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室町幕府四職家 その4:赤松家の家臣団と軍団

足利幕府 歴代将軍と赤松氏

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足利尊氏将軍就任からの武将 <在職期間1338~1358>)

 ⇔足利尊氏 <1338~1358>(1305~1358)足利貞氏の息。母は上杉清子。室町幕府初代将軍。丹波綾部の上杉荘と縁がある。丹波(亀岡)篠村八幡宮で反鎌倉幕府の挙兵。のち後醍醐天皇とも対立。北朝、光厳上皇を奉じる。武士の要望に応え過ぎたため、将軍の所領が少なく、足利将軍の勢力基盤が脆弱な原因となった。<足利尊氏のページ参照してください。>
1333年赤松則村、姫路城予定地に縄張り。
都落ちの際、赤松則村(円心)の白旗城死守により九州から挽回、足利政権成立の貢献度大。
1346年赤松貞範、姫路城築城。
1349年小寺頼季、姫路城主。
1352年小寺景治、姫路城主。

足利義詮 <1358~1367>(1330~1367)千寿丸・鎌倉大納言・坊門殿・左馬頭・左近中将・征夷大将軍・権大納言・足利宰相。尊氏の嫡子。母は北条(赤橋)久時の娘。室町幕府第2代将軍。渋川義季の娘婿。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質として鎌倉に入府。1333年新田義貞の後見で鎌倉幕府を討幕。鎌倉を実質的に占拠し、新田義貞は上洛する。1349年尊氏の意向で上洛。1358年父の死により家督。1358~1367年二代目征夷大将軍に在位。斯波氏を管領に登用。1365年ごろ足利幕府の安定をみる。のち細川頼之に義満を託す。
1358年小寺景重、姫路城主。

足利義満 <1368~1394>(1358~1408)足利義詮の息。母は紀良子。室町幕府第3代将軍。1368年11歳で将軍職継承。管領・細川頼之の補佐。1378年室町御所造営。20歳で頼之を四国に追放。斯波義将を管領とする。1392南北朝統一に成功。土岐、山名、大内氏を制する(明徳・応永の乱)。太政大臣任官。1397年金閣寺造営。1401年日明貿易を開始。息に義持。
<1393年細川頼元、管領辞任。>
<1395年今川貞世、九州探題職解任。>
室町 今川貞世の家臣団と軍団
<1399年大内義弘の挙兵、「応永の乱」。>
1403年小寺職治が姫路城主。

足利義持 <1394~1423>(1386~1428)足利義満の息。母は藤原慶子。室町幕府第4代将軍。父・義満の後見で9歳で将軍就任。父の死後は管領・斯波義将の補佐。日明貿易を中止する。関東で足利持氏と上杉禅秀の対立が激化。1416年「上杉禅秀の乱」。弟の義嗣を乱共謀の罪で殺害。1400年頃、斯波義将が織田常松を尾張に派遣。
側近・赤松(春日部)持貞を寵愛するも側室との姦通が発覚し、満祐を赦免し守護に任命。
1408年備前守護代・浦上助景、伊勢国山田にて誅殺される。

足利義量 <1423~1425>(1407~1425)足利義持の息。母は藤原栄子。室町幕府第5代将軍。15歳で酒乱、側近が罰せられる。1423年義持の出家により将軍就任、17歳。1425年飲酒中毒のため在職3年で病没。義持が執政に復帰。赤松持貞が元将軍・義持の妻と恋愛。赤松満祐が白旗城に籠城し「応永の変」起す。1427年赤松持貞の不倫が発覚し自害。赤松満祐は降伏し幕府に帰順。義持の遺言で後継者は籤で決められた。

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足利義教 <1429~1441>(1394~1441)青蓮院義円・青蓮院門跡・義円。足利義満の息。母は藤原慶子。足利義持の弟。室町幕府第6代将軍。1429年義持の死により天台座主・義円が還俗。鎌倉公方・足利持氏と対立。義教の代に徳政令を求める「正長の土一揆」勃発。1433年仁木国行、今川範政、斯波義淳を弾圧。1435年山名時熙を弾圧。1439年京極持光を弾圧。1439年「永亨の乱」関東公方・足利持氏を討伐。将軍の権力を強化。1440年一色義貫、土岐持頼を弾圧。1441年畠山持国、富樫教家を弾圧。1441年赤松満祐の「嘉吉の変」に横死。赤松教康により京極高数、大内持世、山名熙貴もともに討たれる。 側近の赤松(春日部)貞村を寵愛。

1441年山名持豊、姫路城主。

足利義勝 <1442~1443>(~1443)足利義教の息。母は藤原重子。室町幕府第7代将軍。1441年義教の死により将軍就任。赤松討伐軍を編成し、細川持常、細川淡路守、武田信賢、赤松貞村、赤松満政。別働隊に山名持清、山名教清、山名教之、山名政豊を動員。1441年赤松満祐、足利冬氏を迎え将軍・足利義尊と称させるが坂本城、木山城が落ち自害。義勝は在位一年余りで夭折。

