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天下布武その2 織田水軍(海賊衆連合)、東海道の前線:小笠原軍

<四国征伐直前の織田諸将の配置>

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1578年6月「淡輪沖の海戦」雑賀(土橋)水軍に勝利(九鬼・志摩衆中心)。11月「第二次木津川河口の海戦」に勝利(和泉・志摩衆)。

≪織田水軍≫ 

 1576(天正4)年毛利水軍に「第一次木津川河口の海戦」敗北(和泉衆中心)。

<伊勢志摩水軍衆> 伊勢大湊北畠水軍 一揆方=熊野・雑賀水軍と敵対。


<九鬼党>
⇔九鬼澄隆 (*~1582*1584)弥五郎・すみたか。浄隆の息。伊勢志摩の海賊。九鬼定隆の嫡男・九鬼浄隆の息。九鬼嘉隆の甥。九鬼惣領の父・九鬼浄隆は鳥羽衆・橘宗忠、小浜衆・小浜民部、安楽島・荒島左門、浦衆・浦豊後、安乗衆・三浦新介、和具衆・青山豊前、越賀衆・越賀隼人、的矢衆・的矢美作と並ぶ海賊頭目。叔父・嘉隆の後見で田城を奪還。織田氏に仕え、1568年嘉隆が「大河内城攻囲」に従軍。1582年叔父の九鬼嘉隆に田城城にて謀殺され、家督を奪われる。田城城主。
⇔九鬼光隆 (*)左馬允・伊豆允。織田信長に出仕。弟・嘉隆とともに伊勢湾の海賊平定に軍功、大野、内海の海賊を討つ。波切城主。息に恒隆。
 
九鬼嘉隆 (1542~1600)右馬允・大隈守。妻は橘宗忠の娘。伊勢志摩の海賊、志摩七人衆のひとつ九鬼(くかみ)氏一門。九鬼定隆の次男、浄隆の弟。流浪しているところを信長に登用される。1569(永禄12)年北畠具教の「大河内城攻略戦」に活躍。志摩鳥羽城主となる。1573年「長島一揆討伐戦」に瀧川一益とともに安宅船で海上封鎖。1574年伊勢「長島一向一揆征伐」に出動。北畠信雄に従い大鳥居砦を攻略。1578年6月「淡輪沖の海戦」に雑賀水軍に勝利。11月第2次「木津川河口の合戦」に毛利水軍を、伊勢大湊で建造した鉄船:日本丸(鬼宿丸)の6隻で破り、瀬戸内海の抑えを果たす。恩賞として摂津に所領を与えられる。荒木村重配下の花隈城を海上から封鎖。堺に常駐する。1582年「本能寺の変」後は東上する羽柴軍に従う。兄の息・九鬼澄隆を謀殺して家督を継承する。関ヶ原に西軍に加担し答志島にて自害。

鉄甲船=長さ18~25間、幅6間。大砲3門、大鉄砲多数
(毛利家も尼子残党・上月城攻略に大鉄砲使用)。
<毛利家との新兵器開発競争が激化していたようです。対毛利の同盟者・大友家からの技術供与もあったことでしょう。>

▽九鬼守隆 (1573~1632)志摩の海賊出身。橘宗忠の外孫。瀬戸内海・大阪湾を鉄船で制圧する。鳥羽城主。

▽九鬼成隆 (*)志摩の海賊出身。守隆の庶兄。側室の子であったため、家督は守隆が相続する。瀬戸内海を鉄船で制圧。九鬼水軍は軍功により摂津野田・福島を与えられた。

佐治隆政 (*)越賀・小鹿・隼人。越賀党。志摩・越賀水軍の長。1569年織田信長の後援を得た九鬼嘉隆の攻撃に抵抗。3年後に降伏し臣従。<かつて一色家の尾張分郡守護代家・佐治氏。>

