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10世紀~11世紀 清和源氏の系譜 その1 源ノ頼光~源ノ頼義の家臣団と軍団

清和源氏の系譜 
 清和天皇、貞純親王の子孫。摂津国多田庄に土着し有力武家として勢力を持つ。のちに八幡太郎義家がでた河内国の源ノ頼信流河内源氏が本流になる。


源氏の惣領(武家の棟梁) vs 宿敵

人物名 (カッコ内は生没年)武将の文書で著わされるであろう当人に該当する呼称。次に武将の事績の説明です。
⇔印は別のページでも登場する人物。▲は下記人物の先祖または祖父。△は下記人物の父、▽印は一門、子弟、家臣など上記人物の関係者。▼は上記人物の孫世代や子孫、または代表人物(武家棟梁)にとっての陪臣。○は代表人物(武家棟梁)にとって同盟関係等の有力者。

<天皇から下賜された「氏」(伴・藤・橘・源・平など)の場合は、氏の後に「ノ」が付帯するようです。>
毛抜き形太刀から「一関茂草(舞草)刀」、日本刀へ
源氏と結びついた摂関家→藤原北家・摂関家の家臣団と軍団


(初代) 源ノ経基 vs 平ノ将門

平ノ将門 本拠地 石井


源ノ経基 (*~961)六孫王・武蔵ノ介・兵部少輔・左馬頭・鎮守府将軍・(*略字名など・経元・経幹・常幹・恒元)。清和天皇の第六皇子・清純親王の息(実際は陽成天皇の皇子・元平皇子の子孫らしい) 。橘ノ繁藤(繁古)の娘婿。藤原武蔵守・敦有(敏有)の娘婿。「武蔵ノ介」として赴任。939年武蔵権守・興世王と、在地の豪族の足立郡司・武蔵武芝、平ノ将門らと対立。上京し両名の謀反を奏上する。「平ノ将門の乱(935~940)」、940年東国に節度使として下降。のち小野好古の次官として「藤原純友の乱(936~941)」に出動する。瀬戸内海地方にも勢力を扶植した。清和源氏の祖。武蔵・但馬・伊予・筑前の権守を歴任した。息に満仲、満政、満季、満実、満快、満生、満頼。<経基の代で、武蔵の藤原氏、西国の橘氏との縁がはじまっているかもしれませんね。>
源ノ経基の東征。(源ノ経基の武功 その1) <日本国の乱逆のはじまり、東の将門。> 

⇔▽藤原敦有 (*)若狭守・(武蔵守・敏有?)。娘婿に源ノ経基。藤原式家・敦光流、藤原越中守・有倫の息(次男)。兄弟に対馬守・敦行、伊豆守・敦重、敦清(息に敦兼)。息に長門守・敦遠。
⇔▽藤原敏有 (*)武蔵守・(若狭守・敦有?)。娘婿に源ノ経基。孫に源ノ満仲、満政、満季。のち、969年「安和の変」に孫たちと、武蔵介・藤原善時は、秀郷の息・藤原千晴を武家棟梁から追い落とす。<敦有と同一人物のようです。><源ノ満仲と結ぶ、武蔵介・藤原善時は子孫か。>
 源ノ経基の西征。(源ノ経基の武功 その2) <日本国の乱逆のはじまり、西の純友。>

⇔▽橘ノ繁藤 (*)繁古・(成藤)。源ノ経基を娘婿に迎える。969年「安和の変」に源ノ高明に従う橘一門は勢力失墜。源ノ満仲は高明陣営から離反し藤原摂関家の家司に。<朝廷貴族系橘氏の1000年代に活躍した「橘長者」陸奥守・橘ノ則光の一門か。もしくは940年代に純友討伐に活躍した四国武家の橘ノ遠保の一門か。>
<969年「安和の変」に左大臣・源ノ高明の与党、源ノ連、橘ノ繁延(土佐に流罪)、藤原千晴が捕縛される。検非違使・源ノ満季や藤原善時が暗躍。源兄弟は高明を裏切ったといわれ、元々与党だとすれば、橘ノ繁延が最も縁戚の可能性ありかも。>
<陸奥守・橘ノ則光の室は清少納言(966~1025?)。><清少納言の兄で太宰少監・清原致信は、源ノ満仲の息・源ノ頼親(頼光の弟)により殺害される。><清少納言の恋人・藤原実方は、陸奥守在任中に在地豪族の平(城)維茂と秀郷孫・藤原諸任の合戦発生。999年に陸奥で落馬死。>
<橘前相模守・輔政の息で橘ノ惟頼が美濃にて郎党とともに、越前の豪族・藤原致忠により殺害され、999年に致忠は佐渡に流される。>
<橘ノ永愷 (988~*1050)能因法師・ながやす。近江守・橘忠望の息。兄の長門守・元愷の後職を相続。息に橘ノ元任。孫に加藤景季の後職を継承した景貞。子孫は伊豆狩野氏と婚姻。><越前藤原氏と縁を結ぶ点で、この一門も源氏との縁を感じさせます。>