足利義政 <1449~1473>(~1490)「応仁の乱・影の東軍大将」。足利義教の息。母は藤原重子。足利義勝の弟。幼少のため14歳まで将軍空位。畠山持国、細川勝元が代行。室町幕府第8代将軍。乳母・今参局、有馬持家、鳥丸資任の「三魔」を重用。1466年斯波(渋川)義廉を更迭し、斯波義敏に斯波家家督。斯波義廉が織田広成を上洛させ家督回復。1467年畠山義就を登用し家督。管領・畠山政長失脚。
貞村の息・赤松教貞を登用。
1454年赤松則尚の挙兵、山名宗全に鎮圧される。
1467年「応仁の大乱」。1467年赤松政則(満裕の弟の孫)、赤松氏再興。姫路城を再建。
1470年赤松政則、置塩城築城。家老・小寺豊職が姫路城主。

足利義視 (*)「今出川殿」・義尋・左馬頭。最初「東方(東軍)大将」・後半「西方(西軍)大将」。足利義教の息。足利義政の弟。1464年前管領・細川勝元邸にて還俗。細川勝元の後援で山名家と対立。1467年西軍の飯尾為数を処刑。1467年「応仁の大乱」。8月西軍に離反するもの続出し、木造教親のすすめで京都を脱出し南伊勢多気の北畠教具を頼る。8月大内政弘の上洛で西軍勢力挽回。10月足利義政に見限られ、管領・細川勝元に出家を勧められる。比叡山に登るが、西軍・山名持豊、渋川(斯波)義廉を頼り将軍に擁立される。1477年土岐成頼に擁され美濃へ落ちる。斎藤妙椿の差配で隠居。

足利義尚 <1473~1489>(1465~1489)最初「西方(西軍)大将」・後半「東方(東軍)大将」。足利第9代・征夷大将軍。足利義政の息。母は藤原富子。政所執事・伊勢貞親に養育される。山名持豊(宗全)に擁立される。1467年「応仁の大乱」。のち細川勝元により「東軍大将」。山名持豊、細川勝元が相次いで没。1473年征夷大将軍に任官。1477年大内政弘、土岐成頼が下京し帰国。東軍優位で終戦。1489年近江六角高頼の討伐遠征中に陣没。
1483年赤松政則、但馬侵攻に敗退。1484年浦上則宗の反乱により播磨を追われる。

足利義稙 <1490~1521>(1466~1523)義材・義尹・「流れ公方」・阿波義稙。足利義視の息。母は藤原重政の娘。室町幕府第10代将軍。足利義尚の急死により、義政の後見で家督相続。義政の死後に、父・義視と日野富子の対立が再燃。近江に「六角高頼討伐」。1493年河内「畠山義豊討伐」出征中に管領・細川政元のクーデター「明応の政変」により失脚。龍安寺に幽閉されるが脱出。1508年大内義興の後援により将軍に復職。1521年細川高国の専横により淡路に落ちる、阿波に逃走。<斯波義達と今川氏親の抗争は誰の差し金か。義達の遠江守護罷免は義澄との縁によるものか。>
1491年小寺政隆、姫路城主。  
1519年小寺政隆、御着城築城。息・小寺則職が姫路城主。

足利義澄 <1494~1508>(1480~1511)堀越義澄・義高。足利第11代・征夷大将軍。堀越公方・足利政知の息。母は藤原隆光の娘。足利義政の養子。斯波義寛の娘婿。足利義尚の急死の際に細川政元に擁立されるが、義稙(義材)が将軍就任。1493年政元の起こした「明応の政変」により、1494年将軍就任。伊豆堀越氏討伐。1508年大内義興に擁された足利義稙が復権。近江に落ちる。<伊勢早瑞(北条早雲)の伊豆乱入は誰の指令か。東海道の今川氏親・伊勢長氏を支援?、斯波義達の活動は1507~1517年間・・、従兄弟の義澄を支援する為の挙兵か。>

足利義晴 <1521~1546>(1511~1550)堀越義晴。足利第12代・征夷大将軍。堀越足利義澄の息。1508年第10代・足利義稙(義材・義尹)を擁立した大内義興の上洛。細川高国に追放された11代将軍・足利義澄の息。赤松義村に養育される。1521年10代・足利義稙を追放した細川高国に擁立される。1525年北室町に柳原御所を建造。1526年細川晴元が阿波足利義維を擁立し堺に侵入。丹波国神尾山城主・柳本賢治の挙兵により、北近江朽木落ち。六角定頼の後援を得る。1534年細川晴元との和睦で入京。1541年「木沢長政の乱」。1546年「細川氏綱の乱」で度々京都から脱出。1546年隠居し嫡男・義輝を将軍に据える。1547年細川氏綱・遊佐長教と和睦し、細川勝元と対立。近江穴太に居す。<伊勢北畠氏を頼る。>
1531年小寺則職、御着城に移る。小寺道慶が姫路城主。
1545年小寺(黒田)重隆が姫路城主。

