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11世紀~12世紀 蝦夷奥州(出羽・陸奥)の豪族 その2 清原氏、藤原氏の家臣団と軍団

(出羽清原氏の系譜)仙北三郡(雄勝・平鹿・山本)の俘囚の長。
「後三年の役:1083~1087で滅びる」 

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清原、藤原氏勢力圏

騎射による馬上での弓の射ち合い、鎧の発達、
組み付いて落馬後の地上戦、刀の長さの優位性、刀身の長大化。

清原光頼・武則の家臣団と軍団


826年関東国守に「親王任国」を推し進めた清原夏野あり。真の目的は?。
<出羽清原氏の系譜 清原氏一門衆> 878年からの出羽国の兵乱「元慶の乱」に入植か。
清原令望 (*)真人・左衛門小尉・出羽権掾・秋田城司。舎人親王の子孫。長統王の息。878年小野春風の与力。「出羽俘囚の反乱」の鎮圧に軍功。息に仲海。<子孫は北陸道に繁栄。>


清原仲海 (*)越前権小掾家。清原令望の息。

▽清原樹蔭 (*)越後守。清原仲海の跡職。兄弟に光蔭。娘婿に藤原尹忠。孫に藤原貞廉。

▽清原光蔭 (*)出羽小掾・秋田城司。清原仲海の跡職。兄弟に樹蔭。

清原武頼 (*)出羽山北俘囚長。清原光蔭の跡職。息に光頼、武則。<光方と同一人物?>
 清原氏の各拠点。

<出羽国山北 俘囚主 清原光頼 大鳥海山家>


清原光方 (*)真人・(大鳥〈海〉山)・山北主。出羽仙北の豪族。出羽山北「俘囚主」。息に光頼、武則。娘婿に安倍頼良。<光蔭の流れでしょうか。>

清原光頼 (*)(大鳥〈海〉山)・真人。出羽仙北の豪族。清原光方(武頼?)の息。清原家当主。義兄弟に安倍頼良。源ノ頼義より援軍を要請される。舎弟・武則を旗頭に任じ出兵に応じる。娘婿に安倍正任。<↑清原 令望 (*)878年「出羽俘囚の反乱」の鎮圧に軍功。の子孫説が有力。>

▽清原頼遠 (*~1087)大鳥〈海〉山太郎・大鳥山ノ太郎。清原家当主、光頼の息。安倍正任を匿う。後三年の役に清原家衡に与力し、金沢柵の陥落後処刑される。跡職は藤原清衡の息・小館正衡が継承。義兄弟に安倍正任。<叔父・武則とは対立的関係?><大鳥山の現在の地名は大鳥井。鳥海山との位置関係からして、どうなんでしょう。太平洋側の安倍氏に鳥海がいて、日本海側の清原氏の方に鳥海がいないとは思えません。宗任・正任兄弟が、清原惣領家の頼遠と、縁がありそうなのは鳥海山関連の何かなのでは?。>


大鳥井の居館と城柵。

<鎮守府将軍 武則・武貞 荒川家>


①清原武則 (*)「鎮守府将軍」。出羽俘囚長、清原光方(武頼?)の息。清原真人・光頼の弟。雄物川上流域の豪族。「前九年の役」に10000余騎で安倍氏攻撃。兄・清原光頼の代理として源ノ頼義に加勢する。旗本1000余騎。安倍氏討伐に活躍した事から、浮囚の長にして始めて鎮守府将軍に任官される。<清原氏が、本家の兄、朝廷方の弟、2大勢力で分裂させられたということか。>

▽②清原武貞 (*)荒川・荒河太郎。武則息。1500余騎。安倍氏征伐第一軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。室に藤原経清の妻(安倍頼良の娘)を迎える。息に家衡、真衡。養子に藤原清衡。<一門・吉彦秀武も荒川太郎。それぞれの家督候補者が継承する名乗りか?><鎮守府将軍となり「貞衡」の名を冠するとも。源ノ頼俊と奥州全土を統一し、頼俊失脚のちに、奥州を統べる代官として、朝廷から「衡」の一字を下賜されたのでしょうか。度量衡の「衡(はかり)」を司り、奥州の鉱山を統べる任を受けたとの、後ろ盾の意味で、奥州藤原氏にも「衡」の字が受け継がれていれば、おもしろいですね。>