(二代目) 源ノ満仲 vs 藤原純平 vs 藤原千晴・久頼 + 橘ノ繁延・蓮茂

~三つ巴の抗争~


源ノ満仲 (913~997)多田・常陸介・上総介・常陸守・下野守・武蔵守・陸奥守・鎮守府将軍・摂津守・越後守・越前守・美濃守・信濃守・伊予守・入道満慶・(光仲)。経基の息。960年平ノ将門の息子・一族を追討。源俊の娘婿。藤原元方の娘婿。(藤原致忠の娘婿とも?)。「安和(969)の変」に藤原氏に協力して勢力を伸ばす。摂津多田に住む。多田源氏の祖。鎮守府将軍。息に頼光(由利氏に繋がる)、頼親、頼信、頼平、頼範、頼明、頼貞、頼尋。娘婿に大納言・源ノ光の孫・敦。<摂津多田源氏の創始者。><越後の東蒲原郡の小川荘にも所領を得るようです。><戦国時代に三好範長が「長慶」と名乗るのは、清和源氏の始祖・満仲の入道名を意識してのものでしょうか。>

<越前藤原氏との婚姻>
⇔藤原貞正 (*)滝口・加藤貞正・(定政)。越前藤原氏。藤原利仁流。豊後守・重光の息。兄弟に忠正、重吉。息に(加藤)正重、親孝。妻が頼信の乳母。985年藤原実資の推挙で「滝口武者」。従兄弟の藤原為延と協力して越前の豪族・三国行正を討つ。<弟・忠正の息が「前九年」の藤原景道、孫が景季へと繋がる。>

⇔藤原為延 (*)斎藤為延・越前押領使・帯刀・(為信)。越前藤原氏。藤原利仁流。疋田斎藤家の祖。伊博の息。兄弟に(源ノ)公則。貞正と協力して越前の豪族・三国行正(雅憲?)を討つ。息に為頼。孫に基康。<源氏と斎藤氏との縁の始まりでしょうか。近衛家諸大夫。>


⇔▽藤原元方 (888~953)越前大掾・参議・大納言・(元形)。藤原南家・藤原菅根の息。源ノ満仲を娘婿に迎える。息に致忠。孫に保昌。<武家的な貴族だったのでしょう。源氏とは最初の元方・致忠の代は蜜月か。><息の藤原棟忠(致忠?)は信濃守の受領任期の際の強欲ぶりの逸話が『今昔物語』に残る。>

⇔▼藤原致忠 (*~*999)蔵人・備後守・右馬権頭・右京大夫・(棟忠?)。大納言・藤原元方の息。息に「道長四天王」と呼ばれる平井(藤原)保昌。988年子息・藤原保輔が京都にて強盗団結成。999年美濃にて橘ノ惟頼を殺害した罪で佐渡に配流される。息に保昌、斉光、維光、保輔。娘婿に源ノ満仲。<世代的に娘婿は満仲の息・頼光の方か?。親子二代にわたり源氏と縁を結ぶ。信長と丹羽家のような関係。武家的な貴族だったのでしょう。>
<994年京都の盗賊追捕:源ノ満政(満仲の弟)・源ノ頼親(満仲の息)・平ノ維将(伊勢平氏)。藤原実資は源ノ頼親の摂津守就任を阻止。>

「摂関家の下で源氏が勢力伸張」
⇔藤原善時 (*)武蔵介。969年「安和の変」に源ノ満仲と共謀し、東宮の選に敗北した左大臣・源ノ高明・為平親王の謀反を密告。高明と橘ノ繁延、源ノ連、平ノ貞節、前相模介・藤原千晴・久頼親子を失脚させる。<善時は、この追放劇によって権勢を得た藤原師尹(師輔弟)、伊尹(師輔長男)、藤原在衡の誰かの家司か。>

(三代目) (摂津)源ノ頼光 or (河内)源ノ頼信 or (大和)源ノ頼親  vs  平井(藤原)保昌 vs 平ノ正輔 vs 平ノ忠常

平ノ忠常本拠 大友城


源ノ頼信 (968~1048)左馬権頭・上野介・常陸介・陸奥守・鎮守府将軍・伊勢守・甲斐守・美濃守・相模守・河内守。満仲の息(3男)、頼光、頼親の弟。母は藤原元方の娘(致忠の娘とも)。河内源氏の祖、石川郡大国郷壷井(坪井)荘。<河内源氏の派生、河内源氏創始者。>兄・頼光とともに藤原道長に仕え<「道長四天王」に源ノ頼信、平維衡、平致頼、平井保昌。> 、「平ノ忠常の乱:1028~1031年」を鎮圧し関東に勢力を扶植する。常陸の豪族・多基維幹(維基)を動員『今昔物語』。河内・甲斐・伊勢・信濃・美濃・相模・陸奥・伊豆・常陸・上野国司を歴任。息に頼義、頼清、頼季、頼任、義政、為満。<頼光の四天王・平ノ(碓井)貞光(相模豪族)とは不仲。><武蔵介・藤原善時の子孫とは昵懇か。>

