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室町幕府三管領家 その1:細川氏の家臣団と軍団「応仁の乱」以前

足利幕府 歴代将軍と細川氏

足利尊氏将軍就任からの武将<将軍職:在職期間1338~1358>

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足利尊氏 <1338~1358>(1305~1358)足利貞氏の息。母は上杉清子。室町幕府初代将軍。丹波綾部の上杉荘と縁がある。丹波(亀岡)篠村八幡宮で反鎌倉幕府の挙兵。のち後醍醐天皇とも対立。北朝、光厳上皇を奉じる。武士の要望に応え過ぎたため、将軍の所領が少なく、足利将軍の勢力基盤が脆弱な原因となった。<足利尊氏のページ参照してください。>

<1336年細川和氏、頼春兄弟が阿波国入り。細川定禅は讃岐入り。>
<1342年和氏死去、47歳。頼春、京都四条大宮に戦死。>
<1347年細川顕氏、河内で楠木正行に敗戦。>
<1356年細川頼有、備後守護就任。>

足利義詮 <1358~1367>(1330~1367)千寿丸・鎌倉大納言・坊門殿・左馬頭・左近中将・征夷大将軍・権大納言・足利宰相。尊氏の嫡子。母は北条(赤橋)久時の娘。室町幕府第2代将軍。渋川義季の娘婿。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質として鎌倉に入府。1333年新田義貞の後見で鎌倉幕府を討幕。鎌倉を実質的に占拠し、新田義貞は上洛する。1349年尊氏の意向で上洛。1358年父の死により家督。1358~1367年二代目征夷大将軍に在位。斯波氏を管領に登用。1365年ごろ足利幕府の安定をみる。のち細川頼之に義満を託す。
<1359年畠山国清、足利基氏の名代として上洛。>
<1360年細川清氏、畠山国清・土岐頼康・京極道誉とともに、仁木義長を政変で追放。仁木は南朝方に走る。畠山国清、紀伊での敗戦に関東落ち。>
<1361年京極道誉に追われ、細川清氏は若狭に落ちる。清氏南朝方に走る。四条隆俊・楠木正儀とともに京都占領。>
<1362年細川清氏、阿波に落ちる。従兄弟の細川頼之により敗戦し討死。>

足利義満 <1368~1394>(1358~1408)足利義詮の息。母は紀良子。室町幕府第3代将軍。1368年11歳で将軍職継承。管領・細川頼之の補佐。1378年室町御所造営。20歳で頼之を四国に追放。斯波義将を管領とする。1392南北朝統一に成功。土岐、山名、大内氏を制する(明徳・応永の乱)。太政大臣任官。1397年金閣寺造営。1401年日明貿易を開始。息に義持。
<1367年細川頼之の上洛、執事就任。>
<1369年細川頼之、土岐頼康と寺社対策に確執。>
<1379年頼之失脚。反細川頼之勢力の蜂起、土岐頼康・京極高秀・斯波義将。頼之讃岐に落ちる。>
<1379年関東管領・足利氏満の軍事蜂起、関東管領・上杉憲春諫言、弟・憲方が管領継承。>
<1391年頼之、弟(養子)の頼元とともに上洛。頼元管領就任。>


足利義持 <1394~1423>(1386~1428)足利義満の息。母は藤原慶子。室町幕府第4代将軍。父・義満の後見で9歳で将軍就任。父の死後は管領・斯波義将の補佐。日明貿易を中止する。関東で足利持氏と上杉禅秀の対立が激化。1416年「上杉禅秀の乱」。弟の義嗣を乱共謀の罪で殺害。1400年頃、斯波義将が織田常松を尾張に派遣。
<1393年細川頼元、管領辞任。>
<1395年今川貞世、九州探題職解任。細川、今川同盟の連鎖による失脚。>
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>