青山* (*)九鬼・豊前。和具党。志摩・和具水軍の長。1569年織田信長の後援を得た九鬼嘉隆の攻撃に抵抗。3年後に降伏し臣従。

⇔▽伊藤* (*)孫太夫。北伊勢の海賊。瀧川一益の与力。瀧川一益の与力として織田水軍旗艦・白船を操船。1578年9月大船建造の功にて、堺に訪れた信長から黄金六枚を拝領する。瀬戸内海・大阪湾を鉄船で制圧する。<本願寺により排除された伊勢長島城主・伊藤氏の一門か。>

▽伊藤* (*)(九鬼)・兵夫。相差党。九鬼姓を貰い九鬼水軍。<本願寺により排除された伊勢長島城主・伊藤氏の一門か。>

⇔▽渡辺数馬 (*)(九鬼)・佐内。答志党。瀧川一益の与力として織田水軍旗艦・白船を操船。1578年9月大船建造の功にて、堺に訪れた信長から黄金六枚を拝領する。瀬戸内海・大阪湾を鉄船で制圧する。九鬼姓を貰い九鬼水軍。

▽浜島* (*)(九鬼)・豊後守。浜島党。九鬼姓を貰い九鬼水軍。1569年織田信長の後援を得た九鬼嘉隆の攻撃に抵抗。3年後に降伏し臣従。<浜島の小野田筑後との関係は不明。>

⇔▽犬飼* (*)(犬養)・助三。瀧川一益の与力として織田水軍旗艦・白船を操船。1578年9月大船建造の功にて、堺に訪れた信長から黄金六枚を拝領する。瀬戸内海・大阪湾を鉄船で制圧する。

(九鬼家次世代)
村田* (*)七大夫。1584年九鬼嘉隆を救援する軍功。
豊田* (*~1600)五郎右衛門。九鬼嘉隆の娘婿。関ヶ原に敗戦した九鬼嘉隆の切腹を進めた後に、守隆の助命嘆願が許可されたため責任を取る。

<尾張・三河水軍> 

一揆方=石橋義忠・服部友貞と敵対。旧今川・武田水軍と敵対。
(同郷、甲賀出身の海賊衆)
⇔佐治宗貞 (*)駿河守。元・一色家家臣。近江国甲賀郡佐治郷の佐治一門。大野・内海を中心に知多半島西部に勢力。下剋上により大野城主。息に為景。

⇔▽佐治為景 (*)上野守・為貞。宗貞の息。尾張国知多郡大野(宮山)城主。息に信方、(荒尾)善次、(千賀)重親。<海部郡にも大野城あり。>
▽荒尾空善 (*)小太郎。知多郡木田城主。為景の次男・善次を養子とする。

▽千賀為親 (*)伊予水軍。志摩国鳥羽千賀に移住するが、九鬼氏により志摩を追われる。知多須佐豊浜に移住。師崎湊を拠点とする。養子に佐治為貞の息・重親。<羽豆崎城を巡り、熱田千秋氏、三河戸田氏と抗争する。>

⇔佐治信方 (*~1571*1574)八郎・為興。尾張知多郡大野城主。織田信長の妹(お犬姫)婿。伊勢「長島一向一揆征伐」に従軍し討死。妹婿に緒川城主・水野忠分(水野信元の弟)。23歳。息に中川秀休、佐治一成。<信忠の小姓に佐治新太郎。><伊勢湾の海運を握る豪族か。><津島・熱田につづいて重要な湊町だったのかもしれませんね。>

⇔佐治一成 (1569~1634)織田・与九郎。母は織田信秀の娘。佐治為興の息。1571年父の死後家督。信長弟・長野信包の家老。元、水野忠胤室と婚姻。再婚者。<知多半島・大野湊の支配者。>

⇔佐治* (*)日向守。羽柴秀吉の妹(朝日姫)婿。のち離縁により自害。

戸田忠次 (1531~1597)三郎右衛門・三郎左衛門。三河渥美半島一帯に勢力を持つ。田原戸田庶流。渥美郡大津に所領。戸田光忠(忠光)の息。息に戸田尊次。1563年三河一向一揆に与力。1568年「遠江侵攻」に従軍。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠合戦」従軍。徳川家に反抗し浪人。のち徳川家に従い1590年家康の関東移封に伊豆下田に5000石。<本家・戸田康光は家康を織田家に売る。><北尾張の落合城に戸田直光あり。>

