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室町幕府四職家 その2:一色家の家臣団と軍団

一色詮範、満範、義貫の家臣団と軍団

足利幕府 歴代将軍と一色氏

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足利尊氏将軍就任からの武将<在職期間1338~1358>
     
足利尊氏 <1338~1358>(1305~1358)足利貞氏の息。母は上杉清子。室町幕府初代将軍。丹波綾部の上杉荘と縁がある。丹波(亀岡)篠村八幡宮で反鎌倉幕府の挙兵。のち後醍醐天皇とも対立。北朝、光厳上皇を奉じる。武士の要望に応え過ぎたため、将軍の所領が少なく、足利将軍の勢力基盤が脆弱な原因となった。<足利尊氏のページ参照してください。>
<1336年公深の息子、今川国氏の外孫・一色範氏(入道道献)・頼行兄弟が九州の旗頭に任命される。>

足利義詮 <1358~1367>(1330~1367)千寿丸・鎌倉大納言・坊門殿・左馬頭・左近中将・征夷大将軍・権大納言・足利宰相。尊氏の嫡子。母は北条(赤橋)久時の娘。室町幕府第2代将軍。渋川義季の娘婿。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質として鎌倉に入府。1333年新田義貞の後見で鎌倉幕府を討幕。鎌倉を実質的に占拠し、新田義貞は上洛する。1349年尊氏の意向で上洛。1358年父の死により家督。1358~1367年二代目征夷大将軍に在位。斯波氏を管領に登用。1365年ごろ足利幕府の安定をみる。のち細川頼之に義満を託す。
<範氏(道献)の息子・一色直氏、範光兄弟が継承するも南朝勢力により1357年撤退。>
<「貞治の政変」に管領・斯波氏が失脚。若狭守護に一色範光が抜擢される。>

足利義満 <1368~1394>(1358~1408)足利義詮の息。母は紀良子。室町幕府第3代将軍。1368年11歳で将軍職継承。管領・細川頼之の補佐。1378年室町御所造営。20歳で頼之を四国に追放。斯波義将を管領とする。1392南北朝統一に成功。土岐、山名、大内氏を制する(明徳・応永の乱)。太政大臣任官。1397年金閣寺造営。1401年日明貿易を開始。息に義持。
<弟・一色範光が若狭を統一。「四職」のひとりとして、幕閣に食い込む。守護代に小笠原長房。>
<一色氏兼の娘婿に関東公方・足利満兼。外孫に足利持氏。>
<1379年大和「十市遠康討伐」遠征軍、斯波義将、吉見氏頼、一色範光が派遣される。>
<1379年関東公方・足利氏満挙兵、関東管領・上杉憲春が諫言し謀反撤回。>
<一色詮範が三河守護、尾張二郡(知多・海東郡)を獲得。>
<一色詮範・満範親子「明徳の乱」に山名氏清を討伐。丹後守護職、若狭税所今富名を獲得。>
<1393年細川頼元、管領辞任。>
<1395年今川貞世、九州探題職解任。>
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>

足利義持 <1394~1423>(1386~1428)足利義満の息。母は藤原慶子。室町幕府第4代将軍。父・義満の後見で9歳で将軍就任。父の死後は管領・斯波義将の補佐。日明貿易を中止する。関東で足利持氏と上杉禅秀の対立が激化。1416年「上杉禅秀の乱」。弟の義嗣を乱共謀の罪で殺害。1400年頃、斯波義将が織田常松を尾張に派遣。
<1419年山内上杉憲実が関東管領就任。一色氏の婿。>

足利義量 <1423~1425>(1407~1425)足利義持の息。母は藤原栄子。室町幕府第5代将軍。15歳で酒乱、側近が罰せられる。1423年義持の出家により将軍就任、17歳。1425年飲酒中毒のため在職3年で病没。義持が執政に復帰。赤松持貞が元将軍・義持の妻と恋愛。赤松満祐が白旗城に籠城し「応永の変」起す。1427年赤松持貞の不倫が発覚し自害。赤松満祐は降伏し幕府に帰順。義持の遺言で後継者は籤で決められた。
<関東で鎌倉公方・足利持氏の側近として直氏の孫・一色直廉(*~1438)が重用される。上杉憲実と対立。>
<一色持範、義貫兄弟の相続争い。>

