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南北朝・室町前半 九州鎮西探題職

九州「鎮西探題」の流れ

一色範氏(道献)(1352)→斯波氏経→渋川義行→今川貞世〈1370-1395〉→渋川満頼


 一色家勢力図。<一色家付属の九州武家の本州入部。>そのうち追加予定。

1336年 一色範氏を九州番頭とする。
1353年 一色氏、「針摺原の合戦」で菊池・少弐軍に敗北する。
1360年 斯波氏経、「長者原の合戦」で敗北。1364年帰京。
1365年 渋川義行、九州へ下向するが上陸を阻まれる。
1370年 今川貞世、阿蘇・都甲氏に九州下向を連絡。
1371年 貞世、安芸守護として地盤を固める。田原(大友)氏能を後見に嫡男・貞臣(義範)を豊後高崎に派遣。弟・仲秋を肥前松浦に派遣。
1372年 弟・仲秋とともに筑前大宰府に進攻し、懐良親王・菊池武光を追う。
1373年 豊前守護・大内義弘、豊後守護・大友氏継、筑後・肥前守護・少弐冬資、日向守護・伊東祐煕、薩摩守護・島津氏久、肥前内三郡守護・今川仲秋、肥前内一郡守護・千葉胤泰。
1375年 懐良親王、阿蘇氏当主に惟武を任命し、阿蘇惟村が北朝に転じる。
1375年 貞世、少弐冬資を暗殺(水島の変)。島津氏久・大友親世など各国守護が南朝に離反。
1376年 島津氏久討伐の総大将に息・満範を任命。
1377年 満範が「蓑原の合戦」にて島津氏久・元久親子に大敗。
1390年 今川貞臣、宇土城を攻略し南朝方に打撃を与える。
<1393年細川頼元、管領辞任。>
1395年 将軍・足利義満により今川貞世解任、京都召還。
<1395年今川貞世、九州探題職解任。>
1399年 今川貞臣、遠江国帰還。
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>

九州探題 〈在任期間〉


⇔一色範氏 〈1336-1347〉(*~1369)二郎・宮内少輔・入道道献・九州探題。太郎・宮内少輔。尊氏派。公深の息子。母は今川国氏の娘。1336年菊池武敏を破る。足利尊氏の上洛に、仁木義長とともに九州の抑え、肥前守護。のち1337年仁木の上洛により、初代探題として大友・少弐・島津等を牽制する。1346年直氏に探題職を譲り後見。「観応の擾乱」に尊氏派。1353年筑前国にて懐良親王、菊池武光との「針摺原の合戦」に敗れる。1355年博多放棄。長門に渡る。1357年九州の経営に失敗し隠居。息に直氏、範光、範房。

⇔▽一色直氏 〈1348-1351〉(*~*1357)宮内少輔・右京権大夫・少輔太郎・入道。範氏の息子。肥前守護。1346年九州探題を世襲する。1347年筑後守護。1348~1351年肥前守護。太宰少弐頼尚と抗争。1353年筑前国「針摺原の合戦」に敗北。1357年南朝の征西将軍懐良親王と菊地武光に九州を追われる。京都に帰還。1356年再度、九州に上陸するが筑前国「麻生山の合戦」に敗北し京都に戻る。

⇔斯波氏経 (*~1367)尾張・民部少輔・左京大夫・入道道栄。斯波高経の次男。弟に氏頼、義将、義種。越前守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。直冬党。菊池武光に対して、1361年九州探題に任ぜらる。1362年懐良親王に「長者原の合戦」で敗北。大内弘世を頼る。のち1367年出家隠遁。息に義高(詮将)。<末野氏の祖。>

⇔渋川義行 (1348~1375)武蔵守・右兵衛佐。九州探題職。足利一門。渋川義季の孫。直頼の息。母は高師直の娘。備中、備後守護。1366年斯波氏経の後、19歳にして九州管領に抜擢される。征西大将軍・懐良親王と対峙。菊池武光により九州上陸を阻まれる。京都に帰還し死去。28歳。今川貞世解任後、息・満頼が九州探題職を継承。息に渋川満頼(1372~1446)、義長、満行。娘婿に吉良満貞。<渋川氏は武蔵にも所領あり。堀越公方執事の渋川義鏡に繋がる。その息子は斯波義廉。><今川家に対しての斯波義達と吉良家の同盟関係は、斯波(渋川)と吉良の血縁関係によるものなのでは?。とすれば、斯波義寛、義達の血筋は、斯波義敏とは違う系譜・・・。>

今川貞世(了俊)の家臣団と軍団 
(1370年探題就任、1395年探題解任)

今川家の本貫地・三河。

今川貞世 (1326~*1420)源ノ・六郎・左京亮・伊予守・入道了俊。今川範国の息。兄に範氏。弟に氏兼、仲秋。土岐頼雄の娘婿。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1367年将軍・義詮の死により出家。1370年細川頼之の推薦で渋川義行に代わり九州探題。弟・仲秋を肥前に派遣し松浦氏を抑える。1371年豊前から大宰府攻略。筑後高良山の菊地武光を肥後隈部城に追う。1374年大友親世、島津氏久、少弐冬資を召集。少弐を誅殺し、島津が反乱。1376年息(5男)満範を南九州制圧に派遣し島津氏久、伊久と講和。1377年肥前に菊地武朝、阿曽惟武を討つ。1381年菊地武朝の隈部城を攻略しほぼ九州を統一する。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。1390年貞臣が肥後宇土城攻略。1391年八代城に良成親王、名和顕興を降す。1394年再び背いた島津氏に対し息・貞兼を派遣。1395年、勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。1399年「応永の乱」に大内義弘との関連に疑惑。関東公方・足利氏満との関係にも疑惑が持たれる。息に貞臣(甥)、貞継、言世、貞兼、満範。娘婿に吉良俊氏。養子に弟・仲秋。<九州を統一するも、将軍・足利義満により失脚する様は、源ノ義経や範頼のようです。忍耐で駿河に戻り、子孫の今川氏親が1517年に東海道を統一したのですから本望でしょうか。>

△京極為基 (*~1350*)藤原・玄哲。藤原為言の息。兄に俊言。京極為兼の猶子。今川貞世の和歌の師匠。父・為兼の土佐配流により下野。1333年出家し玄哲。

△冷泉為秀 (*~1372)権中納言・松峯。冷泉為相の息。今川貞世の和歌の師匠。

△二条良基 (1320~1388)藤原・摂政・関白・太政大臣。北朝方公卿。二条道平の息。室は土岐頼康の娘。今川貞世の和歌の師匠。

(今川貞世家一門衆)
↓▽今川義範 (*)源ノ・今川貞臣。貞世の息(嫡男)。父に先行して九州豊後上陸。高崎城に拠る。田原(大友)氏能の補佐で菊池武光家臣の平賀新左衛門を討つ。駿河今川惣領家の氏家が貞臣に跡職を希望するが、惣領家は泰範が継承する。息に貞相、(角和貞行)。孫に範将。

