ニュルンベルクの漏斗

ニュルンベルクの漏斗という言葉があります。機械的で安易な詰め込み教育を、漏斗に注ぎ込む様に例えて言うそうです。ベルトルト・ブレヒトの「ガリレイの生涯」の注釈で知りました。ドイツ語での発音はさっぱり分かりませんが(NÜRNBERGER TRICHTER)、日本語の場合一定のリズムでラ行の音が入るので口に出した時の響き方が心地よいのでしょうか、印象に残りました(ドイツ語でもRが一定の間隔で入ってくるので気持ち良い響きなのかもしれません)。知ったのは2,3年前のことですが、本を読んでも簡単には賢くなれないなという至極当たり前のことをようやく馬鹿なりの危機感で捉え始めたちょうどその頃にその言葉を知ってからことあるごとに「ニュルンベルクの漏斗、ニュルンベルクの漏斗」と心の中で呟いています。最近知人と一緒に映画や政治、ストリップの話を肴にお酒を飲んだのですが、監督・俳優・作品の名前など固有名詞がすぐに出てこない、あるいは全く出てこないことが頻繁にあり、そういう時も「ニュルンベルクの漏斗だな」と思いましたけれど、これはただただ(心の中で)言いたいだけでニュルンベルクの漏斗は関係なく、注ぎ込む先の問題、単なる記憶力の低下、老化、医学に無知なので間違えているかもしれませんがどちらかというとアルツハイマーというもっといかにも現実的でおどろおどろしい事態に関連することでしょう。
どんなものにせよ教育を漏斗に例えるのは無難ですが手堅い比喩に思われて、ならばニュルンベルクの対義語にあたる語は何なのだ、ブレヒト的教育にあたるようなものを例える言葉は?と気になりますが、何にしたってきっちり脳に仕舞い込むような教育を受けた、あるいは自らに施したにせよ、忘れるものはどうしたって忘れるもので、注ぎ込むべき先があるのかないのか分からないので非常にガサツなヒユですが、人間の脳がそれ自体がすべからく漏斗だ、というのもありうるかもしれません。大小様々な結晶が混然と浮かび上がったり消えていったりする不透明でドロッとした液体が記憶で、それが少しずつ漏斗を伝って滑り降りて行っている、しかしどうもその液体は須く同じ物質から出来ているのか、はたまた全く違う物質の寄せ集めなのか、とにかく伸びたり縮んだり、薄くなったり厚くなったり広がったり、それらが部分部分で同時並行で起こりながら、でもあくまで下部の管を目指して集まって少しずつ流れ落ちていきます。
私の場合だとニュルンベルクの漏斗をもう一つの大きな漏斗に接続して、ただひたすら液体が上の漏斗から下の漏斗の受け口へ、そこから更に管を通って虚空に流れ落ちていくのをぼんやり眺めているわけですが、大きな漏斗の管を何の上に持ってこようか。そうなった時、書くというのは慰みにしろただただ記憶を闇雲に垂れ流しているような気はしません。私が今自然に話を進めているように懸命に見せかけたすり替え、ニュルンベルクの漏斗ではなく脳という漏斗についてという誤魔化しは卑怯な手練手管であり、本来は、いつか抗えず訪れる忘却ではなく、如何に頭に仕舞い込むかということが問題であり、今すぐ問わなければいけないところを、とりあえず忘却のことを考え書くことが遠回りでも答えに近づいていけそうな気がするのでそうするべきだと思っていますが、なかなか習慣にするのは難しいかもしれません。

漏斗といえば、私は小学5年生、中学受験勉強真っ只中の理科の授業で初めて知りました。ろ過の実験をします、塩や砂糖、ホウ酸なんかを水に溶かしてろ紙を被せたろうとに注ぐ、ろうとの下にはビーカーを置いてビーカーには飽和水溶液が、ろ紙には溶け切らなかった塩や砂糖の結晶が出来ました、さて何グラムでしょう、とこう来る訳です。こんな問題は所詮小学理科ではよくある金太郎飴な訳で、数字を変え、グラフを変え何問も解いたりしたのだから、全く馬鹿なことをしたものです。とにかく、脳という漏斗にも濾紙はのせてあるようで、虚空にこぼれ落ちずに濾紙に残った記憶の結晶はありそうな気がします。ドロドロの記憶をなんとかベトベトした言葉で書き表そうと奮闘するよりも、記憶の結晶をかき集める方が理性的だし賢明でしょう。30年弱生きてきた中で、控えめに言ってもドロドロになる程度には記憶も混ざり合って多種多様なことが渾然一体連なって出てきます。しかしそれをそのままベトベト書くということはやってみたことがありますが、書いた気になっているだけで、実は何を書いているか本人も分かっていない、実際読むに耐えないものなので、今更挑戦することではありません。