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足利義教 <1429~1441>(1394~1441)青蓮院義円。足利義満の息。母は藤原慶子。足利義持の弟。室町幕府第6代将軍。1429年義持の死により天台座主・義円が還俗。鎌倉公方・足利持氏と対立。義教の代に徳政令を求める「正長の土一揆」勃発。1433年仁木国行、今川範政、斯波義淳を弾圧。1435年山名時熙を弾圧。1439年京極持光を弾圧。1439年「永亨の乱」関東公方・足利持氏を討伐。将軍の権力を強化。1440年一色義貫、土岐持頼を弾圧。1441年畠山持国、富樫教家を弾圧。1441年赤松満祐の「嘉吉の変」に横死。赤松教康により京極高数、大内持世、山名熙貴もともに討たれる。 <「結城合戦」に一色伊予守が反幕府で参加。直廉の甥・一色持家は三河で義貫に匿われる。>
<将軍・義教、一色義貫の弟・持信を近習に据え重用。>
<将軍・義教、一色義貫を敵視。刺客に若狭の武田信栄。>

足利義勝 <1442~1443>(~1443)足利義教の息。母は藤原重子。室町幕府第7代将軍。1441年義教の死により将軍就任。赤松討伐軍を編成し、細川持常、細川淡路守、武田信賢、赤松貞村、赤松満政。別働隊に山名持清、山名教清、山名教之、山名政豊を動員。1441年赤松満祐、足利冬氏を迎え将軍・足利義尊と称させるが坂本城、木山城が落ち自害。義勝は在位一年余りで夭折。

足利義政 <1449~1473>(~1490)「応仁の乱・影の東軍大将」。足利義教の息。母は藤原重子。足利義勝の弟。幼少のため14歳まで将軍空位。畠山持国、細川勝元が代行。室町幕府第8代将軍。乳母・今参局、有馬持家、鳥丸資任の「三魔」を重用。1466年斯波(渋川)義廉を更迭し、斯波義敏に斯波家家督。斯波義廉が織田広成を上洛させ家督回復。1467年畠山義就を登用し家督。管領・畠山政長失脚。
<1447年関東で一色家の血を引く管領・上杉憲忠が就任。>


足利義視 (*)「今出川殿」・義尋・左馬頭。最初「東方(東軍)大将」・後半「西方(西軍)大将」。足利義教の息。足利義政の弟。1464年前管領・細川勝元邸にて還俗。細川勝元の後援で山名家と対立。1467年西軍の飯尾為数を処刑。1467年「応仁の大乱」。8月西軍に離反するもの続出し、木造教親のすすめで京都を脱出し南伊勢多気の北畠教具を頼る。8月大内政弘の上洛で西軍勢力挽回。10月足利義政に見限られ、管領・細川勝元に出家を勧められる。比叡山に登るが、西軍・山名持豊、渋川(斯波)義廉を頼り将軍に擁立される。1477年土岐成頼に擁され美濃へ落ちる。斎藤妙椿の差配で隠居。

足利義尚 <1473~1489>(1465~1489)最初「西方(西軍)大将」・後半「東方(東軍)大将」。足利第9代・征夷大将軍。足利義政の息。母は藤原富子。政所執事・伊勢貞親に養育される。山名持豊(宗全)に擁立される。1467年「応仁の大乱」。のち細川勝元により「東軍大将」。山名持豊、細川勝元が相次いで没。1473年征夷大将軍に任官。1477年大内政弘、土岐成頼が下京し帰国。東軍優位で終戦。1489年近江六角高頼の討伐遠征中に陣没。
足利義稙 <1490~1521>(1466~1523)義材・義尹・「流れ公方」・阿波義稙。足利義視の息。母は藤原重政の娘。室町幕府第10代将軍。足利義尚の急死により、義政の後見で家督相続。義政の死後に、父・義視と日野富子の対立が再燃。近江に「六角高頼討伐」。1493年河内「畠山義豊討伐」出征中に管領・細川政元のクーデター「明応の政変」により失脚。龍安寺に幽閉されるが脱出。1508年大内義興の後援により将軍に復職。1521年細川高国の専横により淡路に落ちる、阿波に逃走。<斯波義達と今川氏親の抗争は誰の差し金か。義達の遠江守護罷免は義澄との縁によるものか。>