↓▽今川貞継 (*)名和・伊予守。貞世の息(2男)。

▽今川言世 (*)左馬頭。貞世の息(3男)。

▽今川貞兼 (*)尾崎・播磨守・左京亮。貞世の息(4男)。1381年弟・満範の跡職を継承し島津氏討伐の大将。1394年相良氏とともに島津元久方の和田正覚を攻撃。北郷久秀・忠通兄弟を討つ軍功。<子孫はのち惣領家に謀反。>

▽今川満範 (*~1381)新野。貞世の息(5男)。1376年島津氏久討伐の総大将となり南下。相良前頼・頼氏兄弟、伊東氏祐とともに島津軍と戦う。1381年野辺氏と連絡。<子孫は今川義元の代に一門衆の重鎮。>

▽吉良俊氏 (*)貞世の娘婿。足利家分流。

(貞世一門衆)
⇔↓今川仲秋 (*)中務少輔・右衛門佐・国泰(国康)・頼泰(頼康)・仲秋・入道仲高。遠江・尾張守護。範国の息。兄に今川貞世(了俊)。貞世の弟。1368年山城守護。九州遠征に従う。1371年肥前松浦に派遣される。1375年水島の変に山内某(通忠?)とともに少弐冬資を打ち取る。1388年遠江守護。1389年将軍・義満の「厳島参拝」に随行。甥・貞臣を後見。息に貞秋、氏秋、直秋、(肥前千葉)国秋。

今川氏兼 (*1329~*1398)蒲原・修理亮・弾正少弼・越後守・直世。範国の息。貞世の弟。1336年吉良満義から三河須美保を、1338年吉良貞義から常氏・範国の幡豆郡の跡地を拝領。1370年足利義満により越後守護代。1370年兄に加勢し九州出陣。1374年帰京。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。1396年直世に改名。息に直忠、頼春、末兼。<1432年孫、氏頼が足利義教の富士行幸に従い駿河蒲原を与えられる。>

↓▽千葉胤泰 (*)千葉介。肥前国人。九州入りした今川貞世・仲秋兄弟に従う。1373年肥前小城郡の守護職。娘婿に今川仲秋。孫に国秋。跡職は千葉胤基が継承する。

↓▼千葉胤基 (*)千葉介。肥前国人。胤泰の跡職を継承する。のち執事・鑰尼泰高が少弐貞頼と結び謀反する。

↓今川貞秋 (*)仲秋の息(長男)。貞世の甥。今川家一門衆。

↓今川氏秋 (*)仲秋の息(次男・2男)。貞世の甥。今川家一門衆。

↓今川直秋 (*)仲秋の息(3男)。貞世の甥。息に持弘。今川家一門衆。

↓今川国秋 (*)仲秋の息(4男)。貞世の甥。息に国治。今川家一門衆。

<九州探題・与力衆>

⇔大内弘世 (1325~1380)修理大夫・周防権介。周防・長門守護。弘幸の息。兄弟に師弘、師賢。1350年北朝から南朝に転じ、鷲頭氏と抗争。1355年厚東氏と抗争。1358年厚東義武を九州に追放。1363年北朝に帰順。1371年今川貞世に従い豊前渡海。後に南朝に転じ、1374年毛利親衡と結び安芸を窺う。息に義弘、満弘、弘正、弘茂、道通、家弘、弘十。娘婿に少弐冬資、大友親世、宗像氏重。

⇔大内義弘 (*~1399)周防・長門守護。弘世の跡職。1371年九州探題・今川貞世に従い豊前国司に渡海。のち反幕し九州から撤収。1376年安芸・毛利元春を攻撃。

⇔毛利元春 (1323~*)郡山・少輔太郎・備中守・左近将監・権大丞・師親。安芸国人。吉田荘領主。親衡の息。母は長井氏の娘。高ノ師泰の加冠。南朝方の父・親衡と抗争。1371年今川貞世に従い豊前渡海。1376年大内義弘と抗争。兄弟に(坂)匡時、有富直衡。息に広房、元房、広内、忠広、(長井)広世、元淵。家督は光房が相続。

▽毛利光房 (1386~1436)之房・右馬頭。広房の息。父の戦死により祖父・元春に養育される。息に煕元、元忠。1399年足利義満の命で大内盛見討伐に出陣。1436年九州に陣没。

吉川経兼 (*)権駿河守。経盛の従兄弟。息に経見。南朝方に忠節。「観応の擾乱」に直義方。本家の経盛と抗争。

⇔吉川経見 (*~1435)左衛門尉・駿河守・経春。石見国国人領主。経兼の息。経秋の娘婿。足利直義の息子・直冬に従い、執事・今川頼貞の配下。安芸本家の経秋の養子となり家督相続。1371年今川貞世に従い豊前渡海。1403年熊谷直明が南朝に離反。討伐軍、毛利光房、宍戸家秀、阿曽沼光郷、香川遠景、小早川義春、平賀貞宗とともに出陣。1406年秋守護・武田氏に当主を認められる。息に経信、経憲、経茂。駿河丸城、小倉山城城主。<安芸国の吉川氏に対して、石見の吉川氏の当主。先祖は藤原工藤。>

⇔熊谷直明 (*)安芸国人。武田家譜代家臣。1371年今川貞世に従い豊前渡海。1403年南朝に従う。毛利光房、吉川経見、宍戸家秀、阿曽沼光郷、香川遠景、小早川義春、平賀貞宗の連合軍に降伏。

⇔長井貞広 (*~1375)備後国国人領主。貞頼の息。長井氏5代。1371年今川貞世に従い豊前渡海。1375年「水島の変」後の南朝方との合戦で、筑後国山崎にて宇都宮経景とともに戦死。毛利元春の息・広世が、養子として家督相続。

▽長井広世 (*)毛利広世・左近将監・福原広世。元春の息(5男)。養父・長井貞広の戦死により家督相続。1399年大内義弘の弟、大内盛見討伐の為、足利義満に毛利家相続を認められる。甥・毛利光房の成長により毛利惣領を返上。息に朝広。鈴尾城主。

⇔山内通忠 (*)山内首藤・首藤通忠・刑部・四郎。備後国国人。通時の息。時通の養子。のち兄・通継の跡職を相続。備後じびの荘、摂津富島荘、信濃下平田郷に所領をもつ。1371年今川貞世に従い豊前渡海。1375年少弐冬資の暗殺に加担するとも。<源氏と関わりの深い、山内首藤氏。>

<南朝方武将>
⇔今川頼貞 (*)掃部助・駿河守・駿河前司。今川家一門衆。今川頼国の息。弟に頼兼。範国の甥。1339年丹後守護、1348年但馬守護、1350年因幡守護などを歴任。足利直義の養子・直冬を後見。中国探題職を補佐する。<今川5兄弟の長男家。>

