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戦国その17 下克上の越前太守 朝倉家の家臣団と軍団

朝倉敏景、氏景、貞景、孝景、義景の家臣団と軍団
織田家・桂田長俊の軍団、別喜広正の軍団

1467年「応仁の乱」東西両軍の大名と朝倉家の動向


越前朝倉家 歴代当主

 ○印=当主 ▽印=配下武将 紫文字=離反者

(越前国守護 朝倉家初代)

応仁の乱に駆け上がる

⇔○朝倉敏景 <初代:1470~1481>(1428~1481)(八木)・日下部・小太郎・孫右衛門・弾正左衛門・教景・孝景・栄林。家景の息。弟に経景、慈視院光玖、景冬。斯波氏三家老のひとり。守護代・甲斐常治に与力。1458年堀江利真に敗北。1459年斯波義敏に勝利。1460年義廉に従い甲斐常治の息・敏光とともに遠江遠征。1471年越前守護・斯波(渋川)義廉から独立。細川勝元から越前守護職拝領。斯波家内紛に乗じて守護代・甲斐敏光を破り、越前を掌握。斯波義敏に代わって越前守護職。一乗谷を拠点に定める。本願寺蓮如に越前吉崎の寺を寄進し同盟を結ぶ。最初の戦国大名、「朝倉孝景17箇条」を制定。斯波義良(松王丸)を後援する二宮氏と抗争。黒丸城主。54歳。一乗衆5000兵を率いる。義兄弟に堀江利真。息に氏景、景明、景総、教景(宗勝)、時景、景儀、教景。<一代で教景→敏景→孝景に改名。><1481年斯波義良、甲斐、二宮氏を加賀に撃退し越前制覇。><山陰の八木氏との関わり気になります。>

朝倉経景 (1438~1491)与三右衛門・下野守・下野入道・簾勝・足羽郡司。家景の息。敏景の弟。足羽郡を領する。54歳。息に景職。安居城主。

慈視院光玖 (1449~1494)建仁寺・玉岩・大野郡司・こうきゅう。家景の息。敏景の弟。足羽郡安居保を支配。1484年養子・教景が景総に殺害される。大野衆2000兵を率いる。1493年家人の杉若、久原が大将となり京都出兵。55歳。

朝倉景冬 (*~1495)孫四郎・修理進・修理亮・遠江守・「小天狗」・敦賀郡司。家景の息。敏景の弟。1472年頃から敦賀郡司。敦賀衆3000兵を率いる。1487年将軍・足利義尚の六角氏征伐に従軍し先陣の将。1490年足利義政の東山山荘に松を運ぶ。息に景豊。娘婿に朝倉教景、堀江景実、鳥羽景富、青蓮華近江守。

(第2世代)

⇔○朝倉氏景 <二代:1481~1486>(1449~1486)孫次郎・孫右衛門。敏景嫡男。母は朝倉将景の娘。弟に景総、景明、教景、時景、景儀、教景。室は織田氏の娘。1481年家督。甲斐氏との合戦に勝利。斯波義敏の息・斯波義良(松王丸)、二宮、甲斐一族を追放。美濃の斎藤利国(妙純)の調停で斯波(渋川)義廉と和睦。斯波(渋川)義廉の息・斯波義俊を擁立。鞍谷御所に据え斯波義良、織田敏定に対抗。越前から撃退する。1482年一乗谷大火。1484年弟・朝倉教景が兄・景総に討たれる。一乗谷を「小京都」と呼ばれる城下町に育てる。38歳。息に貞景、景宗。<朝倉氏が義景の代に滅亡したので、かき消されてしまっているかもしれませんが、1481年に斯波義寛、織田敏定に完全に勝利したということでは?。><敗者の側の義良としては当主を引退、渋川家から養子縁組で、義寛を跡職として相続させたのではないでしょうか。それゆえに義敏は京都で「斯波家譜」なる正統記を記したのでは。> 

朝倉景総 (*~1505)孫五郎・弾正忠・元景。敏景の息(五男)。朝倉景豊は娘婿。1484年弟の朝倉小太郎・教景を殺害。朝倉家から出奔し管領・細川政元に出仕。1503年惣領家に対して謀反。同盟者の景豊が敗北したため、近江に撤退。加賀から侵攻するが敗北。能登の斎藤館に隠居。

