13世紀~14世紀 後醍醐天皇の南朝軍、護良親王の軍団、楠木正成の家臣団
護良親王 肖像のつもり。
「 朕の新儀は未来の先例たるべし 」 -後醍醐天皇-
<後醍醐天皇の軍団> (1324~1334)正中・元弘の乱、建武元年(1334)
打倒・鎌倉幕府、得宗家
後醍醐天皇 (1228~1339)尊治親王。第96代天皇。1318年31歳で即位。後宇多天皇の息(2男)。母は五辻(藤原花山院)忠継の娘。乳母父に吉田定房。1308年兄・邦治親王(後二条天皇)の死、花園天皇の死により家督。1321年から親政をはじめ、吉田定房・北畠親房を登用。王政を復活するため倒幕を目指す。1324年父・宇多上皇が死去。「正中の変」。1331年「元弘の乱」に失敗。大和笠置寺に。楠木正成、赤坂城に挙兵。桜山慈俊、備後一宮に挙兵。1332年捕縛され隠岐に配流される。護良親王、吉野に挙兵。楠木正成、呼応して千早・赤坂城に挙兵。伊予の土井・得能氏が北条時直を破る。1333年2月隠岐を脱出。3月九州にて北条英時に破れ菊池武時戦死。4月千草忠顕、京都に敗退。4月足利高氏反幕府の挙兵。5月京都六波羅攻略。上野国に新田義貞挙兵。「鎌倉乱入」北条高時自害、ついに倒幕。1333年6月帰京。建武新政を開始。1333年義良親王、多賀城へ。成良親王、鎌倉へ派遣。1335年公武不和のために新政が瓦解。1336年光明天皇(持明院統)に譲位するが、吉野に拠点を移し南朝を設立。1339年子息・義良親王(後村上天皇)に譲位し、京都奪還を託す。52歳で崩御。息に恒良、護良、義良(後村上)、宗良、懐良親王。
[阿野廉子] (1301~1359)安野・新侍賢門院・三位局。右近衛中将・阿野公廉の娘。洞院公賢の養女。後醍醐天皇の妻。恒良・成良・義良親王の母。護良親王と権力抗争。<源氏の阿野全成の血が入るそうです。>
(北条高時の時代の守護配置)←意外に反乱が起きています。
安藤又太郎が先駆です。
『 肥狗天驕吼 痩人地黙哭 』 -亀ケ谷寿福寺の僧 -作
「ひく(北条家)はてんにおごってほえ そうじんはちにもくしてこくす」 ←北条政治に対する庶民の怒りです。
<僧侶> 1326年幕府調伏祈願、延暦寺・園城寺・山科寺・仁和寺。 1333年鎌倉幕府滅亡。
文観 (*)小野・弘真。天台宗、西大寺の律僧。真言密教の僧侶。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。第二次倒幕計画で捕縛される。硫黄ケ島に配流。「元弘の変」。討幕後、東寺一長者に任命される。
玄基 (*)聖護院法庁法眼。山伏の総本山・聖護院の僧侶。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。無礼講「正中の変」関係者。
知暁 (*)西大寺の律僧。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。
智教 (*)上人。奈良南都の僧侶。第二次倒幕計画で捕縛される。
教円 (*)上人。奈良南都の僧侶。第二次倒幕計画で捕縛される。
春雅 (*)峯・峰僧正。後醍醐天皇の外戚。第二次倒幕計画で捕縛される。筑紫に流罪。建武に一時筑紫の旗頭。
遊雅 (*)伊達三位房・祐雅法師。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。無礼講「正中の変」関係者。幕府に内通し、第一次倒幕計画を密告。第二次倒幕計画で捕縛される。
円観 (*)法勝寺の僧侶。第二次倒幕計画で捕縛される。
忠円 (*)僧正。浄土寺の僧侶。第二次倒幕計画で捕縛される。
祐覚 (*)道場坊。1336年比叡山籠城に従う。京都退去に従軍。
宗信 (*)吉水院法印。金峯山寺の僧坊・吉水院坊官。後醍醐天皇の吉野入りを応援。後村上天皇を補佐。
1333年後醍醐天皇、隠岐を脱出し船上山に挙兵。
<後醍醐天皇の皇子・親王の地方配置>探題職にて分割支配。
尊良親王 (*1306~1337)一ノ宮・一品・中務卿・将軍宮。北陸探題。後醍醐天皇の皇子。母は二条(冷泉)為世の娘。吉田定房に養育される。1326年元服し中務卿。1331年「元弘の乱」に笠置山に籠城する。1332年捕縛され土佐に流罪。1333年九州に渡り大宰府を攻略。帰京する。1335年足利尊氏討伐の上将軍。新田・脇屋を率いるが「竹ノ下合戦」に敗北。1336年比叡山籠城。1336年足利尊氏から敗走し、恒良皇太子、新田義貞とともに北国に落ちる。1337年越前金ヶ崎落城の際に一条行房とともに自害。