清原武道 (*)貝沢三郎。清原一族。1500余騎。安倍氏征伐第七軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。<三郎つながりで、武道と武衡は親子か、兄弟か、もしくは同一人物か、謎の人です。>

▽清原武衡 (*~1087)岩城・三郎・将軍三郎。清原一族。武貞の弟。真衡・成衡親子を後見する。1083年「後三年の役」に甥の清原家衡を後援して、武貞の養子・藤原清衡と抗争。金沢柵に籠城。源ノ義光に降伏を申し出るが拒否される。

⇔↓▼城ノ資国 (*)平ノ・九郎・城九郎・助国。越後奥山荘の豪族。城永基の息(三男)。清原武衡の娘婿。息に資職、資茂。
≪個人的感想≫ 安倍氏討伐の軍功と、海東平氏との縁から、鎮守府将軍の家系となるか。


 武門清原氏の拠点・金沢柵

<清原氏の軍団と家臣(緩い血縁的同盟関係か)>

 安倍氏征伐第五軍は関東(東海道)衆。

橘ノ貞頼 (*)逆志万太郎。清原一族。武則の甥。1500余騎。安倍氏征伐第二軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。<平家家人として東海道に勢力を張る橘氏との関係不明。><男鹿半島に独自の勢力をもつ豪族だったようです。>

▽橘ノ頼貞 (*)志万二郎。清原一族。貞頼の弟。1500余騎。安倍氏征伐第四軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。<男鹿半島に独自の勢力をもつ豪族だったようです。>

吉彦秀武 (*)吉弥候・君子・荒河太郎。清原一族。武則・武貞・真衡3代の重臣。武則娘を妻とする。のち真衡と衝突し後三年の役の原因を作る。4500余騎。安倍氏征伐第三軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。藤原清衡を後援し、武衡・家衡、真衡、成衡ら清原一族と抗争。<男鹿半島の近くに独自の勢力をもつ豪族だったようです。><砂金を持ち参じるということは、本家の光頼系の家臣から、陸奥守の清原家に出仕替えする挨拶にでも来ていたのでしょうか・・。>

吉美候武忠 (*)吉弥候・君子・斑目四郎。清原一族。1500余騎。安倍氏征伐第六軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。<吉彦氏に近い一門か?。>


 清原氏の拠点・大台滝の城柵。

<陸奥守 歴代> *奥州覇権のライバル


藤原良経 (*)陸奥守・良綱。源ノ頼義に代わり陸奥守。陸奥国政情の混沌さに任官を辞退する。再び源ノ頼義が陸奥守に就任。

1062年 清原武則~(この間の陸奥守?)~1074清原真衡

*橘ノ則隆 (*~1023*)蔵人・陸奥守・但馬守・刑部大輔・中宮亮。橘敏政の息。「橘氏長者」。兄弟に清少納言の夫・則光、行平。前美作介・敦成親王家司別当職。息に成任。娘婿に藤原能長、道経。<源ノ頼朝が「奥州征伐」の後、橘家を出羽に封じるのは過去の事例に従ったということでしょうか。>