朝倉教景 (*~1484)小太郎・宗勝。朝倉敏景の息。朝倉一門の叔父・慈視院光玖の養子。兄の朝倉景総により殺害される。

朝倉景豊 (*~1503)孫四郎・敦賀郡司。景冬の息。室は朝倉景総の娘。1487年将軍・足利義尚の六角氏征伐に出陣するも、斯波義寛と対立。1495年父・景冬の死により家督。1503年景総と結んで惣領家(貞景)に対して謀反。教景(宗滴)の密告で漏洩し自害。


 近江の騒乱。貞景=斎藤妙純=織田寛広=京極高清の同盟。

(第3世代)

⇔○朝倉貞景 <三代:1486~1512>(1473~1512)孫次郎・弾正左衛門。氏景の息。母は織田(孫左衛門)の娘。斎藤利国(妙純)の娘婿。氏景が早世したため、敏景の弟・慈親院光玖が後見する。1487年将軍・足利義尚の発した六角高頼追討の為、近江に遠征する。斯波義寛を擁する織田敏定と対立。1488年加賀一向一揆の動きが激しくなり、堀江景用を派遣するが、富樫政親は陣没する。1491年足利義材(義尹・義稙)の六角高頼攻めにも斯波義寛と対立。1491年管領・細川政元の越前下向を接待(東軍方へ帰参)。1493年細川政元に協力し足利義材(義稙)を追う。1494年甲斐残党蜂起。1495年美濃「船田合戦」、近江に出陣。1496年美濃「城田寺の合戦」に勝利。1498年細川政元に追われた将軍・足利義材(義稙)が越前に居す(西軍方へ)。1503年敦賀郡司・朝倉景豊討伐。1504年朝倉景総(元景)撃破。1506年加賀一揆撃退。40歳。息に孝景、景高、景郡、景紀、(波多野)道郷、景延。娘婿に朝倉景職、土岐頼武。

<足利義嗣の跡職、「鞍谷御所」渋川義俊を擁立する事で、北陸探題・足利(渋川)義俊の下に越前守護の朝倉貞景としての地位を確立し、尾張守護・斯波義寛を擁立する、尾張守護代・織田敏定の主張を退けたのでは。これは将軍・義尚が提示した現実的な妥協案だったのでは。>

(第4世代)

⇔○朝倉孝景 <四代:1512~1548>(1493~1548)孫次郎・弾正左衛門・宗淳。母は斎藤利国(妙純)の娘。弟、朝倉景高と争うが、朝倉教景(宗滴)の後見もあり朝倉家の全盛期をつくる。1516年朝倉宗滴が若狭遠征、逸見氏討伐。丹後侵入「倉梯城攻略」、延永氏討伐。1518年美濃守護代・斎藤利良が土岐頼武とともに来越。土岐頼武を婿に迎える。1519年朝倉景高、頼武を擁して美濃侵攻。1525年朝倉宗滴が近江に遠征。六角氏を後援し浅井亮政に圧力。朝倉景職が美濃稲葉山城攻囲。1527年宗滴・前波氏、細川高国の要請で上洛。1531年加賀出兵。1538年若狭守護・武田元光を後援し武田信孝を撃退。1541年朝倉景高、若狭武田氏と結び孝景に反抗。1544年宗滴、美濃遠征「稲葉山城攻囲」。妹婿に土岐頼武。娘(長女)婿に鞍谷斯波氏。

⇔▽斎藤利良 (*~1538)美濃守護代。斎藤利親の息。従兄弟に朝倉孝景。1518年叔父・彦四郎に追われ越前落ち。

⇔▽土岐頼武 (*)美濃守護。朝倉孝景(宗淳)の妹婿。1518年越前落ち。1519年孝景の支援で美濃復帰。1530年再度越前落ち。<一色家の血統でもあり、朝倉家の若狭侵入に大義名分が加わったのでは。>

⇔▼土岐頼純 (1524~1547)(朝倉)・次郎。母は朝倉貞景の娘。1518年越前落ち。1535年叔父・頼芸と対立。朝倉・六角に後援される。1536年六角定頼が離反。1539年頼芸と和議。1542年大桑落城により越前落ち。1544年朝倉宗滴と織田信秀の支援で美濃乱入。1546年頼芸から守護職を譲渡される。

