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室町幕府準四職家 土岐氏の家臣団と軍団

(美濃・北伊勢守護家 土岐氏)

 「犬(院)というか、犬ならば射て落としてくれようぞ!」
 -美濃国守護大名・土岐頼遠-

北畠顕家を撃破した土岐氏にとって、朝廷や「院」さえも畏れるものでは無くなっていた・・。

足利幕府将軍歴代と土岐氏

 足利尊氏将軍就任からの武将(1338~1358)

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      <在職期間>
足利尊氏 <1338~1358>(1305~1358)足利貞氏の息。母は上杉清子。室町幕府初代将軍。丹波綾部の上杉荘と縁がある。丹波(亀岡)篠村八幡宮で反鎌倉幕府の挙兵。のち後醍醐天皇とも対立。北朝、光厳上皇を奉じる。1338年「将軍宣下」将軍職に就任。1339年後醍醐天皇死去。武士の要望に応え過ぎたため、将軍の所領が少なく、足利将軍の勢力基盤が脆弱な原因となった。<足利尊氏のページ参照してください。>
<1342年 バサラ大名・土岐頼遠の失脚。下野守護の二階堂行春とともに飲酒。「院」の御車を射る。朝廷との軋轢で、副将軍・足利直義の激怒。>

足利義詮 <1358~1367>(1330~1367)千寿丸・鎌倉大納言・坊門殿・左馬頭・左近中将・征夷大将軍・権大納言・足利宰相。尊氏の嫡子。母は北条(赤橋)久時の娘。室町幕府第2代将軍。渋川義季の娘婿。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質として鎌倉に入府。1333年新田義貞の後見で鎌倉幕府を討幕。鎌倉を実質的に占拠し、新田義貞は上洛する。1349年尊氏の意向で上洛。1358年父の死により家督。1358~1367年二代目征夷大将軍に在位。斯波氏を管領に登用。1365年ごろ足利幕府の安定をみる。のち細川頼之に義満を託す。
<惣領職、土岐頼康。頼雄、直氏、頼世兄弟と一族で「桔梗一揆」を結成。養子に頼雄の息・康行。>
<細川清氏、畠山国清、土岐頼康、京極道誉、管領・仁木義長を追放する。仁木、南朝に降る。>
<1360年土岐直氏、畠山国清に従い「紀州征伐」に従軍。京都にて「仁木義長の乱」勃発により敗戦。畠山国清は関東に撤退。>

足利義満 <1368~1394>(1358~1408)足利義詮の息。母は紀良子。室町幕府第3代将軍。1368年11歳で将軍職継承。管領・細川頼之の補佐。1378年室町御所造営。20歳で頼之を四国に追放。斯波義将を管領とする。1392南北朝統一に成功。土岐、山名、大内氏を制する(明徳・応永の乱)。太政大臣任官。1397年金閣寺造営。1401年日明貿易を開始。息に義持。
<1369年細川頼之、土岐頼康が寺社の扱いを巡り対立。1370年頼康、京都退去。>
<土岐家惣領の土岐康行に圧力。><土岐満貞を登用。>
<1379年将軍義満、奈良興福寺の要請に応え、十市遠康を討伐。斯波義将、吉見氏頼、一色範光とともに土岐義行を派遣。>
<1379年将軍・義満、頼康討伐の御教書を発する。斯波義将・土岐頼康が同盟。義満、逆に細川頼之を追放する。>
<1379年関東公方・足利氏満の挙兵。関東管領・上杉憲春、氏満を諫言し挙兵を留める。>
<1393年細川頼元、管領辞任。>
<1395年今川貞世、九州探題職解任。>
室町 今川貞世の家臣団と軍団
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>


足利義持 <1394~1423>(1386~1428)足利義満の息。母は藤原慶子。室町幕府第4代将軍。父・義満の後見で9歳で将軍就任。父の死後は管領・斯波義将の補佐。日明貿易を中止する。関東で足利持氏と上杉禅秀の対立が激化。1416年「上杉禅秀の乱」。弟の義嗣を乱共謀の罪で殺害。1400年頃、斯波義将が織田常松を尾張に派遣。