▽広峰貞長 (*)入道・昌俊。播磨国飾東郡豪族。広峰社家。鎌倉御家人家。重長の息。弟に信則。広峰社大別当職。建武の新政後、足利家に出仕。今川頼貞配下。但馬「牧田河原の合戦」に従軍。気比城合戦に従軍。湊川合戦に楠木軍を破る。上洛し「鳥羽の合戦」、「阿弥陀峰の合戦」に従軍。跡職は長種が継承。息に長種、則長、頼長。

▽広峰信則 (*)恒川・六郎・右衛門尉。播磨国飾東郡豪族。広峰社家。鎌倉御家人家。重長の息。後醍醐天皇に出仕。南朝方につき兄・貞長と抗争。息に信光。

吉川経盛 (1290~*)五郎次郎。鎌倉幕府御家人。経高の息。弟に経長、経頼。安芸吉川氏、吉川家惣領。1319年家督相続。1335年安芸守護・武田信武に従い、南朝方の熊谷直行の矢野城攻撃。吉川師平が戦死。吉川経茂の娘婿。息に経秋。

▽吉川経秋 (*~1383)五郎次郎・駿河守・経明。安芸吉川氏。吉川家惣領。経盛の息。安芸守護の武田氏信い出仕。土佐国分郡守護職。庄駿河入道の娘婿。のち南朝に転じる。養子に石見吉川家の経見。

吉川経長 (*)鎌倉幕府御家人。経高の息。兄に経盛。惣領に従わず独自行動。後醍醐天皇に直仕し、船上山の合戦」に参陣。息の実経は、新田義貞に御教書を届ける。足利尊氏を九州に追い出し、畿内残党を征伐。


 ≪個人的感想≫
戦国時代の今川氏と、中国地方・九州地方の大名たちとの意外な繋がり・・・。
のちに関東公方討伐に、度々関東に遠征する今川氏。予想以上に全国的に影響力があったのでは・・・。 →関東の大名・豪族の軍団
領地が少なく近衛軍のいない将軍家に比べ、自力(旗本家臣団)のある大名だったかもしれないですね。
血筋から天下を狙えたというのも、満更ではないかも。

九州各国の守護・守護代の変遷と在地国人領主

[豊前国]
今川貞世 〈1386-1387〉(1326~*)左京亮・伊予守・了俊。今川範国の息。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1370年、九州探題。豊前国守護、1372年豊前進攻、貞臣との合流を計るが大友氏継が阻む。1372年筑前入り。1381年九州を統一する。1390年貞臣が肥後宇土城を攻略。1395年、勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。息に貞臣。

▽宇都宮家綱 (*)下野守護・宇都宮公綱の息。豊前守護・宇都宮冬綱の養子。冬綱の息・重綱と家督抗争。兄に氏綱、義綱。

▽城井正綱 (*)宇都宮・直綱。豊前豪族。家綱の息。畠山氏の豊前守護職補任に、1374年今川貞世に謀反、田原氏能の攻撃を受ける。息に盛綱。

▽宇都宮経景 (*~1375)水島の変後、筑後国に蜂起した南朝方・菊池軍の鎮圧に向かい、長井貞弘とともに戦死。

▽田原氏能 (*~1393)豊前三郎・下野権守・豊前権守・下野守・上総入道。大友氏一門衆。祖父に直貞(実父か)。貞広の息(養子か)。田原氏5代。元・九州探題一色家臣。「針摺原の合戦」での父の戦死により家督。1370年新九州探題・今川貞世を中国地方まで出迎え。貞世の息・貞臣に従い豊後に上陸。菊池政武と抗争。1372年高崎山城を死守。貞世の筑前・肥前遠征に従う。豊後大野城攻略の大友親世を救援。1374年城井正綱の謀反を討伐。息に親貞、親昌

⇔▽大内義弘 (*~1399)周防・長門守護。弘世の跡職。1371年九州探題・今川貞世に従い豊前国司に渡海。のち反幕し九州から撤収。1376年安芸・毛利元春を攻撃。

<九州探題・渋川氏>
渋川義行 (1348~1375)武蔵守・右兵衛佐。九州探題職。足利一門。渋川義季の孫。直頼の息。母は高師直の娘。備中、備後守護。1366年斯波氏経の後、19歳にして九州管領に抜擢される。征西大将軍・懐良親王と対峙。菊池武光により九州上陸を阻まれる。京都に帰還し死去。28歳。今川貞世解任後、息・満頼が九州探題職を継承。息に渋川満頼(1372~1446)、義長、満行。娘婿に吉良満貞。

渋川満頼 〈1396-*〉(1372~1446)武蔵次郎・右兵衛佐・左近将監。渋川義行の息。斯波義将の娘婿。豊前国守護。足利義満の「満」の字を下賜される。1396年、今川了俊の失脚後に九州探題。備中、摂津、安芸、肥前守護。大内氏が後見し、大内氏は九州豊前に足掛かりを得る。少弐貞頼、菊池武朝、阿蘇氏と抗争。息に義俊。<後世、大内氏の下に斯波義敏が蟄居することと、何か関連があるのでしょうか。渋川義廉の要請を、最初に大内氏は受けていたのでしょうか。>

<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>


[豊後国]
今川貞世 〈1386-1387〉(1326~*)左京亮・伊予守・了俊。今川範国の息。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1370年、九州探題。豊前国守護。1381年九州を統一する。1395年、勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。

↑▽今川貞臣 (*)義範。貞世の息(嫡男)。今川家一門衆。1371年豊後高崎山城に派遣される。田原氏能の後見を得る。豊後高崎山城を死守。1372年菊池武政を撃退。1399年帰京し、遠江国入り。

▽田原氏能 (*~1393)大友・豊前・三郎・下野権守。大友庶流。直貞(祖父とも)の息。兄に貞広(養子となるか)。1350年筑後に所領。1353年足利直冬・、少弐頼尚、菊地武光の連合軍との「針摺原の合戦」に兄・貞広戦死。1371年今川貞臣を後見。息に親貞、親昌。

↓▽大友氏継 (*)孫三郎。九代。大友氏時の息。親世の兄。筑後守護 〈1364-1371〉。1368年家督相続直後に南朝勢力が増大し、南朝に降る。弟・親世は北朝に残り、兄弟で抗争する。南朝方。1372年今川貞臣軍を妨害し、豊前入りを遅らせる。のち豊後守護。