足利義澄 <1494~1508>(1480~1511)堀越義澄・義高。足利第11代・征夷大将軍。堀越公方・足利政知の息。母は藤原隆光の娘。足利義政の養子。斯波義寛の娘婿。足利義尚の急死の際に細川政元に擁立されるが、義稙(義材)が将軍就任。1493年政元の起こした「明応の政変」により、1494年将軍就任。伊豆堀越氏討伐。1508年大内義興に擁された足利義稙が復権。近江に落ちる。<伊勢早瑞(北条早雲)の伊豆乱入は誰の指令か。東海道の今川氏親・伊勢長氏を支援?、斯波義達の活動は1507~1517年間・・、従兄弟の義澄を支援する為の挙兵か。>

足利義晴 <1521~1546>(1511~1550)堀越義晴。足利第12代・征夷大将軍。堀越足利義澄の息。1508年第10代・足利義稙(義材・義尹)を擁立した大内義興の上洛。細川高国に追放された11代将軍・足利義澄の息。赤松義村に養育される。1521年10代・足利義稙を追放した細川高国に擁立される。1525年北室町に柳原御所を建造。1526年細川晴元が阿波足利義維を擁立し堺に侵入。丹波国神尾山城主・柳本賢治の挙兵により、北近江朽木落ち。六角定頼の後援を得る。1534年細川晴元との和睦で入京。1541年「木沢長政の乱」。1546年「細川氏綱の乱」で度々京都から脱出。1546年隠居し嫡男・義輝を将軍に据える。1547年細川氏綱・遊佐長教と和睦し、細川勝元と対立。近江穴太に居す。<伊勢北畠氏を頼る。>


鎮西管領(九州探題)・一色範氏(入道道献)
一色家勢力と武家関係図。そのうち追加の予定。

一色範氏 (*)二郎・宮内少輔・入道道献。九州探題職。兄弟に頼行。武蔵国幸手に隠居。息に直氏、範光、(久松)範房。

⇔一色直氏 〈1348-1351〉(*~*1357)宮内少輔・右京権大夫・少輔太郎・左京大夫・入道。範氏の息子。肥前守護。1346年九州探題を世襲する。1347年筑後守護。1348~1351年肥前守護。太宰少弐頼尚と抗争。1353年筑前国「針摺原の合戦」に敗北。1356年再度、九州に上陸するが筑前国「麻生山の合戦」に敗北し京都に戻る。1357年南朝の征西将軍懐良親王と菊地武光に九州を追われる。京都に帰還。関東公方・足利基氏に出仕。息に氏兼、長兼。孫に直廉。<直廉は関東公方の執事家として、上杉と拮抗する勢力をもっていたのでは・・。>

▽一色氏兼 (*)宮内少輔。直氏の息。弟に長兼。下総国宮荘幸手の領主。関東公方足利家に出仕。娘婿に足利基氏。外孫に足利満兼。息に直兼,範直(伊予松山)、勝久(今治)、氏宗(弟・長兼の息、養子か)、氏茂。

▽一色長兼 (*)左京亮・左京大夫。一色直氏の息。兄に氏兼。息に(丹羽)氏宗、満直、持家。

<関東公方執事家>
1437年「永享の乱」に関東公方・足利持氏と運命を共にする。

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一色直兼 (*~1437)八郎・兵部大輔。一色氏兼の息。関東公方・足利持氏の執事。関東逗子葉山領主。息に直明(足利義嗣の息を養子に)、持直。娘婿に関東管領・上杉憲実(1410~1466)。