▽波多野道郷 (*)朝倉道郷。朝倉貞景の息(5男)。越前波多野家を相続。息に道景。<朝倉義景の養子になっての道景か。越前にも有力な波多野家があったようです。丹羽長秀の家紋との繋がりが気になるところです。尾張の波多野はどこの地域の末裔か・・。>

管領・斯波家の勢力

<「応仁の乱」東軍・西軍><1449~1473>

足利幕府の変遷

<管領・斯波氏と、朝倉氏のライバル甲斐氏>

 <越前守護:在職期間>

斯波義将 <越前守護:1368‐1379>(1350~1410)治部大輔・左衛門佐。高経の4男。室町幕府三管領の筆頭。吉良満貞の娘婿。幕府管領に三度就任。細川頼之とともに三代将軍・足利義満を補佐。越前、若狭、能登、越中、遠江、信濃の守護。息に義重(義教)。

⇔▽甲斐教光 (*~1395)美濃守・のりみつ。斯波家執事。斯波家家老職。1383年頃、越前守護代職。娘婿に斯波義重。息に将教。<下野国佐野庄の藤原氏が被官化したらしい。><近江高島郡木戸城主も佐野氏。>

斯波義種 〈越前守護:1387-1408〉(*)修理大夫・左衛門佐・入道道守。斯波高経の息。斯波義将の弟。加賀守護。斯波家庶流。1414年将軍・義持の勘気により失脚。息に斯波満種。

二宮* (*)加賀守護代。斯波義種の家老。

二宮氏泰 (*)信濃守護代。斯波義種の家老。1384年信濃守護代を拝名し息子・種氏を代官として派遣する。息に種氏。

▽二宮種氏 (*)1584年信濃代官として信濃平柴に下向。1388年信濃国人・村上頼国、小笠原清順、高梨朝高、長沼太郎が反乱。二宮種氏の臣・市河頼房の生仁城は落城。

▽二宮* (*)越中守・入道是随。信濃代官。

▽細川慈忠 (*)二宮種氏のあとに信濃国代官。1392年村上満信と生仁城をめぐり抗争。

斯波義教 <越前守護:1398-1418>(1371~1418)斯波義重・左衛門佐・右(左)兵衛督・入道道孝。斯波義将の息。母は吉良満貞の娘。甲斐教光の娘婿。1400~1418年尾張守護兼任。<尾張・越前の侍の配置転換。>遠江・加賀・信濃守護兼任。妹婿に渋川満頼。息に義淳、義郷、特有(持輔)。

斯波義淳 <越前守護:1418-1433>(1397~1434)(吉良)・左兵衛佐・入道道忠。斯波義教(義重)の息。義淳の死後に家督争い勃発。息に義豊。


<斯波義教・義淳の家臣団>

加賀島* (*)斯波氏家老。斯波義教(義重)の遠江守護代。

藤原重教 (*)藤原。斯波氏家老。1400年斯波義教の尾張守護代。<この藤原は織田か、甲斐か。>

甲斐将教 (*~1420)ゆきのり・八郎・美濃守・入道祐徳。斯波家執事。甲斐教光の息。斯波義教(義重)の義兄弟。斯波義淳の家老。1395年越前守護代。越前・尾張・遠江守護代兼任。斯波家家老職。息(孫?)に敏光。

