後期クソガキ

ある日、いつものように近所の市立図書館で本を読んでいると、近くに座っていた高校生に見える私服男子のもとに恐らく同級生が急いで駆け寄ってきて「めっちゃ迷ったぜ」と口を尖らせて言い訳していた。とにかく私は安心した。彼らがぺちゃくちゃ話し始めるのを薄ぼんやり聞きながら最寄りのトイレに体を向けた。一寸の迷いなく。その図書館を利用し始めてかなり時間がたった最近ではそんなことはもうないが、通い始めた当初はとにかく迷った。本棚の背が低いためどこにいても隅々まで館内を見渡すことができるが、自然光を取り込むための大きな天窓と光を柔らかく集める、壺を上半分切り取ったような覆いとその下のテーブル座席を、弧を描くいくつもの本棚が円形に取り囲む一纏まりのブロックがどちらを向いてもシンメトリックに展開しており、見るものの方向感覚を失わせる。トイレを済ませて確保してある自分の席に戻ろうとして場所がわからなくなるというようなことも数回あった。いよいよ俺も老いたな、と悲しくなったが私よりも10歳以上若いであろう少年たちが友達を見つけられずに待ち合わせに遅れるくらいなら、私もそれほど心配しなくても良いかもしれない。今ではある程度の方向感覚と配置は記憶している。入り口からの順路を体で覚えたのだ。私の定位置は「郷土のグローブ」(先ほど説明した各ブロックは置かれている本のジャンルを冠したグローブとして呼称される)の座席でなるべく金華山が見える方向に座る。そこになったのはそのグローブで本を読んでいる人の年齢層が他に比べて一番高いからだ。平均しておそらくは50~60代だろう。厳密に私くらいの年齢に相応しいのは「文学のグローブ」で、大学生らしき人たちが多く「郷土のグローブ」の人たちよりも確実に年齢は近いのだけれど、歳がどれだけ近くても雰囲気や中身の点で自分がそちらの人間ではないと理解しているので、自然金華山が見えるそのグローブに座ることが多くなる。図書館自体は他の公共施設やコンビニ、スターバックスなども抱き込んだ複合施設の2階にあるのだが、夕方を過ぎると学校の終わった高校生が雪崩れ込んできて図書館はもちろんその他のスペースも学生だらけになる。ただ、その時間帯でも「郷土のグローブ」は空きが多くその点も私が愛用している理由だ。閉館してからが問題で20時に閉まるのだが、全体の施設自体は21時ごろまでやっているので、図書館を追い出された後でも家に帰らずまだ外で本を読みたい場合(1時間でも光熱費を節約しようという浅ましい心だ)施設内の他の空きスペースを探すのだが概ね見つからない。雪崩れ込んできた高校生がすでに占拠しているのだ。先日はようやく空きテーブルを見つけたのだが近づこうとした瞬間4,5人ほどのやんちゃそうな男子高校生に先にカバンを置かれてしまった。カバンを置いたらもう自分たちのものだと安心して弛緩した表情、彼らとの間の気詰まりな恥ずかしさを懐かしく感じ「勉強頑張れよ」というような老害じみたエールを送りつつ、一方で怒りの感情が湧き上がってこない自分に驚いた。なんだかこういう場面ではいつも怒っていたような気がする。私が男子高校生で、もし目の前で自習スペースを奪われたら怒り狂っていた。特に明らかに自習をしながらぺちゃくちゃ喋りそうな人たちだった場合は余計。
私は中学生くらいから自分の部屋を持ったが、それまでも、また部屋を与えられてからもリビングで勉強することが多かった。そして本格的に勉強するようになると授業終了後はすぐに家に帰らず学校に居残って勉強することに自然なった。大学はろくに授業に出ないままフェード・アウトしたが、本を読む時は寮の自室ではなく図書館で読むのが常だった。なるべく他人がいる空間で勉強しよう、というのが私の一貫した習慣であり意識であった。しかしやることはあくまで勉強だから、ある程度の集中力が残っている場合は多少のお喋りくらい乗り切れるかもしれない、しかし常に鳴り響くノイズー例えばテレビだーは堪える。リビングで、どうせ誰もちゃんと見ていないんだから首肯されるに違いないと事務的な優しさで口にしていた言葉、「テレビ消して良い?」と久しぶりに囁いてみるとあまりに滑らかに響くので驚いた。だからおそらく、今、祝日のお昼過ぎ、試験前の休みを家で過ごすと勉強していないことが親にバレてしまうから逃げ出してきた高校生たち、よりにもよって「郷土のグローブ」に流れ込んできたクソガキども、目の前の彼らに「静かにしろよ」と言ってみたらその言葉も同じくらい滑らかに、私がクソガキだった頃の口癖を再現するだろう。彼らは図書館で騒ぐ現役クソガキ、私は図書館で静かにしていた元クソガキ。私はいかにも尊大なクソガキだった。高校生の時は酷く、学校の都合で放課後すぐ家に帰らされたり、自習室を開放してくれなかった時は教師に対して、僕は勉強しなきゃいけないんだ、だから邪魔をするな馬鹿野郎と真剣に恨んでいた。この馬鹿野郎というのは単なる紋切り表現ではなく、本当に馬鹿だと思っていた。ただのクソガキである。クソでもミソでも構わない、でも馬鹿なのは嫌だった。だから大人たちは今現在の私、中途半端な教育資本を持て余し曖昧な生活を続けている私を、それ見たことか馬鹿クソガキがと罵らなければならないのだ。それでトントンというものだろう。しかし大人はどんな馬鹿さ加減もクソさ加減も、何でも経験なのだとまるでそれが太古からの普遍の法則であるかのように手放しで肯定して、気づけばするりといなくなってしまう。だから私も目の前の彼らに、今気づいたのだが、なぜか3人とも白のパーカーを着ている、私が言えた口ではないが流石にそれは恥ずかしくないかと思わされる年頃の若者たちに神妙な面持ちで「何でも経験だ」と呟きながら「郷土のグローブ」を脱出するべきなのか。そろそろ限界だ。似合もしない紫の髪をした男に彼らは全く興味がない。しかし残念ながらもう16時30分だ。出勤の時間だ。さよなら。とりあえず白パーカー達の顔は覚えた。2のマイナス3乗は1/8だ、それくらいちゃんと出来るようになれ。それか興味がないなら堂々と宿題なんてやるな。一階の書架にはその右手の階段かエレベーターで降りれる、そこに地図あるだろ。読書の時間を邪魔するな、馬鹿野郎。
先日29歳になった私は今、後期クソガキ真っ最中だ。明日は「郷土のグローブ」にはクソジジイしかいないだろう、静かに本を読めるはずだ。

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