*橘ノ成任 (*)陸奥守。則隆の息。「橘氏長者」。息に蔵人・成綱、以綱、資清。成綱の息に上総守・宗季。娘婿に藤原師家。孫に藤原光家。

▽*橘ノ成綱 (*)成任の息(長男)息に以宗、宗季。甥に(大江)広房。

▽*橘ノ以綱 (*)鎮守府将軍・陸奥守・相模守。「橘氏長者」。成任の息(次男)。弟に資清。息に大江匡房の養子となる(大江)広房。

⇔*源ノ頼俊 (*)源ノ判官・左衛門尉・上総介・陸奥守。検非違使。加賀守・源ノ頼房の息。兄弟に親宗、為房。藤原定輔の娘婿。1067年陸奥守任官。1069年「延久蝦夷合戦」。1070年後三条天皇の勅命で津軽蝦夷征伐。1070年陸奥南部の豪族・藤原基通の反乱を下野守・義家の協力で鎮圧。1074年まで「蝦夷征伐」に出征、与力に清原貞衡(真衡)。<津軽の蝦夷討伐に乗り出し、荒ぶる津軽蝦夷と抗争を繰り広げた源氏です。><源ノ義家や義綱兄弟との関わりがどのようなものであったことか・・・。>

1067~69年「延久蝦夷合戦」


衣曾別嶋ノ荒夷 (*~1074)蝦夷別島・荒恵比寿。蝦夷の民。1067陸奥守・源ノ頼俊に反抗。<えぞわけしま?「渡島半島」の蝦夷か。>
閉伊七村山徒 (*~1074)蝦夷の民。岩手宮古周辺(太平洋沿岸部)の蝦夷。1067陸奥守・源ノ頼俊に反抗。<閉伊の集団名でしょうね。>

≪個人的感想≫ 11世紀の北海道渡島半島側の状況と、すごく連動していそうです。安倍氏の残党もきっと渡島に逃れていたことでしょう。
津軽の十三湊も、陸奥守・源ノ頼俊が侵攻するまでは、蝦夷の民が自由に交易をおこなっていたことでしょう。
平泉藤原家が、奥州全土に影響力を持つ段階で、十三藤原氏が進出し、直轄経営が行われたのでしょう。

奥州清原系の城柵には築城の選地と、築城方法に共通理念があると考えます。
・大河川を前面に見据えている点。
・信仰の山、里山となる後背の防御地を有している点。
・居館への交通を遮断し、通路を制限する小河川や沢、狭谷に挟まれている点。
・見晴らしの良い高台に館(本丸)が置かれる点。
最終的には、
 <複合型式の城柵の成立>
奥州清原系河岸台地型城柵と仮称します(H28年8月)。


鎮守府将軍 荒川家 ⇔ 海道平氏との結びつき
清原真衡・成衡の家臣団と軍団

③清原真衡 (*~1083)海道小太郎・(貞衡?)・実平。鎮守府将軍・武則の孫。武貞の息(養子?)。陸奥守・源ノ頼俊に従い蝦夷を討伐した「延久蝦夷合戦」(1067~69~1074)に活躍し、1074年鎮守府将軍任官。養子に成衡。<海道の名は、平ノ安忠からの旧縁があったのでしょうか。><貞衡は父・武貞の最終的な名乗りか。>

<真衡の世代、武貞の子息達>
▽清原家衡 (*~1087)武貞次男。清原一族。真衡・清衡の弟。1083年「後三年の役」に叔父の武衡と共同して清衡・秀武と対立する。守役に藤原千任。金沢柵落城後に県次郎・次任に捕縛される。

 清原家衡の拠点・沼ノ柵。

⇔▽藤原千任 (*~1087*)千任丸・平ノ千任。清原家衡の後見人。1083年「後三年の役」に、清衡・秀武と対立する。金沢柵にて源ノ義家を罵倒し勇名。<藤原秀郷流の、千晴などの子孫なのでしょうか。源氏だけでなく秀郷の子孫も、奥州の覇権に関わりをもっていたのでしょうか。視点を変えれば、源氏と藤原秀郷家の擁立した、清原家跡取り同士の私的な抗争だったのかもしれませんね。><平姓の千任や、千任丸という名も目にします・・。海東平氏からの守役的付家老、または小姓だったのでしょうか。>

↓▽藤原清衡 (1056~1128)清原清衡。藤原経清の実子、清原(荒川)武貞の養子。1083年「後三年の役」で源ノ義家の後盾を得て、弟・家衡を金沢柵に討ち清原家を継承する。関白藤原師実に使者を送り、臣従。源ノ義家の家人から脱却する。平泉に選地し、中尊寺を建築。<縁戚に出羽国人・平ノ国妙。>

