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12世紀 源ノ義朝・源ノ義平の家臣団と軍団、平家討伐:源ノ範頼の軍団

<清和源氏> 源ノ義朝の家臣団、源ノ義平の軍団、源ノ範頼の軍団 清和天皇、貞純親王の子孫。

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河内源氏の全国拡散、為義・為朝・義朝


源ノ義朝の家臣団①

源ノ義朝 (1123~1160)鎌倉・(首藤)・左典厩・下野守。河内源氏。源ノ為義の長男。関東の鎌倉亀谷で育ち、鎌田(首藤)通清に養育される。政略婚、大江広元の娘、三浦義明の娘、藤原季範の娘、波多野義通の娘と婚姻。三浦義澄・波多野義通は義兄弟。東海道にかけて勢力を持つ。成人して父親・為義や弟達(義賢・為朝)と、源氏の棟梁の座を争う。1153年従五位上・下野守に任官。1156年「保元の乱」に後白河法皇に味方し父と弟を討ち、1159年「平治の乱」に平ノ清盛に敗れる。尾張にて郎党の長田忠致(知多半島の豪族)に謀殺される。

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<義朝一門衆(義朝の血縁・息子達)> 


1156年~1159年に一手の将。 *義朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)
⇔↓源ノ義平 (1141~1160)鎌倉・(三浦)・悪源太・義衡。母は三浦義明の娘。源ノ義朝の長男。新田義重の婿となる。母の出自から源ノ頼朝が嫡流とされるという。15歳で関東に進出しようとする叔父の源ノ義賢を討つ。武名の誉れ高い。「平治の乱:1159年」で敗れ飛騨に逃走。再び京に戻り、平ノ清盛の暗殺を計画するが捕縛される。

源ノ朝長 (1143~1159)(波多野)・「松田冠者」・中宮大夫進。母は波多野遠義の娘。源ノ義朝の息(次男)。弟に頼朝。叔父・波多野義通の後見。相模国松田郷の豪族。「平治(1159)の乱」で負傷し美濃国で自害。16歳。

▽大谷忠太 (*)朝長の守役。六条河原に晒し者にされた朝長の首を盗み、遠江国豊田郡友永(朝長?)村に埋葬。

源ノ頼朝 (1147~1199)征夷大将軍。母は藤原季範の娘。源ノ義朝の三男。

*⇔八田知家 (*)源ノ・(宇都宮・小田)・四郎・右衛門尉・筑後守・朝家。下野国の有力豪族、宇都宮氏の一門、宇都宮(八田)宗綱の息。兄に宇都宮朝綱。実父は源ノ義朝、母は宇都宮朝綱の娘で、外曽祖父の宗綱が養子として迎え養育したともいう。横山党・中条(出羽守)家長を娘婿とする。1180年の頼朝挙兵以来従う。1183年「野木宮の合戦」では小山朝政、下河辺等の小山一族と、志田義広を撃破する。1184年、中国攻め範頼軍。奥州征伐東海道軍両大将。常陸守護職。1191年には北陸道管領職。「承久の乱」では執権・北条義時を補佐し鎌倉に留まる。


<八幡太郎・義家流一門衆>


*先々代(頼義・義家)からの御由緒家(譜代郎党) 
*義朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)

**源ノ義隆 (*~1160)陸奥・六郎。源ノ義家の末子。源氏の長老。「平治(1159)の乱」乱後、東国に逃れる際に討死。
 
⇔*志田義広 (*~1184)信太・志太・三郎・信濃守・義憲・義弘・義範。義朝・義賢の弟、源ノ義朝の弟で養子。常陸国志太荘に土着する。「平治(1159)の乱」に関東留守居。1180年頼朝軍に参軍するが、1181年頼朝に叛意。常陸国で源ノ義範・八田知家・小山朝政・小山宗政と激突。1183年、足利忠綱、小山朝政とともに反頼朝の挙兵。木曾義仲に合流する。1184年逃亡先の伊勢国にて波多野盛通、大井実春に討たれる。