▽藤原親孝 (*)加藤親孝・右兵衛尉・(近孝)。藤原利仁流。越前藤原氏。藤原貞正の息。源ノ頼信の乳兄弟。頼信に妻子の救出を依頼。上野国の兵衛尉に任官。兄弟に(加藤)正重。
<1017年「道長四天王」・平井(藤原)保昌と組んだ清原致信が大和の当麻為頼を殺害し、その報復として満仲の息・源ノ頼親の家人・秦ノ元氏が、清原致信を殺害。>

<11世紀 社会情勢>

 1019年「刀伊の来寇(入寇)」「西の動乱」 大陸沿海州地域の異国人・女真族が突如来襲。壱岐守の藤原理忠戦死。太宰権師・藤原隆家(道長の政敵・伊周の弟)、以下の奮戦で撃退。

<一条天皇の御世(天皇在世期間:986~1011)、源ノ満仲、▽源ノ満政(満仲の弟)、▽源ノ頼光(満仲息子)の三人は「天下の一物也」と、後の大江匡房(1041~1111)により『続本朝往生伝』に名を記される。 >

(1030年源ノ頼信の関東進出) <日本国の乱逆、「東の忠常」><河内源氏が関東の鎌倉に拠点を置くことになった乱。平家の嫡流・平ノ正輔は討伐の将を断る。>

(四代目) 源ノ頼義 vs 安部頼良(頼時) 平安期 奥州・安部氏  vs 源ノ国房(摂津源氏)  vs 源ノ頼俊(大和源氏)


源ノ頼義 (988~1075)陸奥守・鎮守府将軍・伊予守・伊予入道。河内源氏。嫡流・頼光の弟で鎮守府将軍・頼信の息(嫡男)。 「平ノ忠常の乱:1028~1031年(関東進出)」、「前九年の役:1062年(東北進出)}で活躍。1036年相模守。平ノ(北条)直方の娘、常陸国主(権守)の平(多気宗幹)宗基の娘と婚姻(間に生まれた娘は清原成衡の室に迎えられる)、東国武士団の多くと主従関係を結ぶ。1051年陸奥守に任官。1056年安倍氏の縁戚・平ノ永衡を討つ。1057年7月安倍富忠を降誘。「鳥海の合戦」安倍頼時戦死。1057年11月「黄海の合戦」に敗北。1062年出羽の清原氏の加勢を得て安倍氏を破る。息に義家、義綱、義光。<父は「道長四天王」と呼称される源ノ頼信。>

1064年美濃国、摂津源氏・源ノ国房(頼光の孫)と、八幡太郎・義家の合戦。<源氏一族の相克。>
1070年大和源氏・源ノ頼俊の「奥州征伐」。清原、豊島、伊豆守・惟房従軍。
1079年美濃国、摂津源氏・源ノ国房と、近江源氏・八島重宗の合戦。<源氏一族の相克。>

(五代目) 源ノ義家 vs 安倍貞任 vs 清原家衡 vs 源ノ頼俊(大和源氏) vs 源ノ国房(摂津源氏)  vs  源ノ義綱  vs  白河院


⇔↓源ノ義家 (1039~1106)八幡太郎・陸奥守・鎮守府将軍。頼義の息(嫡男)。母は北条直方の娘。河内源氏。「前九年(1062)・後三年(1083)の役(東北)」で活躍。1064年美濃国で摂津源氏・源ノ国房(頼光の孫)と抗争。1070年源ノ頼俊(大和源氏)から陸奥国主の印綬を奪った藤原基通を捕縛。1079年美濃国にて源ノ国房(摂津源氏)と抗争。1081年岩清水八幡宮参拝の白河院、関白・藤原師実を弟・義綱とともに護衛。1083年に陸奥守・鎮守府将軍となる。1088年奥州の藤原清衡を後見し、清原氏を跡職を継承させる。関東・東北に勢力を扶植する。宮廷の藤原氏は私闘として恩賞を与えず、義家は私財をもって関東の武将に酬いた。息に義宗、義親、義国、義忠、義時、義隆。娘婿に源ノ重遠。<源ノ義家の歳下の軍学の師・大江匡房(1041~1111)。変な師弟関係です。売り出し中の生意気な貴族・大江匡房に、武家と貴族の和を保ちたい義家が寛容だったということでしょうか。大江匡房に貴族としての気骨があるということか・・。>

1091年河内国にて義家の部下の藤原実清と、弟・義綱(本領近江)の部下である清原則清との所領争いが勃発。1094年弟・義綱の出羽征伐。<源氏兄弟の相克。>
1094年白河上皇呪詛事件で信濃源氏・頼清(頼義弟)の息・源ノ仲宗(周防流罪)の息子達、顕清(越前流罪)・惟清(伊豆流罪)・仲清(阿波流罪)・盛清(信濃流罪)が追放される。<源氏一門の相克か。>