播磨国人、赤松家

山田則景 (*)源。頼則の息。兄弟に宇野為助、得平頼景、宇野将則。息に上月景盛、間嶋景能、櫛田有景、赤松家範。

▽赤松家範 (*)赤松初代。山田則景の息。従兄弟に宇野為頼、江見景俊、作用範重。息に久範。

▽赤松久範 (*)赤松二代。家範の息。息に茂則。従兄弟に上月盛忠、上月盛時。

▽赤松茂則 (*)赤松三代。久範の息。息に則村。従兄弟に宇野頼定。

⇔▽赤松則村 (1277~1350)源・次郎・入道円心・月潭。茂則の息。赤松四代。播磨守護。西播磨、播磨佐用の豪族。1333年1月苔縄で反幕府の挙兵。摩耶城に入城。1333年4月京都攻撃に敗北。倒幕後、一時的に播磨守護職。解任され武家方に走る。高ノ師直・師泰兄弟と懇意。1336年の「湊川の合戦」以前に新田義貞を播磨に足留めし、足利軍の上洛を有利に導いた。息に範資、貞範、則祐。白旗城主。74歳。

▽櫛橋伊朝 (*~1336)赤松入道円心の家臣。籠城戦にて戦死。息に伊光。

「南北朝動乱」

⇔↓赤松範資 (*~1351)七条・美作権守。赤松五代。播磨の豪族。円心の息(養子とも)。1336年九州からの足利尊氏上洛に呼応し挙兵。足利幕府家臣。のち攝津守護。1345年天竜寺供養に従軍、七番隊外様500騎衆のひとり。息に(本郷)直頼。<細川家臣に本郷氏あり。>

▽赤松貞範 (*)春日部・筑前守・貞則。播磨の豪族。円心の息(次男)。足利幕府家臣。「中前代の乱」鎮圧に向かう足利軍に従軍する。1335年足利直義に従い「竹ノ下の合戦」。のち美作守護。<丹波国に春日部あり。>

⇔↓赤松則祐 (1314~*)播磨の豪族。円心の息(三男)。後醍醐天皇の息、護良親王の側近。父・円心宛てに令旨を貰う。のち足利幕府家臣。二代目将軍・足利義詮の信頼厚い。佐々木高氏と同盟。兄・範資の死により家督相続。

<第3世代>
↓▽赤松光範 (1320~1381)七条・二郎左衛門・次郎左衛門・筑前守。赤松貞範の息。赤松惣領家。1345年天竜寺供養に従軍、七番隊外様500騎衆のひとり。1351年父の死により七条家督。惣領職は叔父・則祐が継承。1360年京極氏に摂津守護職、1374年細川頼元に守護職を替えられる。息に満弘、神出範次。<後裔は石野氏、江戸時代に旗本。>

▽赤松氏範 (*)赤松則村の息(四男)。足利幕府家臣。のち吉野南朝家臣。「摂津中島の戦い」に北朝方・櫛橋伊光を討つ。
▽赤松朝範 (*)有田・在田・肥前権守。足利幕府家臣。赤松範資(則祐とも)の息。


(北朝方国人衆)
⇔嶋津忠兼 (*)(惟宗)・又二郎・三郎左衛門・周防守。越前島津氏第七世。忠藤の息。1333年「元弘の乱」に挙兵。1335年尊氏の関東下向に従う、第18軍。1336年「湊川の合戦」にも軍功。武功により播磨国下揖保荘の地頭。赤松家の与力となる。弟に忠範。息に範忠、忠親。

⇔広峰昌俊 (*)播磨の豪族。1336年今川頼貞に従い、赤松氏を後詰。越中国人・院林了法とともに但馬・丹波を転戦。 →黒田孝高の家臣団

⇔浦上為景 (*)新左衛門尉。播磨国浦上荘大徳寺領の領主。一時長井貞頼に地頭職を奪われる。のち赤松家に従属する。

⇔長井貞頼 (*)左衛門佐。六波羅長井家。長井頼重の息。兄に縫殿頭・貞重。弟に上山運雅。1335年播磨浦上荘地頭職。<在地の浦上家と抗争するか。>

<七条(長男)家> 範資後裔

↑▽赤松光範 (*)七条・満範・光則・満則。赤松円心の長男・範資の息。

赤松朝範 (*)在田。赤松円心の長男・範資の息。
赤松直頼 (*)本郷。赤松円心の長男・範資の息。
赤松則春 (*)葉山。赤松円心の長男・範資の息。
赤松則綱 (*)永良。赤松円心の長男・範資の息。


赤松義則、満則兄弟。
<律師(惣領)家> 則祐後裔
赤松義則 〈1391-1427〉(*~1427)(佐々木・京極)・兵部少輔・義房。律師・則祐の息。母は佐々木(京極)高氏の娘。弟に(大河内)満則、(有馬)義祐、将範、時則。1391年「明徳の乱」に足利義満の命で、元管領・細川頼之とともに山名氏清討伐に出陣。弟・赤松満則が戦死。軍功により美作守護職。1362年山名時氏と抗争。1370年細川頼之を補佐。1391年「明徳の乱」に足利義満の命で、元管領・細川頼之とともに山名氏清討伐に出陣。59歳。養子に満祐、息に祐尚、義雅(孫に政則)、則繁、直操。

