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室町幕府三管領家 その3:斯波家の家臣団と軍団

足利幕府 歴代将軍と斯波氏

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足利尊氏将軍就任からの武将<在職期間1338~1358> 

足利尊氏 <1338~1358>(1305~1358)足利貞氏の息。母は上杉清子。室町幕府初代将軍。丹波綾部の上杉荘と縁がある。丹波(亀岡)篠村八幡宮で反鎌倉幕府の挙兵。のち後醍醐天皇とも対立。北朝、光厳上皇を奉じる。武士の要望に応え過ぎたため、将軍の所領が少なく、足利将軍の勢力基盤が脆弱な原因となった。<足利尊氏のページ参照してください。>
<1337年北畠顕家の上洛に、関東執事の斯波家長は、渋川氏とともに北畠顕家の南征を迎え撃ち戦死。>
<1338年斯波高経、斯波(大崎)家兼が新田義貞を討つ軍功。>
<高経の弟・家兼の子孫は奥州・羽州探題を輩出。>
<1355年足利直冬に従い斯波氏頼、桃井直常、山名時氏、入洛。>

足利義詮 <1358~1367>(1330~1367)千寿丸・鎌倉大納言・坊門殿・左馬頭・左近中将・征夷大将軍・権大納言・足利宰相。尊氏の嫡子。母は北条(赤橋)久時の娘。室町幕府第2代将軍。渋川義季の娘婿。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質として鎌倉に入府。1333年新田義貞の後見で鎌倉幕府を討幕。鎌倉を実質的に占拠し、新田義貞は上洛する。1349年尊氏の意向で上洛。1358年父の死により家督。1358~1367年二代目征夷大将軍に在位。斯波氏を管領に登用。1365年ごろ足利幕府の安定をみる。のち細川頼之に義満を託す。
<1361年細川清氏の失脚、斯波高経の登用。>
<1362年斯波義将が管領に抜擢される。副将軍・佐々木高氏(京極道誉)、斯波氏頼(3男)との確執。>
<1362年斯波氏経(2男)の九州探題失脚、67年出家。1971年今川貞世就任。>
<1366年斯波高経、京極道誉と対立。高経越前に落ちる。>

足利義満 <1368~1394>(1358~1408)足利義詮の息。母は紀良子。母方の叔父に奥州(先代)伊達政宗。室町幕府第3代将軍。1368年11歳で将軍職継承。管領・細川頼之の補佐。1378年室町御所造営。20歳で頼之を四国に追放。斯波義将を管領とする。1392南北朝統一に成功。土岐康行、山名氏清、大内義弘を制する(明徳・応永の乱)。太政大臣任官。1397年金閣寺造営。1401年日明貿易を開始。息に義持。
<1379年大和「十市遠康討伐」遠征。斯波義将、吉見氏頼、一色範光出陣。>
<1379年斯波義将は細川頼之を抑えるため三度管領に就任。土岐頼康と同盟し、頼之失脚讃岐落ち。>
<1391年斯波義将失脚。>
<1393年細川頼元、管領辞任。>
<1395年今川貞世、九州探題職解任。>
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>

足利義持 <1394~1423>(1386~1428)足利義満の息。母は藤原慶子。室町幕府第4代将軍。父・義満の後見で9歳で将軍就任。父の死後は管領・斯波義将の補佐。日明貿易を中止する。関東で足利持氏と上杉禅秀の対立が激化。1416年「上杉禅秀の乱」。弟の義嗣を乱共謀の罪で殺害(斯波義重の連座回避)。
<1400年頃、斯波義将が織田常松を尾張に派遣。今川貞世、幕府に降伏。>
<将軍・義持、足利義嗣問題で管領・斯波義重(義教)との対立。>
<1416年斯波義重(義教)は「応永の乱」鎮圧に軍功。>
<九州探題に斯波義将の娘婿・渋川満頼(父・義行)が抜擢される。>

<奥州探題・大崎詮持と、畠山国詮の抗争を、義満の義理の叔父・伊達政宗が調停。>
<大内義弘と同盟した関東公方・足利満兼の弟・満貞(結城満朝臣従)、満直の南奥羽派遣。将軍派の大崎満持、伊達政宗の危機感。山城守護・結城(古山)満藤の解任。>