渥美* (*)三河渥美半島一帯に勢力を持つ。

<瀬戸内水軍衆(信長直属の隊長)>

 和泉最有力者松浦肥前守は1573年に織田家に降服。
(和泉水軍) 一揆方=淡輪・雑賀水軍。 毛利水軍。
↑寺田生家 (*~1585)又右衛門尉。寺田知正の息、松浦宗清の兄。松浦肥前守の家臣。和泉水軍をも束ねる。1575年頃より臣従。佐久間信盛の与力。1581年京都馬揃えに参加。1582年1月織田信張に従い根来寺泉識坊を討つ。<「土橋成敗」の司令官・野々村正成の一手として働き「根来寺千識坊」を討った斉藤六大夫との関係が不明。同一人物のことか?>

↑松浦宗清 (*~*1600)安大夫・定一・清長。寺田生家の弟。松浦肥前守の家臣(養子カ)。和泉水軍をも束ねる。1575年頃より臣従。1581年京都馬揃えに参加。<斎藤六大夫と名乗ったのは、松浦安大夫のことか?>

沼間任世 (*)沼・清蔵・越後守・越後入道・清成。和泉水軍を率いる。松浦氏とは和泉水軍の双虎。1576年から住吉浜(城)砦に在番。佐久間信盛の与力となり大阪石山本願寺の海上を封鎖。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に毛利水軍に敗北。1581年「京都馬揃え」に蜂屋頼隆の与力として入場。和泉大鳥郡綾井城主。

▽沼間義清 (*~1576)沼・越後守。和泉水軍衆。沼任世(清成)の息。1576年から住吉浜(城)砦に在番。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に毛利水軍に敗北し討死。和泉水軍を率いる。和泉綾井城主。

▽沼間興清 (*)沼。和泉水軍衆。義清の子息。1576年から住吉浜(城)砦に在番。父の死により任世の後見で家督。和泉水軍を率いる。和泉綾井城主。羽柴秀吉に出仕、中村一氏与力。

沼野* (*~1576)大隈守。和泉水軍衆。1576年から住吉浜(城)砦に在番。

沼野* (*~1576)伊賀守。和泉水軍衆。沼任世の従兄弟。1576年から住吉浜(城)砦に在番。

▽沼野* (*~1576)伝内。和泉水軍衆。伊賀守の息。1576年から住吉浜(城)砦に在番。

小畑* (*~1576)尼崎衆。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。

野口* (*~1576)花隈衆。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。

真鍋* (*~1576)七五三兵衛。和泉水軍衆。1576年から住吉浜(城)砦に在番。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。

(河内水軍) 海は無いので、河内潟や大和川支流の水運業を経営してた土豪か?
杉原* (*)兵部丞。河内水軍衆。1576年から佐久間信盛軍団与力。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北。

宮崎* (*~1576)鹿目介。鎌大夫の弟。河内水軍衆。1576年から佐久間信盛軍団与力。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。

宮崎* (*~1576)鎌大夫。杉原兵部の甥。河内水軍衆。1576年から佐久間信盛軍団与力。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。

(紀伊水軍)
堀内氏善 (1549~1615)熊千代・新次郎・安房守・氏義・氏吉。紀伊牟髏郡。熊野新宮の豪族。新宮社家熊野別当、氏虎の息。九鬼嘉隆の娘(養女)婿。1574年兄・氏高の跡職を継承。紀伊守護畠山氏家臣。三木浦の三木氏を攻略。北畠具教の要請で、伊勢長島一向一揆を救援する。1576年北畠信雄の家臣・加藤甚五郎と、紀伊国「三鬼城」に抗争。のち織田方に転じる。1581年2月に織田信長から所領を安堵される。新宮城主。後に加藤清正に出仕し、肥前宇土城主。

<熊野水軍> 昔から源氏、平家の命運を分けた伝統の水軍です。伊勢大湊は織田家直轄領となります。
杉若無心 (*)藤七・越後守。紀州の豪族。熊野水軍を率いる。惟住長秀を娘婿に迎える。1585年秀吉の紀州征伐に従い軍功。19000石。息に杉若氏宗。<1581年熊野別当の堀内氏善が織田家に従うので、その頃臣従か。>