世良親王 (*1306~1330)二ノ宮・太宰師。上野太守。後醍醐天皇の皇子。母は西園寺実俊の娘。24歳で死去。
護良親王 (1308~1335)三ノ宮・征夷大将軍・天台座主尊雲・兵部卿。後醍醐天皇の息。母は源ノ師親の娘。1318年延暦寺梶井大塔宮に出家。1325年梶井門主。1331年後醍醐天皇の隠岐脱出に呼応して僧兵を率いて挙兵。楠木正成の千早城に逃れ、十津川、熊野、吉野、高野山を拠点に活動する。1332年還俗。大和・吉野に籠城。二階堂貞藤に敗北する。倒幕後、足利尊氏と対立し信貴山に籠城。1334年結城親光・名和長年に捕縛され、鎌倉に配流。1335年北条時行の「中先代の乱」の混乱に暗殺される。28歳。
宗良親王 (1311~1385)妙法院・尊澄法・信濃宮・征夷大将軍。遠江、信濃。東国探題。後醍醐天皇の息。母は二条(冷泉)為世の娘。延暦寺妙法院に出家し後に天台座主。1331年「元弘の乱」に下山し笠置山に籠城する。捕縛され讃岐に流罪。1333年幕府滅亡後に京に帰還。1337年還俗。1338年北畠親房とともに東国に向け出航するが遭難。井伊道政の庇護の下、遠江の井伊に居住する。のち越後に向かい、1344年信濃大河原に進出する。1352年南朝の征夷大将軍に任官。1374年吉野に帰還。「君のため 世のためなにか をしからむ 捨ててかひある 命なりせば。」75歳。 <「君のため」の句は、坂本竜馬が愛した詩らしいです。ただし竜馬さんの場合は尊王思想ではなく、おとめ姉さんや、恋人お竜さんの為のようですが(そのほうが竜馬さんらしい感じがします)。>
⇔恒良親王 (1324~1338)皇太子・北陸探題。越前金ヶ崎城主。後醍醐天皇の息。母は洞院公簾の娘・阿野廉子。1331年「元弘の乱」に笠置山に籠城する。捕縛され但馬に流罪。1333年太田守延に奉じられ挙兵。千草忠種とともに六波羅攻略に参加。1334年皇太子に即位。1336年比叡山籠城。1336年足利尊氏から敗走し、尊良親王、新田義貞とともに北国に落ちる。1337年越前金ヶ崎にて、高師泰軍に敗北。1338年捕縛され京都の花山院幽閉される。
成良親王 (1326~1344)四品・上野太守・鎌倉殿・関東探題・将軍宮。後醍醐天皇の息。母は阿野廉子。1333年足利直義に奉ぜられ鎌倉下向。1335年北条時行の「中先代の乱」に敗走。帰京し1335年征夷大将軍に任官。持明院統光明天皇の皇太子に約束されるが、後醍醐天皇が吉野に逃亡し罷免される。京都近衛基嗣邸にて死去。
義良親王 (1328~1368)後村上天皇・憲良親王。第97代天皇<在位1339~1368>陸奥太守・奥州探題。後醍醐天皇の皇子。母は阿野廉子。1333年北畠顕家、顕信とともに陸奥に下る。建武新政に東北の鎮護となる。1335年、1337年の二回に亘り足利尊氏討伐のために上洛。1339年吉野に即位し京都奪還を目指す。賀名生(あのう)、住吉、河内「観心寺」を拠点とする。1352年男山八幡に籠城。息に(長慶)、(後亀山)。<ヨシヨシ親王とは呼べないから、ヨシナガ親王なんじゃないでしょうか、ということは護良親王はモリナガ親王と呼ぶか。>
懐良親王 (*1329~1383)阿蘇宮・中務卿・征西将軍・九州探題。後醍醐天皇の息。母は中納言為道の娘。1336年比叡山籠城。1337年伊予国忽那島上陸。1339年父・後醍醐天皇の命で九州に派遣される。五条頼元・中院義定ら12人が補佐。1340年豊後に侵入。1342年薩摩谷山城を拠点とする。1348年肥後菊池家の宇都津に迎えられる。1355年一色範氏・直氏を追放し博多を占拠。1359年少弐頼尚を「大保原の合戦」に破る。1361年大宰府を占拠。菊池武光、菊池武政の後見で北九州を制圧する。1369年甥の後村上天皇皇子・良成親王を河野通直のもとへ派遣。1371年九州探題に今川貞世が着任。1372年大宰府を攻略される。1375年征西将軍職を後村上天皇皇子・良成親王に移譲する。筑後に隠居し死没。
満良親王 (*)花園宮・四国探題・常陸親王。後醍醐天皇の息。母は藤原氏。1338年四国に渡海。錦打入道の後見で土佐「大高坂城攻撃」。1351年周防国に挙兵。以後消息不明。
守良親王 (*)五辻・兵部卿宮。亀山院皇子。大覚寺派宮家。1333年佐々木高氏に擁立され近江太平寺城に入城、六波羅南北両探題の北条時益・北条仲時を近江息吹山で討つ。後醍醐天皇の意向で九州鎮定に派遣される。