(大友氏)
▽大友氏泰 (*)大友惣領。大友一門。貞宗の息。足利尊氏に謁し側近となる。のち尊氏の養子。氏時の兄。

▽植田能綱 (*)大友一門。植田荘の豪族。志賀氏とともに南朝軍と抗争。

▽志賀氏房 (*)大友一門。北志賀氏。菊地軍の豊後侵攻に鳥屋城で防戦。1369年木牟礼城主。

▽大友氏時 (*~1368)大友一門。貞宗の息。足利尊氏に謁し側近となる。のち兄・氏泰とともに尊氏養子。菊地軍の豊後侵攻に高崎山城で防戦。息に氏継、親世。

▼大友親世 (*)大友一門。氏時の息。南朝方の豊後大野城攻略に軍功。

▽戸次頼時 (*)大友一門。

<九州探題・渋川氏>
渋川義行 (1348~1375)武蔵守・右兵衛佐。九州探題職。足利一門。渋川義季の孫。直頼の息。母は高師直の娘。備中、備後守護。1366年斯波氏経の後、19歳にして九州管領に抜擢される。征西大将軍・懐良親王と対峙。菊池武光により九州上陸を阻まれる。京都に帰還し死去。28歳。今川貞世解任後、息・満頼が九州探題職を継承。息に渋川満頼(1372~1446)、義長、満行。娘婿に吉良満貞。

↑渋川満頼 〈1396-*〉右兵衛佐。豊前国守護。

<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>


九州南朝方勢力国、国司・守護の軍団


⇔菊池武政 (*)豊田・次郎・肥後守。菊池武光の息。菊池家惣領第16世。弟に良政、武教。南朝方。1371年父の死により家督。1371年豊後進攻。今川貞臣・田原氏能を豊後高崎山城に攻撃。1372年今川軍に敗退。肥後国守護職〈1373-1374〉。

⇔大友氏継 (*)孫三郎。九代。大友氏時の息。親世の兄。筑後守護 〈1364-1371〉。1368年家督相続直後に南朝勢力が増大し、南朝に降る。弟・親世は北朝に残り、兄弟で抗争する。南朝方。1372年今川貞臣軍を妨害し、豊前入りを遅らせる。

[肥前国]
⇔↑今川仲秋 (*)右衛門佐・入道仲高。貞世の弟。肥前守護〈1371-1384〉。1371年松浦党を従えて大宰府攻め。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。続いて兄・貞世とともに筑前大宰府に進攻し、懐良親王・菊池武光を筑前高良山に追う。息に貞秋、氏秋、直秋。<兄を助ける姿は羽柴秀吉の弟・秀長と通じるものがありますね。>

↑今川貞世 (1326~*)左京亮・伊予守・了俊。今川範国の息。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1370年、九州探題。1381年九州を統一する。肥前守護〈1389-1391〉。1395年、勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。

<肥前国衆>
伊万里貞 (*)松浦衆。肥前豪族。1371年肥前入りした今川仲秋に従う。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。

山代栄 (*)松浦衆。肥前豪族。1371年肥前入りした今川仲秋に従う。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。

多久宗国 (*)肥前国衆。1371年肥前入りした今川仲秋に従う。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。

高木家直 (*)肥前国衆。1371年肥前入りした今川仲秋に従う。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。

馬渡経俊 (*)肥前国衆。1371年肥前入りした今川仲秋に従う。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。

後藤資明 (*)肥前国衆。1371年肥前入りした今川仲秋に従う。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。

龍造寺家治 (*)肥前国衆。1371年肥前入りした今川仲秋に従う。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。

安富直安 (*)肥前国衆。1371年肥前入りした今川仲秋に従う。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。

江上四郎 (*)肥前国衆。1371年肥前入りした今川仲秋に従う。1372年肥前に侵攻した南朝軍の菊池武安を撃退する。

(小城郡)
↓▽千葉胤泰 (*)千葉介。肥前国人。九州入りした今川貞世・仲秋兄弟に従う。1373年肥前小城郡の守護職。娘婿に今川仲秋。孫に国秋。跡職は千葉胤基が継承する。

↓▼千葉胤基 (*)千葉介。肥前国人。胤泰の跡職を継承する。のち執事・鑰尼泰高が少弐貞頼と結び謀反する。


≪個人的感想≫ 三河の大須賀(千葉)氏・西郷(菊池)氏は、いつの時点で、どの大名家に従い移住したのかが気にかかるところです。
 織田家の原田姓を名乗る塙氏や、河尻氏も、九州から移住した組でしょうか・・。

<以降、幕府方優勢>

吉見詮頼 〈1398-*〉弾正少弼。肥前守護。能登守護・吉見氏頼の息。1371年父・氏頼は今川貞世に代わり内談引付頭人。幕府奉公衆として在京。弟に義範。
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>


<足利家一門衆>
渋川義行 (1348~1375)武蔵守・右兵衛佐。九州探題職。足利一門。渋川義季の孫。直頼の息。母は高師直の娘。備中、備後守護。1366年斯波氏経の後、19歳にして九州管領に抜擢される。征西大将軍・懐良親王と対峙。菊池武光により九州上陸を阻まれる。京都に帰還し死去。28歳。今川貞世解任後、息・満頼が九州探題職を継承。息に渋川満頼(1372~1446)、義長、満行。娘婿に吉良満貞。

渋川満頼 〈1415-1417〉左近将監。肥前守護。大友・大内氏の援助で肥前国入り。肥前守護。少弐氏と抗争する。息に義俊。

渋川義俊 〈1426-*〉左近将監。肥前守護。

渋川満直 〈1428-1434〉中務大輔・武蔵守。肥前守護。

相良前頼 (*~1394)伊井之助・近江守。定頼の息。1368年家督継承。父の代からの宿敵・多良木経頼と抗争。1371年九州に赴任した今川貞世に従う。貞世の息・今川満範に従い島津軍と交戦。息に実長。

「筑前・大宰府」
征西大将軍・懐良親王、菊地武光。


南朝方、足利直冬、少弐頼尚。

今川経頼 (*)掃部助。足利直冬に所領安堵される。

懐良親王 (*1329~1383)阿蘇宮・中務卿・征西将軍・九州探題。後醍醐天皇の息。母は中納言為道の娘。1336年比叡山籠城。1339年父・後醍醐天皇の命で九州に派遣される。五条頼元・中院義定ら12人が補佐。1340年豊後に侵入。1342年薩摩谷山城を拠点とする。1348年肥後菊池家の宇都津に迎えられる。1351年鎮西探題・足利直冬の下向で、一色党が宮方に転ずる。1355年一色範氏・直氏を追放し博多を占拠。1359年少弐頼尚を「大保原の合戦」に破る。1361年大宰府を占拠。菊池武光、菊池武政の後見で北九州を制圧する。1369年甥の後村上天皇皇子・良成親王を河野通直のもとへ派遣。1371年九州探題に今川貞世が着任。1372年大宰府を攻略される。1375年征西将軍職を後村上天皇皇子・良成親王に移譲する。筑後に隠居し死没。