足利義量 <1423~1425>(1407~1425)足利義持の息。母は藤原栄子。室町幕府第5代将軍。15歳で酒乱、側近が罰せられる。1423年義持の出家により将軍就任、17歳。1425年飲酒中毒のため在職3年で病没。義持が執政に復帰。赤松持貞が元将軍・義持の妻と恋愛。赤松満祐が白旗城に籠城し「応永の変」起す。1427年赤松持貞の不倫が発覚し自害。赤松満祐は降伏し幕府に帰順。義持の遺言で後継者は籤で決められた。


足利義教 <1429~1441>(1394~1441)青蓮院義円。足利義満の息。母は藤原慶子。足利義持の弟。室町幕府第6代将軍。1429年義持の死により天台座主・義円が還俗。鎌倉公方・足利持氏と対立。義教の代に徳政令を求める「正長の土一揆」勃発。1433年仁木国行、今川範政、斯波義淳を弾圧。1435年山名時熙を弾圧。1439年京極持光を弾圧。1439年「永亨の乱」関東公方・足利持氏を討伐。将軍の権力を強化。1440年一色義貫、土岐持頼を弾圧。1441年畠山持国、富樫教家を弾圧。1441年赤松満祐の「嘉吉の変」に横死。赤松教康により京極高数、大内持世、山名熙貴もともに討たれる。

 
足利義勝 <1442~1443>(~1443)足利義教の息。母は藤原重子。室町幕府第7代将軍。1441年義教の死により将軍就任。赤松討伐軍を編成し、細川持常、細川淡路守、武田信賢、赤松貞村、赤松満政。別働隊に山名持清、山名教清、山名教之、山名政豊を動員。1441年赤松満祐、足利冬氏を迎え将軍・足利義尊と称させるが坂本城、木山城が落ち自害。義勝は在位一年余りで夭折。


足利義政 <1449~1473>(~1490)「応仁の乱・影の東軍大将」。足利義教の息。母は藤原重子。足利義勝の弟。弟に義視、堀越公方・政知。幼少のため14歳まで将軍空位。畠山持国、細川勝元が代行。室町幕府第8代将軍。乳母・今参局、有馬持家、鳥丸資任の「三魔」を重用。1466年斯波(渋川)義廉を更迭し、斯波義敏に斯波家家督。斯波義廉が織田広成を上洛させ家督回復。1467年畠山義就を登用し家督。管領・畠山政長失脚。


足利義視 (*)「今出川殿」・義尋・左馬頭。最初「東方(東軍)大将」・後半「西方(西軍)大将」。足利義教の息。足利義政の弟。1464年前管領・細川勝元邸にて還俗。細川勝元の後援で山名家と対立。1467年西軍の飯尾為数を処刑。1467年「応仁の大乱」。8月西軍に離反するもの続出し、木造教親のすすめで京都を脱出し南伊勢多気の北畠教具を頼る。8月大内政弘の上洛で西軍勢力挽回。10月足利義政に見限られ、管領・細川勝元に出家を勧められる。比叡山に登るが、西軍・山名持豊、渋川(斯波)義廉を頼り将軍に擁立される。1477年土岐成頼に擁され美濃へ落ちる。斎藤妙椿の差配で隠居。

<1477年足利義視、土岐成頼の下に隠居する。>

足利義尚 <1473~1489>(1465~1489)最初「西方(西軍)大将」・後半「東方(東軍)大将」。足利第9代・征夷大将軍。足利義政の息。母は藤原富子。政所執事・伊勢貞親に養育される。山名持豊(宗全)に擁立される。1467年「応仁の大乱」。のち細川勝元により「東軍大将」。山名持豊、細川勝元が相次いで没。1473年征夷大将軍に任官。1477年大内政弘、土岐成頼が下京し帰国。東軍優位で終戦。1487年六角高頼近江の荘園を横領。1489年近江六角高頼の討伐遠征中に陣没。
<1480年足利義澄、伊豆堀越にて誕生。1487年足利義政の出家勧めにより義澄上洛。>