『 浪合記 』 -信濃国伊那郡浪合- 1709年天野信景執筆
尹良親王 (1364~1424)宗良親王の息。後醍醐天皇の孫。
良王君 (*)後醍醐天皇の曽孫。のち尾張津島に隠棲する。
「思ひきや 手も触れざりし梓弓 起き伏し我が身馴れむものとは」 -『李花集』宗良親王-
大覚寺派貴族
日野資朝 (1290~1331*1332)中納言・検非違使別当・左兵衛督。儒学者。日野俊光の息。後醍醐天皇の倒幕計画に加担する。「日野の双輪」のひとり。反幕の人材を纏める。1324年「正中の変」で捕縛され佐渡に流罪。第二次倒幕計画で捕縛される。1331年「元弘の変」に、配所で処刑される。息に日野朝光、邦光。
日野俊基 (*~1332)蔵人・右少弁。日野種範の息。儒学者。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。無礼講1324年「正中の変」関係者。後醍醐天皇の倒幕計画に加担する。「日野の双輪」のひとり。後醍醐天皇の命で全国を巡る。楠木正成を挙兵させる使者。1331年4月「元弘の変」第二次倒幕計画発覚で捕縛される。
千草忠顕 (*~1336)六条・参議・少将・宰相中将・左近衛少将。権中納言・六条有忠の息。父親から勘当される。後醍醐天皇の側近。「三木一草」のひとり。伊勢国三重郡千草を領する。1331年大和笠置籠城に天皇に従う。1332年の隠岐配流に従った側近。笠置山に篭城。1366年比叡山に籠城。足利直義との「雲母坂の合戦」に戦死。息に具顕・長忠・忠方・顕経あり。顕経は北畠氏に従い伊勢禅林寺城主。
万理小路季房 (*~1333)伊勢守・備前守・右大弁・中宮亮。万里小路宣房の息。1331年「元弘の変」に捕縛され、配所先の下野国にて殺害された。息は宣房に京都にて養育され、持明院党派の公家となる。
万里小路宣房 (1258~1348)万里公路・蔵人頭・大納言・通俊。万里小路資通の息。後醍醐天皇の腹臣「三房」のひとり。1324年「正中の変」に鎌倉に赴き後醍醐天皇を弁明。1331年「元弘の変」では息子二人に連座し捕縛される。笠置山に篭城。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。息子・藤房の不出仕により傷心し、1336年出家。<三房の名の通り参謀なのでしょう。>
万里小路藤房 (1295~1380)中納言。万里小路宣房の息。御醍醐天皇の側近。1331年「元弘の変」に大和笠置籠城に天皇に従う。捕縛され配所先の下総国にて小田治久を説得。1333年「建武新政」の恩賞方、三番局。山陽道・山陰道・畿内担当。1334年建武新政に失望し北山に出家隠遁。
北畠親房 (1293~1354)後醍醐天皇の腹臣「三房」のひとり。1338年東国に向かい神宮寺城主・小田治久に迎えられる。息に顕家、顕信、顕能、顕雄。娘婿に冷泉持定。<三房の名の通り参謀なのでしょう。>
<後醍醐帝側近、上流貴族>
(摂家:摂政・関白任官階級:藤原長者家)一条・二条・九条・近衛・鷹司の5家「五摂家・執柄家」
(清華家:太政大臣任官階級)久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川の7家。
吉田定房 (1274~1336)権大納言。吉田経房の息。後醍醐天皇の腹臣「三房」のひとり。1331年、第二次倒幕計画を六波羅探題に密告「元弘の変」。1333年「建武新政」の恩賞方、一番局。東海道・東山道担当。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。吉野で病没。<三房の名の通り参謀なのでしょう。><織田信長の時代にもかかわりのある吉田家・・。>
▽吉田冬房 (*)冬方。吉田経長の息。御醍醐天皇の側近。
中御門経季 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、一番局。東海道・東山道担当。
中御門宗兼 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、三番局。山陽道・山陰道・畿内担当。
中御門宣明 (*)参議。1336年比叡山籠城。