↑△菊池武光 (*1329~1371)豊田・十郎。肥後の豪族。武重の庶子。肥後国益城郡豊田を領する。14世・菊池武士の跡職を相続。実力で菊池家惣領となる。後村上天皇に忠節。1348年居城に懐良親王を迎える。1353年「針摺原の合戦」に一色範氏を撃破。1355年一色氏は長門に落ちる。1359年「大保原(筑後川)の合戦」に少弐頼尚を撃破。1361年大宰府占拠。1373年今川貞世が奪回するまで、南朝方征西府とする。隅府城主。45歳。

<九州探題・渋川氏>
渋川義行 (1348~1375)武蔵守・右兵衛佐。九州探題職。足利一門。渋川義季の孫。直頼の息。母は高師直の娘。備中、備後守護。1366年斯波氏経の後、19歳にして九州管領に抜擢される。征西大将軍・懐良親王と対峙。菊池武光により九州上陸を阻まれる。京都に帰還し死去。28歳。今川貞世解任後、息・満頼が九州探題職を継承。息に渋川満頼(1372~1446)、義長、満行。娘婿に吉良満貞。

渋川満頼 〈1396-*〉右兵衛佐。筑前国守護。   斯波義淳の家臣団←斯波家と合体する渋川氏。
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>


後醍醐天皇・懐良親王と九州南朝の軍団


⇔少弐冬資 〈1362-1375〉(*1337~1375)太宰少弐。少弐頼尚の息。兄に直資。筑前国守護。筑前国支配を目指す今川貞世と対立。島津氏久の仲介で北朝方に参陣する。1375年「水島の変」に今川貞世により暗殺される。

▽少弐頼澄 (*)豊前守護。頼尚の息。冬資の弟。兄・冬資と別に南朝方に味方。のち1375年「水島の変」後に今川貞世と抗争。筑前入国を阻止する。

少弐貞頼 (1372~1404)頼澄の息。冬資の甥。1387年筑前守護職を今川貞世に与えられるが、実権は回復されず。息に満貞。
 
[肥後国]
⇔足利直冬 (1327~1387*1400)新熊野殿・兵衛佐・長門探題・九州探題・佐殿方。足利尊氏の息。母は越前局。少弐頼尚の娘婿。直義の養子。1348年紀伊国に出陣。1349年長門探題。備中井原に所領。「観応の擾乱」により高氏と対立。備後鞆の浦にて杉原又四郎に急襲される。河尻幸俊の案内で九州に渡る。肥後河尻に拠点を置き阿蘇氏を従える。征西将軍・懐良親王と菊池氏と同盟。九州探題の一色範氏と対立。1350年少弐頼尚に迎えられる。1351年直義の復帰により九州探題。1352年直義の急死により孤立。中国長門に渡り豊田城を拠点とする。1354年桃井直常、山名時氏、大内弘世の後援で上洛。1355年京都を奪還するが尊氏・義詮に敗北。1358年大内、山名が北朝に降る。1359年少弐頼尚が菊池武光に敗北。息に冬氏。
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>

河尻幸俊 (*)源ノ・肥後権力守。九州肥後飽田郡の豪族。河尻津の代官。1349年長門から九州落ちした足利直冬を迎える。大宰府の一色範氏と抗争。1352年足利直義が鎌倉にて死去。<戦国時代尾張の河尻一門や、川尻秀隆と関連有りでしょうか。>

後藤光明 (*)坂戸。武雄社大宮司家。藤原利仁流。肥前の豪族。立田。一色直氏に従い菊池氏と抗争。1349年直冬を支持。「観応の擾乱」に渋江橘氏とともに直冬方。息に朝明。

<以降、幕府方優勢>

⇔↑今川仲秋 〈1384-*〉(*)中務少輔・右衛門佐・国泰(国康)・頼泰(頼康)・仲秋・入道仲高。遠江・尾張守護。範国の息。兄に今川貞世(了俊)。1368年山城守護。九州遠征に従う。1388年遠江守護。1389年将軍・義満の「厳島参拝」に随行。甥・貞臣を後見。息に貞秋、氏秋、直秋、(肥前千葉)国秋。

↑今川貞臣 〈1391-1399〉陸奥守・伊予守。貞世の息(嫡男)。仲秋の甥。肥後守護。1390年肥後宇土城を攻略。1399年帰京し、遠江国入り。息に貞相、(角和)貞行。

↑今川貞継 〈1380-*〉名和。貞世の息。肥後守護。名和氏を継承。弟に言世、(尾崎)貞兼、満範。<南朝方との政略的な婚姻か。>

▽阿蘇惟村 (*)宇治。阿蘇大宮司。肥後国人。嫡流・阿蘇惟時の養子。足利直冬に従う。南朝に帰順。1353年養父・惟時が、惟澄に討たれる。肥後国守護職〈1362-*〉。1370年今川貞世の九州入りを迎える。


阿蘇惟武 阿蘇大宮司。日向国守護職〈1364-1377〉。


⇔↑島津氏久 (1328~1387)陸奥守。奥州家。大隈国守護職〈1363-1376〉。島津貞久の息。母は大友親時の娘。大隈守護を相続。伊集院忠国の娘婿。佐多忠光の娘婿。貞久の息(4男)。兄・師久が薩摩を継承し、大隈守護となる。師久と対立し抗争。「奥州家」の祖。息に元久。

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将軍:足利義満 VS 九州探題:今川貞世

-今川貞世、1395年九州探題解任後-

[尾張国分郡守護] 尾張今川家
今川朝氏 (*)尾張・美濃での水野致秋の戦功を足利直義に報告。

<海西郡>足利家一門衆
↑今川仲秋 (*)中務少輔・右衛門佐・国泰(国康)・頼泰(頼康)・仲秋・入道仲高。遠江・尾張守護。範国の息。兄に今川貞世(了俊)。1368年山城守護。九州遠征に従う。1388年遠江守護。1389年将軍・義満の「厳島参拝」に随行。甥・貞臣を後見。息に貞秋、氏秋、直秋、(肥前千葉)国秋。<今川氏豊の相続する那古屋氏につながるか。>

今川貞秋 (*)仲秋の息。貞世の甥。
今川氏秋 (*)仲秋の息。貞世の甥。
今川直秋 (*)仲秋の息。貞世の甥。
今川国秋 (*)仲秋の息。貞世の甥。肥前千葉氏を相続。

今川持貞 (*)貞秋の息。
今川持弘 (*)直秋の息。

▽今川氏弘 (*)持弘の息。
▼今川氏直 (*)氏弘の息。

今川範国 〈③1352-1384〉(1295*1304~1384)五郎・入道心省。今川貞世の父。1336年遠江・駿河守護。息に範氏、貞世、氏兼、仲秋。

▽今川直氏 (*)伊予守。1360頃遠江国相良荘を、足利執事・細川清氏の弟・細川頼和と争う。1361年清氏謀反の罪で失脚。

⇔↑今川貞世 〈1384-1388〉(1326~*)左京亮・伊予守・了俊。今川範国の息。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1370年、九州探題。1381年九州を統一する。1395年、勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。