足利義稙 <1490~1521>(1466~1523)義材・義尹・「流れ公方」・阿波義稙。足利義視の息。母は藤原重政の娘。室町幕府第10代将軍。足利義尚の急死により、義政の後見で家督相続。義政の死後に、父・義視と日野富子の対立が再燃。近江に「六角高頼討伐」。1493年河内「畠山義豊討伐」出征中に管領・細川政元のクーデター「明応の政変」により失脚。龍安寺に幽閉されるが脱出。1508年大内義興の後援により将軍に復職。1521年細川高国の専横により淡路に落ちる、阿波に逃走。<斯波義達と今川氏親の抗争は誰の差し金か。義達の遠江守護罷免は義澄との縁によるものか。>

足利義澄 <1494~1508>(1480~1511)堀越義澄・義高。足利第11代・征夷大将軍。堀越公方・足利政知の息。母は藤原隆光の娘。足利義政の養子。斯波義寛の娘婿。足利義尚の急死の際に細川政元に擁立されるが、義稙(義材)が将軍就任。1493年政元の起こした「明応の政変」により、1494年将軍就任。伊豆堀越氏討伐。1508年大内義興に擁された足利義稙が復権。近江に落ちる。<伊勢早瑞(北条早雲)の伊豆乱入は誰の指令か。東海道の今川氏親・伊勢長氏を支援?、斯波義達の活動は1507~1517年間・・、従兄弟の義澄を支援する為の挙兵か。>

足利義晴 <1521~1546>(1511~1550)堀越義晴。足利第12代・征夷大将軍。堀越足利義澄の息。1508年第10代・足利義稙(義材・義尹)を擁立した大内義興の上洛。細川高国に追放された11代将軍・足利義澄の息。赤松義村に養育される。1521年10代・足利義稙を追放した細川高国に擁立される。1525年北室町に柳原御所を建造。1526年細川晴元が阿波足利義維を擁立し堺に侵入。丹波国神尾山城主・柳本賢治の挙兵により、北近江朽木落ち。六角定頼の後援を得る。1534年細川晴元との和睦で入京。1541年「木沢長政の乱」。1546年「細川氏綱の乱」で度々京都から脱出。1546年隠居し嫡男・義輝を将軍に据える。1547年細川氏綱・遊佐長教と和睦し、細川勝元と対立。近江穴太に居す。<伊勢北畠氏を頼る。>

▲土岐頼貞 (1271~1339)(北条)・隠岐・孫二郎。美濃池田郡の豪族。光貞の息。兄に(隠岐)国時、(隠岐)胤国、(蜂屋)定親、弟に(船木)頼重。母は北条貞時の娘。1336年足利尊氏に従い美濃守護。息に頼直、頼清、頼兼、頼遠、頼基。<一族の土岐頼員、多治見国長が後醍醐天皇に従い反幕運動。>

土岐頼清 (*~1336)六郎・頼宗。美濃池田郡の豪族。頼貞の息。建武新政に伊予守護。足利尊氏に従い上洛。摂津にて病死。息に頼康、(揖斐)頼雄、(池田)頼忠、頼里、直氏。

土岐頼遠 〈1339-1342〉(*~1342)弾正少弼。婆沙羅大名。美濃の豪族、土岐頼貞の息(6男or7男とも)。頼清の弟。尊氏に従い父と友に各地で転戦。高ノ師直・師泰兄弟と懇意。1336年「多々良浜の合戦」、1335年足利直義に従い「竹ノ下の合戦」。1338年美濃国「青野原の合戦」で北畠顕家を迎え撃ち名を馳せる、1339年父の死により家督を継承。足利尊氏の天下統一に貢献。美濃守護職。新田・脇屋党と抗争。1342年「光厳上皇狼藉事件」を起こす。朝廷と争い失脚する。厚見郡長森城主。兄に頼清、弟に明智頼基、頼兼。息に氏光、孫に頼豊。