杉若氏宗 (*)主殿頭・伝三郎。無心の嫡男。紀州の豪族。熊野水軍を率いる。

▽神保春茂 (*)紀州畠山家の家老。息の神保相茂(1582~1615)は杉若無心の娘婿。のちに豊臣家に出仕。

⇔吉川平吉 (*~1580)1580年鳥取城攻囲に一軍の将。防己尾城の攻略戦に戦死。<平助と混同されているんでしょうか。>

⇔吉川平助 (*)伊勢神宮の門前湊として栄えた伊勢大湊(二見浦)の船奉行。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「本能寺の変」に際しては徳川家康を三河へ逃す。<平吉の跡職か。>

吉川* (*)三蔵。平助の弟。紀伊国新宮北山の代官。1588年一揆に攻撃される熊野別当・堀内氏善を救援。

<雑賀水軍>
鈴木重秀 (*)孫一・孫市・孫三郎。紀伊平井出身。養父を土橋守重に討たれる。1570年三好党の傭兵。1576年原田直政を崩す。1576年3月一揆頭領七人連署を提出し降服。

(四国水軍) 毛利水軍村上・細川水軍香西氏。
船越景直 (1540~1611)左衛門。細川氏、安宅冬康、三好長治の旧臣。
篠原自遁 (*)阿波三好家家宰。木津泊の支配者。1581年2月三好康長の救援。阿波木津城主。

森 村春 (*)志摩守。三好水軍。阿波土佐泊の支配者。土佐泊城主。<伊勢長島の森氏とは海賊衆繋がりで関係ありか?>

香川信景 (*)之景。讃岐国雨霧城主。

(淡路水軍)
⇔野口長宗 (*)菅。安宅冬康の弟。淡路水軍。1581年郡家の田村康広と同盟し長宗我部氏と抗戦。1583年秀吉軍に敗北し降伏臣従。淡路志智城主。

淡輪* (*)主馬兵衛。淡輪海賊衆の頭領。信長に臣従する。1576(天正4)年7月「第一次木津川河口の合戦」に毛利水軍に敗北。

安宅信康 (1549*1555~1578*1580)甚太郎。安宅冬康の息。清康の兄。三好家旧臣。水軍衆。1570年足利義昭に降る。一時石山本願寺と結び織田家と抗争。1575年頃に降服臣従する。1576年信長より石山攻囲の命を受ける。1577年毛利水軍との第一次「木津川河口の海戦」に参加。1580年羽柴軍の小西行長とともに毛利水軍を撃退する。その後、ほどなく没す。

⇔▽安宅清康 (*)河内守。安宅信康の弟。三好家旧臣。水軍衆。安宅信康の跡職継承。1581年当時、毛利配下のため羽柴秀吉・池田元助の攻撃をうけ降伏する。池田元助に伴われ安土に出頭した。その後は織田水軍に組み込まれた。<池田元助の与力として、四国渡海組を輸送する予定か。>

⇔菅平達長 (*~1614)菅達長・菅・平右衛門。三好水軍。淡路岩尾城主。淡路海族衆。のち長宗我部家に出仕。1585年7月の四国征伐後、秀吉配下となる。

(明石水軍) 
明石元知 (*~1595)与四郎・則実・則春・全豊・左近将監。黒田孝高の従兄弟。淡路渡海組(水軍衆)。阿波に遠征し、各地で戦功をあげる。のち羽柴秀次の家老となる。秀次事件に自殺。<黒田家から離れた軍事行動を行っているのは、信長様に将才を認められてのものか。><1581年9月「明与四」、生駒甚助とともに阿波木津城・篠原自遁の救援に出動。>

石井* (*~1592)与次兵衛。播磨明石の水軍の将。1577年頃織田家に臣従。

(村上水軍 離反組)
⇔▽来島通総 (1561~1597)村上勘兵衛・助兵衛・出雲守通昌。元・毛利家臣。水軍衆。通康の四男。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に毛利家に従う。毛利、織田家に出仕。1582年4月羽柴秀吉の調略に応じる。<第二次木津川河口の敗戦で織田家の力を認めたということでしょう。>

