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ペーパードライバー

春にペーパードライバーを返上した。まさに20年振りに快挙を成し遂げたわけである。また、随分と大袈裟な女も居たものだ、と思われるかもしれないが、運転免許を持っていたことすら忘れかけていたほど、無縁の存在になりつつあったものを目の前に浮上させることは、思ったより簡単なことではなかった。楽しさも怖さも知っているだけに、心情はより複雑だ。
むしろ、初めての挑戦のほうが気が楽だったかも知れない。
とにかく思い立ったが吉日。すぐにやるのが好きな私は、その日のうちに翌日の予約を取り付けた。
賽は投げられた、幕は切って落とされた、車は走り出した。いや、走るのは明日からだ。

さて、朝一番に乗り込み、受付でピンク色の紙の自由チケットというのを買って、指定のナンバー車の前で、教官を待つ。よし、20年前とあまり変わらない風景だな。
しかしそれから数分後、そうは問屋がいかなくなった。
ピンクの紙を教官に渡し、「お願いします」と元気に挨拶すると、あんた、何?なんだこんな紙切れ一枚持ってきて、あんた、何しに来たの?だと!
私は言葉を失った。何しにって?こんな所へ来て、料理の講習でもないだろが。それに紙がピンクなのは、私のせいじゃないわさ。
「ペーパードライバーの教習ですので」と説明すると、今度はなんでや?何で20年も乗ってなかったんや。関西人でしたか・・・
更に続いた、しかしなんだね、偉いね、書き換えだけは忘れなかったんだね。余計なお世話だ。
あんまり馬鹿馬鹿しくって、何と答えたかも忘れてしまったが、そこへ追い打ちをかけられた。まあいいや、エンジンかけられる?車ここから出せる?そいじゃ、好きなようにその辺走ってみな。
「その辺って、外の道路ですか?でも私引っ越してきたばかりでまだ道よくわからないんですけど」
俺はなあ、まだ死にたくないんだよ。10年だか、20年だか乗ってないんだろ、おっかねえからな、どんな運転するか見てみねえと。所内に決まってるだろ。ただでさえ気の小さい私の心臓は、このセリフを吞まされて、虫の息同然になった。背中は天然のカイロをしょっているが如くカッカと燃え出してカチカチ山の狸さんだ。
20年振りの緊張を背負っているか弱き女性に対してあんまりじゃないの。
しかし、こんなことくらいで怯んではいられない。伊達に年を重ねてるんじゃあない。遊びで乗りたいのとは訳が違う。生活上どうしても必要だからだ。走り出してみると、思ったよりスムーズにでかい車を動かせた。
この20年の間に車も変わったらしくて、随分と楽に動くようになったものだわ。感心している暇はない。この分なら、次の時間から路上教習だな、とフロントガラス越しに空を見上げた途端、蜘蛛の糸をプツンと切られた。
君ねえ、ハンドルの持ち方変だね。なってないな。基本からやり直しだね。
な、何だと?ハ、ハンドル?悪い予感は的中した。
すぐに車から降ろされ、椅子の前にハンドルが付いているだけのマシーンに座らされたまま、その重く長い一日は暮れていった。
初日から気分が悪いことこの上ない。だが何といっても20年振りの決心だ。そうやすやすと引き下がる訳にはいかない。今の世の中、いじめの一つや二つはあるものだ。今日はたまたま一番悪いのに当たったんだ。
そう気を取り直すと、翌日もその翌日も通い続けた。が、自分の考えが甘かったことを更に思い知る結果となっていった。
初日の教官ほどひどくはないものの、似たり寄ったりで、ついに目標であった路上を走る講習にはたどり着けないまま、脱落した。
私は経済観念が発達している立派な主婦なので、こんなチンタラには費用も時間も勿体ない。こうなったら、自力でやるっきゃない。
前後左右に若葉マークを張り付けて、今日は駅まで、明日はスーパーまでと課題を順次こなしていくと、だんだんと昔の感覚がよみがえってきて、恐怖心は快感へと変わっていった。
中年おばさんもなかなかやるもんだ。最近やけに汗かきっぽい体質になった様に思うのは、どうもこの時に冷や汗をかき過ぎたせいで、汗腺が開いてしまったからかも知れない。
この奮闘のおかげで無事、車社会に再デビューを飾ることができた。
まずはめでたしだが、ふとある重大な事柄に気が付いた。
はるか昔に初めて教習所へ通っていた頃とは、20年もの隔たりがあったわけで、今回受けた一連の不快な様相の謎が解けたかも。
つまり、20歳ころの私だったならば、きっともっと楽しく過ごせたに違いないということである。今は中年のおばさんであることをすっかり忘れていたのである。一つだけ名誉のために言わせてもらいたいセリフもあるが、ぐっとこらえる。世間の風というのは、きっとそんなものだ。心地よい春の微風に吹かれながらそんな風に思った。
おしまい。

あとがき
私が経験した実話ですが、約28年以上前の昭和の話です。しかも田舎町。
今なら○○ハラがいっぱいついて、あり得ませんね。
親切な方ばかりと思います。
教習所の方、ごめんなさい_(._.)__(._.)_

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