土岐頼康 〈1342-1387〉(1318~1387)大膳大夫・刑部大輔・入道善忠。土岐頼清の息(6男)、土岐頼貞の孫。1342年叔父・頼遠の自害により家督継承。革手城に本拠に定め、美濃国衆・斎藤(疋田)氏を従える。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。貞和8月師直邸に参じる。常に足利尊氏党を貫く。1350年土岐頼直が反乱。1352年に尾張守護職、1360年伊勢守護職。将軍・足利義満の代に管領・細川頼之と対立。1379年斯波義将と共謀し頼之を失脚させる。息に満貞、康行(養子)。厚見郡革手城主。弟に頼雄、頼忠。養子に康行。

(美濃守護家・揖斐氏)
⇔▽揖斐頼雄 (*)土岐頼雄・新蔵人。頼清の息。土岐頼康の弟。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。貞和8月師直邸に参じる。兄・頼康の跡職を息の康行が継承。息に康行、満定。

土岐義行 (*)足利義満側近。美濃土岐家一門。1370年幕府侍所頭人。1379年大和十市遠康討伐に出陣。1384年美濃加茂永安寺に鐘を寄進。<1363年の侍所頭人・土岐直氏の一門でしょうか。>

(美濃守護代家?・池田氏)
土岐頼世 〈1390*1392-1394〉(1323~1397)よりよ・池田頼忠・西池田・弾正忠・美濃守・刑部大輔・頼忠・入道真兼。頼清の息。西池田家。1389年足利義満の命で、甥の土岐康行を討伐。1390年「美濃(土岐康行)の乱」に勝利し、美濃守護。息に頼益、(鷲巣)之康。

1390年「土岐康行の乱」(美濃守護家・揖斐氏)

 
土岐康行 〈1387-1389〉(揖斐)・刑部大輔・大膳大夫。土岐頼康の弟・揖斐頼雄の息。頼康の養子。美濃・尾張・伊勢守護兼任。息・康政を伊勢守護代、従兄弟の土岐詮直を尾張守護代。京都代官に弟・土岐満貞を任命。1389年将軍・足利義満の「厳島参拝」に満貞が供奉。のち将軍・足利義満の大名抑圧政策により、家中混乱。1390年失領。息に康政、満康。

(美濃守護代家?・池田氏)
土岐頼世 〈1390*1392-1394〉(1323~1397)池田頼忠・西池田・弾正忠・美濃守・刑部大輔・頼忠・入道真兼。西池田家。1389年足利義満の命で、土岐康行を討伐。1390年「美濃の乱」に勝利し、美濃守護。息に頼益。

▼揖斐* (*)土岐一門衆。美濃豪族。揖斐郡揖斐城主。
▼饗庭* (*)土岐一門衆・美濃豪族。揖斐郡北方城主。

(伊勢守護家・揖斐世保氏)

土岐康政 (*~1418)世保康政・左馬助・大膳大夫。伊勢守護家。土岐家嫡流。康行の息。1371年伊勢国司・北畠顕能、顕泰に敗北。伊勢安濃を失う。1390年足利義満との対立で父・康行が失脚し失領。分家の土岐頼忠(池田頼世)が惣領職。1399年土岐詮直とともに美濃長森城で挙兵し、美濃守護・土岐(池田)頼益と抗争。1404年父の死により家督。伊勢守護。1418年4代・足利義持の弟・足利義嗣の謀反の計画に加担。息に持頼。<1370年伊勢国司・北畠顕能の伊賀・近江進攻。細川頼元の討伐軍の敗北。>
伊勢土岐(世保)のページ

(尾張守護代家・肥田瀬氏)
⇔土岐詮直 (*~1399)肥田瀬詮直・宮内少輔。土岐直氏の息。土岐康行の従兄弟。尾張守護代<1387-1389>。頼康・康行に出仕。土岐康行の尾張守護代。足利義満の命を受けた土岐満貞により、尾張を追われる。1399年大内義弘の「応永の乱」に呼応して美濃で挙兵。京極高秀と結ぶが合流できず。美濃長森にて頼益と抗争し戦死。<池田氏の離反に合うようです。>