▽甲斐* (*)右京亮・入道若椙。甲斐一門衆。斯波義教(義重)の家臣。尾張代官。

▽甲斐* (*)兵庫助・入道。東遠江又守護代。甲斐一門衆。斯波義教(義重)の家臣。

▽大谷* (*)豊前守・入道玄本。西遠江又守護代。甲斐一門衆。斯波義教(義重)の家臣。

▽狩野* (*)新左衛門尉。東遠江又守護代。甲斐家譜代家臣。甲斐兵庫助に代わり又守護代。

▽狩野* (*)修理亮。甲斐家譜代家臣。

織田教広 (*)藤原。斯波氏家老。斯波義教(義重)の家臣。尾張守護代。

島田* (*)遠江守・入道常栄。斯波氏家老。斯波義教(義重)の家臣。1401年斯波義将の代官として信濃守護代。

斯波義敏 〈①1452-1460〉〈②1466-1471〉(1435~1508)(大野)・左兵衛佐・左兵衛督。庶流、斯波持種の息。斯波家執事・甲斐常治の専横に怒り、古河公方討伐の途中に、越前敦賀城を強襲するも敗北。将軍・義政は斯波義敏を追放。大内教弘の下に落ちる。渋川義鏡の息・渋川義廉に斯波家家督を奪われる。幕府政所執事・伊勢貞親により義政の赦免を得て越前守護復帰。1467~1477年「応仁の乱」の東軍。足利義視、畠山政長、細川勝元と結ぶ。斯波家を相続した斯波(渋川)義廉と抗争。1481年義良が越前で敗戦。弟に義孝。息に義良、寛元、義雄。

斯波義良 (*)(大野)・松王丸。義敏の息。1475年甲斐敏光の越前乱入を止め、遠江守護代として遠江に派遣。1481年越前で敗退。

甲斐将久 (*~1459)藤原・美濃守・ゆきひさ・入道常治。斯波氏家老。越前・遠江守護代。与力に朝倉教景。斯波義敏と抗争。甲斐将教の息。越前・遠江守護代。斯波義敏を侮り専横。斯波義敏が古河公方討伐の途中に、越前敦賀を強襲するも撃退。1458年幕府により仲裁するも応じず「越前・長禄の乱」、義敏派・堀江利真が越前に侵攻し甲斐軍を破る。息に敏光。弟に近江守*。跡職は甲斐信久が継承。

甲斐教衡 (*)郷衡。斯波氏家臣。敦賀郡代。甲斐将久の一門(将久は兄とも)。跡職は甲斐久衡が継承。

細江* (*)修理亮・入道。斯波氏家臣。遠江又守護代。

堀江利真 (*~1459)石見守。斯波氏家臣。朝倉家景の娘婿。朝倉敏景の義兄弟。斯波(大野)義敏に従い、1458年越前侵攻。朝倉将景とともに越前大半を占領し独立の動きを見せる。足利義政の命により甲斐敏光、朝倉敏景の連合軍派遣。斯波義敏は失脚し周防落ち。跡職は庶流の堀江景用が継承。1459年義敏方として朝倉将景とともに「足羽和田の合戦」に戦死。

堀江* (*)三郎右衛門・入道。斯波氏家臣。遠江又守護代。

一井* (*)遠江国人。斯波氏家臣。細江氏配下。<新田系の一ノ井氏か。>

⇔↑朝倉敏景 (*)教景。斯波氏家臣。家景の息。将軍・足利義政の引き立てにより、越前守護代・甲斐敏光を凌ぐ勢力を得る。1467-1477「応仁の乱」1471に西軍から東軍に転じる。

▽大谷久棟 (*~1464)斯波氏家臣。西遠江又守護代。甲斐一門衆。甲斐敏光・信久に従う。今川義将、井伊、原氏と抗争。

▽甲斐* (*)修理助。斯波氏家臣。1464年大谷氏に代わり西遠江又守護代。狩野七郎右衛門とともに両職。

▽狩野* (*)七郎右衛門・七郎左衛門尉。斯波氏家臣。遠江又守護代。大谷氏とともに両職。1464年大谷氏の没落により、甲斐修理助が遠江下向。のち遠江単独代官。一族の狩野加賀守に討たれる。息に狩野介。

狩野* (*)加賀守。斯波氏家臣。今川義忠、幕府奉公衆の勝間田・横地氏と結び、狩野七郎右衛門の息・狩野介を討つ。



渋川義廉 〈1466-*〉(*)斯波義廉・治部大輔。堀越公方・足利政知の家老・渋川義鏡の息。山名宗全の娘婿。朝倉孝景の娘婿。1467-1477「応仁の乱」に西軍。足利義尚、畠山義就、山名持豊(宗全)と結ぶ。のち足利義視を擁立。追放した斯波義敏、斯波松王丸(義良)の親子と抗争。1471年越前表にて朝倉敏景・氏景親子の離反。1475-1481年越前落ち。息に義佐、義寛、義俊。弟に義堯。