(六代目) 源ノ義親 vs 源ノ義綱 vs 源ノ義忠・平ノ正盛 vs  白河院・大江匡房


↓源ノ義親 (*~*1108)対馬守・「悪対馬」・(義近)。河内源氏。義家の息(次男、義家の長男・義宗は早世)。母は三河守・源ノ隆長の娘。正当な嫡男として評価されていない。1101年叔父・義綱を寵用する白河院に反抗、対馬から九州各地に海賊行為を行い、大宰大弐・大江匡房(匡衡の曾孫)が朝廷に訴える。「康和の乱」任地で反乱する。1101年に追討令が出され、義家の郎党・藤原資通を殺害(義親に同心し反乱に加わったとも)。弟・源ノ義忠は下野国に追放される。1106年父・八幡太郎・義家が死没。隠岐に配流されるが、出雲に上陸し叛乱。1108年弟の(裏・六代目)源ノ義忠(義光に暗殺される)と、その岳父平ノ正盛に討伐される。息に義信、義俊、義泰、義行、為義、宗清。<征西に尽力した義家の嫡男。「後三年の役」の従軍者から、九州に地名を残す兵藤、深江が郎党か。><源氏勢力を(*怖れる?)白河院や中央貴族(大江匡房)に追い落とされる。*武力を持って沿岸を警護し、また奥州征伐のように、義親が海外(任那を回復し夷を討伐する)に進出する意識をもっていたならば、外国からは排除してほしいと依頼が来ていたり・・。>
<義親の失脚、1109年を境に、摂関・藤原家の軍事力・源家に対し、白河院の軍事力・平家の台頭。><1130年京都に義親が現れ、鳥羽上皇の意向で藤原忠実邸に匿われる。土岐光信が忠実邸を襲撃し義親を殺害。光信は13年土佐に配流される。>
<1133年平ノ忠盛、漂着した宋船の貨物を没収。>

⇔○平ノ忠盛 (1096~1153)検非違使・左衛門大尉・伯耆守・備前守・伊勢守・播磨守・美作守・越前守・正四位刑部卿。平ノ清盛の父。平ノ正盛の息。弟に平ノ忠正。1113年、興福寺の僧兵から京都を守る。1129~山陽・南海道の海賊を追討。白河法皇の信頼を得て平氏繁栄の基礎を作る。1135年、西海の海賊の追討使となる。藤原頼長が評して「数国の吏を経て、富巨万を重ね」、奴僕国に満ち、武威人にすぐ」『台記』と記している。肥前国神崎荘を拠点に中国貿易。58歳。兄弟に盛康、盛長、忠正。

(七代目) 源ノ為義 + ↓源ノ義賢(弟・実質は嫡男)・為朝  vs 源ノ義光  vs 藤原通憲(信西) + 平ノ清盛  +  源ノ義朝


⇔↓源ノ為義 (*1096~1156)六条判官。河内源氏。義親の息(長男)。養父・源ノ義忠が、源ノ義綱・義光に暗殺されたため、叔父・源ノ義国後見のもと源氏を束ねて討伐する。1146年、検非違使。京都六条堀河(堀川)に住む。息子を各地に派遣し、在地勢力を束ねる。「保元の乱:1156」で崇徳院に味方し敗北する。

⇔▽藤原季範 (1090~1105)(尾張季範)・額田冠者。熱田大宮司神職。藤原南家流。藤原季兼の息。1114年祖父の尾張員職から家督継承。1137年五男・き息に範忠、範雅、範信、範綱、範智、祐範。娘婿に源ノ義朝、源ノ師経。


(七・八代目相克) 源ノ為義 + 源ノ(鎮西)為朝・藤原頼長・平ノ忠正  vs  源ノ義朝


<保元の乱:1156> 崇徳上皇(鳥羽法皇長男)方 藤原頼長(忠実次男)
源ノ為義・源ノ(鎮西)為朝・源ノ為仲・↓村上為国(信濃源氏)・
平ノ忠正(清盛叔父)・平ノ家弘(正澄流)・平ノ康弘・平ノ盛弘

VS 後白河天皇(鳥羽法皇四男)方 藤原忠通(忠実長男)・高階通憲(藤原信西)源ノ(鎌倉)義朝・源ノ(足利)義康・源ノ(摂津)頼政・平ノ清盛(正度流)・平(関)ノ信兼・平ノ惟繁。


⇔崇徳上皇 (1119~1164)顕仁親王。鳥羽天皇の息(白河法皇の落胤とも)。母は藤原璋子。父、鳥羽上皇と対立。弟の体仁親王(近衛天皇)に譲位させられる。近衛死後も、弟・雅仁親王(後白河天皇)が即位し院政を断たれる。1156年藤原頼長に擁立されるが敗北。讃岐に配流される。

⇔藤原頼長 (1120~1156)「宇治左大臣」・「悪左府」。藤原忠実の息。異母兄に藤原忠通。1125年兄・忠通の養子に迎えられるが、実子が誕生したため廃嫡される。父・忠実の後援で「藤原氏長者」を奪取。のち鳥羽上皇と対立。1156年鳥羽法皇の死去に挙兵。息に兼長、師長、隆長、範長。