京都代官:土岐満貞と尾張守護代:土岐詮直の対決。
「尾張黒田の合戦」。康行、詮直の失脚。

 
(京都代官家・島田氏)
▽土岐満貞 (*)島田満貞・伊予守・伊豆守。頼康の息。美濃土岐一門。土岐康行の義弟。足利義満の近習。惣領・土岐康行の尾張守護兼・京都代官〈1387-1391〉。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。従兄弟の尾張守護代・詮直と抗争。足利義満の命により土岐詮直を追放し尾張国守護代。康行と結んだ詮直に「尾張黒田合戦」に敗北。1391年「明徳の乱」に尾張守護を失う。息に(島田)満名、木和田安達。<美濃侍の尾張入植。後に織田信長の奉行・島田秀満は土岐家の後裔か・・。>

 

(美濃守護家・池田氏)
土岐頼益 〈1395-1414〉(池田頼益)・美濃守・美濃入道・侍所所司・左京大夫入道・入道常保。土岐頼世(頼忠)の跡職を継承。足利義満、足利義持の家老職。幕府七頭のひとり。幕府侍所所司。息に持益。

▽斎藤頼茂 (*~1450)利政・頼茂・入道宗円。美濃守護代。斎藤頼盛の息。土岐頼益の家老職。

(北伊勢守護家・土岐嫡流、世保氏)
土岐持頼 (*~1440)世保持頼・大膳大夫。伊勢守護家。土岐嫡流。土岐康政の息。西池田家の土岐頼世(頼忠)に家督を奪われる。1418年足利義嗣の謀反に加担。北畠満雅と抗争。1440年将軍・義教により一色義貫とともに誅殺される。伊勢北半国の守護は一色義直が継承。息に政康。

(美濃守護家・池田氏)
土岐持益 〈1422-1456*1465〉(1406~1474)(池田)・左京大夫・美濃守・入道常祐。土岐頼益の息。1428年幕命により伊勢の南朝方・北畠満雅討伐に出兵。嫡子・持兼が早世、持兼の庶子・*(亀寿丸)を養子とするが、守護代・斎藤利永の反対により内紛勃発。1456年養子の一色成頼に家督を譲る。

▽土岐持兼 (*)(池田)。持益の息。家政は守護代・斎藤利永が掌握。早世により尾張分郡守護・一色頼遠の息・成頼が家督を継承。庶子に亀寿丸。


富島* (*~1456)美濃国守護代。持益の重臣。斎藤利永と抗争。土岐家は斎藤利永の下克上により一色家に乗っ取られる。1456年斎藤利永に敗北。

長江* (*~1456)持益の重臣。富島氏とともに、小守護代・斎藤家と抗争。1456年斎藤利永に敗北。

▽斎藤利永 (*~1460)帯刀左衛門・越前守。美濃守護代。越前河合斎藤氏の分流。斎藤利政(宗円)の息。弟に妙春。父の代に同僚・富島氏と対立。1450年父の死により家督。富島・長江氏を討伐。主・土岐持兼の死により、一色義遠の息・一色成頼に跡職を要請。1456年土岐持益と抗争勃発。跡職は弟の妙春(妙椿)が継承。

(北伊勢守護家・嫡流、世保氏)
▽土岐政康 (*~1473*)世保政康・大膳大夫。伊勢守護家。1467年「応仁の乱」の東軍に属し、伊勢で一色義直と抗争。伊勢北半国守護に復帰し国司・北畠教具と抗争。1471年長野政高と共に北畠氏と抗戦。守護職を北畠政郷に奪われる。1473年西軍の土岐(一色)成頼、斎藤妙椿と抗争。

<郡上 東(千葉)氏> 東=「とうの」と読むらしい。
東 氏縁 (*)弟に常縁。1468年斎藤妙椿により領土を奪取される。
⇔東 常縁 (*)兄に氏数。1469年斎藤妙椿と交流し領土を返還される。
▽東 常慶 (*)13代。1541年和田氏攻略。1541年鷲見氏と抗争。笹脇城主。
▼東 常尭 (*~1585)1559年遠藤胤縁を殺害。1561年遠藤氏に敗北。1585年飛騨にて内ケ島氏の帰雲城にて被災死去。
▼東 益之 (*)東殿山城築城。