▽一色持家 (*)掃部助・刑部大輔。長兼の息。一色家一門衆。関東公方・足利持氏家臣。息に時家か。

▽一色氏宗 (*)讃岐守。長兼の息。一色家一門衆。関東公方・足利持氏家臣。

▽一色満直 (*)長兼の息。一色家一門衆。関東公方・足利持氏家臣。

<関東・足利一色家>


▼一色直明 (*~1437)足利・宮内大輔。将軍・義持の弟・足利義嗣の息。父の謀反死により関東一色直兼の養子となる。兄弟に越前鞍谷公方の祖となる嗣俊。<将軍になっていたかもしれない血筋。><1480年代に鞍谷公方は朝倉家の擁立した斯波(渋川)義廉の息子が継承することになっていますが、美濃土岐(一色)家と朝倉家の親しさから、一色系土岐家から養子を迎え鞍谷に据えたとも考えられるのでは。朝倉的には越前領土権を主張する渋川・斯波と切り離した血筋を盟主に迎えるのでは。>

▼一色* (*)蔵主。鎌倉長建寺の僧侶。一族の滅亡に還俗。直明の跡職を継承。<母系は上杉禅秀の娘ということになるのでしょうか。>

▼一色持直 (*)左馬助。直兼の息。関東公方・足利持氏の執事。

▼一色氏明 (*)氏宗の息。一色家一門衆。関東公方・足利持氏家臣。

<九州探題・与力大名>

▽田原直貞 (*)大友。大友一門衆。豊前田原氏惣領。田原3代。一色氏に従う。息に貞広、氏能。

▼田原貞広 (*~1353)大友。大友一門衆。筑前国「針摺原の合戦」に敗北。戦死。弟(養子)・氏能が家督相続。

▽大友氏泰 (1321~1362)孫太郎・式部丞。豊後大友氏。貞宗の五男。1333年父の死により、兄・貞載の後見で家督。1336年九州落ちした足利尊氏を全面支援。「多々良浜の合戦」に菊池武敏を破る。豊後〈1337-1352〉・豊前・肥前・日向守護。一色範氏と結び少弐頼尚と抗争。

▽大友氏時 (*~1368)足利・刑部大輔。足利尊氏に寵愛され、養子となる。1362年大友氏泰の死後、家督相続。豊後守護〈1352-1359〉。一色に従う。南朝の菊池武光の勢力が増大し、少弐頼尚と共に菊池氏と抗争する。1359年「大保原(筑後川)の合戦」に別働隊13000人大将。島津忠澄軍に敗退し、勢力を回復できぬまま病死。)息に氏継(筑後守護)、親世。

<一門衆>

一色頼行 〈1353-*〉(*~1337*1353)太郎・右馬権頭・右馬助。公深の息。兄弟に範氏。肥前守護。息に行義。<肥後にて菊地武重との「犬塚原の合戦」に敗北し戦死とも。1337年に戦死し、弟の二郎・範氏が惣領となったのでしょう。><太郎の名からして、長男だったのでしょうか。九州探題は渋川頼行の手に。>

一色範親 〈1360-*〉日向守護。直氏の後を継ぎ日向守護職。跡職は島津氏久が継承。<教親の初名が、範親と名乗るそうです。>

<幕府四職家>


⇔一色範光 (1324~1388)五郎・右馬権頭・修理権大夫・入道信傅。兄に直氏。範氏の息子。1348年から九州各地で転戦。1353年肥前守護〈1353-*〉。1353年筑前にて菊池氏との「針摺原の合戦」に敗北。1357年九州落ち後、1358年上洛する。足利義詮に出仕。斯波高経の失脚により若狭守護。三河国・若狭国守護〈1370-1388〉。1369年若狭一揆を鎮圧。幕府侍所所司。1371年若狭を統一し幕府四職家のひとつとなる。息に詮範、詮光。64歳。<畠山義深の如く畿内で活躍。>

四職家「海の一色氏」


⇔一色詮範 (*~1406)兵部少輔・右馬頭・左京大夫・入道信将。侍所頭人。範光の息。足利義満の側近。1387年一色範光の跡職を継承。1388年山名満幸に敗北し丹後半国守護代。1391年山名氏清の「明徳の乱」の鎮圧に、氏清を討つ軍功。三河守護。尾張知多・海東郡分郡守護兼任。父・範光の死により両国守護。1399年「応永の乱」に幕府軍。息に満範、(金丸)範貞。<美濃の戦国大名・斎藤義龍が目指した一色家の全盛期はこの頃のことでしょうか。>