⇔藤原忠通 (1097~1164)摂政・関白・太政大臣・「法性寺殿」。藤原忠実の息。異母弟に藤原頼長。1121年父に代わり「藤原氏長者」。鳥羽天皇の関白。1158年後白河院側近の藤原信頼と対立し失脚。息・基実の室に信頼の姉妹を迎える。孫に藤原基通。

⇔藤原信西 (1106~1160)藤原通憲・高階通憲・少納言・円空。藤原南家流。実兼の息。父の死により高階経敏の養子。高階重仲の娘婿(後白河天皇の乳母を妻とする)。鳥羽上皇の側近・藤原家成と親交。1133年鳥羽上皇「北面」。1156年「保元の乱」に藤原頼長を失脚させる。

(八代目) 源ノ義朝・義平 vs  源ノ為義 + 源ノ為朝  vs 平ノ清盛


源ノ義朝 (1123~1160)「鎌倉殿」・下野守・右馬権守・左馬頭。河内源氏。為義の息(長男)。熱田大宮司・藤原季範の娘婿。幼くして関東に育ち、東海道にかけて勢力を持つ。「保元の乱:1156」に後白河法皇に味方し、父・為義に勝利する。のちに藤原信頼と結び「平治の乱:1159」。平ノ清盛に敗れ、尾張にて郎党の長田氏に謀殺される。<父・為義と袂を分かち摂関家の家司から離脱>


 源ノ義朝 vs 藤原通憲(信西)・平ノ清盛
 <平治の乱:1159> 後白河上皇 ・二条天皇。藤原通憲(信西)方 ・平ノ清盛 ・平ノ重盛 ・源ノ(摂津)頼政(摂津源氏)。
 VS 藤原信頼方 ・源ノ義朝 ・源ノ(鎌倉)義平 ・源ノ光保。


⇔藤原信頼 (1133~1160)権中納言・「悪右衛門督」・「日本一の不覚人」。後白河上皇の側近。関白・藤原忠実と対立し是を失脚させる。反信西勢力。源ノ義朝、源光保と結ぶ。「平治の乱」に信西を排除するが、二条天皇の側近(藤原経宗、藤原惟方)と結んだ清盛により敗死。息の信親の室は清盛の娘。

⇔▽源ノ光保 (*~1160)出雲守・光泰。摂津源氏。出羽守・源ノ光国の息。兄弟に光信、全。二条天皇の護衛の侍。「保元の乱」に後白河方、「平治の乱」に藤原信頼方。寝返って平ノ清盛に加勢。1160年薩摩に配流され、同地で誅殺される。息に光宗。甥に土岐光基。
<1164年平ノ清盛、厳島に平家一門の経文納経。>


(九代目) 源ノ頼朝 vs 平ノ宗盛 vs 源ノ義仲(木曾義仲)


源ノ頼朝 (1147~1199)征夷大将軍。河内源氏。源ノ義朝の息。実質嫡男(第三子)。母は熱田大宮司・藤原季範の娘。兄に義平・朝長。乳母に山内俊通の妻。兄・(三浦)義平と(秦野)朝長は戦死。北条時政の娘と婚姻する。1180年8/17、伊豆蛭々小島で反平氏の軍蜂起。平家を打倒し鎌倉幕府(1192年)を開く。<源ノ頼朝⇔頼朝の軍団のページを参照して下さい。>

<岩清水八幡宮に、清和天皇から陽成天皇、そして元平親王から源ノ経基、源ノ満仲、源ノ頼信という家系の流れの『源ノ頼信の告文』が奉納されているらしいです。 頼信の子孫が摂関家に仕えた時代に初代関白・藤原基経と争った暴君・陽成天皇の子孫であることを嫌ったか、元平親王が浮名を流しすぎて、どこの馬の骨とも言われかねない出自を嫌ったか、もしくは摂関家の家司として、武家の中でも跳びぬけた存在とすべく摂関家の意向で清和天皇と結び付けようとなったのか・・。
 [武門の系譜は、本人の志向や、のちの時の権力者や、一門の子孫により、都合よく粉飾されたり 消されたり、名門の家系と近い関係に結び付けられる可能性がある。]
 という前提で、鵜呑みにしないで、「この人物はこの血統を意識している」程度に記憶にとどめて、
 また、このHPに書いていることは 個人的な歴史観で 思い込みのまま放談(笑) していますので、
 他の資料と照らし合わせて客観的立場でみてください。
 以下、つっこみどころ満載ですが、歴史好きの一般人がこんなこと考えてるのか とゆうくらいの「ゆるい感覚で」、このホームページに どうぞお付き合い下さい。>



③世代目 摂津源氏
<源ノ頼光の四天王>

 ↑上記に登場マーク。
源ノ頼光 (948~1021)伊予守・摂津守・鎮守府将軍・(頼満)。摂津多田源氏。満仲の嫡男。母は嵯峨源氏・近江守・源ノ俊の娘。藤原道長に寵用される。道長四天王「平井保昌」の妹婿(藤原致忠の娘)。991年従兄弟の源ノ致公とともに鬼退治。(996年?)大江山酒呑童子を退治する。弟・頼信が鎮守府将軍として関東に派遣される。995年「長徳の政変」に宣旨により京都洛中の警備にあたる。1001年美濃守。尾張守・大江匡衡と交流。1018年伊予守、1021年摂津守に任官。四天王と尊称される家人を率いる。1028~1031年「平ノ忠常の乱」勃発。弟・頼信が平ノ忠常の追討使として関東に派遣される。<頼親と平井保昌との関係は大和をめぐり微妙です。><摂津守の地位を弟の頼親と競っていたかもしれませんね。>