足利義量 <1423~1425>(1407~1425)足利義持の息。母は藤原栄子。室町幕府第5代将軍。15歳で酒乱、側近が罰せられる。1423年義持の出家により将軍就任、17歳。1425年飲酒中毒のため在職3年で病没。義持が執政に復帰。赤松持貞が元将軍・義持の妻と恋愛。赤松満祐が白旗城に籠城し「応永の変」起す。1427年赤松持貞の不倫が発覚し自害。赤松満祐は降伏し幕府に帰順。義持の遺言で後継者は籤で決められた。
<斯波義淳も管領に就任。>

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足利義教 <1429~1441>(1394~1441)青蓮院義円。足利義満の息。母は藤原慶子。足利義持の弟。室町幕府第6代将軍。1429年義持の死により天台座主・義円が還俗。鎌倉公方・足利持氏と対立。義教の代に徳政令を求める「正長の土一揆」勃発。1433年仁木国行、今川範政、斯波義淳を弾圧。1435年山名時熙を弾圧。1439年京極持光を弾圧。1439年「永亨の乱」関東公方・足利持氏を討伐。将軍の権力を強化。1440年一色義貫、土岐持頼を弾圧。1441年畠山持国、富樫教家を弾圧。1441年赤松満祐の「嘉吉の変」に横死。赤松教康により京極高数、大内持世、山名熙貴もともに討たれる。 <義淳の弟・義郷の継承。>

足利義勝 <1442~1443>(~1443)足利義教の息。母は藤原重子。室町幕府第7代将軍。1441年義教の死により将軍就任。赤松討伐軍を編成し、細川持常、細川淡路守、武田信賢、赤松貞村、赤松満政。別働隊に山名持清、山名教清、山名教之、山名政豊を動員。1441年赤松満祐、足利冬氏を迎え将軍・足利義尊と称させるが坂本城、木山城が落ち自害。義勝は在位一年余りで夭折。
<義淳の甥・斯波義健の早世。>

足利義政 <1449~1473>(~1490)「応仁の乱・影の東軍大将」。足利義教の息。母は藤原重子。足利義勝の弟。弟に義視、堀越公方・政知。幼少のため14歳まで将軍空位。畠山持国、細川勝元が代行。室町幕府第8代将軍。乳母・今参局、有馬持家、鳥丸資任の「三魔」を重用。1466年斯波(渋川)義廉を更迭し、斯波義敏に斯波家家督。斯波義廉が織田広成を上洛させ家督回復。1467年畠山義就を登用し家督。管領・畠山政長失脚。
<斯波義敏、堀越執事・義鏡の息・渋川義廉の対立。>
<甲斐常治の妹が伊勢貞親室の縁で、斯波義敏を失脚に追い込む。>
<義敏室と、伊勢貞親室の姉妹繋がりで義敏家督へ。>

足利義視 (*)「今出川殿」・義尋・左馬頭。最初「東方(東軍)大将」・後半「西方(西軍)大将」。足利義教の息。足利義政の弟。1464年前管領・細川勝元邸にて還俗。細川勝元の後援で山名家と対立。1467年西軍の飯尾為数を処刑。1467年「応仁の大乱」。8月西軍に離反するもの続出し、木造教親のすすめで京都を脱出し南伊勢多気の北畠教具を頼る。8月大内政弘の上洛で西軍勢力挽回。10月足利義政に見限られ、管領・細川勝元に出家を勧められる。比叡山に登るが、西軍・山名持豊、渋川(斯波)義廉を頼り将軍に擁立される。1477年土岐成頼に擁され美濃へ落ちる。斎藤妙椿の差配で隠居。
<1472年遠江、斯波義良の相続。1475年越前大野の斯波義敏、朝倉氏に敗北し京都強制送還。>

足利義尚 <1473~1489>(1465~1489)最初「西方(西軍)大将」・後半「東方(東軍)大将」。足利第9代・征夷大将軍。足利義政の息。母は藤原富子。政所執事・伊勢貞親に養育される。山名持豊(宗全)に擁立される。1467年「応仁の大乱」。のち細川勝元により「東軍大将」。山名持豊、細川勝元が相次いで没。1473年征夷大将軍に任官。1477年大内政弘、土岐成頼が下京し帰国。東軍優位で終戦。1478年織田敏定を尾張守護代に認定。1489年近江六角高頼の討伐遠征中に陣没。
<1479年織田敏広、敏定が、土岐成頼、斎藤妙純の仲介で和睦。><1481年織田敏広が抗争で戦死。>
<1481年斯波義敏・義良、「越前朝倉攻め」に敗戦。>
<1483年斯波義寛尾張入り。1485年義寛家督。1487年斯波義寛の近江出征。>