▽浦上行景 (*)紀・七郎兵衛。赤松則祐に出仕。以降、赤松家家臣。美作守護代家。1362年山名時氏の備前進攻に備前守護・松田信重とともに防衛。赤松則祐の備前守護着任に守護代となる。

▽浦上助景 (*~1408)帯刀左衛門尉・美濃入道。備前国邑久郡磯上の豪族。赤松義則の家老。足利義満の信任を得る。京都所司代。伊勢国山田にて誅殺される。

▽浦上性貞 (*)美作入道。助景の失脚により所司代職継承。1428年「正長の土一揆」管領・畠山満家、侍所所司・赤松満祐とともに幕府に詰める。一揆鎮圧に活躍。孫に則宗。

▽櫛橋伊範 (*~1391)1391年山名家の反乱「明徳の乱」に鎮圧軍。京都内野に先陣を務め戦死。

<律師家・義則の息>
↓▽赤松義雅 (*)義則の息。満祐の弟。息に時勝(性存)。
▽赤松祐尚 (*)義則の息。満祐の弟。息に則尚。

<律師家・義則兄弟>
赤松満則 (*)大河内・「播磨殿」。則祐の息。義則の弟。息に満政。

赤松義祐 (*)有馬。則祐の息。義則の弟。摂津守護。摂津の赤松一族。摂津国有馬郡の豪族。息に持家。<子孫は羽柴秀吉の家臣へと>

赤松満貞 (*)頼則の息。息に貞村。

赤松持貞 (*)春日部・「伊豆殿」。頼則の息。満祐の出奔の為に責任を負い自害。<足利義教の寵愛が、満祐を疑心暗鬼に。>

<紀氏後裔 浦上氏>
浦上広景 (*)紀。行景の息。息に行宗。

浦上行宗 (*)紀。広景の息。息に貞景。

浦上貞宗 (*)紀。行宗の息。息に則永、則宗、則国、基景。

浦上則永 (*)紀・信濃守。貞宗の息。弟に則宗、則国、基景。三石の浦上宗安の跡職を継承。息に宗助、則之。

↓浦上宗助 (*)紀・近江守。則永の息。浦上則宗の養子。息に村宗、宗久。

浦上村宗 (*~1531)紀・掃部助。和気郡の豪族。1502年備前国三石城にて義父・則宗が死亡し家督相続。1521年9月守護・赤松義村を播磨室津に殺害。西播磨から備前・美作を支配する。東播磨の別所安治と抗争。1531年前管領・細川高国を助けて、細川晴元と戦い、摂津天王寺にて戦死。天神山城主。息に政宗、宗景。

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1441年 「嘉吉の変」将軍・義教の暗殺、
「嘉吉の乱」細川・山名軍との死闘。

大内持世の戦死、細川持春の片腕負傷。

<別流・三石 浦上氏>
浦上宗隆 (*)紀・掃部助。三石城。

浦上宗安 (*)紀・四郎。三石城。

浦上村国 (*)紀・伯耆守。

赤松満祐 〈1428-*〉(*)左京大夫。光範の息。義則の養子。舎弟に義雅。1427年足利義持の代に幕府に叛乱。将軍との関係が悪化した春日部(赤松)持貞に自害が命ぜられる。1427年山名時煕、一色義貫の討伐軍に満祐が降服する。1428年足利義教により侍所所司。1430年将軍・義教の右大将就任に供奉。赤松重臣・依藤氏が幕府に処罰される。1441年将軍・足利義教を自邸に招き「結城合戦」の祝勝会を開き殺害。京都を焼き「嘉吉の乱」を引き起こす。息に教康。

▽浦上宗隆 (*)紀・掃部助。性貞の跡職を継承。赤松満祐の名代として活躍。1431年将軍・足利義教との取次使者。

▽浦上宗安 (*~1441)紀・四郎。三石浦上家。宗隆の息。赤松満祐家臣。1441年「嘉吉の乱」に活躍。

▽浦上則永 (*~1441)紀・信濃守。三石浦上。宗安の跡職を継承。赤松満祐家臣。1441年「嘉吉の乱」に活躍。

▽浦上* (*~1441)紀・七郎兵衛。赤松満祐家臣。1441年「嘉吉の乱」に活躍。

▽櫛橋伊高 (*~1432)豊後入道。赤松家譜代家臣。伊範の息。赤松満祐に出仕。播磨国代官。南朝討伐軍に従軍し戦死。息に貞伊。


▽赤松則繁 (*~1448)三郎・左馬助。義則の息。満祐の弟。赤松満祐の家老。1430年将軍・義教の右大将就任に供奉。満祐の息、教康を補佐。乱後、九州から朝鮮に落ち、1448年河内にて討たれる。