↑今川仲秋 〈1397-1399〉右衛門佐入道・中務少輔・入道仲高。駿河守護兼任。

今川泰範 〈1400-1401〉上総介入道・入道法高。範氏の息。貞世の甥。氏家の弟。1400年関東管領・上杉憲定に了俊追討令、泰範の義満への助命嘆願活動。1402年了俊上洛し完全隠居で赦免される。息に範政。

↑今川貞臣 (*)義範・左京大夫・伊予守。遠江今川氏。貞世の息。叔父・今川仲秋に養育される。1399年帰京し、遠江国入り。兄に貞臣。弟に(名和)貞継、言世、(尾崎)貞兼、満範。息に貞相、(角和)貞行。

▽今川貞相 (*)伊予守・治部大輔。貞臣の息。息に範将。


[駿河守護大名] 駿河今川家 

今川範国 〈②1377-〉(1295*1304~1384)五郎。今川貞世の父。1336年遠江・駿河守護。

今川範氏 (1316~1365)五郎・左馬介・上総介・左近将監・中務大輔。駿河今川氏。範国の息。1353年家督相続。息に氏家、泰範。

⇔↑今川貞世 〈1395-1398〉(1326~*)左京亮・伊予守・伊予入道・入道了俊。今川範国の息。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1370年室町九州探題に就任。1381年九州を統一する。1395年、勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。1399年「応永の乱」に大内義弘との関連に疑惑。関東公方・足利氏満との関係にも疑惑が持たれる。1402年了俊、上洛し完全隠居で赦免される。
 
⇔↑今川仲秋 〈1392-*〉右衛門佐入道・中務少輔・入道仲高。遠江守護兼任(1397-1399)。

ー1400年泰範、貞世の助命嘆願活動ー


<駿河今川家第3・4代>
今川泰範 〈1395-1399〉上総介・入道法高。範氏の息。貞世の甥。兄・氏家の早世により、還俗して家督相続。駿河今川3代。上杉朝顕の娘婿。1400年関東管領・上杉憲定に了俊追討令、泰範の義満への助命嘆願活動。1402年了俊上洛し完全隠居で赦免される。息に範政、泰国、範信。
1416~1417年「上杉禅秀の乱」鎮圧幕府軍大将・今川範政。

⇔▽今川範政 (1364~1433)五郎・上総介・民部大輔・入道道賀。駿河守護。泰範の息。母は上杉朝顕の娘。駿河今川4代。上杉氏定の娘(正室)婿。上杉持定の娘(継室)婿。室町幕府の副将軍。上杉氏定、上杉持定の娘婿。兄弟に泰国、範信。1409年家督相続。1416年鎌倉公方・足利持氏を保護。「上杉禅秀(犬懸氏憲)の乱」1416~1417年。4代将軍・足利義持の命で関東出陣。1423年5代将軍・足利義量(義持の息)、今川範政を将に公方・足利持氏追討の出兵。1432年将軍・足利義教を駿府に接待。息に範豊、範忠、(小鹿)範頼、範満。

▽瀬名* (*)陸奥守。上杉禅秀(犬懸氏憲)の乱」1416~1417年。4代将軍・足利義持の命で関東出陣。

▽葛山* (*)上杉禅秀(犬懸氏憲)の乱」1416~1417年。4代将軍・足利義持の命で関東出陣。

▽荒川* (*)治部大輔。上杉禅秀(犬懸氏憲)の乱」1416~1417年。4代将軍・足利義持の命で関東出陣。


(他国衆)
大森* (*)式部大輔。上杉禅秀(犬懸氏憲)の乱」1416~1417年。4代将軍・足利義持の命で関東出陣。

今川範忠 (1408~1461)兵部少輔・民部大輔・入道全公。駿河守護。範政の息。母は扇谷上杉氏定の娘。弟の千代秋丸と家督争い。駿河今川5代。1433年足利義教の後援により家督争いを制し今川惣領職。関東公方・足利持氏の支援で反乱した富士・狩野氏を討伐。1438年「永享の乱」鎮圧の為、6代将軍・足利義教の命で関東出陣。将軍・義教から度々の軍功を賞され、「惣領一人一名」の御免許を下賜される。範忠以降は正統以外の分家は今川姓を禁じられる。1455年足利義政の命で関東遠征。足利成氏から鎌倉を奪取する。息に義忠、範勝、範慶。<将軍家に、家督相続のお礼と忠節を尽くした様子です。>

今川範将 (*~1464)堀越・伊予守・陸奥守・治部少輔。遠江今川5代。貞相の息。1441年遠江守護・斯波家と抗争。守護代・甲斐氏に圧迫される。1459年斯波・狩野氏連合軍と合戦。援軍の甲斐敏光、朝倉孝景とも戦火を交える。息に貞延。娘婿に将軍・足利義政。<今川範忠の「天下一苗字」の為に姓が堀越に代わるとも。>

[八幡大菩薩、富士浅間大菩薩、白山妙理大権現、天満自在天神、御照覧あれ。]

西条吉良家流 歴代 今川家当主
1399年駿河入国=五代・泰範 1404年駿府築城=六代・範政。 ▽=親子・家臣(主従関係)。
*=家臣ではない武将。

▲今川義忠 (1442~1476)彦五郎・治部大輔・駿河守・上総介。今川範忠(1408~1461)の息。弟に範勝、範慶。1461年家督。駿河今川6代。室は伊勢長氏(盛時)の妹。1455年父・範忠が足利義政の命で鎌倉公方・足利成氏の御所を攻撃。「享徳の乱」のち成氏は古河公方となる。1460年家督継承。1467年「応仁の乱」に上洛、遠江の宿敵・斯波義廉に対し東軍。1468年管領・細川勝元の要請で遠江侵攻。1473・74年美濃の斎藤妙椿と抗争する三河守護・細川成之後詰の為に遠江侵攻。斯波義良・吉良義真の配下、巨海・狩野氏を襲撃。遠江守護代・甲斐敏光と抗争。1476年尾張の斯波義廉に通じる遠江国の一揆、横地四郎兵衛・勝間田修理亮らの拠る見付城を、久能佐渡守・奥山民部少輔・杉森外記・三浦次郎左衛門・岡部五郎兵衛を率い討伐するが帰途、塩見(塩買)坂にて暗殺される。41歳。<武田家の甲斐入りを支援し、古河公方を監視。堀越公方・足利政知を後見。><義忠の父の代からの対立者、狩野氏は遠江に逃れるか。>