足利義稙 <1490~1521>(1466~1523)義材・義尹・「流れ公方」・阿波義稙。足利義視の息。母は藤原重政の娘。室町幕府第10代将軍。足利義尚の急死により、義政の後見で家督相続。義政の死後に、父・義視と日野富子の対立が再燃。近江に「六角高頼討伐」。1493年河内「畠山義豊討伐」出征中に管領・細川政元のクーデター「明応の政変」により失脚。龍安寺に幽閉されるが脱出。1508年大内義興の後援により将軍に復職。1521年細川高国の専横により淡路に落ちる、阿波に逃走。<斯波義達と今川氏親の抗争は誰の差し金か。義達の遠江守護罷免は義澄との縁によるものか。>
<1491年斯波義寛の近江出征。>

足利義澄 <1494~1508>(1480~1511)堀越義澄・義高。足利第11代・征夷大将軍。堀越公方・足利政知の息。母は藤原隆光の娘。足利義政の養子。斯波義寛の娘婿。足利義尚の急死の際に細川政元に擁立されるが、義稙(義材)が将軍就任。1493年政元の起こした「明応の政変」により、1494年将軍就任。伊豆堀越氏討伐。1508年大内義興に擁された足利義稙が復権。近江に落ちる。<伊勢早瑞(北条早雲)の伊豆乱入は誰の指令か。東海道の今川氏親・伊勢長氏を支援?、斯波義達の活動は1507~1517年間・・、従兄弟の義澄を支援する為の挙兵か。><1505年に斯波義寛の娘と再婚とも・・。しかし義維は庶子で、義晴は没年の1511年生まれ・・。>
<1500年斯波寛元、斯波義雄の遠征。>
吉良氏と同盟し遠江復興。

足利義晴 <1521~1546>(1511~1550)堀越義晴。足利第12代・征夷大将軍。堀越足利義澄の息。1508年第10代・足利義稙(義材・義尹)を擁立した大内義興の上洛。細川高国に追放された11代将軍・足利義澄の息。赤松義村に養育される。1521年10代・足利義稙を追放した細川高国に擁立される。1525年北室町に柳原御所を建造。1526年細川晴元が阿波足利義維を擁立し堺に侵入。丹波国神尾山城主・柳本賢治の挙兵により、北近江朽木落ち。六角定頼の後援を得る。1534年細川晴元との和睦で入京。1541年「木沢長政の乱」。1546年「細川氏綱の乱」で度々京都から脱出。1546年隠居し嫡男・義輝を将軍に据える。1547年細川氏綱・遊佐長教と和睦し、細川勝元と対立。近江穴太に居す。<伊勢北畠氏を頼る。>
<斯波義達の失脚。>

⇔※足利義維 (1509~1573)左馬頭・仮ノ13代将軍・よしつな・「四条御所」・阿波義維。11代将軍・堀越足利義澄の息。細川高国に追放された10代・足利義稙の養子。12代将軍・足利義晴(実の異母兄弟)と管領・細川高国を、細川晴元と三好元長が追放し、足利義維を擁立。堺に四条御所を設置。1532年阿波に落ちる。一時周防に在国。1573年阿波平島に没。
<斯波義統の相続。>


斯波家の家臣団

斯波高経 (1305~1367)尾張高経・尾張弥三郎・尾張修理大夫。斯波宗氏の息。母は大江時秀の娘。弟に(大崎)家兼。北陸探題。直義派。1333年後醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。1333年足利尊氏とともに挙兵。1336年高氏西国落ちに、守護・厚東太郎(武実)とともに長門を守備。1337年高ノ師泰とともに新田義貞を破る。1341年脇屋義助を破り越前平定。1349年「観応の擾乱」に直義派。1355年足利直冬・桃井直常と結びに応じて京都乱入。1362年7月足利義詮の代に幕府管領職に就任した斯波義将を後見、室町幕府に安定をもたらす。1363年一門の石橋和義を失脚させる。1366年興福寺と争い失脚。1367年義詮の追討軍との陣中に病没。息に家長、氏経、氏頼、義将、義種。62歳。<九州落ちに西国に配置されるか。>