足利義量 <1423~1425>(1407~1425)足利義持の息。母は藤原栄子。室町幕府第5代将軍。15歳で酒乱、側近が罰せられる。1423年義持の出家により将軍就任、17歳。赤松満祐が白旗城に籠城し「応永の変」起す。1427年赤松持貞が元将軍・義持の妻と恋愛。赤松持貞の不倫が発覚し自害。赤松満祐は降伏し幕府に帰順。1425年飲酒中毒のため在職3年で病没。義持が執政に復帰。義持の遺言で後継者は籤で決められた。

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足利義教 <1429~1441>(1394~1441)青蓮院・義円。足利義満の息。母は藤原慶子。足利義持の弟。室町幕府第6代将軍。1429年義持の死により天台座主・義円が還俗。鎌倉公方・足利持氏と対立。義教の代に徳政令を求める「正長の土一揆」勃発。1433年仁木国行、今川範政、斯波義淳を弾圧。1435年山名時熙を弾圧。1439年京極持光を弾圧。1439年「永亨の乱」関東公方・足利持氏を討伐。将軍の権力を強化。1440年一色義貫、土岐持頼を弾圧。1441年畠山持国、富樫教家を弾圧。1441年赤松満祐の「嘉吉の変」に横死。赤松教康により京極高数、大内持世、山名熙貴もともに討たれる。
<1441年細川持常、赤松満裕討伐軍大将。>


足利義勝 <1442~1443>(~1443)足利義教の息。母は藤原重子。室町幕府第7代将軍。1441年義教の死により将軍就任。赤松討伐軍を編成し、細川持常、細川淡路守、武田信賢、赤松貞村、赤松満政。別働隊に山名持清、山名教清、山名教之、山名政豊を動員。1441年赤松満祐、足利冬氏を迎え将軍・足利義尊と称させるが坂本城、木山城が落ち自害。義勝は在位一年余りで夭折。
<1462細川成之、管領代に就任。>


足利義政 <1449~1473>(~1490)「影の東軍大将」。足利義教の息。母は藤原重子。足利義勝の弟。幼少のため14歳まで将軍空位。畠山持国、細川勝元が代行。室町幕府第8代将軍。乳母・今参局、有馬持家、鳥丸資任の「三魔」を重用。1466年斯波(渋川)義廉を更迭し、斯波義敏に斯波家家督。斯波義廉が織田広成を上洛させ家督回復。1467年畠山義就を登用し家督。管領・畠山政長失脚。


足利義視 (*)「今出川殿」・義尋・左馬頭。最初「東方(東軍)大将」・後半「西方(西軍)大将」。足利義教の息。足利義政の弟。1464年前管領・細川勝元邸にて還俗。細川勝元の後援で山名家と対立。1467年西軍の飯尾為数を処刑。1467年「応仁の大乱」。8月西軍に離反するもの続出し、木造教親のすすめで京都を脱出し南伊勢多気の北畠教具を頼る。8月大内政弘の上洛で西軍勢力挽回。10月足利義政に見限られ、管領・細川勝元に出家を勧められる。比叡山に登るが、西軍・山名持豊、渋川(斯波)義廉を頼り将軍に擁立される。1477年土岐成頼に擁され美濃へ落ちる。斎藤妙椿の差配で隠居。


足利義尚 <1473~1489>(1465~1489)最初「西方(西軍)大将」・後半「東方(東軍)大将」。足利第9代・征夷大将軍。足利義政の息。母は藤原富子。政所執事・伊勢貞親に養育される。山名持豊(宗全)に擁立される。1467年「応仁の大乱」。のち細川勝元により「東軍大将」。山名持豊、細川勝元が相次いで没。1473年征夷大将軍に任官。1477年大内政弘、土岐成頼が下京し帰国。東軍優位で終戦。1489年近江六角高頼の討伐遠征中に陣没。
<1467年細川成之、阿波・三河軍を率い「応仁の乱」参戦。三河表軍奉行に東条国氏(武田国氏)。>
<1485年国元の「阿波騒乱」、細川成之・政之、先陣・三好、後陣・河村で鎮圧軍派遣。>