▽畑佐* (*~1539)玄蕃。東一門衆。1539年兄弟の家督争いに乗じた飛騨の三木直綱から攻撃を受け戦死。

遠藤胤縁 (*~1559)東(千葉)家家臣。弟に盛数。1540年朝倉氏の美濃侵攻を撃退。1559年東常尭により暗殺される。

▽遠藤盛数 (*)兄に胤縁。1540年朝倉氏の美濃侵攻を撃退。1559年東常尭により兄・胤縁が暗殺される。八幡城主。息に慶隆。

▼遠藤胤俊 (*)盛数の従兄弟。遠藤一門衆。1561年盛数に協力し東常尭を美濃から追う。木越城主。

▼別府* (*)遠藤家家臣。栗栖郷の豪族。<1577年遠藤慶隆により滅亡。>

▽飯尾宗祇 (*)連歌師。東常縁から古今伝授。

「応仁の乱」西軍・東軍、各大名の動向

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<美濃・親細川派>
⇔富島* (*)(長江)・八郎左衛門。美濃国守護代家。主・土岐持益が宗円に隠居させられる。1444年京都屋形にて斎藤利明に一門・長江高景が殺害される。1446・1449年美濃国にて土岐持益、斎藤家と合戦。1450年京都にて斎藤宗円を襲撃。1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。<室町の初期には三河吉良の家老・富永、美濃土岐の家老・富島といわれてた頃があったかもしれませんね。><高景が殺害されてから兄弟の誰かが富島を継承したものでしょうか。>

⇔▽長江高景 (*~1444)富島高景・備中守。長江重景の息。弟に景秀、元景。美濃守護代・富島氏の養子。京都土岐屋形にて斎藤氏に討たれる。
▽長江景秀 (*)1467年「応仁の乱」に東軍に参加し斎藤妙春と抗争。一門の長江元景、景次が戦死。景秀の曾孫の景隆が織田信長に出仕した。

尾張一色氏の土岐家継承
<美濃守護家・池田一色氏。親一色路線、尾張・三河進出>

土岐成頼 〈1456*1465-1497〉(1442~1497)一色成頼・美濃守・左京大夫・入道宗安。尾張分郡守護・一色義遠の息。土岐持益の養子。土岐氏8世。土岐持兼の早世により美濃守護代・斎藤利永により擁立される。1456年土岐惣領家の家督継承。1467~1477年「応仁の乱」。山名方の西軍に属して、京都に上洛。家老に斎藤利藤。のち足利義視を擁立。1477年足利義視親子を擁して美濃帰還。足利義視を美濃茜部に迎える。1487年六角高頼と結び足利義尚と対立。息に土岐政房、定頼、尚頼、土岐元頼。革手城主。

一色家勢力図。<美濃にも一色家の付家老が入植したと推測されます。>そのうち追加予定。

▽斎藤妙椿 (1411~1480)持是院・従三位法印・妙椿。越前河合斎藤氏の分流。室町幕府奉公衆。土岐成頼の家老。美濃国守護代・斎藤利永の息(または弟)。利永の代に稲葉山城を根拠地とする。甥・利藤を貢献するが次第に凌駕する。官位も主である土岐成頼を越える従三位。「応仁の乱」に守護・土岐成頼を美濃を纏め後援し、西軍の将軍・足利義視を支援。近江京極氏と結ぶ、西美濃の豪族、富島・長江氏を攻撃。美濃国内の反乱分子を制圧。1468年郡上の東氏数を攻略。1469関東の東常縁に領地返還。1469年南近江の六角高頼と結び京極政経、多賀高忠と抗争。1473年北伊勢に進み梅戸城攻略。1477年義視・義稙親子は一時美濃革手城に拠る。1480年死去。70歳。跡職は養子の利国(妙純)が継承。養女の婿に織田敏広。<妙春と妙椿は同一人物と昔はいわれていましたが、現在では妙椿のことを意識して、道三の養子・斎藤(近衛)正義が、妙春を名乗っていたそうで、別人となります。>