⇔▽斯波家長 (1321~1338)尾張・志和・弥三郎・孫二郎・陸奥守・関東執事・奥州総大将。斯波高経の息。足利直義の鎌倉府の跡、1335年「中先代の乱」後に関東執事職。足利義詮を後見して北畠顕家に対抗する。1335年鎮守府将軍・北畠顕家の南侵に敗北。1336年小早川宗平に殿岡七郎跡を宛行。再び北畠顕家に対抗して奥州総大将<1337>に任ぜらる。1338年鎮守府将軍・北畠顕家の南侵。2戦して2度敗退、討死する。奥州には石堂義房が派遣される。<血統的には石橋氏に近い。>

⇔▽斯波氏経 (*~1367)尾張・民部少輔。斯波高経の次男。1349年「観応の擾乱」に直義派。直冬党。1361年九州探題に任ぜらる。「長者原の合戦」に敗北し出家隠遁。

▽斯波氏頼 (*)尾張・左近将監。斯波高経の息。1345年天竜寺供養に従軍、六番隊10人衆のひとり。1349年「観応の擾乱」に直義派。直冬党。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。父・高経から足利執事の資格も才能もないと評価され、弟・義将が幕府執事に就任。

大崎家兼 (*1295~1356)斯波・彦三郎・式部大夫・伊予守・時家。奥州管領。斯波高経の弟(庶兄か)。若狭守護職。1337~1338年新田義貞と抗争。1347年奥州探題に就任。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1351名生城を築城。名生城主。1351年「観応の擾乱」に尊氏派の奥州探題・畠山国氏が滅亡。1353年足利直義派の奥州管領・吉良満家を追討するため、次男・最上兼頼(1315~1379)を出羽国に派遣。家督は長男・直持が継承する。<生誕年が変。>

↓▽大崎直持 (*1327~1383)斯波・彦三郎・左京大夫。大崎家兼の嫡男。1352年若狭守護代として若狭衆を率い足利義詮を救援。1354年奥州管領の父に従い奥州入り。1354年幕府から正式の奥州管領職。中新田城を拠点とする。息に大崎詮持。<「直」の字は足利直義が下賜したものか。生誕年が変。>

▽最上兼頼 (1315~1379)斯波・竹寿丸・修理大夫・出羽大将。大崎家兼の次男。1337~1338年新田義貞と越前に抗争。1347年頃父とともに奥州に移住。1356年日本海側の抑えを任され出羽国山形に居を構える。新田(里見系)天堂氏に弟・義宗を養子に送り従える。兄・大崎直持とともに奥州を支配。

▽天童義宗 (*)里見・斯波・民部少輔。斯波高経の甥。斯波家兼の三男。出羽の新田氏族・里見義景の養子となる。1345年天竜寺供養に従軍、七番隊外様500騎衆のひとり。1349年「観応の擾乱」に直義派。貞和8月、直義邸を守備。

石橋和義 (*~*1386)尾張三郎・左衛門佐・三河守・左近将監・氏義・尾張親衛。足利家の御一家、斯波氏一門。石橋義博の息。三河国吉田を領する。宗家の斯波高経に従い従軍、1336年西国落ちの際に、松田盛朝とともに備前三石城を守備し脇屋義助を抑える。備前国大将。尊氏の上洛に山陽方面の武家を率いる。1337年伯耆国、1339年備後国・若狭国の守護を歴任。幕府引付頭人・評定衆を勤める。1349年「観応の擾乱」に有力な直義派。1352年以降後半期に尊氏派、山名時氏と抗争する。1363年斯波親子と対立し失脚。息・棟義は奥州探題。<九州落ちに西国山陽道に配置されるか。>

▽石橋宣義 (*)尾張・治部大輔。石橋和義の息。1349年「観応の擾乱」に有力な直義派。

⇔▽石橋棟義 (*~*1386)斯波・尾張。石橋和義の息子。斯波家一門。2代将軍・義詮から奥州の軍事指揮権を与えられ、吉良治家を討伐する。その後も奥州に留まるが1386年に没落。<血統的には斯波氏に近い。>