④清原成衡 (*)海辺(海道?)小太郎・成平。真衡養子。越後・城ノ貞成の息、または海道平氏(岩城氏)からの養子(直成の息?)とされる。一門の武衡と家衡に擁立される。息に良貞。<常陸の豪族・多気宗基の娘と、源ノ頼義との間にできた海道平氏の娘を成衡の妻に迎えた。と『奥州後三年記』にあるので後世に養子と混同されてしまったのではないでしょうか。のち源ノ義家の怒りを買い下野国の館で誅殺されるとも。><「実は直成の子」、平ノ貞成?平ノ貞繁に変換される人物か?>

陸奥守(陸奥の神)・八幡太郎義家

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源ノ義家 (1039~1106)八幡太郎・陸奥守。頼義の嫡男。鎌倉を本拠とする。1047年岩清水八幡宮にて元服する。「騎射、神の如し」と讃えられる名将。1051年父・頼義が陸奥守に任官し東国への進出を強める。「前九年(1062)・後三年(1083)の役(東北)」で活躍。1063年出羽守に任官。1070年奥州にて散位・藤原基通を攻略(事前に主従関係とも)。1074年陸奥守・源ノ頼俊を失脚させる。1083年に陸奥守鎮守府将軍となる。清原真衡死去、「後三年の役」で清原家衡を滅ぼす。藤原清衡を後見し、清原氏を継承させる。関東・東北に勢力を扶植する。宮廷の藤原氏は私闘として恩賞を与えず、義家は私財をもって関東の武将に酬いたという。1089年白河院に院昇殿を許可される。1091年弟・義綱と家人の所領争いから対立。1106年嫡子・義親の朝廷への反乱の中、病死。

▽藤原基通 (*)梟悪之者。南陸奥の豪族。1070年陸奥守・源ノ頼俊に反乱。国印と国蔵の鍵を奪取する。義家に降伏臣従。<義家に早くから従い、義家の東北復権の為に、源ノ頼俊に反乱とも。>

奥州藤原氏の系譜 その1
<奥州藤原氏>


↑①藤原経清 (*~1062)陸奥国亘理郡の豪族。安倍頼義の娘婿、清衡の父。朝廷に反して安倍氏につく。都に首級を晒される。<縁戚に出羽国人・平ノ国妙。>

<壱代目・清衡世代>
↑▽②藤原清衡 (1056~1128)清平。経清の実子、武貞の養子。室に平氏の娘(6男3女を産む)。1083年「後三年の役」で源ノ義家の後盾を得て、弟・家衡を金沢柵に討ち清原家を継承する。関白藤原師実に使者を送り、臣従。源ノ義家の家人から脱却する。平泉に選地し、中尊寺を建築。息に惟常、(清原)家清、基衡、(小館)正衡、(亘理・樋爪)清綱。清衡死後の家督争いに長男の惟常が戦死。基衡が家督を相続。江刺豊田館、平泉館館主。<縁戚に出羽国人・平ノ国妙。>
 
西は後背の山(信仰の山・里山)を背にして、東は北上川に面し、南北は北は衣川、南は太田川に挟まれる立地。
清原氏の城柵の法則を継承していると言えます。奥州藤原系河岸段丘型城柵と仮称します。

平ノ知信 (*)出羽守・兵部大輔。桓武平氏高棟王流。藤原惟信の娘婿。息に時信、信範。平ノ時信の父。孫娘・時子は清盛の正室。<信範(1112~1187)は摂関家家司。忠実、忠通、基実、基通四代に仕え甲斐権守。><平家方が日本海側に、意外に地盤を持っているのは、平ノ時子の先祖の功績があるのかもしれませんね。>

平ノ師妙 (*)出羽国人。1092年陸奥守・藤原基家により謀反を疑われる。1093年藤原清衡の後援で、出羽守・源ノ信明の居館を攻撃。1094年陸奥守・源ノ義綱の郎党により討伐される。息に師季。