▽一色氏明 (*)丹羽。氏宗の息。氏詮の孫。尾張知多・海東郡の分郡守護を得た詮範を頼り尾張に移住する。息に氏時。<尾張岩崎丹羽氏の祖。>

<若狭国>


▽小笠原長房 (*)一色家家臣。若狭守護代。1392年一色詮範の守護就任に守護代に任命される。跡職は長春が継承。

▽小笠原長春 (*~1408)入道明鎮。息に長頼。一色家家臣。三河守護代。1406年家督を継承した満範と対立し失脚、京都に送還される。のち石川山城に蟄居。配下の若狭守護代・武田長盛も失脚。

▽武田重信 (*)若狭又守護代。一色家家臣。1392年一色詮範の守護就任に又守護代に任命される。息に長盛。

▽津田浄玖 (*)入道浄玖。若狭奉行。一色家家臣。武田重信・長盛親子とともに又代官。若狭三方郡の代官職。<織田氏の分家が津田姓を名乗ること、幕府の将軍足軽衆の津田氏、摂津の津田氏、気になる関係であります。織田家は、一色家に近い縁を持っていたのでは・・・。>

▽海部泰忠 (*)一色家家臣。1392年一色詮範の守護就任に奉行に任命される。<四国阿波の海部氏か。水軍つながりで家臣化したか。>

▽安倍忠俊 (*)田所。一色詮範の家老。海部氏に代わり奉行に任命される。<三河の阿部氏は、一色家臣として入植した安倍か。>

▽逢沢* (*)左近将監・若狭入道。一色家家臣。若狭国人。

▽藤田* (*)修理亮・入道。一色家家臣。若狭国人。

▽阿曽沼* (*)太郎左衛門・入道。一色家家臣。若狭国人。<戦国時代・安芸国人に阿曽沼氏あり。>


<幕府・対山名家対策>


一色満範 〈1392-1409〉修理大夫・右馬頭・入道道範。一色詮範の息。三代将軍・足利義満の側近。四職(赤松・山名・京極)の一家に認定される。丹後守護家。1391年山名氏清の「明徳の乱」の鎮圧に軍功。山名家の丹波を領国に加えられる。1401年出家。1406年若狭守護兼任。若狭・丹後両国守護〈1406-1409〉。侍所所司。息に義貫(義範)、持範、持信。

▽壱岐* (*)在京奉行。一色家家臣。

▽伊賀* (*)在京奉行。一色家家臣。若狭豪族。<丹後守護代を輩出。>

▽石河* (*)在京奉行。一色家家臣。丹後豪族。<若狭今富名代官を輩出。>

▽高井* (*)在京奉行。一色家家臣。

<丹後国>


吉原* (*)一色義遠・越前守。一色家一門。丹後一色家。義貫の息。息に義有、義信。<正統性の操作のため、系図あやしいか。>

延永* (*)のぶなが。丹後守護代。一色家家老。

石川長貞 (*)石河。若狭代官。丹後奉行。一色家家臣。丹後与謝・竹野郡の豪族。跡職は長祐が継承。<のち延永氏と抗争。>

▽和田* (*)石川家代官。丹後与謝郡豪族。
▽伊藤* (*)石川家代官。丹後与謝郡豪族。
▽芦田* (*)石川家代官。丹後与謝郡豪族。
▽池辺* (*)石川家代官。丹後与謝郡豪族。
▽森* (*)石川家代官。竹野郡豪族。
▽岡山* (*)石川家代官。竹野郡豪族。
▽坂根* (*)石川家代官。竹野郡豪族。
▽今西* (*)石川家代官。竹野郡豪族。
▽佐藤* (*)石川家代官。竹野郡豪族。
▽梅田* (*)石川家代官。竹野郡豪族。
坂根* (*)嵯峨根。石川家代官。竹野郡豪族。
小倉* (*)一色家家臣。丹後奉行。
伊賀* (*)一色家家臣。丹後奉行。