<1366年「貞治の変」斯波家越前退去>

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斯波義将 <1368‐1379>(1350~1410)治部大輔・左衛門佐。高経の4男。室町幕府三管領の筆頭。吉良満貞の娘婿。幕府管領に三度就任。細川頼之とともに三代将軍・足利義満を補佐。越前、若狭、能登、越中、遠江、信濃の守護。息に義重(義教)。娘婿に渋川満頼。1379年足利義満の命で大和国・十市遠康の討伐軍、富樫昌家、吉見氏頼、土岐義行、赤松義則を率いる。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に京都留守居。<細川頼之の四国蟄居の10年間、幕政を指導。>

⇔▽甲斐教光 (*~1395)美濃守。斯波家執事。斯波家家老職。1383年頃、越前守護代職。娘婿に斯波義重。<下野国佐野庄の藤原氏が被官化したらしい。>

二宮* (*)加賀守護代。斯波義種の家老。

二宮氏泰 (*)信濃守護代。斯波義種の家老。義種家臣。1384年信濃守護代を拝名し息子・種氏を代官として派遣する。息に種氏。

↓▽二宮種氏 (*)源・与一。1584年信濃代官として信濃平柴に下向。1388~1414年頃加賀守護代。1388年信濃国人・村上頼国、小笠原清順、高梨朝高、長沼太郎が反乱。二宮種氏の臣・市河頼房の生仁城は落城。

▽二宮* (*)信濃・入道是鎮。斯波家家老職。1370~1376年頃に越中新川・砺波郡司。

▽細川* (*)完草・安芸太郎。細川家分家。斯波家家老職。1379年11月越中守護代。<細川出羽の子孫でしょうか。>

▽細川慈忠 (*)二宮種氏のあとに信濃国代官。1392年村上満信と生仁城をめぐり抗争。

⇔斯波義種 〈1387-1408〉(1352~1408)加賀・大野・孫三郎・伊予守・修理大夫・左衛門佐・入道道守。斯波高経の息(5男)。斯波義将の弟。斯波家庶流。山城国守護。侍所頭人。千秋高範の娘婿。土岐頼康の娘婿。1366年「貞治の変」に失脚。のち赦免され信濃、加賀守護。1389年将軍・足利義満の厳島参拝に供奉。1414年将軍・義持の勘気により失脚。息に斯波満種、満理。

↑▽二宮種氏 (*)源・与一。斯波家家老職。義種家臣。1388~1414年頃加賀守護代。<「種」の字系は斯波分家の系統のようです。家臣も「種」字は分家の被官なんでしょう。>

<斯波義重・義淳>

斯波義重 <1398-1418>(1371~1418)斯波義教・(吉良)・左衛門佐・右(左)兵衛督・・入道道孝。斯波義将の息。母は吉良満貞の娘。甲斐教光の娘婿。1400~1418年尾張守護兼任。<尾張・越前の侍の配置転換。>遠江・加賀・信濃守護兼任。妹婿に渋川満頼。息に義淳、義郷、特有(持輔)。 <将軍・義持の相続に義重の不穏な動き発覚。義持側近・富樫満成、赤松持貞との対立。><渋川家との近い縁戚関係の成立。甥に渋川義俊、氏重。>

斯波義淳 <1418-1433>(1397~1434)(甲斐)・左兵衛佐・入道道忠。斯波義重(義教)の息。弟に斯波義郷、持輔(特有)。義淳の死後に家督争い勃発。息に義豊(義郷の養子?)。養子に義郷。<惣領家嫡流の断絶。>

<斯波義教・義淳の家臣団>
加賀島* (*)斯波氏家老。斯波義教(義重)の遠江守護代。

藤原重教 (*)藤原。斯波氏家老。1400年斯波義教の尾張守護代。<この藤原は、織田か、甲斐か?。>

(甲斐)
▽甲斐将教 (*~1420)ゆきのり・八郎・美濃守・入道祐徳。斯波家執事。甲斐教光の息。斯波義教(義重)の義兄弟。斯波義淳の家老。1395年越前守護代。越前・尾張・遠江守護代兼任。斯波家家老職。息(孫?)に敏光。