足利義稙 <1490~1521>(1466~1523)義材・義尹・「流れ公方」・阿波義稙。足利義視の息。母は藤原重政の娘。室町幕府第10代将軍。足利義尚の急死により、義政の後見で家督相続。義政の死後に、父・義視と日野富子の対立が再燃。近江に「六角高頼討伐」。1493年河内「畠山義豊討伐」出征中に管領・細川政元のクーデター「明応の政変」により失脚。龍安寺に幽閉されるが脱出。1508年大内義興の後援により将軍に復職。1521年細川高国の専横により淡路に落ちる、阿波に逃走。<斯波義達と今川氏親の抗争は誰の差し金か。義達の遠江守護罷免は義澄との縁によるものか。>
<1490年細川政元、伊勢貞宗、幕府に復帰した足利義視・義材親子と対立。>
 「半将軍」管領・細川政元の出現。
<1491年関白・九条政基の息・澄之を養子に迎える。>
<政元、日野富子、伊勢貞宗、赤松政則の同盟。>
<1493年「明応の政変」将軍・足利義材を追放。>
       「半将軍・細川政元」        

<1503年細川政元、成之の孫・澄元を養子に迎える。1504年薬師寺元一、澄元を擁立し挙兵。>
<1506年三好之長先陣、細川澄元上洛。>
<1507年香西元長、(九条)澄之を擁立し挙兵。政元、暗殺される。細川高国が澄之を討つ。>


足利義澄 <1494~1508>(1480~1511)堀越義澄・義高。足利第11代・征夷大将軍。堀越公方・足利政知の息。母は藤原隆光の娘。足利義政の養子。斯波義寛の娘婿。足利義尚の急死の際に細川政元に擁立されるが、義稙(義材)が将軍就任。1493年政元の起こした「明応の政変」により、1494年将軍就任。伊豆堀越氏討伐。1508年大内義興に擁された足利義稙が復権。近江に落ちる。<伊勢早瑞(北条早雲)の伊豆乱入は誰の指令か。東海道の今川氏親・伊勢長氏を支援?、斯波義達の活動は1507~1517年間・・、従兄弟の義澄を支援する為の挙兵か。>
<1508年細川高国、大内義興が足利義稙を擁して上洛。澄元・三好之長近江に撤退。>
<1511年足利義維、細川之持に託される。澄元・三好之長、阿波から上洛。「船岡山合戦」に敗北、細川政賢が戦死。>
<1518年細川高国と軋轢のため大内義興、周防に帰国。>
<1519年淡路守護・細川尚春、三好之長に暗殺される。細川澄元・之長、兵庫に上陸。>
<1520年之長上洛、細川高国近江に撤退。高国の反撃に三好之長敗北、自害。>


足利義晴 <1521~1546>(1511~1550)堀越義晴。足利第12代・征夷大将軍。堀越足利義澄の息。1508年第10代・足利義稙(義材・義尹)を擁立した大内義興の上洛。細川高国に追放された11代将軍・足利義澄の息。赤松義村に養育される。1521年10代・足利義稙を追放した細川高国に擁立される。1525年北室町に柳原御所を建造。1526年細川晴元が阿波足利義維を擁立し堺に侵入。丹波国神尾山城主・柳本賢治の挙兵により、北近江朽木落ち。六角定頼の後援を得る。1534年細川晴元との和睦で入京。1541年「木沢長政の乱」。1546年「細川氏綱の乱」で度々京都から脱出。1546年隠居し嫡男・義輝を将軍に据える。1547年細川氏綱・遊佐長教と和睦し、細川勝元と対立。近江穴太に居す。<伊勢北畠氏を頼る。>
<1521年足利義稙京都脱出、細川高国に擁立され義澄の息・足利義晴が将軍就任。>
<1526年細川晴元、三好元長、細川澄賢、三好勝長とともに上洛。晴元が義稙の猶子(養子)・義維を擁立。>
<1527年三好勝長、細川高国を破る。>
<1527年足利義維、細川持隆、晴元、三好元長、堺幕府を樹立。>
亰兆家の変遷。