⇔▽平ノ惟仲 (944~1005)中納言・太宰権帥・(是仲)。桓武平氏。美作介・平珍材の息。摂政の藤原伊尹と藤原兼家兄弟の家人となり、美作守・筑後守・相模守・肥後守を受領。藤原道隆、道長兄弟にも厚遇される。源ノ頼光は娘婿。<平家で最初に中央で成功した人物かもしれません。>

<頼光の四天王>


渡辺ノ綱 (953~1025)源ノ綱・源次。武蔵国出身。摂津渡辺党の祖、嵯峨源氏・源融の子孫。滝口の武者(御所の近衛兵)。「頼光四天王」のひとり。<「鬼」と何度も遭遇する伝説の武将です。><摂津だけでなく越後国・阿賀野川周辺に所領を持つようです。>

下毛野金時 (956~1012)坂田金時。下野国出身。有名な金太郎。「頼光四天王」のひとり。弓馬に優れ「只今、(左右近衛の)両府者中第一の者」と讃えられる。九州出征の際、美作国で病死。<この方があの有名なサラリーマン金太郎さんですか〈エ。 ではなくて日本昔話のマサカリ担いだ金太郎さんです。 子孫は頼義の家人として奥州に従軍。>

卜部季武 (*不明)平ノ季武・浦部季武。「頼光四天王」のひとり。<平家の流れで名に「季」がつく家系。摂津の豊島氏なども武蔵平家系。子孫が朝廷に謀反する為、事績が不明となるか。三河国にも浦部という地があり、源氏が三河に多くゆかりを持つ事から推測すれば、浦部氏が頼光の寄子的存在で、文章表記の際に、簡略化されて卜部とされたのでは。><妖怪と何度も遭遇する伝説の武将です。>


碓井貞光 (954~1021)平ノ貞光・村岡・五郎・貞通・(貞道)。関東武者、平ノ良文の息。「頼光四天王」のひとり。『今昔物語』第25巻第10。子息に平ノ忠通、三浦為通。子孫は相模国に土着。<平ノ忠通は同一人物とも、別人で親子の間柄とも。1031年「平忠常の乱」に、はじめは源ノ頼信に対して非協力的だったがのち参戦する。><平ノ正盛が源氏の棟梁と縁戚関係を結んだように、この頃から婚姻を結んでいたかもしれませんね。>
 
《個人的感想》 平安の妖怪退治屋(ゴーストバスターズ)・・。四天王の出身地からは、畿内の摂津源氏と、坂東の下野・相模豪族との繋がりがあることがわかります。
 源氏武士の任国先で、地方豪族が人質として子供を預けるシステムが成立しているのでしょう。縁戚関係を結んだり、乳母を迎えて跡取りの乳兄弟を養育する制度なども確立されているようです。

<摂関家出仕の同僚(ライバルの武家)>


<「道長四天王」に源ノ頼信(実弟)、平ノ維衡、平ノ致頼、平井(藤原)保昌。『十訓抄』に登場。> 
「藤原摂関家」の下で勢力を蓄えた源氏を抑えるため、白河院が伊勢の平家(正盛・忠盛親子)を登用し、二大勢力が形成された。

平井保昌 (958~1036)藤原保昌・摂津守・左馬権頭・大和守・円融院判官代・丹後守・日向守。藤原南家・藤原致忠の息。歌人・和泉式部の夫。弟に朝廷と敵対する藤原保輔。摂関家の藤原道長・頼通に出仕し家司を勤める。「道長四天王」と呼称される。同僚に頼光の弟・源ノ頼信。摂津平井に居住する。妹婿に源ノ満仲。大和を巡り清少納言の兄・清原致信と結んで当麻氏を討つ。兄弟の藤原保輔は強盗として勇名。<源ノ満仲の子息達と勢力争い。><源氏嫡流の頼光、頼国親子との関係は良好のようです。>

⇔平ノ維衡 (*)「道長四天王」と呼称される。同僚に頼光の弟・源ノ頼信。摂津平井に居住する。<平安期 桓武平氏の系譜TOP ⇔平家の系譜ページ参照してください。>

⇔平ノ致頼 (*)「道長四天王」と呼称される。同僚に頼光の弟・源ノ頼信。摂津平井に居住する。<⇔平家の系譜ページ参照してください。>

源ノ頼信 (968~1048)左馬権頭・甲斐守・河内守・鎮守府将軍。満仲の息(3男)、頼光の弟。河内源氏の祖、石川郡大国郷壷井(坪井)荘。<河内源氏の派生>兄・頼光とともに藤原道長に仕え 、「道長四天王」と呼称される。兄・頼親は平井保昌と抗争。「平ノ忠常の乱:1028~1031年」を鎮圧し関東に勢力を扶植する。常陸の豪族・多基維幹(維基)を動員『今昔物語』。河内・甲斐・伊勢・信濃・美濃・相模・陸奥・伊豆・常陸・上野国司を歴任。<↑頼光の四天王・平ノ貞通(相模豪族)とは不仲。>