中院良定 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、一番局。東海道・東山道担当。
九条光経 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、二番局。北陸道担当。
⇔一条行房 (*~1337)世尊寺・藤原・頭大夫・左近衛中将。世尊寺経名の息。弟に行尹。後醍醐天皇の側近。1331年千種忠顕とともに隠岐流罪の天皇に近侍。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。1337年越前金ヶ崎城の落城に尊良親王とともに自害。息に行実、成朝。<勾当内侍の一門。兄妹とも。>
▽一条行尹 (*)世尊寺・藤原。世尊寺経名の息。藤原(一条)行房の養子(弟)。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。1337年兄の死により家督。
花山院師賢 (*)藤原・尹大納言。後醍醐の側近。討幕の無礼講参加者。1324年「正中の変」関係者。後醍醐天皇の倒幕計画に加担する。1331年第二次倒幕計画の際、陽動の為、天皇の影武者を務め比叡山に登る。
鳥丸成輔 (*)後醍醐天皇の倒幕計画に加担する。
洞院公賢 (1291~1360)藤原・内大臣。洞院実泰の息。阿野簾子の養父。1333年後醍醐天皇の復権により西園寺公宗が失脚。再度、内大臣となる。のち北朝の光厳院の院執事、太政大臣となる。北朝における親南朝派として、1351年二条良基に代わり、左大臣に任官。息に実世、実夏。
洞院実世 (1308~1358)藤原・権大納言・左衛門督。洞院公賢の庶子。公家侍大将。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。1324年「正中の変」関係者。1336年比叡山籠城。二条師基とともに京都に兵を進めるが敗退。1336年恒良親王に従い越前下向。金ケ崎城を脱出する。1349年伊賀国にて南朝勢力の旗頭。後村上天皇を補佐・権大納言。1351年男山籠城。1352年丹波守護代・荻野朝忠を追討する。光厳上皇、光明上皇を捕縛する。息に公行。
洞院定世 (*)左衛門監。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。
洞院実守 (*)北朝、南朝、北朝、南朝、北朝に出仕。「忠貞の志に欠ける人物」として有名人。
清原康基 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。
久我長通 (1280~1353)右大臣・奨学院別当。久我通雄の息。1333年後醍醐天皇の復権により近衛経忠が失脚。再度、右大臣となる。1340年太政大臣。
御子左為定 (*)大納言。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。
御子左為次 (*)1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。
藤原公明 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。
観修寺経顕 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。
藤原公光 (*)民部卿。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。
竹林院公重 (*)大納言。1336年比叡山籠城。
坊城経顕 (*)中納言。1336年比叡山籠城。
葉室長光 (*)中納言。1336年比叡山籠城。
<貴族> (五摂家には近衛・鷹司、九条・一条・二条の2流)
↓○二条師基 (1301~1365)権大納言・太宰権帥。二条兼基の息。北朝に属した二条道平の一門。公家侍大将。尊良親王の後見人として九州に赴任し鎮西探題の太宰権帥。のち帰還し京都山陰・北陸道口の主将。1336年比叡山籠城に北陸道の兵員を率いて参戦。中院定平と河内に落ちる。後村上天皇の関白。息に教基。
二条為冬 (*~1335)中将。足利尊氏の盟友。1335年足利尊氏追討軍の将。1335年「竹ノ下の合戦」後に討死。
