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室町幕府四職家 その1:山名氏の家臣団と軍団

西軍大将:山名持豊(入道宗全) 肖像のつもり


足利幕府 歴代将軍と山名氏

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 足利尊氏将軍就任からの武将 <在職期間1338~1358>

足利尊氏 <1338~1358>(1305~1358)足利貞氏の息。母は上杉清子。室町幕府初代将軍。丹波綾部の上杉荘と縁がある。丹波(亀岡)篠村八幡宮で反鎌倉幕府の挙兵。のち後醍醐天皇とも対立。北朝、光厳上皇を奉じる。武士の要望に応え過ぎたため、将軍の所領が少なく、足利将軍の勢力基盤が脆弱な原因となった。<足利尊氏のページ参照してください。>
<1355年足利直冬に従い、桃井直常、山名時氏、斯波氏頼が京都占領。>

足利義詮 <1358~1367>(1330~1367)千寿丸・鎌倉大納言・坊門殿・左馬頭・左近中将・征夷大将軍・権大納言・足利宰相。尊氏の嫡子。母は北条(赤橋)久時の娘。室町幕府第2代将軍。渋川義季の娘婿。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質として鎌倉に入府。1333年新田義貞の後見で鎌倉幕府を討幕。鎌倉を実質的に占拠し、新田義貞は上洛する。1349年尊氏の意向で上洛。1358年父の死により家督。1358~1367年二代目征夷大将軍に在位。斯波氏を管領に登用。1365年ごろ足利幕府の安定をみる。のち細川頼之に義満を託す。
<1362年足利直冬、山名時氏が備中・備前で幕府に反抗。四国にて元管領・細川清氏、従兄弟の細川頼之に敗戦。>
<1362年畠山国清、足利基氏に敗戦。降伏する。>
<1363年山名時氏、幕府に降る。足利直冬、九州落ち。>

足利義満 <1368~1394>(1358~1408)足利義詮の息。母は紀良子。義理の叔父に(先代)伊達政宗。室町幕府第3代将軍。1368年11歳で将軍職継承。管領・細川頼之の補佐。1378年室町御所造営。20歳で頼之を四国に追放。斯波義将を管領とする。1392南北朝統一に成功。土岐康行、山名氏清、大内義弘を制する(明徳・応永の乱)。太政大臣任官。1397年金閣寺造営。1401年日明貿易を開始。息に義持。
<九州探題・渋川満頼の失政、少弐貞頼、菊池武朝、千葉氏、大村氏の反抗。>
<奥州・(先代)伊達政宗の室は、足利義満の母の妹(石清水善法寺通清法印の娘)。>
<1389年山名満幸、将軍・足利義満の「厳島参拝」に供奉。>


足利義持 <1394~1423>(1386~1428)足利義満の息。母は藤原慶子。室町幕府第4代将軍。父・義満の後見で9歳で将軍就任。父の死後は管領・斯波義将の補佐。日明貿易を中止する。関東で足利持氏と上杉禅秀の対立が激化。1416年「上杉禅秀の乱」。弟の義嗣を乱共謀の罪で殺害。1400年頃、斯波義将が織田常松を尾張に派遣。
<1393年細川頼元、管領辞任。>
<1395年今川貞世、九州探題職解任。>
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>


足利義量 <1423~1425>(1407~1425)足利義持の息。母は藤原栄子。室町幕府第5代将軍。15歳で酒乱、側近が罰せられる。1423年義持の出家により将軍就任、17歳。1425年飲酒中毒のため在職3年で病没。義持が執政に復帰。赤松持貞が元将軍・義持の妻と恋愛。赤松満祐が白旗城に籠城し「応永の変」起す。1427年赤松持貞の不倫が発覚し自害。赤松満祐は降伏し幕府に帰順。義持の遺言で後継者は籤で決められた。


足利義教 <1429~1441>(1394~1441)青蓮院義円。足利義満の息。母は藤原慶子。足利義持の弟。室町幕府第6代将軍。1429年義持の死により天台座主・義円が還俗。鎌倉公方・足利持氏と対立。義教の代に徳政令を求める「正長の土一揆」勃発。1433年仁木国行、今川範政、斯波義淳を弾圧。1435年山名時熙を弾圧。1439年京極持光を弾圧。1439年「永亨の乱」関東公方・足利持氏を討伐。将軍の権力を強化。1440年一色義貫、土岐持頼を弾圧。1441年畠山持国、富樫教家を弾圧。1441年赤松満祐の「嘉吉の変」に横死。赤松教康により京極高数、大内持世、山名熙貴もともに討たれる。