<源氏氏族一門衆> 

義朝昵懇の他流源氏。 
*義朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)


⇔*平賀義信 (1143~1207)源ノ・大内・四郎・武蔵守・義宣。義光流信濃源氏一門。佐久郡平賀郷を領する。義光流の平賀(大内)盛義の息。義光の孫。義朝の従兄弟。源ノ義宗の養子。源ノ義朝からの累代家人。一門衆筆頭。「平治(1159)の乱」に参戦。平治の乱に敗戦後、義朝とともに都落ち。1180年頼朝が挙兵すると直ちに参じた。1184年(元暦元)年に頼朝の推薦で後白河院から武蔵守を拝領。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。<信濃に進出した源ノ義賢との関係は定かではありません。><八島重成とともに源ノ義朝の信頼の厚い武士のようです。>
 
⇔*八島重実 (*)八島冠者・佐渡源太。源ノ満政流、八島重宗の息。美濃源氏。多田満仲の曾孫。美濃国八島を領する。句当大夫・宗成の娘婿。鳥羽院西院の武士。「鳥羽四天王」のひとり。1079年源ノ国房と合戦。1109年源ノ義忠暗殺の疑惑で捕縛される。「保元(1156)の乱」に活躍。息に重貞、重成、重遠。<近江・美濃・尾張に勢力を持つ豪族のようです。山田・安食氏の祖。>

⇔*▽平ノ重遠 (*1100~*)源ノ重遠・浦野・四郎・前出羽守・信濃守。近江の豪族。源ノ(八島)重実の息。源氏累代の家人。源ノ義家の娘婿。1185年京都に乱入した木曾義仲軍の不法を頼朝に訴える。息に重直、重弘、重房。<頼朝に挨拶に訪れた時に85歳頃といいますから、年齢的に重実本人なのかもしれませんね。><平家の姓となっているのは清盛に従ったということなのでしょうか。>

⇔*▽八島重成 (1140~1159)佐渡式部大夫・大炊助・兵部少丞・式部丞・近江守。源ノ満政流。美濃源氏。近江国に本拠を移す。重実の三男(嫡子とも)。「保元(1156)の乱」に70余騎を率い活躍。「平治(1159)の乱」に従軍。平治の乱に敗戦後、義朝とともに都落ち。美濃国青墓宿にて義朝の影武者(身代わり)となり戦死。29歳。<平賀義宣とともに源ノ義朝の信頼の厚い武士のようです。年齢的には義平と同世代です。>
 
⇔**新田義重 (1135~1202)太郎・冠者・大炊助・左衛門尉。上野国の豪族、上野寺尾城城主。源ノ義国の息。娘婿に源ノ義平。頼朝の兄・源ノ義平と親しい。母は藤原敦基の娘。上野に進出し猛威を振るう源ノ義賢・秩父家に対抗し、義朝勢力と結ぶ。1157年藤原忠雅に領地を寄進する。平氏政権下で京都大番役。1180年「以仁王」の挙兵に鎮圧に出動し先陣。頼朝の挙兵には中立。形勢をみて鎌倉に遅参したため頼朝に冷遇される。68歳。<娘婿・源ノ義平が討たれてしまってからは、平家に忠節を尽くさないと立場がなかったのでしょう。>
 
⇔*源ノ頼清 (*)山県。相模の豪族。田所目代。1144年義朝の命で相模大庭領を襲撃する。義朝の名代・清原安行とともに大庭景宗館を襲撃。<義朝とは同格、または同盟者の関係のようです?源ノ国政が山県姓、息に山県頼清。美濃源氏です。><頼朝配下、義経与力の田代冠者・源ノ信綱に血がつながるか?。>


源ノ義朝の家臣団② 

*義朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党)
*先々代(頼義・義家)からの御由緒家(譜代郎党)