▽斎藤安元 (*)加賀守。元・武蔵江戸太田氏家臣。のち上杉定正家臣。更に今川家に転仕。今川義忠、今川氏親・二代の家老職。駿河丸子城主。<斎藤に久能・奥山・杉森・三浦・岡部を加えたものが譜代家老か。>

(駿河 小鹿氏)
小鹿範頼 (*)今川・千代秋丸。今川一門。範政の息。室は堀越公方執事・上杉政憲の娘。狩野氏、富士氏に擁立され兄・範忠と家督を争う。幕府の裁定で範忠が継承。息に範満、範慶。

*今川範満 (*~1487)小鹿範満・新五郎・範清。小鹿範頼の息。母は上杉定正の叔母。義忠死後に一時宗家の家督を継承。一門・小鹿孫五郎と共に、伊勢長氏(北条早雲)に討たれる。<義忠と同世代。古河公方との関係が気になるところです。>

▽小鹿範慶 (*~1487)今川・孫五郎。小鹿範頼の息。範満の弟。今川義忠の従兄弟。1487年伊勢長氏により討たれる。

(遠江 見付・今川氏)(堀越氏)
*堀越貞延 (*~1474)(今川貞延)・六郎・陸奥守。範将の息。遠江今川氏。足利将軍家に認められた遠江守護。今川義忠と同盟。狩野氏と抗争。斯波家に離反した横地、勝間田氏により討たれる。娘婿に足利義政。息に瀬名一秀、堀越貞基。見付城主。<堀越公方との関係が気になります。貞延親族の将軍・義政の弟ですから。堀越公方と呼ばれる事には何か意味が・・。><1474・75年の斯波義廉配下の遠江守護・甲斐敏光との抗争に、今川義忠と本当に同盟関係か。敵対して討たれたのでは。>

▽堀越貞基 (*~1537)(今川貞基)・六郎・陸奥守。遠江今川氏。貞延の息。1536年「花倉の乱」に反・義元。「河東の乱」に北条氏綱と結ぶ。井伊氏と同盟。義元の命を受けた天野景虎に城を奪われる。息に氏延、息・氏朝は関東の名族・吉良頼康の養子。<小鹿氏を支援するというよりも自ら家督を狙ってもおかしくない家格です。>

▽瀬名一秀 (*)(今川一秀)・源五郎・陸奥守・義秀。遠江今川氏。貞延の息。貞延の死後、今川義忠が狩野氏を攻略。駿河瀬名に移住し命脈を保つ。息に氏貞、貞清、氏成。

《個人的感想》 1529~1535年に松平清康が三河にて戦乱の渦中にあるのは、果たして松平独立の為の動きだったのでしょうか。
今川氏輝の旗の下で忠節を尽くしている結果なのでは?
 遠江の堀越今川や、東三河の牧野氏、当時不穏な空気をかもし出していた豪族を討伐し、実質的に松平惣領の桜井松平を討つべく動いての「守山崩れ」だったとかじゃないでしょうか。だから長男の広忠は今川派の吉良氏の保護下(人質)で、三河牟呂城の富永(忠康)の城に居たのでは?。
西三河の中条、三宅に代わり台頭する佐久間氏、幕府の管領・細川氏もしくは、三好家のバックアップもあったのでしょうか。

<1487年の政変>
今川氏親 (1470~1526)竜王丸・五郎・駿河守・修理大夫。義忠の息。室は中御門宣胤の娘(寿桂尼)。父が戦没したため、山西の小川法栄に養育される。1487年家督を簒奪した小鹿範満を叔父の伊勢長氏(のち早雲)の後見で討伐する。早雲に協力して扇谷上杉を援助。早雲が両上杉と断行し関東に進出すると、氏親は西方の遠江の計略に専念する。1517年遠江国曳馬城の斯波義達を討ち、遠江国を統一する。1524年両国で検地を実施、1526年「分国法」を定め、戦国的領内経営を進める。駿府に海道一の城下町を作り、友野・松木という有力商人を育てた。56歳。安部郡駿府城主。<津島大橋家を中心とする、大河内・井伊・中根などの斯波家勢力との抗争。>
今川家老・伊勢長氏(早雲)1491(1493とも)年伊豆乱入。1493遠江先陣。1506・1508三河出陣。1516年相模統一。


⇔▽伊勢長氏 (1432~1519)新九郎・盛時・氏茂・早雲庵・宗瑞・「北条早雲」。大和在原又は山城宇治出身。足利義視、今川義忠(~1476)、今川氏親に出仕。義忠室(北川殿)の兄として甥・氏親の家督相続に活躍する。興国寺城主。小笠原氏、葛山氏から室を迎える。1491年伊豆侵攻。「深根城の攻囲戦」興国寺城城主・伊勢長氏が、堀越公方・足利政知が死亡した後、後継者の足利茶々丸を追って伊豆侵略、深根城を守備する関戸吉信を打倒し伊豆国を統一する。1491年韮山城主。1494年小田原城奪取。小田原城主。1518年三浦家を滅す。88歳。<備中出身、父・伊勢盛定、母・伊勢貞国娘とも。>息に氏綱、氏時、葛山氏広、長綱。北条早雲(伊勢長氏)の家臣団
⇔▽長谷川正宣 (*)下河辺・長谷川長者・法永長者・政宣。長宣の息。今川氏親を保護し養育する。息に元長。小川城主。<名族・下河辺氏の後裔。幕府将軍直参か、それとも関東公方の直参か。伊勢長氏に協力したのか、それとも目付として氏親を保護したのか。関わりが重要です。><尾張の長谷川氏は、越中石黒氏の後だけなのか、それとも下河辺の系譜なのか。那古屋の尾張今川氏を考える上で重要です。>
<「三河争乱」1501~1506年今川家の伊勢長氏と松平長親が抗争するという。三河岩津城にて今川大将・伊勢長氏(1432~1519)を退けた。><三河に所領を有する伊勢氏の額田郡代官が松平家とも。1465年将軍・義政が伊勢貞親の被官・松平信光、戸田泰光に討伐を命じる。><後北条氏に従い江戸城主を輩出する富永氏はもともと三河の譜代なのかもしれませんね。><伊勢氏は尾張知多郡の分郡守護でもあった。ということは水野氏や、久松氏はその配下だったかもしれませんね。>

▽朝比奈泰熙 (*~1512)備中守。遠江朝比奈惣領家。朝比奈泰永(朝比奈吉俊とも)の息。今川家家老職。朝比奈泰以の兄。1512年吉良家の家臣、遠江浜松の大河内貞綱を攻略。備中守・泰能の父。<遠江懸川・朝比奈、備中守家は丹波守家から分かれたものでしょうか。>