足利義勝 <1442~1443>(~1443)足利義教の息。母は藤原重子。室町幕府第7代将軍。1441年義教の死により将軍就任。赤松討伐軍を編成し、細川持常、細川淡路守、武田信賢、赤松貞村、赤松満政。別働隊に山名持清、山名教清、山名教之、山名政豊を動員。1441年赤松満祐、足利冬氏を迎え将軍・足利義尊と称させるが坂本城、木山城が落ち自害。義勝は在位一年余りで夭折。


足利義政 <1449~1473>(~1490)「応仁の乱・影の東軍大将」。足利義教の息。母は藤原重子。足利義勝の弟。幼少のため14歳まで将軍空位。畠山持国、細川勝元が代行。室町幕府第8代将軍。乳母・今参局、有馬持家、鳥丸資任の「三魔」を重用。1466年斯波(渋川)義廉を更迭し、斯波義敏に斯波家家督。斯波義廉が織田広成を上洛させ家督回復。1467年畠山義就を登用し家督。管領・畠山政長失脚。


足利義視 (*)「今出川殿」・義尋・左馬頭。最初「東方(東軍)大将」・後半「西方(西軍)大将」。足利義教の息。足利義政の弟。1464年前管領・細川勝元邸にて還俗。細川勝元の後援で山名家と対立。1467年西軍の飯尾為数を処刑。1467年「応仁の大乱」。8月西軍に離反するもの続出し、木造教親のすすめで京都を脱出し南伊勢多気の北畠教具を頼る。8月大内政弘の上洛で西軍勢力挽回。10月足利義政に見限られ、管領・細川勝元に出家を勧められる。比叡山に登るが、西軍・山名持豊、渋川(斯波)義廉を頼り将軍に擁立される。1477年土岐成頼に擁され美濃へ落ちる。斎藤妙椿の差配で隠居。


足利義尚 <1473~1489>(1465~1489)最初「西方(西軍)大将」・後半「東方(東軍)大将」。足利第9代・征夷大将軍。足利義政の息。母は藤原富子。政所執事・伊勢貞親に養育される。山名持豊(宗全)に擁立される。1467年「応仁の大乱」。のち細川勝元により「東軍大将」。山名持豊、細川勝元が相次いで没。1473年征夷大将軍に任官。1477年大内政弘、土岐成頼が下京し帰国。東軍優位で終戦。1489年近江六角高頼の討伐遠征中に陣没。
1483年山名俊豊、備前金山城主・松田元成と結び備前進攻。備前福岡城を攻略。
1483年山名政豊、但馬に侵入した赤松政則を破る。
1484年山名政豊、播磨攻略。播磨蔭木城主・垣屋豊遠、別所・小寺・櫛橋軍の逆襲に敗退。
1488年山名政豊、播磨から撤退。


足利義稙 <1490~1521>(1466~1523)義材・義尹・「流れ公方」・阿波義稙。足利義視の息。母は藤原重政の娘。室町幕府第10代将軍。足利義尚の急死により、義政の後見で家督相続。義政の死後に、父・義視と日野富子の対立が再燃。近江に「六角高頼討伐」。1493年河内「畠山義豊討伐」出征中に管領・細川政元のクーデター「明応の政変」により失脚。龍安寺に幽閉されるが脱出。1508年大内義興の後援により将軍に復職。1521年細川高国の専横により淡路に落ちる、阿波に逃走。<斯波義達と今川氏親の抗争は誰の差し金か。義達の遠江守護罷免は義澄との縁によるものか。>

足利義澄 <1494~1508>(1480~1511)堀越義澄・義高。足利第11代・征夷大将軍。堀越公方・足利政知の息。母は藤原隆光の娘。足利義政の養子。斯波義寛の娘婿。足利義尚の急死の際に細川政元に擁立されるが、義稙(義材)が将軍就任。1493年政元の起こした「明応の政変」により、1494年将軍就任。伊豆堀越氏討伐。1508年大内義興に擁された足利義稙が復権。近江に落ちる。<伊勢早瑞(北条早雲)の伊豆乱入は誰の指令か。東海道の今川氏親・伊勢長氏を支援?、斯波義達の活動は1507~1517年間・・、従兄弟の義澄を支援する為の挙兵か。>