 
<一門衆・頼光の舎弟>

 摂津・大和源氏 
(陸奥守・石川家) 陸奥守・頼俊、義家により失脚。


↑源ノ頼親 (*~*1049)大和守・周防守・淡路守・信濃守・摂津守・摂津前司・(頼近)。満仲の息(次男)、頼光の弟。弟・頼信と同母。摂津豊島郡を相続。大和源氏の祖。藤原道長に出仕。994年平ノ維将と盗賊の追討にあたる。1017年家人の秦ノ氏元が、清少納言の兄・清原致信を殺害。1049年次男・頼房が大和興福寺と対立し土佐配流。息に頼成、頼房、頼遠、頼基。<藤原道長から「殺人の上手」と認識されるキラーマシン。><摂津守を常々所望するが断られ続ける。><安和に橘氏が追放された土佐に・・。>

▽秦ノ元氏 (*)(波多野?)・(基氏・幹氏)。義親の家人。山城国の豪族。頼親の命で清少納言の兄・清原致信を襲撃。<秦氏族系統とすれば、九州に勢力を持つ大蔵(原田・松永)氏は同族。義家長男・源ノ義親が九州に行く際、大蔵氏は従ったのでしょうか。>

↓▽源ノ頼遠 (1007~1062)(陸奥石川)・福原・三郎。満仲流、源ノ頼親の息。1051年源ノ頼義に従い陸奥赴任。阿部頼義との「厨川柵攻略」に戦死。息に陸奥石川有光、仲重、家弘、有宣、有遠。娘婿に大宅光任。

↓▽源ノ頼房 (*)蔵人・兵庫助・加賀守・「荒加賀」。満仲流、源ノ頼親の息。1049年大和興福寺と合戦し、1050年父・頼親は土佐配流。頼房は隠岐に配流される。1076年肥前に土着。息に頼俊、親宗、為房。<荒加賀入道・源ノ義国(1091~1155)との関係が気になるところです。のちの足利幕府の系図操作と関連有りでしょうか。>

⇔▼源ノ頼俊 (*)左衛門佐・上総介・陸奥守・(頼年)。満仲流、「荒加賀」・頼房の息。大和源氏。1067年陸奥守。1070年後三条天皇の命で「蝦夷征伐」に出陣。武則の息・清原貞衡(真衡)、武蔵豪族・豊島常家を率いて津軽まで遠征。息に頼風、頼治、頼景。<源ノ義家のライバル。><本州の北端まで、武力で到達した大将はこの方が初めてなのでは。>
⇔源ノ行安 (*)満仲流。行国の息。由利(大中臣)惟安が跡職を継承。<1067年就任の陸奥守・源ノ頼俊に従うか。>

▽▼* 惟房 (*)朝臣・散位・(是房)。伊豆国の豪族。源ノ頼俊の家人。1070年源ノ頼俊に従い蝦夷征伐に従軍。<姓が不明です。名前の系統で推測すると、大江家の人だったりするでしょうか。頼光の代に尾張守・大江匡衡とは交流があったようです。><のちの1104~1107年間の伊豆守護に大江通国あり。><もしくは世代的には伊豆守護・源ノ国房(摂津源氏)の父親でしょうか。><北条時方(時政父)を婿に迎えた伊豆掾・伴ノ為房の先祖も有力かもしれません。彼も伊豆権守の地位につくようですし。伴はいずれ富永に改姓しますし、伊豆土肥に土着し、戦国期後北条氏の青備えを担い江戸城主となる富永氏は、祖先が北条家の外戚として伊豆に基盤を確保し続けた、流れがあったのでは。三河冨永から伊豆冨永、そして津軽にも勢力を広げていたのかもしれません。太平記に記された足利尊氏に従う馬廻りの、津軽の曽我や冨永は奥州地盤の足利領の近隣豪族で、地縁があったかもしれませんね。>

↓▽▼平ノ常家 (*)豊島常家・傔仗・(恒家・経家)。武蔵の豪族。豊島武常の息。1057年源ノ頼義護衛七騎のひとり。のち源ノ頼俊の家人。1070年源ノ頼俊に従い蝦夷征伐に従軍。息に豊島康家。<豊島の嫡流の争い勃発か。摂津豊島とのつながりも気になるところです。>
⇔清原真衡 <奥州藤原氏の家臣団と軍団のページを参照してください。>
 