▽甲斐* (*)右京亮・入道若椙。甲斐一門衆。斯波義教(義重)の家臣。尾張代官。

▽甲斐* (*)兵庫助・入道。東遠江又守護代。甲斐一門衆。斯波義教(義重)の家臣。

(大谷)
▽大谷* (*)豊前守・入道玄本。西遠江又守護代。甲斐一門衆。斯波義教(義重)の家臣。<大谷吉継の祖が大友家家臣というのは違うのかもしれないと思えてきます。蜂須賀家や簗田家とともに織田へと出仕したのではないでしょうか。>

(狩野)
▽狩野* (*)新左衛門尉。東遠江又守護代。甲斐家譜代家臣。甲斐兵庫助に代わり又守護代。

▽狩野* (*)修理亮。甲斐家譜代家臣。

(織田)
織田教広 (*)藤原。斯波氏家老。斯波義教(義重)の家臣。尾張守護代。

(島田)
島田* (*)遠江守・入道常栄。斯波氏家老。斯波義教(義重)の家臣。1401年斯波義将の代官として信濃守護代。

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 将軍・足利義教 肖像のつもり
斯波義郷 〈1433-1436〉(1410~1436)治部大輔・左衛門佐・入道道慶。相国寺の僧。斯波義重の息。または斯波義淳の息(養子とも)。吉良義尚の娘婿。還俗して斯波持輔と家督争い。将軍・義教の後援で家督。1436年事故死。息に義豊(養子?)、義健。<1433-1436>特有(持輔)と家督争い。<室は尾張津島・大橋氏の娘とも。>

▽斯波持輔 (1413~1440)次郎・持有。斯波義重の息。義淳の弟。義郷と家督争いを起す。のち義郷に従い、1437年越前軍を率いて大和出陣。越智・箸尾氏と抗争。28歳。

斯波満種 (1376~1427)大野・孫三郎・民部少輔・左衛門佐。義種の息。弟に満理。母は千秋高範の娘。京極氏(六角満高の娘とも)の娘婿。1414年足利義持の勘気に触れ加賀守護失脚。義持側近の富樫満成が就任。息に持種。

▽斯波満理 (1384~1424)大野・弥三郎・修理大夫。義種の息。母は土岐頼康の娘。1414年満種に代わり大野家惣領を代行。養子に持種。

(足利一門・渋川家)
渋川義俊 (1400~1434)(斯波)・左近将監。肥前守護。満頼の息。母は斯波義将の娘。弟に氏重。1423年少弐満貞に敗北。1428年満直に九州探題職を引き継ぐ。息に義鏡。

▽渋川満直 (*)綾部館・御調・三郎・中務大輔・武蔵守。渋川満行の息。1428年従兄弟の義俊から九州探題職を引き継ぐ。肥前守護。大内氏の後援で少弐氏と抗争。1434年横岳(少弐)頼房により討たれる。息に教直。

斯波義豊 (*)(甲斐)・民部少輔。義淳の息。足利義教の代に家督は叔父・義郷が継承する。<嫡流ですが、追いやられてしまいます。>

(二宮)
▽二宮* (*)信濃入道。大野郡代。1462年大野郡を押領したとして、斯波(大野)持種に訴訟を起こされる。

斯波義健 〈1436-1452〉(1435~1452)(吉良)・千代徳丸・治部大輔・入道道寿。斯波義郷の息。母は吉良氏。1436年父・義郷の死により二歳で家督。1441年今川義忠と所領を巡り抗争。1452年落馬事故により死去。18歳。養子に持種の息・斯波義敏。<吉良家の支援により家督でしょうか。惣領家の断絶。>

<斯波家被官>
甲斐* (*)
織田* (*)
堀江* (*)
二宮* (*)
島田* (*)
大谷* (*)
狩野* (*)
加々島* (*)
朝倉* (*)

(越前大野:斯波家)
大野持種 (1413~1475)(京極)・斯波・孫三郎・民部少輔・修理大夫。加賀守護・斯波満種の息。母は京極氏。弟に氏種。父・満種が将軍・義持の勘気により高野山に出家し加賀を失う。専横の執事・甲斐常治と対立。1446年富樫泰高を後援し「加賀出征」に反対の甲斐常治と対立。反甲斐の旗頭として二宮・島田氏の支援を得る。息に斯波義敏、義孝。<京極氏との繋がりがその後に影響か。>

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