▽赤松祐康 (*)民部大輔。1430年将軍・義教の右大将就任に供奉。

▽赤松持広 (*)掃部介。1430年将軍・義教の右大将就任に供奉。

↑▽赤松義雅 (*)伊予守。光範の息(義則の養子?)。満祐の弟。赤松満祐の家老。将軍・義教により所領が没収され、赤松貞村、細川持賢に配分される。1441年幕府軍との坂本城籠城戦に参加。息に政則。

⇔足利義尊 (*~1441)冬氏。足利直冬の孫。「嘉吉の乱」後に赤松満祐により擁立される。

赤松教康 (*~1441)彦五郎。満祐の息。北畠顕雅(大河内顕雅)の娘婿。1441年将軍・足利義教を討つ。足利直冬の孫・冬氏(義尊)を擁立。浦上、依藤、櫛橋、中村、魚住、釜内、別所氏が従う。妻の従弟・北畠教具を頼る。北畠氏の離反により伊勢にて自害(鹿児島に逃亡とも)。

▽安積行秀 (*)監物。赤松教康家臣。1441年将軍・足利義教を討つ軍功。

▽赤松則尚 (*~1454)常陸彦五郎。赤松家家臣。赤松満祐の甥。1441年幕府軍との坂本城籠城戦に参加。安積、香山師を率いる。1454年赤松家再興の為に挙兵。山名持豊に敗北戦死。

▽赤松真操 (*)竜門寺。赤松家家臣。1441年幕府軍との坂本城籠城戦に参加。佐用、永良、宇野、富田、粟生氏を率いる。

(譜代家老衆)
小寺職治 (*~1441)赤松家家臣。1441年「嘉吉の乱」に活躍。幕府軍との坂本城籠城戦に参加。間島、大田氏を率いる。1441年「木の山合戦」に戦死。山名持豊軍に敗北。

依藤豊房 (*)太郎左衛門。

▽櫛橋貞伊 (*~1441)赤松家譜代家臣。伊高の息。赤松教康に出仕。1441年「嘉吉の乱」に活躍。教康を補佐し伊勢随行。北畠氏の離反により教康と命運を共にする。息に則伊。


赤松貞村 (1393~1442*1447)伊豆守。満貞の息。兄弟に赤松(春日部)持貞。将軍・義教の側近。1433年出家。満祐の弟・義雅の所領を与えられる。1441年義教とともに赤松満祐邸に招待される。「嘉吉の変」後、幕府方。管領・細川持之、阿波守護・細川持常、赤松(有馬)持家・赤松(大河内)満政とともに満祐討伐軍。丹波国春日部・摂津国鳥養に所領。息に教貞。
▽赤松教貞 (1416*~1457)次郎・伊豆・刑部大輔。将軍・足利義教に出仕。信任を得る。赤松義雅の所領を与えられる。1441年赤松満祐・教康親子の討伐軍。1445年満政の死により赤松惣領。1450年丹波国黒井村の所領を幕府に返還される。

▽井尻* (*)孫左衛門。赤松教貞家臣。1447年教貞に美作国豊国に所領を与えられる。

▽赤松満政 (*~1445)大河内・上総介。満則の息。1430年将軍・義教の右大将就任に供奉。将軍・義教の側近となる。「嘉吉の変」後、幕府方。1441年赤松満祐・教康親子の討伐軍。乱後、赤松惣領。1445年謀反。息に祐則、満直。

▽赤松持家 (*)有馬。義祐の息。「嘉吉の変」後、幕府方。息に元家。


<赤松一門衆>
(南北朝期)赤松則村(円心)以前。
得平 (*)南北朝期。赤松入道円心に従い北朝方。
上月 (*)南北朝期。赤松入道円心に従い北朝方。
間島 (*)南北朝期。赤松入道円心に従い北朝方。
宇野 (*)南北朝期。美作守護代家。赤松入道円心に従い北朝方。
佐用 (*)南北朝期。赤松入道円心に従い北朝方。

(室町期)将軍・義満~義尚、赤松則祐以降。
豊福 (*)
太田 (*)
中山 (*)

(戦国期)将軍・義稙~義昭、赤松政則以降。
別所 (*)
佐用 (*)
下野 (*)

<譜代家老衆>
浦上* (*)
喜多野* (*)
小寺* (*)
中村* (*)
堀* (*)
櫛橋* (*)
依藤* (*)
明石* (*)修理亮・入道宗阿。播磨国明石郡の豪族。
小瀬* (*)
城所* (*)
石見* (*)
後藤* (*)
衣笠* (*)
↓上原 (*)赤松家家臣。
↓薬師寺 (*)赤松家家臣。
↓富田 (*)赤松家家臣。

上原祐貞 (*)赤松家家臣。1480年富田則貞とともに在京奉行。
富田則貞 (*)赤松家家臣。1480上原祐貞とともに在京奉行。
薬師寺貴能 (*)赤松家家臣。1483年櫛橋則伊とともに備前福岡城を守備。反乱した浦上氏の備前守護代・浦上則国と対立。京都に落ちる。