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<1350年代 初期・惣領家> 讃岐・和氏流

細川清氏 <幕府管領職・足利家執事:1358~1361>(*~1361*1362)弥八・左近将監・伊予守・相模守・元氏。細川和氏の息。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。1352年伊賀守護。若狭守護。引付頭人。1353年直冬の京都進攻に後光厳天皇を背負って都落ち。1358年ニ代将軍・義詮に執事に任命される。1359年12月上洛した畠山国清とともに河内南朝軍・楠木正儀の赤坂城を攻略。1360年畠山国清と結び、仁木義長を失脚させる。1360年7月仁木義長と抗争。佐々木高氏(道誉)とも対立。政敵が多く1361年義詮により追討される立場となる。若狭に逃れ南朝の楠木正儀と結ぶ。のち讃岐に逃れるが一族・細川頼之に討たれる。弟に頼和、信氏、将氏、家氏、業氏。息に正氏。息の正氏は南朝軍として抗争。<庶流の細川顕氏が幕府創業期には軍事的に大活躍していたが、直義・直冬を支持し南朝方に加わったため没落した模様。一貫して尊氏派だった細川和氏の家門が登用されるが、清氏の代からは没落する。>

▽細川家氏 (*)細川和氏の息。細川清氏の弟。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。1360年畠山国清を総大将に「紀州攻め」に従軍。1360年京都「仁木義長の乱」の影響で敗戦。

▽細川正氏 (*)細川清氏の息。叔父に頼元。従兄弟に頼長、義之、頼重、基之、満之。

都築* (*)和泉守護代家(1337~1344)。武蔵都築郡発祥の豪族。細川氏に従い和泉に入植。

頓宮* (*)若狭守護代家(1354~*)。備前国福岡庄吉井村地頭家出身。<細川清氏に従った世代か>


細川管領(京兆)家 阿波・頼春流


細川頼之 <幕府管領職1367~1379>(1329~1392)弥九郎・右馬助・右馬頭・武蔵守・頼行・入道常久。中国管領・上屋形。三管領のひとり。細川頼春の息。弟に(阿波)詮春、(和泉)頼有、(備中)満之、(上屋形)頼元。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。1352年頼春の討死により阿波軍を率いる。弟・頼有とともに「男山の合戦」。阿波守護を継承。のち伊予守護を兼任。中国地方の足利直冬を追討する中国管領に就任し、備前から安芸の山陽四カ国を支配。1362年南朝に降伏した従兄弟の細川清氏を讃岐に討つ。尊氏の指名でのちに足利義詮の執事となる。若くして足利尊氏から管領職の逸材と期待される。義詮からの遺言により義満の後見人。三代将軍・足利義満の管領。足利幕府の全盛時代を作り出す。室町幕府の将軍権力を強化する。将軍権力の強化と有力守護を抑圧する政策を推進したため守護大名から倦厭される。やがて1379年「康暦の政変」に管領職から失脚し、新管領には穏健主義の斯波義将が迎えられる。讃岐・阿波・土佐を分国化する。1389年義満の厳島参拝に随行。1392年没。64歳。息に基之(養子・和泉下守護家の祖)、頼元(養子)。

(阿波・讃岐家)
細川詮春 (1330~1367)阿波屋形・下屋形・岡屋形・九郎・讃岐守・左近将監。細川頼春の息。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。兄の管領職就任により、阿波守護家の祖。息に義之。讃岐細川の祖。勝幡城を本拠地とする。息に義之。<のちの三好長慶と阿波守護代・三好義賢のような関係か。>