足利義晴 <1521~1546>(1511~1550)堀越義晴。足利第12代・征夷大将軍。堀越足利義澄の息。1508年第10代・足利義稙(義材・義尹)を擁立した大内義興の上洛。細川高国に追放された11代将軍・足利義澄の息。赤松義村に養育される。1521年10代・足利義稙を追放した細川高国に擁立される。1525年北室町に柳原御所を建造。1526年細川晴元が阿波足利義維を擁立し堺に侵入。丹波国神尾山城主・柳本賢治の挙兵により、北近江朽木落ち。六角定頼の後援を得る。1534年細川晴元との和睦で入京。1541年「木沢長政の乱」。1546年「細川氏綱の乱」で度々京都から脱出。1546年隠居し嫡男・義輝を将軍に据える。1547年細川氏綱・遊佐長教と和睦し、細川勝元と対立。近江穴太に居す。<伊勢北畠氏を頼る。>

「 侍は 渡り者に候。 」
「日本六分ノ一殿」 山名時氏公

山名時氏 〈1344-*〉(1303~1371)小二郎・弾正少弼・伊豆守・伊豆前司・修理大夫・入道道静・引付所・侍所頭人。上野出身。新田一族。山名政氏の息。伯耆国守護として名和長年の一族を討伐する。のち丹波守護。1344年但馬三開山城に拠点。1345年天竜寺供養に従軍、一番隊を率いる。出雲守護職を巡り副将軍・佐々木道誉と対立。摂津にて楠木正行に敗北する。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に当初は尊氏派、のち直義派。直冬党。1353年6月南朝軍として楠木正儀・石堂頼房とともに京都を占拠し将軍・義詮を追う。義詮を救援に赴いた丹後守護・高ノ師詮を破り自害させる。1363年細川頼之の管領職就任により和平が成り上洛。家督はに山名師義が継承。伯耆国田内山城を本拠地とする。<同じ山陰方面で働いていた上野頼兼との間柄はどうだったのか興味のあるところです。><但馬守護・太田氏の居城、但馬国出石の此隅(子盗)山城を拠点とする。>

▽小林* (*)左京亮。山名家臣。丹波守護代。与力に俣野家高・八木泰家。

▽太田光氏 (*)但馬国人。太田荘の領主。1351年大岡寺に起請文。

(太田垣氏)
▽太田垣光善 (*)日下部・(入道実阿?)。1358年祐徳寺に寄進。息に光成、通泰。<同族に建屋、石和田、八木、朝倉、奈佐氏>

▽大田垣通泰 (*)日下部。但馬国人。朝来郡の豪族。光善の息。のち1401年備後守護代。光成の弟。

(垣屋氏)
▽垣屋* (*)土屋・修理進。但馬国人。気多郡の豪族。<後裔は地元豪族、八木氏と縁を結んでゆく。>

▽垣屋重教 (*)土屋・駿河守。垣屋初代。城崎郡の豪族。亀ケ崎城主。跡職は時忠。


<但馬国南朝勢力>
新田義宗 (*)新田義貞の一門。南朝方旗頭。討伐軍、足利直義の臣・小俣来金と抗争。のち1356年北朝方、伊達三郎を撃退。三開山城主、支城に進美山城、妙見山城(3城の鼎城体制か)。

▽長* (*)(長谷部)・左衛門尉。水生郡の豪族。南朝方武人。水生城主。<畠山氏家中に能登の長氏。>

▽高田貞長 (*)次郎。気多郡の豪族。南朝方武人。山名時氏に敗戦。落城。祢布城主。

▽宿南知直 (*)宿南荘の地頭。北朝方・矢野右京亮に地頭職を奪われる。のち北朝に転じ所領回復。息に実直。


但馬守護:山名家支配

 丹後・丹波・伯耆・出雲・隠岐・但馬・因幡・若狭・紀伊・和泉・美作・備後

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山名家勢力図。


山名師義 〈1371-1376〉(1328~1376)伯耆・小太郎・右京亮・右衛門佐・左馬権頭・伊豆守・師氏。山名時氏の嫡男。弟に山名義理、氏冬、山名氏清、山名時義、義数、義継、氏重、高義、義治、氏頼。1349年「観応の擾乱」に直義派。直冬党。父とともに赤松氏と抗争する。1363年北朝に帰順し丹後・伯耆・但馬守護。管領・細川頼之と対立する。1371年に父が死去し惣領職。伯耆国打吹山城を本拠地とする。1376(1379とも)年病没。49歳。息に義幸(早世する)、山名氏之(氏幸)、義煕(時煕)、山名満幸(満之)。但馬三開山城に拠点。<伯耆守護家の祖。><1367年臨済宗の僧・月庵宗光を招き、黒川大明寺、但馬大同寺、竹野円通寺を創建。>