(源氏譜代家老衆) 源ノ義平の与力衆
<義朝一門、親族衆> 婚姻関係のある武家。

⇔*▲熱田季範 (1090~1155)熱田大宮司・藤原・尾張・額田冠者。熱田大宮司社家。尾張の豪族。尾張員職の息。源ノ義朝・足利義康は娘婿。源ノ頼朝・足利義兼は甥。子息に範忠。<のちに熱田社家の千秋家に。><伊勢の名張は「なばり」よ読みますし、尾張氏も元々は「おわり」という縁起的に嫌われる名ではなく、「おばり」とか、動物の「尻尾」に関しての名だったのでは。九州では緒方(尾形)氏とかありますし(またの名、大神から「狼」または三輪大神の系統でしょうか)、神道的呪術的な古代名だったのでしょう。>

⇔藤原範忠 (*)熱田・(尾張)・式部丞。熱田大宮司神職。藤原(尾張)季範の息。母は美濃の豪族・源ノ(平野)行遠の娘。義朝の義兄弟。娘婿に足利義康。1156年「保元の乱」に義朝に援軍を送る。後白河上皇の近臣。後白河院「北面の武士」。義朝の5男・希義を捕縛し平家にわたす。1161年二条天皇呪詛事件に関係し周防に配流される。1178年平ノ時子の縁で孫・忠兼が熱田大宮司職。<最初は義朝派、のち平氏方に転じる。><この頃に千秋氏(のち信長家臣)、星野氏が派生するようです。>

⇔藤原範雅 (*)熱田・(尾張)。熱田大宮司神職。藤原(尾張)季範の息。義朝の義兄弟。熱田大宮司職を継承するが、父の死後に兄・範忠により没収される。1161年兄の失脚により大宮司復帰。1181年忠兼の失脚で再び大宮司。<義朝の遺児の蒲冠者・源ノ範頼を匿うことができたのは、この方の力があってこそだったんじゃないのでしょうか。>

⇔藤原長暹 (*)熱田・(尾張)。藤原季範の息。義朝の義兄弟。<熱田藤原氏、野田御所の藤原氏、渥美の兵藤藤原氏、皆、藤原南家繋がりなのでしょうか。在地の豪族と婚姻関係を結んでいったのでしょうね。>

⇔藤原祐範 (*)熱田・(尾張)。藤原季範の息。義朝の義兄弟。伊豆に配流される頼朝に従者を付属し送る。<平家勝利後も親源氏。>

⇔**首藤能通 (*)藤原・(山内)・刑部丞・義通。藤原秀郷流。源ノ義朝の家人。1156年「保元の乱」に従軍。息に俊通(1160年没)。孫に俊綱(1160年没)。

**首藤俊通 (*~1159)山内・首藤・須藤・刑部丞。藤原秀郷流。相模の豪族。源氏累代の家人・首藤資通の子孫。頼清(親清)の息子の義通の息。相模国山内領主。幼少に安倍貞任・宗任の征伐に加わる。妻は源ノ義朝の三男・頼朝の乳母となる。悪源太義平に従い「保元・平治の乱」で活躍するが四条河原で討死。義平17騎のひとりとして武名を残す。<鎌田家と縁戚。鎮西八郎・為朝の側近に須藤兄弟あり、どちらが本家なのか不明です。>

⇔*▽首藤俊綱 (*~1159)山内・首藤・須藤・滝口。藤原秀郷流。相模国山内領主。首藤俊通の息。「保元(1156)の乱」に活躍。悪源太義平に従い「平治(1159)の乱」に去就を定めない源ノ頼政陣に乱入、流矢(下河辺行義の矢)で深手を負い味方の斎藤実盛に介錯される。弟・経俊は1180年頼朝の挙兵に平家方。<鎌田家と縁戚。><滝口武者として独立した動きも見せる山内家です。>
 
**三浦義明 (*~1180)平ノ・村岡・三浦介・吉明。相模の豪族。三浦庄司・義継(義次)の息。妻は秩父重綱の娘。娘婿に源ノ義朝。娘婿に波多野義通の弟・大友経家、畠山重能、金田頼次。親戚に安西氏。<つながりを深めるための源氏・三浦・波多野の重婚。鎌倉・梶原・大庭氏と同祖。>