<日本海水軍衆> 若狭、丹後、越前の水軍。

松井康之 (1550~1612)甚七郎・猪介・佐渡守・式部大輔。旧幕臣。松井正之の息(次男)。母は荒川澄宣の娘。兄・勝之(*~1565)は足利義輝に殉じる。足利義昭とともに諸国を流浪。1569(永禄12)年対三好の「桂川の合戦」で活躍。1570年御牧攻め、高屋攻めに軍功。1573年淀城攻め、貝塚攻めに軍功。長岡藤孝与力として丹後に従軍。丹後衆。日本海方面の水軍大将として羽柴軍の後詰。1579年有岡攻めに従軍。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1581年因幡国鳥取城後詰。1582年「本能寺の変」後は長岡家家臣。秀吉から石見半国18万石で勧誘されるが辞退する。<信長側近で堺の代官・松井友閑の甥ともいわれます。真実ならば水軍での出世に合点がいきます。松井友閑が秀吉により失脚するさまをみて細川家への従属をつよめたのかもしれませんね。>

(若狭水軍)
武田元明 (1552~*1582)孫八郎・孫犬丸。若狭国守護家、武田義統の息。1568年若狭に侵入した朝倉家により、越前に拉致される。朝倉家滅亡後は神宮寺にて、織田家に従属する。1575年7月に上洛し京都相国寺に信長に訪礼。8月「越前一向一揆征伐」に水軍を率いて海上より従軍。逸見昌経の死後領地を与えられる。小浜城主。親明智派。

*↑粟屋勝久 (*~*1600)越中守。若狭衆。若狭武田元明・四家老のひとり。守護・武田義統と対立。朝倉家の越前侵攻に最後まで抵抗。1570年「越前攻略」の織田信長に宿を提供。1575年武田元明を奉じて上洛。1575年8月「越前一揆征伐」に水軍を率いて上陸。丹羽長秀の娘婿。1600年関ヶ原に西軍に属し没落。佐柿国吉城主。<長秀さんにとって若狭国支配の重要人物のようです。><1538年粟屋元隆が守護武田家に対して叛乱。>

▽粟屋* (*)弥四郎。1570年「越前攻略」の織田信長に従う。1575年武田元明を奉じて上洛。1575年8月「越前一揆征伐」に水軍を率いて上陸。<勝久一門。>

逸見昌経 (*~1581)駿河守・宗全。若狭武田家家老。1561年逸見昌経とともに丹波の松永長頼と謀り、君主・武田義統に反乱。以降も武田義統と対立、山県盛信と抗争する。のち織田家に従う。武藤景久の追放後領地を与えられる。1575年8月「越前一揆征伐」に水軍を率いて上陸。若狭高浜城主。跡職は溝口秀勝が継承。<先祖は丹後・一色家と結んで度々叛乱。>

山県盛信 (*~*1582)源三郎・下野守・秀政。武田氏一門。若狭守護・武田元信の息。小浜の豪族、山県家に養子。1575年7月に上洛し京都相国寺に信長に訪礼。8月「越前一向一揆征伐」に水軍を率いて海上より従軍。親明智派。<甲斐武田の家老も山県。>

内藤勝行 (*~*1582)筑前守・重政。若狭守護代。内藤勝高の息。若狭守護・武田元光の孫。義統の従兄弟。1556年武田信豊の奏者、武田四老のひとり。1575年7月に上洛し京都相国寺に信長に訪礼。8月「越前一向一揆征伐」に水軍を率いて海上より従軍。親明智派。遠敷郡、天ケ城城主。<甲斐武田の家老も内藤。>

熊谷直之 (*~1595)平・伝左衛門・大膳亮・直澄。若狭武田旧臣。三方郡伊崎城主。三方郡の豪族。1568年越前朝倉家の南下に対抗。1570年越前朝倉攻めに従軍。のち羽柴秀次臣、大倉見城主5万石。秀次事件に連座し切腹。<熊谷治部丞(信長から倉見荘を安堵される。)、熊谷伝左衛門は別人か。><近江、塩津の熊谷家とは別系統のようです。>