山名義理 (*~1392)紀伊。山名時氏の息(次男)。美作・紀伊守護。師義の弟。1391年満幸を擁立し「明徳の乱」。息に義清。

山名氏冬 〈1365・1369-1401〉(*)因幡・中務大輔。山名時氏の息(三男)。因幡守護家。師義、義理の弟。弟に氏清、時義、義数、義継、氏重、高義、義治、氏頼。息に山名氏家。

⇔↓山名氏清 〈1390-1392〉(1344~1392)丹波・陸奥守。山名時氏の息(四男)。娘婿に山名満幸。山城・丹波・和泉の三ヶ国守護を継承する。惣領職を継承した弟・時義と対立。1389年時義の死去により、家督争いが勃発。三代将軍・足利義満、管領・斯波義将の時代に勢力を伸張し山陰地方11ヶ国の守護を独占する。足利義満が元管領・細川頼之を復活させ山名家を迫害、1391年甥・山名満幸とともに「明徳の乱」を起すが、足利義満自らの討伐軍に敗北する。一色軍により討ち取られる。息に時清、満氏。

▽小林重長 (*)山名家臣。山名氏清の家老。丹波守護代。<一門に義繁か。>

▽土屋豊春 (*~1392)垣屋・越中守。但馬豪族。山名家臣。分家に垣屋氏。1392年「明徳の乱」に氏清に従う。<豊春は、系図には現れない。山名家各守護家分裂時代に、垣屋家も分裂するか。>

⇔山名時義 〈1372-1389〉(*~1389)但馬・次郎・六郎・弾正少弼・伊予守・左京権大夫・時幸・侍所頭人。山名時氏の五男。師義・氏清の弟。兄・師義の跡職を継承する。山名惣領家。伯耆・但馬守護家。のち備後守護。師義の実子・氏之(氏幸)が勢力を持つが、氏清・満幸が不満を持ち1390年に家中が分裂する。三開山城から、出石子盗山(此隅山)城を本拠とする。息に山名時煕(1367~1435)。孫に山名持豊(宗全)。

▽山名義数 (*)上総介。時氏の息。1391年山名満幸とともに「明徳の乱」を起す。

▽山名高義 (*)修理亮。時氏の息。1391年山名満幸とともに「明徳の乱」を起す。


<但馬・山名家 譜代家老衆> 山名四天王に、垣屋・太田垣・八木・田結庄あり。

(垣屋氏)
垣屋時忠 (*)(土屋)。山名家臣。但馬垣屋第2代。垣屋駿河守の息。京都大宮にて戦死。亀崎城主。跡職は隆国。<本家は土屋氏。>

▽垣屋隆国 (*)(土屋)・播磨守。山名家臣。但馬垣屋第3代。但馬守護代。気多郡の豪族。山名時熈の家老職。亀崎城主。跡職は息の熙続。息に熙続(満成)、熙知(国重)、豊茂(国時)。楽々前(佐田)城主。

田結庄国盛 (*)平・左近将監。山名家臣。山名時熈の家老職。息に重嗣。

八木重頼 (*)日下部・(朝倉)。山名家臣。山名時熈の家老職。息に宗頼。八木城主。<越前朝倉家の下剋上ぶりが凄すぎるのでしょうか。>

朝倉高靖 (*)八木城を八木氏から朝倉氏が奪取。息に重靖。八鹿郡八木城主。

<山名家家臣>


福富* (*)甲斐守。高生田城主。
梶原* (*)比治城主。
石谷* (*)備前守。城崎郡の豪族。石谷城主。
沼田長信 (*)橘・左衛門尉。美含郡の豪族。相谷城主。
丹生長近 (*)美作守。養山城主。
長 忠清 (*)加賀守。塔ノ尾城主。
塩冶* (*)芦屋城主。