⇔**▽三浦義澄 (1127~1200)平ノ・矢部・荒次郎・三浦介。三浦義明の次男。姉妹が源ノ義朝の妻(義平を出産)。義朝の長男の悪源太・義平は甥。「平治(1159)の乱」に活躍、義平に従う。義平17騎のひとりとして武名を残す。<子孫は扇谷上杉氏に吸収されます。>
 
**波多野遠義 (*)藤原・秦野・筑後権守。藤原秀郷流。相模の豪族、波多野秀遠の息。義通の父、源ノ義朝は娘婿。<つながりを深めるための源氏・三浦・波多野の重婚。>

**▽波多野義通 (*)秦野延景・藤原・次郎・小次郎・義通。藤原秀郷流。弟に河村秀高、大友経家。姉妹が義朝の妻で、その息子・源ノ朝長(義朝次男)は「平治の乱」で討死。「保元(1156)の乱」に活躍。「平治(1159)の乱」に活躍、義平に従う。義平17騎のひとりとして武名を残す。相模国波多野荘の領主。子息に波多野義常。

《個人的感想》
 室町・戦国時代、「応仁の乱」に三河の東軍細川党として波多野全慶(時政)あり。
尾張国には、波多野氏と同じ家紋の丹羽五郎左衛門・長秀あり。
幕府直参の京都松田氏、相模国国人の松田氏、丹波の波多野氏、尾張の丹羽氏、関連が気になるところです。
 皆、藤原秀郷の子孫なのでしょうか。
(丹後松田氏の系譜が坂東平家の分流にあたる家系図が残されているそうなのですが(写本という事で)。波多野氏が平安時代末に平清盛に従い頼朝の挙兵に駆け付けなかったこと、鎌倉時代北条家(坂東平氏)全盛期に生き残ったこと、室町時代政所の伊勢(平家)氏に近いことから、系譜として平家に寄せるということもあったのではないでしょうか。何が確かなのかはよくわかりません。これから先は子孫の気持ち次第であるということで)


<義朝御由緒家・側近衆> 

婚姻関係と、頼信からの累代の家人。<義朝と同じ1120年代生まれが主体。>


**鎌田正清 (1123~1160)藤原・次郎・左兵衛尉・政家・正家・政清。相模国人。藤原秀郷流。源氏累代の家人・首藤資通の子孫、道清(通清)の次男。母が義朝の乳母。義朝と乳兄弟。1156年父・通清は源氏の棟梁・為義に従う。保元(1156)・平治(1159)の乱を義朝とともに戦う。義平17騎のひとりとして武名を残す。舅・長田忠致(知多半島の豪族)を頼るが、義朝と共に討たれる。子息・盛政と光政は源ノ義経に臣従する。養子に政治(義朝の庶子)。<山内首藤家と親戚。>

渋谷重家 (*)河崎基家・平・三大夫・平三・土佐守。相模の豪族。秩父武綱の息。源ノ義朝の「後三年の役」に従軍。堀川天皇に出仕し「渋谷」姓。息に重国、金王丸(土佐房昌俊・常光)。


*渋谷常光 (1141~1185)平ノ・秩父・河島(河崎)・金王丸・土佐房昌俊・。相模の豪族。平三大夫(土佐守)重家の息。渋谷重国の弟。源ノ義朝の小姓。尾張にて長田忠致の家人二人を切り倒し、忠致を追う。上洛し常盤に義朝の最後を伝え出家。<のちの土佐坊昌俊とも。>

*清原安行 (*)清ノ・大夫・散位。義朝腹心の側近。1144年義朝の命で、義朝の御名代として軍勢を率い相模大庭領を襲撃する。源ノ頼清とともに大庭景宗館を襲撃。

字ノ* (*)新藤太。義朝の郎党。1144年義朝の命で相模大庭領を襲撃する。

中村宗平 (*)三浦・庄司。相模の豪族。義朝の郎党。1144年義朝の命で相模大庭領を襲撃する。弟(息とも)に土屋宗遠。子息に中村重平、土肥実平。娘婿に岡崎義実。<山辺頼尊の息・経遠(恒遠)→常宗へ繋がる系譜。>

