ボヴァリー夫人マシーンNo.2

『ボヴァリー夫人マシーンNo.2』というのは、以前一度書こうとしたけれど長らく中絶してそのまま反故同然となっていた『ボヴァリー夫人マシーン』というエッセイがあって、書き足そうという気はもうなくなってしまったのだが、そのタイトルが気に入っていたので、漠然と書こうとしていたことを一から書いてみることにしたけれど、同じタイトルは嫌だ、マシーンというからには2号機のような扱いで良いだろうということでそのようにした。

ギュスターヴ・フローベールの長編小説『ボヴァリー夫人』とハイナー・ミュラーの戯曲『ハムレット・マシーン』、岐阜県立美術館で見たオディロン・ルドンによるハムレットの絵を何とか組み合わせて、自分の女性性(自分にとっての、ではなく)について書こうとしていたが結局いずれのことも私はよく分かっていないという結論に達しただけであった。よく分からないことからは勿論上手く書けないので、同じようによく分からなくても多少誇張、知ったかぶりをすることに何の罪悪感も抱かない事柄を書いてみる。

映画の仕事をしていた3年間、私はそこまで多くの監督やスタッフと知り合ったわけではないが、良い出会には恵まれていた。聡明な方ばかりと知り合えたし、彼らからたくさんの刺激を与えてもらった。その中でも映画監督Nさんと脚本家Rさん(女優でもありNさんのパートナーでもある)は特に仲良くさせてもらい、映画の現場を離れた今でも連絡を取り合っている。
ある現場で、それは私がNさんRさんと一緒にした初めての仕事だったのだが、必要なエキストラが足りていなかったので、当時付き合っていた彼女に現場に来てもらったことがあり自然お2人に彼女を紹介した。後日彼女はRさんに「全身を舐めるように見られて嫌だった」と私に打ち明けた。私はその話を聞いても、親しくしている人の彼女の全身を不快なほど凝視してしまうRさんの率直さにありがたさを感じるだけだった。彼女は私がRさんと出会ってからほとんど洗脳に近い影響を受けて変わってしまったと何度か言ってきたが、それが非難なのか嘆きなのか私は捉えかねて、とにかくRさんの非常識なほどのありがたさを理解しない彼女に対して少し蔑んだ感情を抱いた。

今はそうした感情を抱くことが習慣になっている。なんだ、こんなことも分からないのか、という軽蔑がすぐに浮かんでしまう。ある人に一度そういう軽蔑心を抱いてしまうと、以降常にそれが影のように付き纏ってしまう。

初めての一緒の仕事が終わって少し経った頃、Rさんに突然私が「女宿」だと教えられた。弘法大使が日本に持ってきて織田信長や徳川家康も使っていたという歴史ある宿曜占いの結果、私は「女宿」であるらしい。それを聞いて私は「やっぱり。でもありがたい」と思った。
遥か昔小学生の時分、第二次性徴を男子よりも早く迎えた同級性女子の攻撃性に触れてはいけない緊張感と置いていかれた疎外感を感じてから、女性は10年弱ぼんやり遠い存在だった。しかし初めて異性に告白した17歳くらいの頃から忘れていた親しみを取り戻すように身近な存在になっていき、今ようやく熱心に女性のことを、あたかも自分のことのように考えて良いと許容され、しかももう既に考えられていて私の精神に宿り始めていると言われた気がした。「女を宿す」私にはその権利と能力があり、自分の中の女性性がもっと確固たるものになる将来が約束された気がしたのだ。占いの結果自分の女性性が気になり始めただけなのに、私が何か女性的な性質を持っているから女宿だと認定されたかのような、倒錯した占いであった。RさんもRさんで、単に占いの結果がこうだからという以上に何かしら私の中の女性性を感じてくれているらしく、その源に母の存在を認めているらしかった。確かに私は昔から母とは仲の良い方だったと思う。しかし、母にその話をしても、母は私の女性性にはあまり関心を示さなかった。私の喜びは分からなかった。だから私は自分の女性性は母とは無関係なものだと思った。さらに「あんたには意外と男っぽいところがあると思ってた」と言われた。そこで母が取り上げるのが母の母、私の祖母が死んだ時のことだ。