坊門清忠 (*~1338)藤原・右(左)大弁・左京大夫・坊門宰相。坊門俊輔の息。兄に俊親(1322年に出家)。「建武の新政」に大蔵卿。1336年楠木正成の和平策を一蹴し。「湊川の合戦」の死地に追いやった。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。吉野で病没。<現実を見ず。自らは動かず。楠木正成ファンから、はげしく評判の悪い貴族です。>
坊門雅忠 (*~1336)少将・正忠。公家侍大将。1336年比叡山籠城。1336年千草忠顕に従い出陣し「雲母坂の合戦」に戦死。<伊勢湾の海賊・九鬼氏は坊門氏の後裔とも。>
藤原範国 (*)岡崎・右中弁。1333年「建武新政」の恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。
甘露寺藤長 (*)藤原・左中将・左大弁。1333年「建武新政」の恩賞方、二番局。北陸道担当。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。
↓三条泰季 (*)1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。のち九州薩摩に派遣される。
四条隆光 (*)中将。1336年比叡山籠城。
↓五条頼元 (1290~1367)勘解由次官・少納言。清原良枝の息(次男)。1333年「建武新政」の恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。1336年北朝の光厳上皇に従うが、出奔。のち懐良親王の後見人。九州に派遣される。阿蘇氏の南朝勧誘に勤める。
園 基隆 (*)園ノ・中将。1336年比叡山籠城。
<後村上天皇の補佐> (五摂家には近衛・鷹司、九条・一条・二条の2流)
北畠親房 (1293~1354)大納言・源氏長者・宗玄・覚空。淳和・奨学院別当。北畠師重の息。後醍醐天皇の側近「三房」のひとり。世良親王の養育係り。1380年親王が没し出家。結城宗広とともに義良親王を後見して関東遠征。弟に冷泉(春日)持房。
近衛経忠 (1302~1352)藤原・左大臣。近衛家平の息。1330年後醍醐天皇の下で関白職。近衛基嗣と嫡流を争う。後村上天皇側近。1341年京都に帰還し持明院党の公家の内部分裂工作を行うが失敗。
藤原康長 (*)法性寺左兵衛督・左近衛中将。藤原親康の息。後村上天皇側近。公卿武者。1352年5月後村上天皇の男山八幡脱出に奮戦し武功。
日野邦光 (1320~1363)左兵衛督・権中納言。日野資朝の息。後村上天皇側近。公卿武者。1339年新田義氏とともに中国地方に下向。石見国に挙兵する。1362年幕府から失脚離反した元管領・細川和氏とともに京都乱入。44歳。
藤原隆俊 (*)四条。藤原康長、日野邦光とともに幕府軍と抗争。1362年幕府から失脚離反した元管領・細川清氏とともに京都乱入。
護良親王(大塔宮)の軍団
<貴族・公卿衆> 1331後醍醐天皇、大和笠置山に挙兵「元弘の乱」。1334年護良親王、鎌倉に幽閉される。
殿ノ法印良忠 (*)護良親王の側近。公家侍大将。1333年大和口から一手大将として京都乱入。
四条隆資 (1292~1352)藤原・権中納言・大納言。四条隆実の息。祖父・隆顕の養子。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。護良親王の側近。公家侍大将。無礼講1324年「正中の変」関係者。1331「元弘の変」に笠置山に籠城。紀伊に落ち出家。1333年「建武新政」に復帰し恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。1336年比叡山籠城。1347年楠木正行に呼応して東条城に籠城。後村上天皇を補佐、権中納言。1351年男山籠城。1352年丹波守護代・荻野朝忠を追討する。光厳上皇、光明上皇を捕縛する。後村上天皇とともに吉野脱出の際に討死。
中印ノ定平 (*~1337)陸奥守・左近中将。護良親王の側近。公家侍大将。1331年挙兵の陽道の為、比叡山に登る。1333年大和口から一手大将として京都乱入。1335年西園寺公宗逮捕の部隊を率いる。1336年「湊川の合戦」に参陣。1336年比叡山籠城。二条師基とともに河内におちるが、以降消息不明。息に定清、雅平、洞院兼任。
湯浅氏光 (*)大塔宮入洛に供奉。その後は足利尊氏に従い、1337年河内国の「東条の合戦」には武家方。息の光重は楠木正行の家老和田氏を討つ。