和田助弘 (*)太郎。義朝の郎党。相模の豪族。1144年義朝の命で相模大庭領を襲撃する。<のちの三浦義明の息、杉本太郎・義宗の系統と関係あり?。>

*後藤実基 (*)藤原・兵衛。藤原実遠(実信)の息。畿内の武者。「平治(1159)の乱」に活躍、義平に従う。義平17騎のひとりとして武名を残す。1180年源ノ頼朝の挙兵に、養子の後藤基清とともに従う。源ノ義経の帷幕にあり、那須与一を推挙する。1185年無許可で任官し頼朝から叱責。

⇔*大庭景義 (1128~1210)平ノ・村岡・懐島権守・平太・太郎・景能。相模の豪族、大庭景宗の息。鎌倉景正の末孫。「保元(1156)の乱」に活躍。源ノ為朝の弓で負傷。後遺症で歩行困難となり家督を弟・大庭景親に譲る。娘婿に松田義常。<大庭・梶原氏は同族で、源氏を支える一族。><1144年義朝が大庭景宗と抗争していることから、大庭家では源氏(義朝系統)に対して良い印象を持っていなかったかもです。>

⇔源ノ経国 (*~1156)河内源太・河内御曹司・河内経国。祖母は平ノ正盛の息女。源ノ義忠の息。平ノ忠盛に養育される。のち叔父・源ノ義国に従い関東に下向。のち源ノ義朝を補佐。息(養子とも)に稲沢盛経。<源氏の嫡流家で。平ノ正盛の婿だった総領・源ノ義忠の子孫が、河内判官と代々尊称されていたらしいです。歴史から抹消された源氏嫡流でしょうか。>


源ノ義朝の軍団③


《東海道軍団》


*義朝本人と縁の深い御由緒家(譜代郎党) 
*先々代(頼義・義家)からの御由緒家(譜代郎党) 
*源ノ義平の与力衆


<尾張国先方衆>

⇔*熱田範忠 (*)藤原範忠・熱田大宮司。尾張の豪族。季範の長男。源ノ義朝は姉妹の婿、義兄弟。1155年家督相続。弟・範雅と家督争い。「保元の乱」には源ノ義朝に協力。1159年「平治の乱」に義朝の息(5男)希義を捕縛。平家に接近する。1161年に失脚。足利義康は娘婿、息に足利義兼。
長田忠致 (*~1185*)尾張国野間内海荘の領主。鎌田正清の舅。「平治(1159)の乱」後に義朝と正清を騙し討ちする。頼朝挙兵に従うがのち誅殺される。<信長様の初陣での戦った相手が今川方に離反した長田氏。><信長様の息子・織田(三好)信孝が美濃国主となったとき、長田氏を羽柴秀吉に例えた。>

▽長田景致 (*~1185*)尾張の豪族。長田忠致の息子。鎌田正清を討ち取る。主殺しを遂行したため、かえって平ノ清盛に冷遇されるという。<長田氏は南北朝期は南朝方について大河内家と縁戚。津島社神官の大橋家と縁戚。>

<三河国先方衆>
 頼義以来の源氏の先鋒侍大将:富永(古代豪族大伴氏)家

富永親兼 (*)(伴ノ)・志多良・設楽・兵藤三。設楽大夫・富永資兼の息。三河の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。<のちの足利尊氏の家臣として設楽(富永)氏あり。六郎大夫、孫に資時、資隆。徳川家康が親戚の富永氏を滅ぼしたことで江戸300年の時代に改竄がひどいようです。>