▽狩野* (*~1474)狩野介・宮内少輔。斯波氏家臣。東遠江又守護代。遠江守護代職。甲斐家家臣。「応仁の乱」に西軍。のち斯波義良に従う。狩野加賀守を討伐。1474年今川義忠に見附城を攻撃される。見附府中城主。

甲斐敏光 (*~1481?)斯波氏家老。越前・遠江守護代。将久(入道常治)の息。渋川義廉を擁し、斯波義敏と抗争。1459年朝倉孝景とともに、斯波義敏の将・堀江利真と抗争。1460年幕命で朝倉氏とともに関東表に出陣。「応仁の乱」に渋川義廉に従い西軍。1471年越前表で朝倉敏景・氏景親子の離反。1474年義良に従い東軍に帰順。1475年遠江下向。1476年今川義忠と抗争。義忠戦死。1478年斯波義良に従い、1479~80年越前侵攻、朝倉と抗争。越前二宮氏とともに朝倉敏景(1481:没)を圧迫。息に信久。<「応仁の乱」に西軍主力。朝倉孝景が離反し東軍。>

▽甲斐久衡 (*)斯波氏家臣。敦賀郡代。甲斐教衡の跡職を継承。

甲斐信久 (*~1472)千喜久丸。斯波氏家老。遠江守護代。敏光の息。1459年祖父・甲斐常治の跡職を継承し越前・遠江守護代。斯波(渋川)義廉を擁立し、斯波義敏と対立。父が越前表で抗争中、遠江を守備。「応仁の乱」に渋川義廉に従い西軍。今川義忠と抗争。1472年越前表にて戦死か。

▽堀江* (*)三郎左衛門尉。斯波氏家臣。西遠江又守護代。甲斐一門衆。1481年甲斐敏光とともに遠江下向。

▼堀江為清 (*)三郎左衛門。斯波氏家臣。1501年浜名郡金剛寺に寄進。

 遠江国要所図<今川家との争乱で越前や尾張に移住した人々がいるんじゃないでしょうか。>

斯波義俊 (*)渋川・足利。足利義満の次男・義嗣の系統「鞍谷(越前)公方」を継承。斯波(渋川)義廉の息。西軍の主力。朝倉孝景と甲斐敏光が東軍に離反。のち朝倉氏により越前に迎えられる。

<鞍谷御所・足利義嗣→嗣俊→嗣時→嗣知→嗣基>


<越前 鳥羽朝倉家>

朝倉将景 (*~1459)鳥羽将景・豊後守・弾正左衛門。斯波氏家臣。朝倉教景の息。兄に家景。1458年君主・斯波義敏と守護代・甲斐常治との抗争に義敏派。惣領・孝景と対立。1459年「足羽和田の合戦」に堀江利真とともに戦死。息に景正。娘婿に甥の孝景。

朝倉景正 (*)鳥羽景正。斯波氏家臣。将景の息。息に景忠。

▽朝倉景忠 (*)鳥羽景忠。斯波氏家臣。景正の息。

▼朝倉景富 (*)鳥羽景富。将景の孫。斯波氏家臣。景忠の息。1459年祖父の戦死により家督。朝倉孝景の弟・景冬の娘婿。

二代目当主 朝倉氏景の家臣(親衛隊・旗本衆)

前波* (*)藤右衛門尉。一乗谷近辺の土豪。朝倉家譜代家臣。<子孫は対織田戦に活躍。朝倉氏景の息・景直が前波を姓とするとも。前波家に養子入りしたものでしょうか。>