第3世代 1391年 京都地震と「明徳の乱」

 伯耆・但馬・因幡・丹波・石見・安芸・伊賀

山名時熈 VS 山名氏清 <山名家臣団分裂>


山名時熈 〈1389・1392-1433〉(*~1435)但馬・宮内少輔・右衛門佐・入道常煕・義熈・常熈。伯耆・但馬守護家。幕府相番衆。山名惣領家を継承した山名時義の息。山名氏清の娘婿。弟に氏幸、時長。1389年病気療養の父・時義に代わり、厳島参拝の将軍・義満の接待役。1389年時義の死により惣領争い。1390年将軍・足利義満の命で一門の山名氏清、山名満幸により、従兄弟・山名氏幸(氏之)とともに討伐される。1391年細川頼之に降伏。備後にて蟄居、足利義満の赦免を請う。1391年「明徳の乱」のち但馬一国の守護。1399年大内義弘の「応永の乱」に山名(宮田)時清討伐に軍功。1427年但馬国朝来郡生野城に拠る。1414・1432年侍所頭人。1433年伊賀守護。69歳。息に満時(早世)、持熈(廃嫡)、山名持豊(宗全)、熈高。
▽山名満時 (1396~1421)時熈の嫡子。足利義満に出仕。1414年侍所頭人。早世。25歳。

(太田垣氏)
⇔太田垣(通泰?) (*)(日下部・朝倉)・式部・入道。山名家臣。時熈の侍大将。1391年「明徳の乱」に堺表の合戦で軍功。1400年但馬半国(養父・朝来郡)守護代、備後守護代。「応永の乱」に軍功。

(垣屋氏)
⇔▽垣屋満成 (*~1391)楽々前垣屋・弾正・越前守・(遠江入道)・頼忠・熙続。播磨守護代。山名家臣。隆国の息。但馬垣屋第4代。1391年「明徳の乱」に軍功。主・山名時熈を救い戦死。息に煕忠(政忠・宗忠)、豊成。亀崎城主。楽々前(ささのくま)城主。

⇔▽滑良* (*~1391)なめら・兵庫守。山名家臣。1391年「明徳の乱」に垣屋満成とともに主・山名時熈を救い戦死。息に四郎太郎。

▽垣屋煕忠 (*)楽々前垣屋・政忠・遠江入道。満成の息。但馬垣屋第5代。1400年父の死により家督。但馬半国(気多郡)守護代。

▽垣屋国重 (*)越前守・越中守・熙知・隠岐守。山名家臣。隆国の息。気多郡の豪族。宵田城主。息に遠忠、孝知。

▽垣屋国時 (*)駿河守・豊茂。山名家臣。隆国の息。美含郡に所領。竹野轟城主。息に豊経。
▽久下* (*)丹波衆。山名家臣。1399年大内義弘の「応永の乱」に山名(宮田)時清討伐に従軍。

▽中沢* (*)丹波衆。山名家臣。1399年大内義弘の「応永の乱」に山名(宮田)時清討伐に従軍。

山名氏之 〈1392-1403〉(*)伯耆・相模守・氏幸。山名嫡流・山名師義流。山名師義の息。時義の養子。兄に義幸、弟に満幸、義熈。1390年足利義満と管領・細川頼之の陰謀で、叔父・山名氏清、弟・山名満幸と抗争。1391年細川頼之に降伏。備後にて蟄居、足利義満の赦免を請う。1391年「明徳の乱」ののち伯耆守護職を回復。1441年伯耆の軍勢を率いて赤松満祐討伐に従軍。息に山名熈之。

(但馬衆) 長、奈佐氏没落。
 1467年細川方丹波勢に長谷部氏あり。


⇔↑山名氏清 〈1390-1392〉(1344~1392)丹波・陸奥守。山名時氏の息(四男)。娘婿に山名満幸。山城・丹波・和泉の三ヶ国守護を継承する。惣領職を継承した弟・時義と対立。1389年時義の死去により、家督争いが勃発。三代将軍・足利義満、管領・斯波義将の時代に勢力を伸張し山陰地方11ヶ国の守護を独占する。足利義満が元管領・細川頼之を復活させ山名家を迫害、1391年甥・山名満幸とともに「明徳の乱」を起すが、足利義満自らの討伐軍に敗北する。一色軍により討ち取られる。息に時清、満氏。