(和泉家)
細川頼有 (1332~1391)讃岐十郎・掃部助・宮内少輔・右馬頭。細川頼春の息。頼之の弟。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。1352年頃から畿内で南朝軍と抗争。父・頼春戦死後も讃岐軍を率いる。兄・頼之とともに「男山の合戦」。備後守護。兄の中国管領・細川頼之を補佐する。兄の管領在任中は四国を代理統括。南朝軍の河野氏と抗争する。1390年山名時煕追討に備後表にて軍功。60歳。和泉細川の祖。息に頼長、頼顕。

(伊予・備中家)
↓▽細川満之 (*1350~1406)兵部少輔。頼春の息。伊予分郡守護。細川頼之の弟。河野通義との和睦により伊予を分郡支配することとなる。宇摩・新居郡を分郡支配〈1389-〉。1392年備中守護代。1393年備中守護。息に頼重、基之、(阿波家へ養子)満久(息に持常、教祐)。

⇔▽細川頼元 <幕府管領職1391~1393>(1343~1397)聡明丸・三郎・右馬助・右京大夫(唐名=京兆)・頼基。「幕府管領」。細川頼春の息。頼有の弟。兄・頼之の養子。義季流・六代目。「京兆家」。三代将軍・足利義満の管領。斯波義将の跡をうけ、勢力を伸張して強大となった山名氏清を兄・頼之の後見の下で圧迫する。摂津・丹波・讃岐・土佐四カ国守護。1369年河内に出陣し幕府に通じた楠木正儀を救援。1378年紀伊守護・細川業秀を救援。1379年兄・頼之とともに四国に撤収。のち幕府に復帰。1391年幕府管領職。山名氏清は1391年「明徳の乱」、足利義満自らの討伐軍に従い鎮圧に軍功。息に細川満元。55歳。

(阿波・讃岐家)
▽細川義之 (*)詮春の息。阿波・讃岐守護細川家。養子に従兄弟の満久(満之の息)。孫に持常、教祐。

(伊予・備中家)
↑▽細川満之 (*1350~1405)兵部少輔。細川頼春の息。兄の管領在任中は四国統治の補佐。1392年備中守護代。のち備中守護家の祖。息に頼重、基之(和泉半国守護家)、(阿波家へ養子)満久(息に持常、教祐)。

(和泉家)
▽細川頼長 (1375~1411)九郎・刑部少輔。淡路守護家。頼有の息。1390年「明徳の乱」に繋がる山名時煕・氏幸討伐に父・頼有とともに従軍。備後表にて軍功。土佐守護<1400->・和泉半国(上)守護<1408-1411>。息に持有。和泉下守護に頼之の養子・細川基之。

<阿波衆:郎党23騎>
一宮成明 (*)小笠原氏。阿波衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<のち三好家家臣。>

小笠原頼長 (*)(三好?・赤沢?・一宮一門)。阿波衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

海部経清 (*)阿波衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<のち三好家家臣。>

飯尾長尚 (*)阿波衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<幕府の在京飯尾氏との関係は。>

<讃岐衆:郎党23騎
十河兼重 (*)讃岐衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<のち三好家家臣。>

安富盛衡 (*)讃岐衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<赤松氏家臣の備前・美作守護代、浦上家と繋がりあり。>

那伽氏宗 (*)讃岐衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

大西貞広 (*)近藤。讃岐衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<のち三好家家臣。>

香川頼景 (*)讃岐衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

長尾高之 (*)讃岐衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

<丹波衆>
内藤季綱 (*)丹波衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<のち三好家家臣。松永氏に乗っ取られる。>

松田重秀 (*)(波多野?)。丹波衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

上原成基 (*)物部。丹波衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。細川頼之の内衆。

薦田頼尚 (*)淡路衆?。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

<備中衆>
庄頼資 (*)備中衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<幕府政所の伊勢氏との関わりは。>

河村之秀 (*)備中衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<斯波家家臣の河村氏と繋がりありか。>

