越後奥山荘の豪族。城永基の息。城永家に養育される。清原武衡の娘婿。平家家人。息に資職、資茂。

城ノ資職 (*~1181)平ノ資職・出羽城介・越後守・助長・助永・資永・資長・(助元・資基)・助職。城資国の息子、長茂の兄。母は清原武衡の娘。越後奥山荘の豪族。瀬波川流域の支配者。平家家人。木曾義仲追討にあたるが病死する。

⇔▽城ノ資茂 (*~*1201)平ノ資茂・小太郎・四郎・永茂・長用・永用・長茂・助茂。城助国の四男。資長の弟。平家家人。資長の跡をついで、出羽、会津の兵を糾合し木曾義仲と戦う。1180年「市原の合戦」に敗北した信濃豪族・笠原頼直を保護。1181年木曾義仲に「横田河原の合戦」信濃国横田河原・千曲川(川中島)で敗れる。頼朝に降服し助命されるが冷遇。1189年「奥州征伐」に従軍。1201年小山朝政を急襲し「建仁の乱」を起こす。吉野にて戦死。<四郎長茂とも。越後鳥坂城で再起を図るが落城し消息不明とも>

⇔▽恵日寺乗丹坊 (*~1181)平ノ・城ノ乗丹坊。城氏一門。恵日寺の僧侶。1181年木曾義仲に「横田河原の合戦」、信濃国横田河原・千曲川(川中島)で敗れ戦死。

⇔▼城ノ資盛 (*)平ノ資盛・小太郎・助盛。資長の甥(息とも)。1201年「建仁の乱」を起こす。長茂と協力して越後鳥坂城に挙兵。城氏再興に奮戦するが敗北。出羽に逃れるという。


 

平ノ清盛の外様家老衆  
(2)坂東支配の代官
義朝戦死後1160~1180年の20年の平家政権。
京都大番役。


<常陸国>
志田義広 (*~1184)源ノ義広・信太・志太・三郎・信濃守・義憲・義弘・義範。義朝・義賢の弟、源ノ義朝の養子。源氏庶流。常陸国志太に土着する。平家家人。1180年頼朝軍に参軍するが、1181年頼朝に叛意。常陸国で源ノ義範・八田四郎・小山朝政・小山宗政と激突。1183年、足利忠綱、小山朝政とともに反頼朝の挙兵。木曾義仲に合流する。1184年、逃亡先の伊勢国にて波多野盛通、大井実春に討たれる。<源氏とかかわりの深い家でもありますが家名存続のための決断でしょう。>

佐竹忠義 (*~1180)源ノ・常陸介・太郎。新羅三郎義光の息・佐竹昌義の息(母は藤原清衡の娘か)。惣領・源ノ義忠の暗殺事件から、河内源氏とは反目する間柄。平家の恩顧を受ける。平家家人。1156年「保元の乱」には源ノ義朝に従う。1180年頼朝配下の上総広常の攻撃を受け戦死。

佐竹隆義 (1118~1183)源ノ・常陸介・四郎。佐竹家惣領。常陸国久慈郡佐竹郷の豪族。佐竹忠義の弟。平家家人。1180年の争乱時には京洛に滞在。兄・忠義の死により家督継承。頼朝と敵対する。

佐竹昌成 (*)源ノ・太郎・八条院判官・義政・義弘・義昌・義宗。隆義の弟。平家家人。上総広常の調略により、頼朝に寝返る。のち、頼朝に不義を疎まれ、追放される(縁者の上総広常により誘殺されるとも)。<源氏とかかわりの深い家でもありますが家名存続のための決断でしょう。>

佐竹義季 (*)源ノ・五郎・八条院蔵人・佐竹別当。佐竹隆義の弟。平家家人。離反して頼朝の家人に加えられる。のち勘気を得て駿河に配流、岡部泰綱が預かり人。

佐竹義政 (*~1180)源ノ・太郎。佐竹隆義の息。佐竹家惣領。常陸国久慈郡佐竹郷の豪族。平家家人。上総広常に殺害される。

佐竹秀義 (1151~1225)源ノ・佐汰毛・四郎・冠者。佐竹家惣領。隆義の息、義政の弟。叔父・昌成とともに頼朝と戦うが敗北。奥州に逃れるが、のちに罪を許され出仕。1189年奥州遠征に参加、御家人に列っせられる。親・頼朝派。

平ノ広幹 (*)下真・下妻広幹・下津真・広基。常陸国大掾家。海道平氏。平ノ直幹の息。下真荘を領する。平家家人。志田義広に従い反頼朝。降服するが常陸守護・八田知家と抗争、小山軍により鎮圧され失領する。<越後城氏とは親戚。><源ノ義光の命で源ノ義忠を暗殺した鹿島氏との関係が気になるところです。>

<上総国>
⇔↑↓伊藤忠清 (*~1185)(平ノ忠清)・藤原・伊藤五・右衛門尉・豊前権守・上総介・忠清。伊勢平氏。平家家人。坂東8カ国の侍所別当(関東管領職)。「保元の乱」に活躍。1180年以仁王討伐、尾張墨俣川の合戦、北陸木曾義仲戦に活躍。息・忠綱が戦死し、敗走。1184年伊賀・伊勢にて挙兵する。潜伏するが後に捕縛され討たれる。息子に藤原忠綱、忠光、景清がいる。<後世の例えでゆうなら平家の関東管領ですね。>