祖母の葬式は、派手な物が嫌いで慎ましく送って欲しいと言っていた故人の言葉に従って母と伯父で簡素なものに決めていたのだが、そのことを知った大叔母(祖母の妹)が祖母の遺志を知ってか知らずか分からないが遺骸に向かって「姉ちゃんの子供らは殺生な、まさかこんな仕打ちを受けるとは思わんかったな、可哀想に」と泣き腫らしながら訴えかけた。もしかしたら故人の考えを知った上で、それでも親が死んだらなるべくお金を惜しまずに送るべきだ、それが子の勤めだ、くらいの考えがあったのかもしれないが、見ている親戚が一瞬呆気に取られるほどの勢いで慟哭しながら葬式を安く済ませてしまおうとする子供達を持った姉の死体に同情と憐憫の限りをぶつけていた。
自分の母親を亡くした悲しみで疲弊し切っていた母親は、叔母に対して疲労からくる弱々しさで言い返していたけれど、焼石に水で母が詰られている状況は変わらなかった。それを見ていた私は下腹部の辺りから震えるような怒りが湧き上がってきて、具体的な言葉は全く思い出せないがおそらく人生で一番怒ったのではないかというほど激昂して、とにかく大叔母を罵り、母の言っていることを理解しろ、母が可哀想である、謝れと何度も怒鳴り散らした。
こんなことは冠婚葬祭にはよくあることだと思う。家族の関わる儀式というのはあけすけでいやらしく、喧嘩に絶えないものである。だからこの喧嘩自体は別に何ら特別なことではないように思うのだけれど、母は自分のために怒ってくれた私に少なからぬ感謝の念を抱いたらしく、よくその話を私にするし、そういう所に頼りになる男らしさというものを感じたらしい。ところで、私がなぜそこまで激昂したか、おそらく、大叔母がする母への非難が亡骸に向かって行われたことが耐えられなかったのだと思う。死んでただの物体になってしまった人間に向かって人が感情をぶつけるのは何だか見ていて堪える物がある。
唐突に映画の話だが、相米慎二に「夏の庭」という映画があって、少々ネタバレしてしまうのだが、ラスト、死んだ三國連太郎の亡骸に向かって主人公の仲良し3人組小学生が渾々と涙を流しながら呼びかけ続けるシーンがあり、特別よく撮れているシーンでもないのだけれどかなり涙を流してしまった。
その時から考えるようになったのだが死んだ人間に話しかけるのは不自然だと思う。相当おかしな行為な気がする。勿論当人たちの感情は全くおかしなものではない。しかし直視したくないようなグロテスクさがあるような気がする。

とにかく、母は私に幾許かの男性性を認めている。ちょうど最近姉の結婚式があったのだが、親戚付き合いが苦手な母は、挨拶回りに私が付き添っただけで後で感謝された。しかし私はどちらかというと新郎の祖父の顔が気になっていたので近くで見てみたかっただけだった。実際母も彼の顔を大変好いていた。
「母さん、あのおじいちゃん、いい顔してるね」
「ほんまやね、いい笑顔やね」
「何というか、皇室顔っぽい」
「確かに。私もああいう綺麗な歳のとり方がしたい。できんと思うけど、ああいう顔になりたいな。さっき向こうのお母さんはトイレの中で愚痴ってはったけど」
「僕はああいう顔は呆けやと思う。やることやったら何もかもよく分かんなくなってずっと笑顔を振り撒いて、下らない犯罪で捕まるのも悪くない」