神* (*)諏訪神・左衛門尉。朝倉家譜代家臣。<織田信長の側近に西尾吉次の娘婿・神忠政がいますが、縁があるのでしょうか。>

神* (*)諏訪神・三郎兵衛。朝倉家譜代家臣。

神* (*)諏訪神・兵衛尉。朝倉家譜代家臣。

窪田* (*)入道。朝倉家譜代家臣。

半田* (*)朝倉家譜代家臣。一乗谷近辺の土豪。<敦賀郡司朝倉家に従い若狭に侵攻する半田氏あり。>

三尾野* (*)朝倉家譜代家臣。

桜井* (*)朝倉家譜代家臣。<子孫は三国湊奉行。>

大窪* (*)朝倉家譜代家臣。<三河から一揆に参加する大窪氏あり。日野勝光家臣、松平乗益が湖北の菅浦に年貢取り立てに向かい兵を動員。越前からの加勢もあったか?>

栂野* (*)隼人介。朝倉家譜代家臣。一乗谷近辺の土豪。

三輪* (*)才松。朝倉家譜代家臣。

山崎* (*)長門守。初代・朝倉敏景に従う。朝倉家譜代家臣。<子孫は対織田戦に活躍。>

笠松* (*)朝倉家譜代家臣。

中村* (*)朝倉家譜代家臣。

<氏景の府中奉行>

青木* (*)朝倉家譜代家臣。府中奉行人。

久原* (*)朝倉家譜代家臣。府中奉行人。

<朝倉家初期家臣団>

宇野久重 (*)新蔵人。丹波の出身。元荘官家。越前南條郡塚原の領主。初代・朝倉敏景に従う。「百戦百勝右に出る者無し」と賞される勇者。<子孫は堀江氏とともに三国湊奉行。>

佐々布光林坊 (*~1479)井上。朝倉家譜代家臣。丹生郡佐々牟志神社の別当家。1479年「金津の夜襲」に井上弥五郎とともに戦死。息が光林坊を継承。

鳥羽景春 (*)朝倉・右馬助・景富。朝倉一門衆。出羽守・景忠の息。朝倉景冬の娘婿。朝倉教景(宗滴)と義兄弟。息に右馬助・景忠。

託美景統 (*~1531)朝倉家譜代家臣。越前の豪族・元在地荘官。朝倉宗滴の加賀侵攻に従軍。「手取川の合戦」に戦死。

印牧広次 (*)藤原・新右衛門尉。朝倉家外様衆。初代・朝倉敏景に従う。1475年大野郡犬山城攻略に軍功。1496年朝倉景総に従い美濃「船田の合戦」に従軍。1513年の敏景33回忌に敏景家臣の印牧・山崎長門・佐々布(息)の三名が在命。次男・宇野景久が戦死。<青木氏とともに越前府中奉行家を務める家柄。次男は宇野久重の養子。1513年頃70余歳。>

石山本願寺の勢力圏とその他の寺院勢力。内なる敵と各地で転戦。

近江は堅田御坊、金森御坊、旧近松御坊など本願寺の拠点があり信者も根強く居た事でしょう。治安の維持も一筋縄ではゆかないのでは。

三代目当主 朝倉貞景の軍事編成(1506年)

 1506年三代当主・朝倉貞景から与えられた与力。

<御名代・朝倉教景(宗滴)の軍団>(中郷)5000兵。

朝倉教景 (1474*1477~1555朝倉宗滴・小太郎・太郎左衛門・敦賀郡司・入道宗滴。朝倉孝景の息、二代当主・氏景の弟。朝倉景冬の娘婿。景豊の義兄弟。1503年敦賀郡司。戦国の名将軍。1506年「九頭竜河の合戦」で30万の加賀一向一揆を撃退。1528年足利義晴を擁し上洛。1531年富樫救援のため加賀侵攻。1538年若狭武田家救援。1555年加賀一向一揆との陣中に死没。79歳。「朝倉宗滴話記」は側近が彼の雑談を書きとめたもので、戦国武将の心構えが記されている。

斎藤吉用 (*~1520)民部丞。朝倉孝景の後走衆「滝谷寺文書」。1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。<貞景の代の一乗谷奉行人・斉藤隆家の息カ。>

前波吉熙 (*)藤右衛門。1484年『大乗院雑事記』に記される。一乗谷四奉行、前波景定は孫。1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。

前波吉連 (*)七郎右衛門。朝倉教景(宗滴)の内衆「朝倉始末記」。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。上田則種と共に敦賀郡奉行職を務める「西福寺文書」。子息・吉長が奉行職を継承する。

大瀬千光坊 (*)寄品大明神社家。足羽郡大瀬村。「金津夜襲に軍功」。1527年朝倉教景(宗滴)の内衆。

高間* (*)足軽大将。1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。

杉本* (*)足軽大将。1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。

萩原宗俊 (*)八郎右衛門尉。朝倉教景(宗滴)の側近。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。1555年宗滴最後の加賀出陣に従軍。<「朝倉宗滴話記」を残す。>