<伊予衆>
長塩家次 (*)伊予衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

妻鳥清次 (*)伊予衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

<摂津衆>
三宅氏村 (*)摂津衆。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<三河の三宅氏との関わりは。光秀に出仕するのはどちらの三宅か・・。>

<その他>
由木之春 (*)ゆぎ。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

柿原兼信 (*)細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。<上杉謙信以前の「けんしん」?。普通にカネノブでしょうか。>

加地朝包 (*)佐々木・賀治・彦次郎。細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。子孫は伊予国宇摩郡郡代。

栗野範幸 (*)細川頼元の伴衆「郎党23騎」のひとり。

1391年「明徳の乱」 足利義満 VS 山名氏清

<将軍方>
⇔結城満藤 (*)古山。丹後国人。足利義満側近。丹波に所領を持つ。山名氏清の丹波での軍事蜂起を通報。1391年「明徳の乱」発生。軍功により尾張海東郡分郡守護、のち山城国守護。

富永* (*)左近将監。将軍奉公衆。幕府軍。山名氏討伐に従軍。<頼義・義家の頃。古くから源氏家臣。のち滝川左近将監と縁戚関係があるかも>

摂津* (*)左馬助。将軍奉公衆。幕府軍。山名氏討伐に従軍。<義輝に抜擢され幕府政所所司になる摂津氏か。>

赤松義則 (*)赤松惣領。山名氏討伐に従軍。

赤松顕則 (*)越後守。貞範の息。足利義満の側近。紀州出兵に従う。山名氏討伐に従軍。息に持貞。

赤松満則 (*~1391)上総介。顕則の弟。山名氏討伐に従軍。息に満政。

畠山基国 (*)右衛門佐。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。

⇔大内義弘 (*)
斯波義重 (*)「勘解由小路殿」
一色詮範 (*)左京大夫。
細川常久 (*)武蔵入道。
今川泰範 (*)上総介。
六角満高 (*)佐々木・判官。
京極高詮 (*)

<山名方> 山名持豊の家臣団と軍団
垣屋頼忠 (*~1391)滑良兵庫とともに惣領・山名時煕を守り戦死。<のち羽柴家家臣となる垣屋氏。>

↑細川頼元 (*)幕府管領職。頼春の息。兄・頼之の養子。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。息に満元、満国。

(淡路家)
↑細川満春 (*)淡路守護。氏春の息。頼之の従兄弟。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。1391年「明徳の乱」鎮圧に軍功。1399年「応永の乱」に大内義弘の拠点・堺城を、細川水軍を率い攻略。息に満師、俊春。

(和泉家)
細川持有 (*)頼長の息。息に教春、常有。

(阿波・讃岐家)
細川満久 (*)義之の養子。備中家・満之の息。兄弟に基之、頼重。息に持常、教祐。

(備中家)
細川頼重 (*)満久の息。息に氏久。
▽細川基之 (*)満久の息。

細川満元 〈1397-1426〉(1378~1426)五郎・右馬助・右京大夫・入道道歓。「幕府管領」。弟に満国(野州家の祖)。1412年管領職。足利義持の管領。畠山満家の跡をうけ管領職。1414年伊勢国司・北畠満雅の挙兵。足利義嗣の挙兵。1416~1417年「上杉禅秀の乱」鎌倉落城。1417古河公方・足利持氏の鎌倉帰還。1418足利義持、弟・義嗣を成敗。1421年管領職辞任。息に持元、持之、持賢(典厩家の祖)。義兄弟に宇都宮基綱。49歳。