<若狭国>


片山行光 (*)若狭又代官。一色家家臣。
武田長盛 (*)左近将監・若狭守。一色家家臣。小笠原長春の失脚に連座。跡職は長方寺が継承。

長方寺* (*)納。一色家家臣。若狭豪族。武田長盛のあと小守護代。若狭小守護代。勢間、兼田両氏を監督。

▽勢間* (*)「勢間長者」。若狭在国奉行。一色家家臣。若狭遠敷郡の豪族。長方寺氏与力。

▽兼田* (*)若狭在国奉行。一色家家臣。若狭遠敷郡の豪族。長方寺氏与力。

松山* (*)一色家家臣。京都奉行。若狭代官。長方寺氏とともに、武田長盛失脚後に小守護代。<三好家の侍大将を務めた松山氏に関係ありか。一時は松永氏と共に、長慶の両翼となって畿内を席巻したようですが。>

▽包枝* (*)一色家家臣。若狭在国奉行。松山氏与力。
▽中村* (*)一色家家臣。若狭在国奉行。松山氏与力。


≪個人的感想≫戦国時代に織田信長家臣の矢部氏が若狭の本郷氏から養子をとったりします。元一色家臣団の縁なのでしょうか。また、織田信秀の腹心に武藤氏があり、弾正忠家ゆかりの勝幡城や、野夫城の城主を勤めます。織田弾正忠家と若狭一色家旧臣との交わり。旧縁を感じます。

<三河国>


▽小笠原長頼 (*~1409)三郎。三河守護代。三河国幡豆郡の豪族。一色家老若狭・三河守護代・小笠原長春(明鎮)の息。1408年主・一色満範により父とともに誅殺される。

▽小笠原長正 (*~1408)安芸守。一色家家臣。三河にて小笠原一族の反乱。満範により鎮圧される。1408年本家の長春・長頼親子に連座し一族とともに誅殺される。<今川家臣となる高天神の小笠原氏に繋がるものでしょうか。>


一色義貫 〈1409-1412〉(1400~1440)五郎・兵部少輔・左京大夫・修理大夫・義範。弟に持信。一色満範の息。丹後守護家。父・満範の死により三河守護。のち山城守護兼任。1411年家督を巡り、庶兄・(北野)持範と抗争。1411年守護両国を二分し和睦。将軍相伴衆。山城・若狭・丹後・三河・尾張知多郡・海東郡分郡守護。1417年北畠満雅討伐(16歳)に将軍・義持の御名代「幕府軍総大将」。1421年山名時煕とともに「赤松満祐討伐」に軍功。幕府四職のひとり。侍所所司代。1429年新将軍・義教と関東公方・足利持氏への対応を巡り対立。関東公方に出仕した一族の一色時家を匿い、六代将軍・義教と対立し大和国の陣中で義教の命により武田信栄に誅殺される。41歳。義貫の領国は若狭が武田信栄の弟・武田信賢に、三河が細川持常に、丹後が義貫甥の一色教親に与えられた。兄弟に(北野)持範、持信。息に義直、(吉原)義遠。<将軍・義教の命で、伊勢守護・土岐持頼も細川持常により討たれる。>

▽延永* (*~1441)一色義貫の家老職。丹後守護代。1441年京都にて将軍家に反乱。将軍・義教により家督とされた一色教親(持信の息)と抗争。<1441年といえば「嘉吉の変」。>

▽氏家* (*)一色義貫の家老職。三河守護代。1444年京都にて将軍家に謀反。細川持常により鎮圧される。将軍・義教により家督とされた一色教親(持信の息)と抗争。

三方範忠 (*)島津・若狭。一色家家臣。三方郡三方郷の豪族。小笠原長春に代わり守護代。のち侍所所司代。丹後・山城守護代兼任。跡職は忠治が継承。息に範次。<島津範忠が、惟宗範忠と先祖を意識していたとすれば、織田政権が若狭支配の為に、惟住長秀を向けたというのも、筋の通る話なのでは・・。>