↑▽伊藤忠綱 (*~1183)(平ノ忠綱)・藤原・兵衛尉・上総太郎判官・上総大夫判官。藤原忠清の息(嫡男)。平家家人。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に戦死。

↑▽伊藤忠光 (*)(平ノ忠光)・藤原・左兵衛尉・上総五郎兵衛。藤原忠清の息(五男)。平家家人。1185年「壇ノ浦の合戦」に従軍。その後紀伊国に潜伏。

印東常茂 (*~1180)(平ノ常茂)・上総常茂・千葉・印南・印南介・次郎・常義・常重。上総千葉一門。上総常澄の息。上総広常の叔父。下総国印東荘を領する。平家家人。1163~66年間に兄の印南(印西)新介・常景を討ち伊南荘を奪取。平家の参勤交代・京都大番役を勤める。1180年頼朝挙兵の際に源氏方の上総広常に討たれる(在京し平家追討軍の「富士川合戦」に従軍とも)。息に長南重常、印東頼常、南郷師常、戸田常政がいる。<姓は印東が正式名称カ?。上総常澄の息。上総広常の兄とも。>

印南常景 (*)(平ノ常景)・上総常景・新介・印西・印南介・常義。上総常澄の息。父・常澄の死により家督。平家家人。弟・印東常茂と惣領をめぐり抗争。

伊北常仲 (*~1183)(平ノ常仲)・上総常仲・千葉・伊北庄司・伊北常仲。上総千葉一門。上総常澄の息、印南(印西)常景の息。上総広常の甥。長狭常伴の外甥。父・常景が叔父・印東常茂に討たれ、母方の叔父・長狭常伴の下で養育される。父の所領、上総印南・印北に勢力を回復。1180年長狭常伴は頼朝の安房上陸により滅亡。常仲は頼朝の挙兵に対して兄・上総広常に従うという。のち千葉常正に攻撃され討死。<滅亡した系譜なので系図的に混乱している様子です。印南常景≠印東常茂≠伊北常仲≠上総広常≠千葉常正へと移り変わった感じでしょうか。>

⇔↓飯富季貞 (*~*1185)源ノ季貞・飯富庄司・右衛門尉・判官・検非違使。満政流清和源氏。若狭の豪族で平ノ忠盛の家臣・源ノ季遠の息。平ノ清盛の家人。平ノ宗盛の側近。後白河院「北面の武士」。上総飯富庄を領する。稲沢盛経とともに河内源氏・源ノ義基(義忠弟の子孫)を討伐する。1181年平ノ盛澄とともに九州の鎮定に向う。1185年「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。1185年平ノ宗盛とともに鎌倉に護送される。息に宗季。<平家方の源氏旗頭のようです。息は頼朝家人。兄弟に九州豊前の光季。甥に光行。><戦国武田家の重臣、飯富氏の祖。>

<下総国>
藤原親隆 (*)(千田親方・平ノ親隆)・智田・近高。下総国主。平家家人。息の千田親正は平ノ忠盛の娘婿。<後の武田重臣:板垣信形のように「のぶかた」と同じく「ちかかた」読みか。もしくは、当主として「おやかた(御屋形)」と呼ばれていたから「親方」と表記されているのかもしれませんね。>

▽藤原親盛 (*)(千田親盛)・智田・近盛。下総国主。藤原親通の息。藤原親隆(千田親方)の弟。平家家人。印東常茂を支援する。平ノ重盛は娘婿。娘の息に平ノ資盛(重盛の次男)。

千田親正 (*~*1180)(平ノ親正)・藤原親政・智田・下総守・安房守・木工頭・皇嘉門院判官代・親政・近雅。藤原親通の孫。藤原親隆(千田親方)の息。藤原親盛は弟。平ノ清盛の姉婿。上総国の住人。下総国千田荘の領主。平家家人。1180年鎌倉軍(千葉成胤)に捕縛される。清盛の義兄弟。<下総国千田荘を領し、千田と称したか。千葉と千田の戦い・・。>

▽原ノ常継 (*)鴨根・十郎大夫。平家被官。1180年千田親正に従い下総千葉征伐。<戦国時代に原家が全国的に展開するのは、この時期の内乱で一族が全国に散ったからなどでしょうか。>

▽原ノ清常 (*)鴨根・五郎。平家被官。原ノ常継の弟。1180年千田親正に従い下総千葉征伐。

▽原ノ常直 (*)鴨根・六郎。平家被官。原ノ常継の弟。1180年千田親正に従い下総千葉征伐。

▽金原常能 (*)鴨根・原・庄司。平家被官。原ノ常継の叔父。1180年千田親正に従い下総千葉征伐。

▽金原守常 (*)鴨根・原・五郎。平家被官。金原常能の息。1180年千田親正に従い下総千葉征伐。

▽粟飯原家常 (*)(相原)・鴨根・原・金原・源五郎。平家被官。1180年千田親正に従い下総千葉征伐。

▽粟飯原元常 (*~1180)(相原)・鴨根・原・金原・権太。平家被官。家常の息。1180年千田親正に従い下総千葉征伐。

▽粟飯原顕常 (*)(相原)・鴨根・原・金原・次郎。平家被官。家常の息。1180年千田親正に従い下総千葉征伐。

千葉胤頼 (*)東ノ・六郎大夫。平家家人。1180年平家の参勤交代・京都大番役を勤める。<東千葉家は室町時代に足利将軍の後押しで再び関東に帰還を目指します。>

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