白井光胤 (*~*1582)民部丞・民部少輔。若狭国武田家旧臣。若狭加茂の豪族。1575(天正7)年武田元明と共に信長に臣従。越前一向一揆制圧に水軍として従軍。親明智派。<河内の白井(三箇)氏との関係が気になります。>

松宮* (*)若狭国武田家旧臣。
寺井* (*)若狭国武田家旧臣。
香川* (*)若狭国武田家旧臣。
畑田* (*)若狭国武田家旧臣。

(丹後水軍)
一色義道 (*~1579)式部大夫・左京大夫。一色義幸の息。1570年織田信長に将軍謁見の上洛を催促される。一色七郎の反乱を鎮圧。1575年8月越前一向一揆征伐に水軍として従軍。1575年丹後一職支配を許可される。1578年堺に赴き九鬼の鉄舟を見学。丹後平定の途中で病死。

○矢野* (*)但馬守。丹後衆。一色満信の三家老。1575年越前一向一揆征伐に水軍として従軍。

○矢野* (*~1582)藤一郎。一色家臣。丹後衆。竹野郡の豪族。藤孝の与力。1575年8月越前一向一揆征伐に水軍として従軍。1581年9月4500石を信長より与えられる。1582年親明智派の為、長岡軍により討伐される。吉永城主。<田辺城主・矢野但馬守の一門か。>

○大嶋* (*)対馬守。一色家臣。丹後衆。一色満信の三家老。1575年越前一向一揆征伐に水軍として従軍。1579年一色満信に応じて由良城に籠城。矢野氏とともに長岡軍に降伏。丹後由良城主。与力に中山圭之助。

○桜井* (*)豊前守。一色家臣。丹後衆。一色満信の三家老。1575年越前一向一揆征伐に水軍として従軍。1579年矢野氏とともに長岡軍に降伏。

<遠江衆「遠州錯乱」1560~1563>

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(元・駿河今川家家臣団)


井伊直親 (1535~1562*63)肥後守。義父・直盛は「桶狭間」に戦死。今川家の朝比奈泰朝の攻撃により戦死。28歳。

飯尾連竜 (1531~1565*1566)乗連の息。「桶狭間」の戦後、井伊家を圧迫。1564年三河の松平元康と同盟。今川氏真の部下・三浦正俊、新野親矩、中野直由を撃退。氏真と和睦するが暗殺される。曳馬城主。

天野景泰 (*~1566)七郎・与四郎・宮内右衛門尉・安芸守。天野嫡流家。息・元景とともに飯尾氏に従い今川家に反乱し滅亡。犬居城主。三河・安祥城主。跡職は分家の天野景貫が継承する。

松井宗恒 (*)(横地?)八郎・山城守。宗信の息。遠江中央国人。松井家は元・横地家家老職。1548年「小豆坂の合戦」に従軍、殿軍を務め上げた。1560年父の戦死により家督。1568年徳川家康の「遠江乱入」に反抗。1572年武田勝頼に従う。二俣城主。

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疑惑①:「姉川の合戦」に力戦したのは三河勢ではなく、遠江の元・今川旧臣達だったのでは?

<遠江高天神 小笠原党>

1568年遠江乱入。旗頭・小笠原長忠 今川衆の纏め役、有力外様として活躍。
1570年「姉川の合戦」に先陣。1574年徳川家の後詰を得られず武田家に降服。<「姉川七本槍」も信長の怒りに触れ武勲を歴史から抹消されたようです。>

▲小笠原長高 (*)彦五郎・右馬助・左京大夫・信濃守。深志小笠原一門。今川家家老職。小笠原家惣領。

△小笠原長氏 (*)彦太郎・与八郎・右京進・春茂・春義。今川家家老職。小笠原家惣領。弟に宗長、氏朝、朝宗、朝定。

小笠原氏興 (*~*1569)彦五郎・与八郎・左京進・美作守。元・今川家臣。遠江国人衆。小笠原家惣領。娘婿に小笠原長治。1568年織田・徳川家に通じる。1569年長忠が跡職を相続。息に長忠、(信興?)。弟に綱氏、清広、義頼。のち遠江馬伏塚城主。