富永俊実 (*)(伴ノ)・六郎大夫。三河の豪族。息子達は頼朝に出仕し「奥州征伐」に軍功。息に資時、資隆。<兵藤三と六郎大夫は別人で親子では?。>

足助重秀 (*)源ノ・(浦野)・冠者。美濃源氏分流。三河加茂郡足助庄の豪族。息に足助重成。<1221年「承久の乱」に上皇方。のちの足利尊氏の家臣として足助氏あり。勤皇の足助一族です。>

中條義勝 (*)横山・中条義勝房法橋・成尋。成田(小野)成綱の弟・成尋。「保元(1156)の乱」に従軍。甥の盛綱とともに武蔵国北埼玉郡中条保に住す。息に中条家長、(刈田)義季、家広。<武蔵の(横山党)中条家とは別系か。室町初期に足利尊氏の家臣として活躍し、尾張守護となった中条秀長の先祖か。>

重原* (*)兵衛。三河の重原庄領主。「平治(1159)の乱」に活躍。<三河重原庄の領主は知立神社神官の山岡氏。>

<遠江国先方衆>

横地* (*)遠江の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。
勝俣* (*)勝間田・勝田。東遠江の勝田荘の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。

井ノ* (*)八郎。遠江の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。<戦国時代の井伊家の先祖?>

<駿河国先方衆>


入江* (*)藤原・右馬允・左馬允。駿河の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。<狩野氏と同族。><のち駿河国の子孫は足利直義を救う。>

高階* (*)藁科・十郎。駿河の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。<足利尊氏の執事・高ノ師直は高階氏で、先祖が源ノ義家の頃からの源氏累代の家人としている事から、関係人物か。>

息津* (*)興津・四郎。駿河の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。<戦国時代の今川家臣、興津氏の先祖?>

神原* (*)蒲原・五郎。駿河の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。<源ノ頼朝に出仕した蒲原弥五郎は子孫か。><南北町時代に今川家に吸収されるか。>

《関東軍団》

<伊豆国先方衆>
狩野親光 (*)工藤・四郎・藤四郎。伊豆の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。のち伊勢加藤氏の伊豆進出を後援する。

狩野親成 (*)工藤・五郎・藤五郎。伊豆の豪族。「保元(1156)の乱」に活躍。

<相模国先方衆>

*⇔▽大庭景親 (*~1184)三郎。大庭景忠の息、景能(景義)の弟。義朝の家人として「保元(1156)の乱」に活躍。のち平氏に従い、相模守護職。平氏の威勢を背景に兄、豊田(大庭)次郎・景俊を圧迫。1180年「以仁王の挙兵」の鎮圧に活躍。のち関東に下り、伊豆での「頼朝挙兵」にも鎮圧に出動する。<大庭・梶原氏の祖で源氏を支える一族。>

海老名季貞 (*~1180)源八・季定。相模国の豪族、海老名基兼の息。源ノ有兼に養育される。横山党。「保元(1156)の乱」では源ノ義朝に従う。1180年頼朝挙兵に平家方として出動。のち頼朝により誅殺される。<子孫は鎌倉時代に足利家内衆となるか。>

荻野忠義 (*)四郎。横山党。海老名一門。「保元(1156)の乱」に活躍。<海老名季貞の息を養子に迎えるようです。>

<武蔵国先方衆>

武蔵七党=横山、西(野)、村山、児玉、丹(治)、猪俣、野与、私市、綴。


(秩父党)
*豊島康家 (*)平ノ・四郎。桓武平氏秩父氏。豊島常家(源ノ頼俊の家人)の息。「前九年」に活躍した豊島武常の孫。「保元(1156)の乱」に活躍。為朝配下の須藤九郎の弓で負傷。息・清光(清元)は頼朝の「鎌倉入り」に軍功を揚げる。娘婿に武蔵豪族・足立遠元。<父・常家は奥州に従軍し、津軽地方を平定。><子息の清光は三郎なので、四郎は父の康家を指すものかと・・。>

*足立遠元 (*)右馬允。武蔵の豪族。豊島康家の娘婿。「平治(1159)の乱」に活躍、義平に従う。義平17騎のひとりとして武名を残す。1180年頼朝の挙兵に参陣。