南朝の軍団
<宮方の武将、悪党>
足助重成 (*~*1324)浦野・次郎・。三河賀茂郡足助出身。足助重範の従祖父。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。無礼講1324年「正中の変」関係者。「正中の変」に逃亡。<勤皇に励む足助党。>
多治見国長 (*~1324)四郎二郎。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。無礼講「正中の変」関係者。六波羅に第一次倒幕計画が漏れ、「正中の変」に六波羅探題・常盤範貞に攻撃され自害。
土岐頼員 (*~1324)十郎・左近・蔵人・頼兼。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。無礼講1324年「正中の変」関係者。六波羅に第一次倒幕計画が漏れ捕縛される。「正中の変」に六波羅探題・常盤範貞に攻撃され自害。息に土岐頼直。伊予国にも所領を有する。<もともと嫡流であったのが、後醍醐天皇に加担した罪で、家督からはずれたのでは。領地の接する伊予の宇都宮家、河野家と連合していたのかもしれませんね。>
⇔↓▽土岐頼直 (*)土岐頼員の息。惣領・頼清の従兄弟。1336年比叡山籠城。娘婿に宇津宮(武茂)泰藤。1336年恒良親王に従い越前下向。美濃里見城主。<南朝方に忠節を尽くした為に惣領職から外れるか。>
▽船木頼春 (*~1324)土岐。土岐頼員の弟。1324年「正中の変」発覚の原因者。舅の斎藤利行により幕府への謀反が訴えられる。
土岐頼貞 (1271~1339)伯耆守。美濃源氏。土岐惣領家。土岐光定の七男。母は北条貞時の娘。一族の(兄?)土岐頼員が後醍醐天皇に協力し「正中の変」で幕府の追討を受ける。建武新政に美濃守護職。1333年倒幕の際に足利尊氏に従う。1336年足利尊氏の西国落ちに従軍。<「正中の変」で討死した(兄?)頼員に代わり土岐惣領職継承。>
▽土岐頼清 (*)土岐頼貞の長男。頼康の父。土岐惣領家。美濃小島城主。伊予国にも所領を有する。<1336年後醍醐天皇方に与し、室町幕府下では弟・頼遠が家督を継承するか。>
⇔▽土岐頼遠 (*~1342)弾正少弼。美濃の豪族、土岐頼貞の六男。頼清の弟。土岐惣領家。尊氏に従い父と友に各地で転戦。高ノ師直・師泰兄弟と懇意。1336年足利尊氏の西国落ちに従う。1336年「多々良浜の合戦」、1338年美濃国「青野原の合戦」で北畠顕家を迎え撃ち名を馳せる、1339年父の死により家督を継承。美濃守護職。1342年「光厳上皇狼藉事件」を起こす。<建武親政ののち土岐家は南朝派、北朝派に分裂。頼遠は足利尊氏に従い、幕府の中心的な軍事力を負担。>
▽土岐貞経 (*)蜂屋・近江守。土岐頼遠の従兄弟。1335年尊氏の関東下向に従う。
▽土岐頼康 (1318~1387)大膳大夫・刑部大輔・入道善忠。土岐頼清の六男、土岐頼貞の孫。土岐惣領家。1342年叔父の自害により家督継承。革手城に本拠に定め、国衆・斎藤氏を従える。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。常に足利尊氏党を貫く。1352年に尾張守護職、1360年伊勢守護職。将軍・足利義満の代に管領・細川頼之と対立。1379年斯波義将と共謀し頼之を失脚させる。息に満貞、康行(養子)。<持明院党への無礼により足利直義に追放された頼遠の失脚により、嫡流家の頼康が惣領職に復権したか。>
▽長山頼兼 (*)土岐・明智・次郎。土岐頼康の弟。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。
▽揖斐頼雄 (*)土岐・新蔵人・いび。土岐頼康の弟。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。<揖斐氏は戦国時代に土岐家一門の守護者として斎藤道三に徹底抗戦。>
伊賀兼光 (*~*1336)山城・兼光。山城守・光政の息。文観とは子檀関係。朝廷方に通じる。後醍醐の側近。1321~24年討幕の無礼講参加者。六波羅探題の引付頭人、鎌倉御家人。1333年「建武新政」の恩賞方、一番局。東海道・東山道担当。1336年以降、消息不明。
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