北村* (*)次郎五郎。朝倉教景(宗滴)の家臣。

(三段崎衆・小林衆)1506年朝倉教景(宗滴)とともに加賀一向一揆を撃退。

<朝倉景職の軍団>

 朝倉貞景から与えられた与力。(鳴鹿表口・志比)3800兵。

朝倉景職 (*)虎松丸・与惣右衛門・与三右衛門・足羽郡司。敏景の弟・朝倉経景の息。足羽郡を領する。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退、鳴鹿表の守将。1517年朝倉教景の「丹後出征」に従軍、若狭高浜城代「当国御陳ノ次第」。1525年土岐頼武を後援し美濃「稲葉山城攻囲」に出征。息に景隆。孫に景健。

魚住景貞 (*)帯刀左衛門。外様衆。元・赤松家家臣の系譜。1441年赤松家の没落により越前へ。浦上宗則との交渉役を務め朝倉家の外様ながら要職。<のちの魚住景固は朝倉義景の出陣命令に従わず。>

魚住景宗 (*)備後守。景貞の息。朝倉貞景の代に一乗谷奉行人。1506年朝倉教景・景職とともに加賀一向一揆を撃退。1525年浅井救援に近江に出征。1538年朝倉宗滴に従い若狭武田家救援。丹後に遠征。

(窪田党・島田党)1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。

<越前坊主衆> (当国本願寺高田派) (松本口)

勝曼寺明秀 (*)本願寺派一揆と敵対関係にある一派の指導者。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。

<越前外様(河北)衆> (九頭川南岸の高木口陣)4600兵。

勝蓮華景継 (*)朝倉景継・青蓮華・右京進・又太郎。朝倉一門衆。朝倉貞景の家臣。敦賀城主・朝倉景冬の娘婿。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。坂井郡勝蓮華村の豪族。

堀江景実 (*)左衛門・三郎・石見守。越前加賀国境の豪族。朝倉景冬の娘婿。朝倉教景と義兄弟。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。<朝倉同名衆の溝江氏とは領地が隣接し、牽制しあう間柄。加賀の一揆に対しては共同して当たる関係。>

溝江景逸 (*~1574)朝倉・河内守。朝倉同名衆(一門衆)。溝江氏は1480年代に溝江郷を領する。1506年朝倉宗滴に従い加賀一向一揆を「九頭竜河の合戦」に撃退。息に長逸。<加賀衆の堀江氏と領地が隣接し、牽制・監督する間柄。加賀一揆とは共同して当たる。><1574年まで在命。長生きして宗滴の「織田信長の行く末を見たい」という願望を叶えていたということでしょう。>

佐々布光林坊 (*~1527)井上。丹生郡佐々牟志神社の別当家。加賀一揆征伐に高木口にて軍功。1527年京都での泉乗寺口合戦に、佐々布左京進、佐々布青蓮坊とともに戦死。跡職は佐々布掟蓮が継承。

<越前譜代衆> 3000兵。(中角)

山崎祖桂 (*)小次郎。長門守の息。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。

中村* (*)五郎右衛門。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。

神* (*)諏訪神・九郎左衛門。1506年朝倉教景とともに加賀一向一揆を撃退。

(第3世代)

<朝倉貞景の両家老>

前波* (*)前葉・豊前守。三奉行兼任。前波吉熙の一門。

小泉* (*)藤右衛門。元荘官家。

<朝倉三奉行> 

朝倉景梁 (*)掃部介。

青木康忠 (*)三郎兵衛尉・隼人佐・上野介。朝倉貞景、孝景の二代に出仕。府中奉行人。息に景康。<青木康延の息か。>

印牧美次 (*)新右衛門尉。外様衆。印牧広次の息。弟に弥二郎・吉広。1528年足利義晴を擁する朝倉教景に従い上洛。畠山軍との「西院口の合戦」に軍功。息に美満。

<越前三国湊奉行>

宇野* (*)新左衛門。1507年堀江中務丞とともに三国湊船警護奉行。

堀江* (*)中務丞。越前加賀国境の豪族。

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