▽浜 春利 (*)幕臣。兄に康慶。関東征伐中の幕臣・東常縁との交流あり。

▽浜 康慶 (*)豊後守。弟の春利から聞いた東常縁の言葉を、妙椿に伝える。


≪個人的感想≫ 一色家の家老として、(河野)稲葉家が付属して美濃に入部していたとすれば、尾張に残留した稲葉家が、林(林秀貞一門)として、織田弾正忠家に仕えていてもおかしくないとは思います。
 九州探題一色家の主力は水軍だったとも言いますし、河野水軍の一派が家臣として加わっていてもおかしくはないのかもしれません。


(美濃守護家の内紛) 家中分裂
政房 VS 元頼

 
土岐政房 〈1502-1519〉(*~1519)一色・美濃守・成房。土岐成頼の息(嫡子)。1495年土岐家で家督争い勃発し土岐成頼の末子で弟・元頼と抗争。斎藤利国(妙純)に擁立される。1495年元頼派の石丸利光と「船田合戦」。のち家督を嫡男・頼武より、頼芸を推したことで守護代・斎藤利良と対立。1517年利良を越前に追う。弟に大桑定頼(孫に金森長近)、直頼、元頼。

▽斎藤利国 (*~1497)新四郎・右馬丞・持是院・妙純。斎藤利永の息(利藤の異母弟)。美濃守護代。斎藤妙椿の養子。養女(甘露寺元長の娘)の婿は岩倉伊勢守・織田寛広。1491年越前朝倉家当主・朝倉貞景を娘婿に。妙椿の死後、守護代職を巡り異母兄の利藤と対立「文明美濃の乱」。利藤に勝利する。1481年朝倉家と同盟。土岐政房を擁立し、石丸利光と抗争。1487年利藤と和睦。嫡男・利親とともに六角氏征伐に出陣。1496年織田兵庫助後詰の為に尾張出陣。1497年家老・石丸利光を後援した近江の六角氏を攻撃するが利国・利親親子ともに戦死。死後は斎藤家執事の長井氏が勢力を持つ。息に斎藤利親。<親朝倉派。>

▽長井秀弘 (*)利国方。息に長弘。

▽長井利安 (*)斎藤利安。斎藤利永の息。利国の弟。

▽斎藤利綱 (*)長井利綱。土岐家家老。斎藤利永の息。斎藤利藤、利国、利安の弟。1494年利国に従い石丸利光と対抗。1495年「正法寺・船田合戦」。兄・利安、村山利重とともに正法寺に布陣。1496年尾張岩倉救援に従軍。<斎藤利藤が実父とも。>

土岐元頼 (*~1496)一色元頼。土岐成頼の息(四男)。政房の弟(異母)。父・成頼の意向で、石丸利光(斎藤利三)に擁立され、兄・政房と家督を争う。1496年石丸利光とともに自害。

▽石丸利光 (*~1496)斎藤利光・丹波守。妙春・妙純の家臣。美濃小守護代。守護代・斎藤利国(妙純)と対立。近江の六角高頼・蒲生氏の後援を得る。土岐政房に対し弟・土岐元頼を擁立し、斎藤利国・西尾直教と対立。1495年「正法寺・船田合戦」。土岐成頼・斎藤利藤から斎藤姓を与えられた。1496年斎藤利国に敗北し、土岐元頼とともに自害。息に利元、利高。娘婿に織田寛定。船田城主。

 政房 VS 元頼
<政房・妙純派 同盟軍>


⇔織田寛広 (*)兵庫助。広近の息。敏広の養子。岩倉伊勢守家。斎藤妙純の娘婿。弟に寛近。1481年斯波義寛に従う。1487年六角高頼征伐に従軍。1494年「船田合戦」に寛定と敵対。1496年城田寺城攻囲に参陣。