薬師寺則能 (*)赤松家家臣。
薬師寺則隆 (*)赤松家家臣。
薬師寺貞貴 (*)赤松家家臣。
薬師寺* (*)与四郎。赤松家家臣。


≪個人的感想≫ 細川家家臣に上原、富田、薬師寺一族有。政則に付属された細川家臣か。それとも・・。

1467年「応仁の乱」東西両軍大名の動向↓  山名持豊の家臣団と軍団     

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赤松政則、管領・細川家に追従。 のち斯波義寛を説得。

<1457年 赤松家の再興>
 「応仁の大乱」


赤松政則 〈1488-1496〉(1455~1496)次郎・侍所所司。赤松満祐の弟・義雅の息・時勝(性存)の息。父の死により浦上則宗に養育される。細川政元の娘婿。1458年石見雅助という「嘉吉の乱」で滅亡した赤松家遺臣が南朝吉野から玉璽を奪取した功で赤松家が再興される。管領・細川政元の後見で赤松宗家の家督を四歳で継承。1467~1477年「応仁の乱」。応仁の乱では東軍に属し細川勝元方。旧領の播磨・備前・美作を回復する。富樫成春の追放により加賀半国守護兼任〈1458-1466〉。侍所所司。飾磨郡を本拠地とする。1483年但馬に進攻した赤松政則が山名政豊に敗北。山名氏との「真弓峠の合戦」に敗北し、「浦上則宗の反乱」により堺に落ちる。将軍・足利義政の仲裁で播磨に復帰。1488年山名氏播磨から撤退。1493年「明応の政変」に斯波義寛を説得。42歳。息に村秀、養子に(七条)義村。置塩城主。

▽堀 秀世 (*)出雲守。政則の側近。播磨の治世を監督。神西郡南条郷を領す。1478年赤松家再興の為に、1457年の南朝襲撃事件の経緯と、上月氏の軍功を証言。田野城主。<後裔は出雲守を称するか。>

⇔↑浦上則宗 (1429~1502)紀・細見・美作守・美作前司。安富家の親戚、細見昌勝の養子。赤松家再興のため赤松政則を擁立。赤松家再興。「応仁の乱」に東軍に属し力戦。主家の播磨・備前・美作の守護職を回復する。在京する政則・政秀の播磨半国又守護代を勤める。1483年畠山政長に代わり山城国守護。1483年但馬に進攻した赤松政則が山名政豊に敗北。1483年政則の失政を糾弾。浦上則宗の反乱、政則京都に落ちる。赤松政則の死後、息の赤松義村(*~1521)を擁立し家政を後見する。専横により家中の小寺氏と対立。<細川水軍の長、安富氏と血縁関係があるようです。>

⇔▽別所則治 (*)赤松。赤松一門衆。赤松政則を擁立し赤松家再興。在京する政則・政秀の播磨半国又守護代を勤める。1483年浦上則宗の反乱。1484年播磨に進攻した山名軍と抗争。櫛橋則伊、小寺則職とともに播磨奪還軍。1488年山名政豊播磨撤収。東播磨三木城主。

赤松政秀 (*)下野守。赤松一門衆。赤松政則を擁立し赤松家再興。在京する政則の播磨一国守護代を勤める。<世代的に先代の赤松政秀、次世代の武将にも同名存在。>

中村* (*)赤松政則を擁立し赤松家再興。

依藤則忠 (*)豊後守。赤松政則を擁立し赤松家再興。1467年「応仁の乱」に片目を失いながらも山名常陸守を討つ軍功。1484年赤松政則と対立、出奔。のち和解し帰城。豊地城主。

明石* (*)赤松政則を擁立し赤松家再興。

上月満吉 (*)赤松満吉・左近将監。赤松政則の一門。同盟者。1457年赤松遺臣の南朝襲撃事件に軍功。

小寺豊職 (*)赤松義雅の孫、赤松政則を擁立し赤松家再興に尽力。1457年復興を果たす。加賀守護代。富樫家重臣の岩室氏と抗争。<加賀半国の守護代も務めるようです。>

▽小寺則職 (*)1484年別所則治、櫛橋則伊とともに播磨奪回軍。山名軍の垣屋豊遠の拠る播磨蔭木城を攻略。息に政職。

宇野* (*)赤松・上野入道。赤松一門。備前国守護代。赤松政則を擁立し赤松家再興。備前にて山名教之と抗争。

宇野政秀 (*)赤松一門衆。赤松政則家臣。1467年「応仁の乱」に播磨乱入。

有馬元家 (*)赤松一門。1468年赤松家から独立の反乱。政則と抗争。

<赤松政則の軍団> 1478~


▽櫛橋則伊 (1432~1486)赤松家譜代家臣。貞伊の息。赤松政則に出仕。僧籍にあったが還俗し仕える。阿閉重能、馬場則家とともに政則の播磨在国「三奉行」のひとり。宿老・浦上則宗と対立。備前金山城主・松田元成の離反。山名俊豊の備前侵入に対し薬師寺貴能とともに備前福岡城主。1483年山名・松田勢と「福岡城の攻防戦」。但馬に進攻した赤松政則が山名政豊に敗北。1483年浦上則宗の反乱により京都に落ちる。1484年別所則治、小寺則職とともに播磨奪回軍。山名軍の垣屋豊遠の拠る播磨蔭木城を攻略。

