良いものに触れる

必ずしもというわけではございませんが、
人間は環境に影響されるもので、
そして良い環境だから絶対に良く育つわけでもなく、
反対に悪い環境でも、むしろだからこそ良く育つこともございます。

接続詞に順接も逆接もございますが、
どちらを使っても文章としては成立します。
そういってしまうと元もこもございませんが、
何かしらがあって、それが後々のことに影響を与えることには変わりはございません。

さて、人間は外部からの刺激の情報だけでなく、
内部といってよろしいのかわかりませんが、
記憶や体調やその他諸々の外部以外の情報の影響も受けます。
無意識にことが運ぶので、
外部のもののみに意識が向いてしまいますが、
それ以外のものの方が実はほとんどかも知れません。

何かを認識するには
大概言葉が必要で、
それ自体既に経験やらなんやら
いずれにしても何か以外のものがあって
その何かをようやくつかむことができるといえるでしょう。

何かしら、視点というか
手掛かりというか
足掛かりというか
そういったものがなければ
何も捉えることはないでしょう。

さて、そういったものは
自分にとって自然すぎて
普段気がつくことができませんが、
たまに通常の自分から離れることで
感じることができるように存じます。

人間を成長させるのに
読書や映画や旅や人付き合いが大切とい言われるのは
そういったことが
自分の枠を気付かせてくれて、
また広げてくれるものだからなのでしょう。

良い鑑識眼ができれば
よりよい世間の見方ができるでしょう。
そしてそれがまた良い眼を養うことになります。

良いもの触れるという環境をつくることは
必ずしも成果を結ぶ訳ではございませんが、
良い世界を感じることができる機会に繋がる可能性があるように存じます。

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