▽細川満国 (*)野州家。頼元の息。満元の弟。息に持春。

(和泉家)
細川教春 (*)和泉細川氏。持有の息。養子に弟・常有。
▽細川常有 (*)和泉細川氏。持有の息。兄・教春の養子。息に頼常、政有。

(阿波・讃岐家)
細川持常 (*)満久の息。養子に成之。
▽細川教祐 (*)満久の息。息に成之。

(備中家)
細川氏久 (*)頼重の息。息に勝久。

(淡路家)
細川満師 (*)満春の息。息に持親。

「関東王」 持氏 VS くじ引き将軍・義教

⇔細川持元 〈1426-1429〉(1399~1429)五郎・右馬助・右京大夫。満元の息。弟に持之、持賢。1425年将軍・足利義量が死没し、再び足利義持が将軍職。1426年家督相続。1427年赤松満祐の叛乱の鎮圧に出動する。1430年阿波守護に細川持常が就任。31歳。

細川持之 〈1437-1442〉(1400~1442)右京大夫。満元の息。兄に持元、弟に持賢。従兄弟に持春。1429年兄・持元の早世により家督。1432~1442年管領。将軍・足利義教の代に管領。関東の古河公方・足利持氏を上杉憲実の手により滅ぼす。1441年「嘉吉の乱」で足利義教が暗殺され、足利義勝を後見する。一門の細川持常が大手軍の大将。1442年管領職を畠山持国に譲り、ほどなく没す。息に勝元、成賢(弟・持賢の養子)。

↓▽細川持賢 (*)満元の息。兄弟に持元、持之。養子に成賢(兄・持之の息)、政国(従兄弟・持春の息)。

↓▽細川持春 (*)満国の息。息に政国、教春。

(淡路家)
細川持親 (*)満師の息。息に成春。
(備中家)
細川勝久 (*)氏久の息。養子に之勝。
(阿波・讃岐家)
細川教祐 (*)息に成之。
(和泉家)
細川政有 (*)常有の息。息に元有。
細川頼常 (*)常有の息。

細川管領(京兆)家 「応仁の乱」1467~1477年。


細川勝元 〈1442-1473〉(1430~1473)右京大夫。細川嫡流「京兆家」。持之の息。兄弟に成賢(叔父・持賢の養子)。山名持豊の娘婿。1442年父の死により13歳で家督。摂津国を領有。八代将軍・足利義政の管領。1445年16歳で八代将軍・足利義政の管領。幕政は前管領・畠山持国が握る。山名氏と結び対抗。のち1452~1464年の12年にわたり管領職。讃岐・丹波・摂津の守護〈1442-1473〉。1449年一門の持常が死去。赤松家の復興を支援し山名氏と対立。幕府第一の実力者。将軍・足利義視、斯波義敏、畠山政長と結ぶ。「応仁の乱」の東軍、16万の軍勢を率いる。1465年伊予に新開遠江守を派遣し湯築城奪取。伊予の国人・大野氏、森山氏、重見氏を従える。1468年3度目の管領就任。足利義政が伊勢貞親を赦免したため義視は西軍に離反する。1472年宗全の和平案を赤松政則の反対で拒否。1473年病死する(毒殺とも)。44歳。息に政元。義兄弟に山名豊久、勝之。養子に(山名)豊久。<山名家との結びつきを強めていたのに対立することに・・。>

▽細川成賢 (*)勝元の弟。叔父・持賢の養子。養子兄弟に政国。従兄弟に教春。甥に細川政元(半将軍)。

▽細川政国 (*)持春の息。兄弟に教春。息に政賢。孫に澄賢、尹賢。
▽細川教春 (*)持春の息。兄弟に政国。息に勝之、政春。孫に高国(管領職相続)。

(阿波・讃岐家)
細川持常 〈1430-1449〉(*~1449*)讃岐守。讃州家。満久の息。弟に教祐(息に成之)。1430年阿波守護職。6代将軍・足利義教の側近として台頭。1440年武田信栄とともに一色義貫を誅殺。三河守護を得る。1441年「嘉吉の変」に赤松屋敷から脱出。赤松満祐討伐の大将となる。但馬の山名持豊と同盟し「嘉吉の乱」を鎮圧。1448年満祐の弟・則繁を討った赤松則尚を擁護。山名持豊と対立。1449年後職を養子の(弟・教祐の息)成之に譲渡。<赤松氏を擁護し、山名持豊と対立。>