▽平ノ師季 (*)出羽国人。師妙の息。1093年藤原清衡の後援で、出羽守・源ノ信明の居館を攻撃。

<陸奥守>
藤原基家 (*~1093)陸奥守。1088年陸奥守。1092年藤原清衡、平ノ師妙親子に謀反の疑いを持つ。1093年在官中、死去。

⇔源ノ義綱 (*~1109)賀茂次郎。義家の弟。母は平ノ直方の娘。「前九年」に従軍。1091年兄・義家の郎党と軋轢。1094年陸奥守に任官。郎党が出羽の反乱分子、平ノ師妙・師季親子を討伐する。

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⇔源ノ信雅 (1079~1135)陸奥守。村上源氏。右大臣・源ノ顕房の息。藤原伊綱、藤原国明、源ノ国房の娘婿。藤原忠実の家司。1105年加賀介。1128年陸奥守。1135年在官中、死去。息に成雅。源ノ国房娘との息に源ノ雅中。<源ノ雅中=伊豆守・惟房だったりしないものでしょうか。>

<出羽守>
源ノ信明 (*~1093)出羽守。1093年平ノ師妙親子に居館を襲撃される。
藤原貞信 (*)須藤定信。1105年下野国八溝山中に巌嶽丸を討伐する。1144年三和神社社殿を再建。


奥州藤原氏の系譜 その2


<弐代目・基衡世代> 源氏の抑えから開放され、独自の外交政策。
藤原基衡 (1090~1158)(清原)・平泉・基平。清衡の息、奥州藤原氏の二代目。弟に清綱。陸奥・出羽押領使。1130年兄・(清原)家清と家督争い。庶兄・惟常を倒し1138年頃に家督。奥州平泉に十万都市を建築。鎮守府将軍・藤原基成との関係良好。関白・藤原頼長(1120~1156)と年貢について長く抵抗する、陸奥守・藤原師綱と対立。1149年に和解。息に秀衡、(十三)秀栄。義兄弟に佐竹昌義。

▽藤原清綱 (*)亘理・権十郎。清衡の息(4男)。基衡の弟。娘婿に佐藤元治。息に樋爪俊衡、藤原季衡。

▽藤原家清 (*~1130)(清原)・国館・惟常。清衡の息。1129年基衡と家督を争い敗北。斬首される。<家清が平氏の娘の長男であったなら、庶兄・惟常とは別人と考えるべきか?>

▽藤原正衡 (*)(大鳥山)・小館・三郎。清衡の息。基衡の弟。<清原嫡流の地盤を引き継ぐ。山北三郡の太守とも。>

▽佐藤季治 (*~*1140頃)藤原・大庄司・季春・(師治?)・信夫郡司・湯の庄司。信夫郡郡司。師文の息。藤原基衡の腹心。陸奥国司、陸奥守・藤原師綱と基衡の対立のため、師綱に打ち首にされる『十訓抄』。息に元治、師泰。<師治に相当する人物とすれば、息に元治。元治の母は上野国の大窪太郎(のち上野は源ノ義朝の弟の義賢の勢力圏になりますね)。><飯坂温泉を管理していたので「湯の庄司」と呼ばれたらしい。>

▽伊賀良目高重 (*~*1189)(藤原・佐藤)・いがらめ・五十辺・七郎。元治の叔父。信夫庄司・佐藤家与力。源ノ頼朝の奥州征伐軍を石那坂にて防衛。

▽河辺高綱 (*~*1189)(藤原・佐藤)。元治の叔父。信夫庄司・佐藤家与力。源ノ頼朝の奥州征伐軍を石那坂にて防衛。

 坂東の源ノ義朝の勢力を排除することで、西の平ノ清盛政権との交易。

武門(武士団・党)による集団戦闘への変化、
戦争による刀の消費、大量生産、古代刀の廉価版「日本刀」の誕生。
戦争特需・鉱山開発のラッシュ。鉄鉱石の資源枯渇、砂鉄資源の確保。
鎌倉時代、各豪族の生産地確保の領土争いへ。

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