≪個人的感想≫ 津軽の地まで武力統一したのは陸奥守・源ノ頼俊の功績です。敗戦により東北北部から大和に移住した人(蝦夷)たちもいたのではないでしょうか。
 鶴岡八幡宮宮司として残った伴氏が、河内源氏を選択したことで、武家棟梁としての源氏嫡流のうねりが定まったような気がします。
 伊豆掾・伴ノ為房の娘婿に、北条時方がなり、生まれた息子・時政の婿に、源ノ頼朝がなり、より伴氏の系譜を引き継いで、「応天門の変」で中央から退いた大伴氏の逆襲の血を、頼朝の系譜が引き継いだのでしょう。
 国津神の子孫・(大伴)伴氏が、東北北端を含め、列島の再統一に大きく関わっていたと言えますね・・。輪廻。

<一門衆・頼光の息>

 摂津・美濃・信濃源氏 
(多田・土岐家) 義家、満政子孫(重宗)と美濃で抗争。


源ノ頼国 (*~1058)多田・(土岐)・蔵人・左衛門尉・讃岐守・美濃守・(頼邦)。源ノ頼光の息(長男)。藤原元尹の娘婿。藤原道長に出仕し摂関家を支える。後一条天皇に近侍。1019年京都にて賊を捕縛。美濃国土岐郡に土着。弟に頼家、頼基。息に頼弘、頼資、頼実、頼綱、国房、師光、明国(由利氏に繋がる)。<藤原保昌との関係は良好のようです。>

▽源ノ頼綱 (1025~1097)多田・下野守・三河守・越後国権守・越後守。摂津源氏。源ノ頼国の息(5男)。頼光の孫。兄弟に頼弘、頼資、頼実、実国、国房、師光。母は尾張守・藤原仲清の娘。関白・藤原師実の家人。1079年延暦寺の強訴を阻止その時の同僚に信濃源氏・源ノ仲宗、伊勢平氏・平ノ正衡。息に明国。<1092年越後を大津波が襲い、「黒鳥兵衛の乱」が起き頼綱がこれを鎮圧するという伝承あり。>

▼* 信慶 (*)三郎兵衛・(信義)。頼綱の家臣。越後の古図を残す。<奥州への地盤造りが進むか。>

▽源ノ国房 (*~1079?)多田・(土岐)・美濃七郎・蔵人・伊豆守・土佐守・信濃守・(邦房)。摂津源氏。源ノ頼国の息(6男)。頼光の孫。兄弟に頼弘、頼資、頼実、実国、頼綱、師光。白河院の側近。1064年美濃にて源ノ義家と合戦。1079年源ノ(八島)重宗と合戦。1079年八島重宗の追討使に源ノ義家が派遣される。1096年伊豆守。息に光国(師時)、光俊、光忠。娘婿に源ノ信雅。光国は美濃源氏として土着。<源ノ義家のライバル。><国房の先代の伊豆守護は陸奥守・頼俊(大和源氏)に従い越後に遠征した某・惟房か。><源ノ国房の、伊豆守護の跡職は大江国房(1041~1111)が継承。>

↓▽源ノ明国 (*~1129)多田・蔵人・左衛門尉・下野守・行光・(秋邦)。摂津源氏。源ノ頼綱の息(長男)。多田荘を継承する。藤原師通、藤原忠実の家人。1111年美濃にて大江(橘)広房、源ノ為義の郎党を殺害。佐渡配流。のち佐渡にて反乱し追討される。息に行国(由利氏に繋がる)、経光、有頼、盛隆。<源ノ為義のライバル。>

▼源ノ光国 (1063~1148)多田師時・出羽守・(光邦)。信濃守・源ノ国房の息。母は木工正中の娘。兄弟に光俊、光忠、信雅。1109年源ノ義綱追討軍。1110年出羽寒河江に乱入。1113年京都にて延暦寺・興福寺宗徒を撃退。息に光信、光保、全。

▼源ノ行国 (*)明国の息。息に行安(由利氏に繋がる)。<行安の養子に由利惟安か。由利惟平と奥州で養育された源ノ義経の関係は、どうだったのでしょう。>

▼▼源ノ光信 (*1092~1145)土岐光信・出羽判官・土佐判官・(満信)。出羽守・光国の息。藤原佐実の娘婿。兄弟に光保。白河院・鳥羽院の「北面の武士」。1129年源ノ為義と対立。1130年藤原忠実邸を襲撃し「(大津)義親殺害事件」。土佐に流罪。1143年赦免される。息に光基、光重(源ノ仲政の養子)、光長。<誰の意向で義親を襲撃することになったのでしょうか・・・。>

源ノ光基 (*)土岐光基・伊豆守・伊賀守・左衛門尉・検非違使・判官。1159年「平治の乱」に後白河上皇を警固。息に(伊賀)頼基、光行、(養子)光衡。娘婿に河内守護・藤原秀宗、孫に秀康、秀能。
 
《個人的感想》 美濃に所領を持つ土岐氏は頼光流。「承久の乱」に嫡流は没落するか。
 世代的には、源ノ国房(もしくは息子達?)が、陸奥守・源ノ頼俊(大和源氏)に協力して、津軽半島まで進撃して、本州を統一したのかもしれません。<河内源氏はライバルとなるか。>
 戦後の褒賞として陸奥・出羽国に、従軍した美濃・伊豆・武蔵豪族の所領があったかもしれませんね。

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