▽小笠原信興 (*~*1582*1590)与八郎・氏儀。元・今川家臣。遠江国人衆。小笠原氏興の息。初期旗頭。1568年織田・徳川家に通じる。1574年武田家に降伏臣従。惣領・長忠を追い出し、のち遠江高天神城城主は岡部長教。駿河庵原・富士郡に転封される。1582年北条領に出奔。遠江馬伏塚城主。<信興は別人で、長忠の死により親武田派の小笠原信興が跡職を継承したとも。『信長公記』では与八郎が惣領を追い出し武田に降った事になります。自分的には公記を尊重すべきかな。><武田に従い「信」の字を与えられたらしい。晴信・義信ならわかりますが、勝頼が信をあたえるでしょうか・・。穴山信君の与力という意味合いとか。>

⇔↑小笠原長忠 (*~*1574)氏義・氏助・弾正少弼。元・今川家臣。遠江国人衆。小笠原氏興の息。初期旗頭。遠江高天神城城主。1568年織田・徳川家に通じる。1569年家督相続。1570年「姉川の合戦」に4部隊長のひとり。1571年「味方ヶ原の合戦」に7部隊長のひとり。1574年武田勝頼に降服し没落。跡職は信興が継承。<「姉川の合戦」に元今川遠江軍を率いて先陣。><織田信長に「長」字を与えられたか?><高天神城にて織田家に謀反したため、過去の功績を剥奪される。>

▽小笠原清有 (*)与左衛門。1574年高天神城三の丸守将。<大須賀康高の横須賀衆に与三右衛門・清有あり。>

○大河内政局 (*)(大橋)・源三郎。1574年武田家に降伏せず幽閉される。8年間の幽閉により歩行障害。高天神奪取の際に救出された。のち「長久手の合戦」に戦死。<吉良家家老の大河内一門か。><津島の大橋家の関係者でもあります。>

▽本間氏清 (1556~1574)丸尾氏清・八郎三郎。丸尾和泉守の息。本間五郎の養子。高天神城ニの丸守将。28歳。

▽丸尾義清 (*~1574)修理亮。本間氏清の弟。兄の戦死により、守将を引き継ぐが攻略され戦死。26歳。

<小笠原譜代衆・姉川七本槍>

のち武田家に降伏臣従。

⇔渡辺 照 (*~1582)金大夫・金太夫。小笠原家家臣。1570年「姉川の合戦」に従軍。「姉川七本槍」のひとり。1574年「高天神城」落城に際して、武田家に降伏臣従。1582年高遠城にて仁科盛信の与力。<信長様も武辺とかっこよさを認めた「朱の唐傘に金の短冊の指物」の侍。本多平八郎との「日本一番の槍」争いで徳川家に頭にきてたのかもしれませんね。>

門奈* (*)判名・左近右衛門。小笠原家家臣。1570年「姉川の合戦」に従軍。「姉川七本槍」のひとり。1574年「高天神城攻防戦」。<渡辺照に劣らぬ戦場働きながら鎧姿が目立たず信長に認められなかったらしいです。派手さで標的となり命を削られながらもかぶく度胸があってこそ戦場の戦況を左右する勇者と信長様なりの基準があるのかもしれませんね。>

伊達* (*)与兵衛。小笠原家家臣。1570年「姉川の合戦」に従軍。「姉川七本槍」のひとり。1574年「高天神城攻防戦」。<今川氏親の家臣に井伊家と抗争する伊達蔵人丞・忠宗あり。子孫か?>