↑▽小林重長 (*)山名家臣。山名氏清の家老。丹波守護代。<一門に義繁か。>

↑▽土屋豊春 (*~1392)垣屋・越中守。但馬豪族。山名家臣。分家に垣屋氏。1392年「明徳の乱」に氏清に従う。<豊春は、系図には現れない。山名家各守護家分裂時代に、垣屋家も分裂するか。>

(伯耆衆)
山名満幸 〈1390-1395〉(*~1395)伯耆・播磨守・弾正少弼。山名師義の息(四男)。丹後・出雲守護兼任。兄に義幸(早世する)、氏之、義熈。兄・義幸の跡職を継承。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。1389年時義の死により惣領争い。1390年将軍・足利義満の命で、伯耆の氏之を攻略。叔父で舅の山名氏清とともに、時義の息と養子の山名時煕と山名氏之(氏幸)を討つ。隠岐守護。1391年将軍・義満により出雲守護を解任される。足利義満に対し叔父・山名氏清とともに「明徳の乱」を起こす。大内軍に破れ丹後に落ちる。1393年丹波で挙兵するが細川頼元に鎮圧される。1395年京極高詮に襲撃され処刑される。<1393年「明徳の乱」山名満幸に従い土屋(垣屋)党53名戦死。>

▽大芦宗信 (*)大足・次郎左衛門尉。山名家臣。土屋党。丹波衆。満幸に従い「明徳の乱」に参戦。

▽大芦* (*)大足・平次左衛門尉。山名家臣。土屋党。丹波衆。宗信の一門。満幸に従い「明徳の乱」に参戦。

▽荻野重定 (*)美作守。山名家臣。丹波衆。細川頼之の調略により離反。

▽荻野重国 (*)丹波衆。山名家臣。重定の弟。細川頼之の調略により離反。

▽松田* (*)将監。丹波衆。山名家臣。<丹後の松田丹後守・晴秀は一門か。>

▽塩谷* (*)塩冶・佐々木・駿河守。丹波衆。山名家臣。<塩冶判官の子孫でしょう。>

(丹波衆)
山名時清 (*)丹波・宮田時清。氏清の息。1389年時義の死により惣領争い。満幸を擁立し「明徳の乱」。1399年大内義弘の「応永の乱」に呼応し丹波で挙兵。但馬の山名時熈に撃退される。

↓▽宮田氏明 (*~1399)山名氏明。大内義弘の「応永の乱」に参陣、丹波衆の荻野信盛に討たれる。

山名満氏 (*)丹波。氏清の息(次男)。1389年時義の死により惣領争い。満幸を擁立し「明徳の乱」。1399年「応永の乱」に惣領の時熈に従い、兄・時清討伐に丹波出陣。

↑山名義数 (*~1395)丹波衆。氏清の弟。京都の戦闘で戦死。

↑▽山名高義 (*~1395)修理亮。丹波衆。氏清の弟。山名氏清家臣。先鋒として、小林上野介とともに大内義弘軍と衝突。戦死。<兄弟の義数も参戦していたということでしょう。>

▽小林義繁 (*~1395)上野介・修理亮。丹波衆。山名家臣。山名氏清の家臣。先鋒として、山名義数(高義)とともに大内義弘軍と衝突。戦死。<北海道の道南、函館市志海苔館の城主だった小林氏は、日本海ルートで逃げた小林さんだったら面白いですが・・。>

(一門衆)
山名義清 (*)紀伊。紀伊守護・山名義理の息。1389年時義の死により惣領争い。満幸を擁立し「明徳の乱」。息に教清。

山名氏家 (*)因幡。因幡・伯耆守護。氏冬の息。1389年時義の死により惣領争い。満幸を擁立し「明徳の乱」。息に煕貴。<子孫は因幡守護家。>

山名氏利 (*)氏清の息。石見守護。1399年惣領の時熈に従い、1401年「応永の乱」の軍功により石見に所領を得る。<1401年足利義満が氏清の鎮魂の為に北野に経王堂を建立。>

▽鹿野教孝 (*)山名。山名家臣。石見守護代<1418>。氏清の息。山名氏利の家老。

山名満氏 (*)安芸守護。1399年惣領の時熈に従い、1404年「応永の乱」の軍功により安芸に所領を得る。

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