▽阿閉重能 (*)赤松家家臣。赤松政則に出仕。櫛橋則伊、馬場則家とともに政則の播磨在国「三奉行」のひとり。宿老・浦上則宗と対立。<近江の旧名門、阿閉氏の分流か。>

▽馬場則家 (*)赤松家家臣。赤松政則に出仕。櫛橋則伊、阿閉重能とともに政則の播磨在国「三奉行」のひとり。宿老・浦上則宗と対立。<備前の豪族、馬場氏の分流か。>

▽上原祐貞 (*)赤松家家臣。赤松政則に出仕。富田則貞とともに在京奉行。

▽富田則貞 (*)赤松家家臣。赤松政則に出仕。上原則貞とともに在京奉行。

≪個人的感想≫ 織田信長配下の簗田広正が、1575年以降に別喜姓を与えられ、加賀方面に御番役として派遣されますが、赤松家の加賀支配を意識した姓なのかもしれないと思いました。
 当時、赤松家の全盛期は過ぎていますが、別所・有馬など支流はまだ健在ですし、播磨の武士団が織田家に組み込まれていくなかで、前線となる加賀の地に播磨の武士たちの従軍を期待しての別喜姓なのではないでしょうか。
 その頃から九州を意識しての官位任官だと現在では定説のように語られていますが、ある意味リアリスト信長様がそこまで風呂敷を広げているのかと思います。九州の名族を指すなら「戸次」姓のままでも良いはずです、そこをわざわざ「別」を噛ませるということは、「別所」に対しての「別喜」なのではないかと思う次第です。
 加賀の赤松家残存の遺臣を意識しての姓ではないでしょうか。ほかにも、惟住姓は惟宗姓三方氏という若狭の名族を意識してのものではないのかと思えます。また、原田姓は平家の軍事的旗頭で山城国を制圧した清盛の婿の原田種直を意識してのものとも考えられますし、羽柴筑前守の筑前守は、三好家の歴代が筑前守をシンボルとしていることに通じ、三好家から織田家へ時代が動いていることへの世の中への宣伝だと考えるのですが・・・。どうでしょう(H28.2.19)。

<京都・侍所所司代 浦上氏>

⇔↓浦上則宗 (1429~1502)紀・細見・美作守・美作前司。安富家の親戚、細見昌勝の養子。赤松家再興のため赤松政則を擁立。赤松家再興。「応仁の乱」に東軍に属し力戦。主家の播磨・備前・美作の守護職を回復する。在京する政則・政秀の播磨半国又守護代を勤める。1483年畠山政長に代わり山城国守護。1483年但馬に進攻した赤松政則が山名政豊に敗北。1484年主・赤松政則の失政を糾弾し追放。赤松政則の死後、息の赤松義村(*~1521)を擁立し家政を後見する。専横により家中の小寺氏と対立。息に則景、養子に(安富)祐宗。<細川水軍の長、安富氏と血縁関係があるようです。>

浦上則景 (*)(安富・細見)・掃部助。則宗の息。養子に村宗。

浦上則国 (*)備前守護代。1483年備前国金山城主・松田元成の反乱。山名俊豊の備前乱入。但馬に進攻した赤松政則が山名政豊に敗北。1484年主・赤松政則の失政を浦上則宗が糾弾し追放。1484年播磨表にて反乱した浦上則宗に従う。備前福岡城主。

浦上基景 (*)1483年則国とともに籠城戦。1484年播磨表にて反乱した浦上則宗に従う。則国と対立する櫛橋・薬師寺の両将を助命。

<細川家重臣・安富 浦上氏>(瀬戸内の覇者・安富水軍)

浦上祐宗 (*)安富祐宗・細見祐宗。則宗の養子。

<紀氏 浦上氏>
紀ノ則国 (*)三郎。浦上貞宗の息。兄弟に則永、則宗、基景。
紀ノ行国 (*)与三右衛門。兄弟に豊前守、六郎次郎。

紀ノ国宗 (*)行国の息。息に国秀。
紀ノ国秀 (*)近江守。息に国明。

<戦国覇者・大内家>

赤松義村 〈-〉(*)家督継承時、幼少のため政則の室・洞松院が政治を後見する。細川澄元派として、細川高国と対立。1511年「芦屋河原の合戦」敗軍の細川尚春に援助をこわれる。摂津鷹尾城を攻撃。1511年足利義澄を擁立し「船岡山の合戦」阿波守護・細川澄元VS丹波守護・細川高国。細川高国方、将軍・足利義稙:細川高国:大内義興。細川澄元方、細川尚春:細川政賢:赤松義村。細川澄元側が大敗、細川政賢が討死。足利義澄の遺児(のちの足利義晴)を引き取り養育。専横する重臣・浦上村宗を粛清しようとするが返って破れ、浦上村宗の下克上により暗殺される。息に政村(晴政)、(上月)政元。置塩城主。