⇔*河越重頼 (*1152~1185)太郎。秩父党平氏。武蔵国高家。秩父重綱の次男か(諸説あり)。1155年源ノ義賢に従った祖父・河越(秩父)重隆は悪源太・義平に討伐され、秩父党惣領の跡職を継承する。「保元の乱」に活躍。のちに源ノ義経を娘婿に迎える。<重隆の跡は河越能隆が継承し、能隆は河越重頼・小林重弘・師岡重経の父という説もあり。>

▽師岡重経 (*)河越・師岳・兵衛尉・重保。秩父党平氏。武蔵国高家。秩父重綱の息。河越重頼の弟。「保元(1156)の乱」に活躍。1189年「奥州征伐」に軍功。

(横山・小野・中条党)

中條有家 (*)藤原・新五。武蔵の豪族。横山党。中条(武蔵判官)常光の息。「保元(1156)の乱」に活躍。息(養子?)に中条家長。<三河の中条家とは別系か。八田知家の婿となった横山党・中条家長が養子として次々と一門の領地を相続し武蔵の有力者となるか?>

中條家資 (*)藤原・新六。武蔵の豪族。横山党。中条(武蔵判官)常光の息。「保元(1156)の乱」に活躍。息に盛綱。<三河の中条家とは別系か。「承久の乱」に小野盛綱が京都方として失脚し、中条家長がその跡職を継承するという。>

小野成綱 (*)横山・成田・太郎。資孝の孫。横山義孝の曽孫。北埼玉郡成田の豪族。野三大夫・成任の息。1156年「保元の乱」に義朝に従い軍功。弟に中条成尋(義勝)。息に義成、盛綱。

⇔*平山季重 (*)武者所。武蔵の豪族。横山党。「平治(1159)の乱」に活躍、義平に従う。義平17騎のひとりとして武名を残す。1180年頼朝の挙兵に参陣。

相原* (*)平山・藍原・粟飯原。武蔵の豪族。横山党。「保元(1156)の乱」に活躍。<千葉家に吸収されるか。>

横山広保 (*)由木・室伏・悪次・悪次郎・六郎。武蔵の横山党。由木保経の息。「保元(1156)の乱」に活躍。<室伏氏の始祖。>

横山時遠 (*)粟飯原・藍原・相原・悪五・五郎。横山党。相原孝遠の息。「保元(1156)の乱」に活躍。弟に野部(矢部)義兼。<南北朝期に活躍する千葉氏流の粟飯原氏もある。鎌倉期は横山党相原氏が北条家御内人として隆盛。>

(成田党)

成田助広 (*)太郎・助弘・資広。武蔵国の豪族。成田助高の息。「保元(1156)の乱」に活躍。息・助綱は頼朝に従う。<戦国時代、成田氏の先祖。>

稲田* (*)成田・次郎。武蔵国の豪族。成田一門。「保元(1156)の乱」に活躍。<姓・箱田?>

河上* (*)成田・太郎・三郎。武蔵国の豪族。成田一門。「保元(1156)の乱」に活躍。

別府行隆 (*)成田・次郎・二郎。武蔵国の豪族。成田助高の息(次男)。大里郡別府領主。「保元(1156)の乱」に活躍。息に義行、行助。

奈良高長 (*)成田・三郎。武蔵国の豪族。成田助高の息(三男)。「保元(1156)の乱」に活躍。

玉井助実 (*)成田・四郎。武蔵国の豪族。成田助高の息(四男)。「保元(1156)の乱」に活躍。

(長井党)

⇔*斎藤実盛 (*~1183)藤原・長井・斎藤別当。武蔵国長井荘の領主。藤原利仁流。木曾義仲2歳で孤児になるのを不憫に思い、中原兼遠に義仲を預ける。「保元・平治の乱」に活躍するが義朝没後は、平宗盛に仕える。義平17騎のひとりとして武名を残す。のち挙兵した木曾義仲軍に討たれる。<もともと源ノ義賢の郎党か。>

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