松山* (*)三郎左衛門・入道乗栄。小守護代。一色家家臣。包枝、中村氏を監督。<のち三好家家臣に侍大将・松山あり。>

▽包枝* (*)若狭在国奉行。一色家家臣。若狭遠敷郡の豪族。

▽中村* (*)若狭在国奉行。一色家家臣。

伊崎* (*)中務丞。一色家家臣。

▽三方* (*~1440)島津・若狭・若狭守。一色家家臣。範忠に代わり若狭在国守護代。三方郡三方郷の豪族。義貫の側近。1440年武田陣所で奮戦して戦死。武田信栄を負傷させる。

▽三方* (*~1440)島津・若狭・弾正。一色家家臣。三方郡三方郷の豪族。義貫の側近。1440年武田陣所で奮戦して戦死。

吉原義有 (*)一色義有。一色家一門衆。弟に義信。在京重臣。丹後吉原荘の豪族。息に義季か。

一色範次 (*)金丸・刑部少輔。範貞の息。息に範次。甥に義貫、持範、持信。<父が兵部少輔を名乗り、一時家督継承者となっていたのでは。>

<幕府将軍奉公衆>


▽一色持信 (*)兵部少輔。一色家分家。一色満範の息。一色義範(義貫)の弟。将軍・足利義教の側近として台頭。息に教親。孫に義幸。

(若狭一色氏・式部家)


▽北野持範 (*)一色・式部少輔。若狭守護家。一色家分家。一色満範の息。一色持信の庶兄。一色教親と家督争い。1411年守護両国を二分し和睦。若狭国今富荘を相続。1441年武田信賢により若狭守護職は奪われる。息に政煕(政照)、持長。

(丹後一色氏)


▽一色教親 〈1440-1451〉(1419~1451)吉原・丹後一色・左京大夫。一色持信の息。義貫の従兄弟(甥とも)。将軍・義教の側近。1440年足利義教により丹後守護に抜擢される。のち義直、義春の死により一色家家督。北伊勢半国・尾張知多郡・海東郡守護。侍所頭人。33歳。息に義幸。孫に義道、義清。

(関東・三河一色氏)


▽一色持家 (*~1440*)刑部少輔。一色直兼の甥。三河一色家当主。三河守護代。関東公方・足利持氏の家臣。1426年武田信長討伐に従軍。1439年「永亨の乱」に関東から没落。一族の義貫を頼る。1440年義教の命で本家の義貫が誅殺される。跡職は時家が継承する。<古河公方・足利成氏に出仕する一色宮内大輔あり。>

<宿敵・若狭武田家>

もともと若狭国守護代の武田氏なのではないでしょうか。一色家からの独立をはかった下剋上なのでは?。

⇔武田信栄 (*)安芸守護家。信繁の息(長男)。将軍・足利義教の相伴衆。守護代に逸見氏。越智氏討伐に従軍。義教の命により、一色義貫を陣所にて暗殺。三方若狭守の反撃により負傷。1440年若狭に赴任するも病死。28歳。末弟に安芸の武田元綱。<尾張知多郡も獲得する。尾張の武田家臣系とは・・。織田信長の軍師・武藤舜秀・・。>

▽武田信賢 (1420~1471)彦太郎・大膳大夫。信繁の息(2男)。弟に国信。信栄の急死により家督相続。若狭守護。1441年「嘉吉の乱」討伐軍として播磨出陣中、若狭に一揆蜂起。若狭に戻り鎮圧する。1467年「応仁の乱」に東軍。西軍方の丹後一色(一色義直)氏の所領を獲得。逸見宗見、粟屋の両大将が丹後出征。息に信広。52歳。

▽武田国信 (*)彦太郎・治部少輔・大膳大夫。信繁の息(3男)。信賢の弟。1467年「応仁の乱」に美濃守護・土岐成頼の上洛を阻止。「如意岳の合戦」に斎藤妙椿に敗北。息に信親、元信。従兄弟に安芸の武田元繁。

武田元信 (*)若狭武田氏の最盛期を創出。細川氏と同盟し丹後進攻。敗戦により越前朝倉家の加勢を得る。息に元光、信孝。

▽武田元光 (*)若狭武田家。元信の息。後瀬山城主。息に信豊、信実、信高。孫に信統。

▽武田信豊 (*)丹後の海賊の進攻に悩まされる。息に信統(義統)、信方。孫に元明。

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