⇔朝倉貞景 (*)斎藤妙純の娘婿。1496年城田寺城攻囲に参陣。

⇔京極高清 (*)六角氏を破り援軍を近江に足止めする軍功。

長野* (*)梅戸氏と抗争。北伊勢の豪族。<のち織田信長の弟・信包が継承。>

<元頼・利光派 同盟軍>

⇔織田寛定 (*)清洲大和守家。敏定の息。石丸(斎藤)利光の娘婿。六角氏と同盟。

▽織田寛村 (*)敏定の息。兄の戦死により家督相続。

⇔六角高頼 (*)1478年幕府と和睦。斎藤利藤を支援し利国(妙純)と対立。蒲生貞秀とともに石丸利光を支援。京極高清と対立。1497年遠征にきた斎藤利国(妙純)親子を討ち取る。

⇔梅戸貞実 (*)北伊勢の豪族。長野氏と抗争。

頼武(朝倉・六角) VS 頼芸

 ⇔土岐頼武 (1499~1536*)次郎・政頼・盛頼。政房の息(長男)。室に朝倉貞景の娘。兄弟に梅戸光高、揖斐光親、鷲巣光敦(光蓮)、頼満、頼香、光建、娘婿に各務盛政。息に頼純。

土岐頼芸 (1502~1582)左京太夫・美濃守。政房の息。家老に斎藤秀龍。1530年兄・頼武を追放し美濃奪取。1536年六角定頼の支持を得る。六角定頼の娘婿。1541年斎藤秀龍が弟・土岐頼満を暗殺。頼芸と対立する。1542年大桑落城、鷺山城入城。1542年秀龍が息・土岐頼次を追放。妹婿に六角氏。
⇔土岐頼満 (*~1541)政房の息。斎藤秀龍(道三)により暗殺される。

(関東常陸国 江戸崎城主 土岐家分流蜂屋氏一門原家)
土岐原治頼 (1502~1557)大須三郎。土岐政房の息(3男)。原(蜂屋)景成の婿養子。


(朝倉家亡命 土岐・揖斐氏)
⇔土岐頼純 (1524~1547)(朝倉)・次郎・政頼。頼武の息。朝倉孝景の娘婿。のち斎藤秀龍の娘婿。頼芸と抗争。祐向城、別府城、大桑城を拠点に反・斎藤秀龍勢力。1542年大桑城落城。1544年朝倉孝景、織田信秀の支援で稲葉山城攻め。1545年織田信秀の支援で頼芸守護復帰。1546年和睦。菩提山城を経て大桑城入城。1548年秀龍と織田信秀が和睦。叔父に各務盛政。

⇔▽土岐光親 (*)揖斐光親。政房の息。土岐頼武の弟。越前朝倉家に保護される。

(土岐一門のご由緒衆)
梅戸光高 (*)政房の息。北伊勢豪族、梅戸(六角)高実(1502~1561)の養子。梅戸一揆棟梁。

鷲巣光敦 (*)(光蓮)政房の息。
土岐頼香 (*)政房の息。
土岐光建 (*)政房の息。

(松永家・六角家亡命 土岐氏)頼芸の息、六角定頼の甥。

⇔土岐頼栄 (*)猪法師・小次郎・宮内少輔・頼秀。頼芸の息。稲葉一鉄の娘婿。従兄弟に土岐頼純。斎藤道三を排除しようと、叔父・揖斐光親とともに反乱する。織田信秀の介入で和睦する。父により廃嫡される。息に土岐(稲葉)光義。

土岐頼次 (1545~1614)(六角)・小次郎・二郎・左馬助。頼芸の息。湯島武房の娘婿。兄・頼栄は廃嫡される。1542年尾張に追放される。1545年織田信秀の支援で土岐頼芸復帰。1548年秀龍と織田信秀が和睦。1552年頼芸追放される。松永久秀の客将となる。息に頼勝、頼高、頼泰。

土岐頼宗 (*)頼芸の息。

土岐頼元  (*~1608)(六角)・五郎左衛門・越前守・入道道庵・頼重・「斎藤頼元」。頼芸の息(4男)。息に持益。


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