話が前後するが、祖母は癌で死んだ。まず乳癌が見つかって何度か手術はしたが、どうしようもなく広範囲に転移してしまい、以前会った時は抗がん剤の影響で禿げ上がってしまった頭部を隠すターバンを巻いて録画していた名探偵ポワロか何かのドラマを熱心に見ていた祖母が、次会ったときはベッドで寝たきりになっていた。もちろんそんなにあっという間の出来事ではなく、がんセンターと自宅を往復する生活を送ったり、抗がん剤をやめたりと色々な経過はあったはずで、母はそれに付き添っていたしその経過も聞いていたが、私は祖母の実家に顔を出したり病院にお見舞いをしたりはしなかった。母も祖母のところに顔を出しにこいとは言わなかった気がする。祖母は癌になったことで何か別の生き物になったような気がして、そこには母が絶対的存在として介入するか或いは巻き込まれていたように思われるのだが、同時にその時期は別のことで私は母の存在から絶対的に離れて私自身も別の何かに変わっていくような気がしていたので、もう私と祖母との間には何のつながりもないように思われたのだ。
寝たきりになって腹水が溜まった祖母の肉体は肌が黄色く変色してぶよぶよに膨れ上がり、いく筋が青い血管がうっすら透けて見えて、私は何かの拍子に下着をずらしたその時の祖母の股間を見たことがあるのだが、数本の陰毛が黄色い恥丘からヒョロヒョロと生えていた。床ずれにならないように定期的に体の向きを変えてやるのだが、触れられる度に非常に痛がって子供のように泣き叫んでいた。
それでも、いよいよ死期が近づいた時、祖母は母の耳元で、勉強が出来ると言われて自慢の娘だったと感謝したらしい。母が勉強が出来ると言われたのは小学生の時だったらしいから、子育てもまだ序盤から中盤にかけてに入りそうな時期だけれど、そういう時期のことでも他の何にも増して思い出されたりするようだ。祖母が癌になって、母はもう一度子供に帰り、祖母は母に戻ったのかもしれない。そして、学校の先生に娘を褒められて飛んで帰って来たという嬉しい思い出と共に死んだ祖母に残された母は今少しずつ子供っぽくなって来ている。それは分別を弁えなくなったとか精神年齢が下がったと言うことでは全くなく、感傷的で弱くなってきたのだ。それを子供っぽいと呼ぶことは正しくないのかもしれないが、それでも子供っぽいという印象からどうしても離れられない。

母がいかなる形で死ぬことになったとしても、私は、死の近づいた祖母と母の間に出来たように見える愛憎こもった紐帯、それと同じようなものを自分の母親と持つのは嫌だと思っている。私はそうでないものと共に母に死んで欲しい。こういう考えは親不孝なのだろうか。

母の体のことはよく分からない。いつまで元気でいるのか。私はというと最近臀部の鈍い痛みに悩まされている。仕事中は投光室のテーブルに座りっぱなしで、古い照明卓(主にハロゲンパーライトを操作する)、新しい照明卓(主にLEDパーライトを操作する)、デッキ、ミキサー、マイク等をいずれにも無理なく触れるよう良い塩梅に配置した真ん中に椅子が置いてあるのだけれど、場面場面で触れている機材が違うため体重移動が激しく座っている姿勢が変になる。必然的に腰からお尻にかけてかなり疲れが溜まる。仕事のない時は家で本を読むか、映画を見るか。映画館に行くか。いずれも座りっぱなしだ。腰痛は命の危険があるとか何とか煽り立てるような文句が時折ネットで見受けられるが、今の所はまだ頑丈と言わなければならないだろう。

私のとるに足らないエッセイのために家族のことを少しではあるができる限り正直に書いてしまった。責任を取ろうと言うわけではないが、そのことに対して私のお尻が痛いという話で終わるのは少し馬鹿にしすぎているかもしれない。私もいずれ辿る道のことを少し考える。

家族内で、私の家は癌家系かもしれないと言う話が何かの折に触れて持ち上がることがある。先ほどの話に出た大叔母も完治しているが初期の癌が見つかったことがあるし、もう1人の大叔母も確かそうであったはずである。しかし癌家系という言い方はなんだか胡散臭くて、科学的根拠のあることなのか判然としないし、一方で癌で死ぬ人間は多いのだから、医学的に証明される癌家系でなくても一見するとそのように見える家族もあったりするのだろう、気にするようなことではない気がするし、正直そういう言説を真に受けるのは苦手だ。
それでも祖母、母と伝わってきた遺伝子の中にXやYとは違う形で女性性を司っている遺伝情報のようなものと癌の卵のようなものがセットで収まっていて私と姉にも伝わっているような気がしなくもない。姉か私か、どちらかが癌で死ぬのであれば私が癌で死ぬように思っている。
人間が死ぬ時の周りの状況を考えると言うのは馬鹿げていると思うが、それでも想像してみようとしたけれど、全く想像ができなかった。私の死骸の周りで取り交わされる感情は想像を絶してしまう。
私と母のどちらが先に死ぬのかは厳密には分からない。母が死ぬ前に私が先に癌で死ぬ可能性も勿論ある。その場合は母は死ぬ間際に「やっぱり癌家系やったね」と言ってくれたらいい、その時には私は癌家系という言葉は僕には信じられない云々と言った面倒臭いことを言い返す体力も知性もなく呆けた笑顔を返すだけだろう。そんな呆けた笑顔は義理の兄の曽祖父の笑顔のように美しいかもしれない。しかしこれは親不孝中の親不孝である。私は母よりも生きなければならない。

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