(淡路家)
細川成春 (*)持親の息。息に尚春。
(和泉家)
細川元有 (*)政有の息。息に元常、(三淵)晴員。孫に(長岡)藤孝。
(備中家)
細川之勝 (*)勝久の養子。養子に政春。

<細川勝元の後見人・叔父達>


↑細川持賢 (*)「典厩家」。足利一門衆。満元の息。持之の弟。細川勝元の後見人。従兄弟の持春と義兄弟の契約。1444・1450・1452年京兆家主宰「犬追物」に参加。1454年伊勢出兵に従軍。1467年「応仁の乱」に従軍。勘解由小路合戦に軍功。養子に(持春の息)政国、(持之の息)成賢。

↑細川持春 (*)下野守・下野殿。「野州家」。足利一門衆。満国の跡職を継承。従兄弟の持賢と義兄弟の契約。将軍・義教の近習。1441年「嘉吉の変」に山名熈貴とともに奮戦。片腕を負傷。1444・1450・1452年京兆家主宰「犬追物」に参加。1467年「応仁の乱」に従軍。勘解由小路合戦に軍功。息に教春、政国。

<細川勝元の譜代家老衆 「細川四天王」>
香川元明 (*)讃岐衆。細川勝元の「四天王」のひとり。1454年伊勢出兵に従軍。勘解由小路合戦に軍功。

安富盛長 (*)讃岐衆。細川勝元の「四天王」のひとり。1454年伊勢出兵に従軍。勘解由小路合戦に軍功。<赤松氏家臣の備前・美作守護代、浦上家と繋がりあり。>

▽安富元綱 (*)讃岐衆。1467年「応仁の乱」に従軍。<赤松氏家臣の備前・美作守護代、浦上家と繋がりあり。>

奈良元安 (*)讃岐衆。細川勝元の「四天王」のひとり。
香西元資 (*)讃岐衆。細川勝元の「四天王」のひとり。
上原賢家 (*)丹波衆。1454年伊勢出兵に従軍。息に秀家、高家、元家。
上野元興 (*)足利一門衆。1467年「応仁の乱」に従軍。
上野賢氏 (*)足利一門衆。11467年「応仁の乱」に従軍。
長塩元盛 (*)1467年「応仁の乱」に従軍。
秋庭元明 (*)1467年「応仁の乱」に従軍。
↓内藤元貞 (*)丹波衆。京兆家年寄衆。1467年「応仁の乱」に従軍。1482年丹波守護代を罷免される。上原賢家が新守護代に就任。

↓薬師寺元長 (*)摂津衆。1467年「応仁の乱」に従軍。1486年細川政元・管領伴衆。安富元家、上原元秀とともに政元の側近三人衆。

<細川政元の譜代家老衆>
「四天王家」

香川元景 (*)讃岐衆。京兆家年寄衆。<「元景」の名は子孫の数世代に相続されます。>

「政元三人衆」
安富元家 (*)讃岐衆。京兆家年寄衆。1486年細川政元・管領伴衆。薬師寺元長、上原元秀とともに政元の側近三人衆。1493年「明応の政変」に軍功。<赤松氏家臣の備前・美作守護代、浦上家と繋がりあり。>

上原元秀 (*~1494)神六・左衛門尉・紀伊守。丹波守護代。丹波衆。賢家の息。兄弟に秀家、高家。1486年細川政元・管領伴衆。政元の執事。薬師寺元長、安富元家とともに政元の側近三人衆。1493年「明応の政変」に軍功。同じ細川被官の長塩弥六に傷害され死去。<先祖は諏訪大社神職。>

↓薬師寺元長 (*)摂津衆。1467年「応仁の乱」に従軍。1486年細川政元・管領伴衆。安富元家、上原元秀とともに政元の側近三人衆。

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