▽朝比奈泰以 (*)十郎・右京亮。今川家家老職。朝比奈泰熙の弟。伊勢盛時とともに今川氏親の後見人となり、国政を補佐。1506年三河の松平長親を攻撃。1512年兄の死により甥・泰能を補佐。1514年斯波家との合戦に先陣。1517年遠江守護・斯波義達に勝利。1536年氏輝死後の家督争いに、瀬名氏貞・由比助四郎とともに今川義元を擁立。掛川城主。

▽福島範為 (*)和泉守。今川氏親家臣。幕臣・飯尾貞運と取次ぎ。斯波義達・井伊直平の軍事行動に対して遠江出陣。<下位・助春の紫文字、この人の事績か。>

▽福島助春 (*~*1521)左衛門尉。今川氏親家臣。遠江高天神城主。1521年駿河・遠江軍を率いて甲斐に進攻。1521年「上条河原の合戦」に敗北。息に常陸介。<今川氏親の侍大将で1521年に甲斐に侵攻し武田信虎と戦闘した人物か?。福島正成と関連するか?>

▽伊達忠宗 (*)蔵人祐。今川家臣。氏親の側近衆。

⇔↓今川氏豊 (*~*1540)那古屋。今川氏親の息(六男)。今川義元の弟(先代・氏親の弟か?)。尾張今川氏。尾張の那古屋城主。1515年今川家に降伏した斯波義達の娘婿。斯波義統の義兄弟。1534~1540年間に親交のあった織田信秀に居城を奪取される。京都に落ちる。のち駿河に帰国とも。<1540年以降ののち文献にでてくる「今川那古屋殿」というのは夫人の事じゃないでしょうか・・。「殿」つく場合女性が多い気がします。><1533年に佐久間全孝が西三河の西広瀬城を奪取しますが、尾張独立の狼煙でしょうか。>

▽今川* (*~*1540)竹王丸。織田信秀と昵懇。城内に織田信秀邸を造築し厚遇する。のち信秀の謀反により城を追われた。<和歌友達。世代的に今川氏豊は氏親の兄弟で、竹王丸はその息子ではないでしょうか。>

*▽柴屋軒宗長 (1448~1532)五条・宗歓・宗観・長阿。駿河出身の連歌師。今川義忠の家臣。1466年駿府に訪問した連歌師の宗祇に師事し、上京し門弟となる。1502年師の病死により駿河丸子に隠居。今川氏親の保護を受ける。武田信虎との和議の仲介人。1522年尾張訪問。1532年没。85歳。

<1536年の政変>
△今川氏輝 (1513~1536)竜王丸・五郎・上総介。今川氏親の息(長男)。今川義元の兄。1526年幼少にて家督継承したため政務は母の寿桂尼が後見する。親北条、反武田路線。1535年北条氏綱とともに武田信虎と抗争。甲斐国人を救援。1536年冷泉為和とともに小田原訪問。1536年3月弟・彦五郎とともに屋敷で生害される。24歳。中御門宣綱、北条氏康、瀬名氏俊、関口氏広は妹婿。<弟と供に死去ということは、喧嘩で刺し違えるなり兄弟の不和があったのでしょうか。それとも玄広恵探を擁する福島氏による謀反でしょうか。小田原訪問の後の死去、その後義元が反北条路線なのは何か・・。><遠江の堀越今川氏の動きが気になるところです。>


《個人的感想》 中央では管領家の内訌、細川高国の失脚と、細川晴元の台頭。  斯波義寛と将軍・義澄の婚姻関係。
今川・伊勢の両家がこれにどう対応したのか、斯波氏の血を引く阿波の足利義維の上洛の影響は・・・、大変な時代に氏輝は直面していたのかも。

⇔*▽北条氏綱 (1486*87~1541)伊勢・伊豆千代丸・新九郎・左京大夫。母は小笠原備前守の娘(養珠院)。今川義忠の甥。1512年三浦義同の岡崎城を早雲後見の元に奪取。1514年家督継承。1518年三浦義同を新井城に攻略。1522年相模寒川神社に「北条」と署名。1524年上杉朝興の江戸城を奪取。1536年今川氏輝の死により今川家と絶縁。1537年上杉朝定から川越城を奪取。1538年古河公方・足利晴氏を奉じて、小弓御所・足利義明、里見義弘を討つ。55歳。小田原城主。北条氏綱・氏康の家臣団
1536年今川家内紛。家督争い、「花倉の乱」。相模・北条家の完全独立。

*今川良真 (*)玄広恵探・花蔵殿。今川氏親の息(次男)。母は福島氏の娘。もと遍照光寺の僧侶。1536年「花倉の乱」で異母弟・今川義元と家督争いを起す。福島彦太郎・弥四郎、斎藤四郎衛門、篠原刑部少輔、井出左兵衛、安西三郎兵衛、朝比奈又二郎に擁立される。<北条、武田どちらかと取引があったか。>

▽福島正成 (*1492~1536)九島・兵庫・上総介。遠江土方城主。今川氏親、氏輝の侍大将。1536年今川氏輝の死後に、篠原とともに今川良真(玄広恵探)を擁立し敗北。逃走するが武田軍により戦死。高天神城主。息に綱成、綱房。<1532年に武田信虎が甲斐を統一。1536年の「甲斐乱入」後、一門残党は北条家の有力家臣に。父は福島基正とも。1521年に先陣を務めた助春の嫡男は常陸介。><今川家当主も上総介を名乗ったりしますが、なぜこの官位を一家臣が称しているのでしょうか。>

⇔*▼北条綱成 (1515~1587)福島・勝千代・孫九郎・左衛門大夫・上総介・道感。北条家家臣。元今川家重臣・福島正成の息、北条氏綱の娘婿。1521年父が戦死。為昌の後見人。1540年頃駿河長久保城主(初代)。1546年河越城主。同年「河越の夜戦」に軍功。のち玉縄城主を兼任。「地黄八幡」の旗指物で武名の誉れ高い。氏照・氏邦とともに上総久留里城を攻略。1558年6月常陸・下野に侵攻。1570年駿河深沢城主として武田軍から死守。黄備え旗頭。73歳。弟に北条綱房(福島勝広)。<今川家臣ではありませんが、気になる武将なので掲載。>



《個人的感想》1555年6月今川水軍が伊勢志摩に侵攻。8月尾張蟹江を急襲。1560年の浅井家の独立と、今川軍の尾張侵攻。三好長慶との関連が気になります。1560年三好家の松山・松永が伊勢を窺うという噂も、今川家の動きと何か関連のあるものでは。義元は上洛の要請を誰かに受けて本気で、三好と雌雄を決する用意があったかもしれませんね。また、今川の支配国三河では、1563年の家康「三河一向一揆」とはカモフラージュされた名前で、実は織田信長の支持を得た徳川家康による、吉良家(三河国の菊一揆惣領)への下克上だったのではないのでしょうか?

 範長(長慶)の祖父、三好長秀が伊勢山田で戦死する理由、かなり以前から、三好家が伊勢湾を重視しているということなのでは?

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