伏木* (*)久内。小笠原家家臣。1570年「姉川の合戦」に従軍。「姉川七本槍」のひとり。1574年「高天神城攻防戦」。

中山* (*)是非之助。小笠原家家臣。1570年「姉川の合戦」に従軍。「姉川七本槍」のひとり。1574年「高天神城攻防戦」。

吉原* (*)又兵衛。小笠原家家臣。1570年「姉川の合戦」に従軍。「姉川七本槍」のひとり。1574年「高天神城攻防戦」。

林 * (*)平六。小笠原家家臣。1570年「姉川の合戦」に従軍。「姉川七本槍」のひとり。1574年「高天神城攻防戦」。

匂坂光行 (*)牛之助。小笠原家家臣。1570年「姉川の合戦」に従軍。1574年「高天神城攻防戦」。

<遠江国衆> 元・小笠原与力衆か。のち徳川与力

久能家が存続。1569年掛川城、今川氏真の降伏。

飯尾* (*)元・今川家臣。遠江国人衆。引馬城主。飯尾連竜の跡職。1568年徳川家に通じる。<先祖の飯尾賢連は東条・吉良義堯の家臣として遠江支配に協力。><連竜は今川氏真に誅殺されているので、連竜の一門の誰かでしょうか。>

石谷政清 (*)元・今川家臣。遠江国人衆。石谷城主。1568年徳川家に通じる。

二俣* (*)左衛門尉。元・今川家臣。遠江国人衆。二俣城主。1582年織田信忠の「甲斐乱入」に駿河口から働いた徳川家康に降服。<二俣氏と中根氏、一門のようなものなのでしょうか。遠江国人・横地藤丸は家臣の松井・二俣氏に擁立され再興を謀るが失敗。横地元国は武田家に出仕。>

浅原* (*)主殿。元・今川家臣。遠江国人衆。高園城主。1582年織田信忠の「甲斐乱入」に駿河口から働いた徳川家康に降服。

松下之綱 (*)遠江国人衆。元・今川家臣。頭陀寺城主。1582年織田信忠の「甲斐乱入」に駿河口から働いた徳川家康に降服。<遠江国人・横地藤丸は家臣の松井・二俣氏に擁立され再興を謀るが失敗。横地元国は武田家に出仕。関係ありか?>

↑久野宗能 (*)久能・弾正。元・今川家臣。遠江国周智郡、久能城主。駿河衆久野城。<今川氏親の家臣、久能宗隆の家老は曳馬城主・三好為連。>

大沢基胤 (1535~1614)左衛門佐。堀江城主。元・今川家臣。1569年徳川家に臣従。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に軍功。息に大沢基宿。

天方通綱 (*)山城守。遠江国人衆。元・今川家臣。徳川家に臣従。家康に徳川信康自刃の使者に選抜される。二俣城にて信康を介錯。

向坂* (*)勾坂・式部・六郎左衛門・常陸介。三兄弟の長兄。1570年「姉川の合戦」に軍功。高天神城主・小笠原長忠の与力。1574年武田家に降伏臣従。遠江勾坂城主。<向坂式部三兄弟が真柄十郎左衛門を討つとも。青木一重と功名を争っています。>

勾坂吉政 (*)向坂・六郎五郎。長能の息。兄に政信、政通。1568年甥・政祐は武田家、吉政は徳川家に出仕。政祐を討つ。1570年「姉川の合戦」に従軍。息に吉長。<小笠原家から援軍要請の使者として、徳川家に派遣された勾坂牛之助との関係が気になります。>

画像4

<井伊谷三人衆> 徳川軍団のち井伊直政の配下に。


菅沼忠久 (*)遠江豪族。井伊谷三人衆。1568年徳川家に通じる。
鈴木重時 (*)遠江豪族。井伊谷三人衆。1568年徳川家に通じる。
近藤康用 (*)遠江豪族。井伊谷三人衆。1568年徳川家に通じる。
▽近藤秀用 (*)平右衛門。引佐郡井伊谷の豪族。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。

<個人的感想> 織田家直参扱いならば、戦国大名を目指し武田と抗争する気になったのかもしれません。もし「遠江国切り取り次第」というような、朱印状を与えられてしまったとしたら、徳川家康はおもしろくなくて、高天神城の救援に動かなかったのかもしれませんね。
 柴田勝家軍団と、簗田(別喜)広正軍団のように、ライバル関係では物事が上手く進まないのかもしれません。それに三好康長と長曾我部元親の関係のように互いに競合させて、どちらを残すと織田の天下にとって好都合かを秤に掛けられていたのかもしれませんね。

 

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