▽在田* (*)赤松・有田・式部少輔。赤松一門衆。1513年足利亀王丸(義晴)の名代を務め、足利義稙と謁見。

▽小寺* (*)

▽薬師寺* (*)<管領・細川政元の直参として台頭する薬師寺氏と関連する一族でしょうか。>

▽明石長行 (*)四郎左衛門尉。則行の息。1531年浦上村宗の討伐軍。「武庫河原の合戦」に軍功。1538年小寺則職とともに主・赤松政村(晴政)に謀反。1539年太山寺に寄進。赤松政村(晴政)、細川持隆軍に攻略される。のち細川家に出仕。息に祐行。摂津枝吉城主。

<備前守護代>
⇔浦上村宗 (*~1531)紀。和気郡の豪族。1502年備前国三石城にて義父・則宗が死亡し家督相続。1521年9月守護・赤松義村を播磨室津に殺害。西播磨から備前・美作を支配する。東播磨の別所安治と抗争。1531年前管領・細川高国を助けて、細川晴元と戦い、摂津天王寺にて戦死。息に政宗、宗景。天神山城主。

松田* (*)

▽島村* (*)備前郡代。<浮田氏との因縁・・。>

<美作守護代>

中村* (*)

大河原* (*)

⇔赤松政村 (*~1565)置塩赤松・晴政。1520年父・義村が浦上村宗と対立。家老・別所就治が離反。1539年三木城に迎えられるが、三好長慶を頼り堺に出奔。1542年幕府の援助で播磨守護。三好長慶の後援で別所・明石氏の反乱を鎮圧。置塩城主。

<東播磨守護代>
別所村治 (*)1530年依藤氏と抗争し豊地城を攻撃。援軍、浦上村宗に敗北。

▽福原* (*)東播磨郡代。
▽稲屋* (*)東播磨郡代。
▽佐々* (*)東播磨郡代。

<西播磨守護代>
赤松義村 (*)「下野殿」。西播磨守護代家。跡職は息(弟とも)・政秀が継承。

▽内海* (*)西播磨郡代。
▽円山* (*)西播磨郡代。


<戦国覇王・三好範長の軍団>
赤松義祐 (*~1576)置塩赤松・上総介。置塩城主・赤松政村(晴政)の息。父・政村を龍野城に追放。1569年別所安治、赤松政秀を撃退。1570年隠居し則房に家督を譲る。置塩城主。

赤松政秀 (*~1570)宇野政秀・弥三郎・下野守。村秀の息。置塩城主・赤松政村(晴政)の娘婿。弟に(平井)祐利、(川嶋)頼村。1564年浦上清宗と黒田職隆の娘の婚姻に室津城を強襲。政宗、清宗親子を討つ軍功。1565年擁立していた義父・赤松晴政が病没。その息・赤松義祐と和睦。1568年浦上宗景と抗争激化。1570年暗殺される。息に広貞、政広、祐高。娘婿に足利義昭。

<宿老>
浦上政宗 (*~1564)掃部助。村宗の息。1531年村宗戦死。1558年赤松義祐を支持し、赤松晴政を追放。1563年備前の宗景と和睦。1564年清宗と黒田職隆の娘の婚姻に、赤松政秀の強襲により戦死。息に清宗、景宗。室津城主。

<備前国・戦国大名>
⇔浦上宗景 (*~1578*)与次郎・遠江守。備前国の豪族。村宗の息。兄に政宗。1531年村宗戦死。1553年美作国勝山にて尼子晴久に敗北。1563年備前三村氏と対立。1563年政宗と和睦、毛利氏と同盟破棄。1567年浮田直家が三村氏を破る。1567年甥・浦上誠宗を暗殺。1568年備前金山城主・松田元輝・元賢親子を討伐。1569年赤松義祐を撃退、赤松政秀を従える。1573年織田信長に従い備前・美作・播磨守護。1574年浮田直家謀反。三浦貞広、三村元親とともに出兵。1577年明石景親離反。息に宗辰、成宗。天神山城主。室津城主。

<播磨国・戦国大名>
別所長治 (*~1580)赤松・小三郎。安治の息。赤松家家臣。のち織田家に臣従。1578年石山本願寺・毛利輝元に呼応し反乱。

小寺政職 (1517~1582)藤兵衛。則職の息。赤松家家臣。小寺則職の息。黒田孝高の主君。のち織田家に臣従。1577年明石景親の謀反により没落した浦上宗景を迎える。1578年別所長治に呼応し反乱。1580年織田信忠に御着城を攻略される。1582備後鞆ノ浦に死去。息に氏職、正則。御着城主。


明石祐行 (*)備前守。長行(正風)の息。細川晴元に出仕。1555年赤松義祐に対し「太山寺合戦」。三好範長に従い「河内高屋城攻め」従軍。1566年三好家に属し滝山城攻囲。息に貞行。摂津枝吉城主。


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