ところで中学受験はほとんど皆塾に通ってするもので私も例に漏れなかったため、ろうとを初めて知ったのは学校の教科書のカラー写真ではなく塾の授業で使っていたモノクロの問題集の図版を通してでしたが、問題集というのは受験生にナマの情報を与えるよりも問題を解かせては解かせ受験マシーンに仕立て上げるために作られた、言うならば野蛮なキョウカショモドキです。学校の教科書に使用されている紙よりも、問題集のそれは安っぽくペラペラで使えば使うほど手汗が染み込んで癖がついたまま硬くなり、いかにも読み込んでいるという使用感を訴えてくれる野蛮さです。ろうとの写真はなく絵しか載っていない訳です。当時は今にも劣らぬ阿呆だったので、学校ではまだ教わっていない、同級生の多くがまだ知らないであろう絵に描いたろうとやろ紙にやや大袈裟にいうと崇高なものを感じて、実物には興味を持たずに果てはろ過という言葉の響きに幾分悦に入って受験マシーンになろうとしていたのです(どうも私は昔からずっとラ行の響きに惹かれやすいようです)。しかし、よくよく考えてみると、小学生だろうとたとえばお母さんの料理の手伝いをしていたら漏斗ぐらいはみたことがあるわけで、或いは「ろしとはつまりキッチンペーパーみたいなものかしら?」っていう生活的にませた同級生も1人くらいはいたかもしれないし、彼・彼女からすると、てやんでい、塩や砂糖を溶かすなんて日常茶飯事、理科の実験どこじゃなく家族の胃を担ってんのよなんて小学生もいたかもしれません。なんてことを思っていたら、当時小学校高学年の私にとっては、男性よりも早い第二次性徴を迎え体もそしておそらく心も先に大人になっていく同級女性たちは少なからぬ恐怖を感じる存在だったことが思い出され、今となってはもうほとんど残っていない種類のその恐怖の残滓が漠然と蘇った途端、家事をこなす女子小学生を想像させ、ばーかとか何とか、言わしめます。

私は昔、こんなに昔の話ばかりしているのに今更昔と切り出すのもおかしいですが、私は昔、ジブリ「耳をすませば」の「カントリーロード」の2番のサビ後すぐに続く”どんな挫けそうな時だって けして涙を見せないで”と続く部分(音楽用語に明るくないので、あそこをなんと呼ぶか誰か教えてほしい)の最後を聞くとダチョウの大群が頭に浮かんだものです。”心無し/カホチョウが/速くなっていく/思い出”と分節されたらしく、理性を失った、ダチョウに似たカホ鳥と呼ばれる鳥の大群の猛追から必死に逃げた、最悪の思い出、そう、トラウマを歌ったものだと直感したらしいのです。この分析は後々の解釈だから所謂後付けだけども我ながら非常に明晰な分析だと思っております。とにかく私には例の箇所を聞くと脳裏に浮かんだダチョウモドキ、いや、そのままダチョウのイメージは恐らく当時の土曜日ゴールデンにやっていたファミリー向けのテレビ番組、世界の謎を探索すると銘打っている半教養番組で見たもののはずで、そういう映像にありがちなハイスピードカメラで正面から撮られた迫り来るダチョウたちの姿が、映画の比較的陳腐な回想シーンにありがちなスロー映像のように錯覚されて、そのまま脳裏に焼き付いたのだと考えています。クエェェェェ。と鳴いたような気がします。スローモーション半開きのままの口から飛沫と共に漏れ出るように。もちろんそういった類のスローの映像には音声が付くことは少ないですから番組では無音かエキゾチックな音楽が流れていたと想像されるので私の幻聴ですが、カホチョウの声はその昔の私なら聞こえていたように思いたくなります。残念ながら、カホチョウのイメージの方は、濾過のヒユを引っ張り出せば、カントリーロードにまつわる思い出の混合水から飽和して辛うじて結晶しましたが、クエーはそのまま漏斗下に流れ落ちてどこかにいってしまいました。今では濾紙上には2時間サスペンス「山岳刑事(ヤマデカ)」冒頭の霧にかかった山麓の映像とデカ、オリヴィアニュートンジョン、某ストリッパー、これらとカホチョウが辛うじて結晶してくれていて、そのことがとにかく私の私自身捉え切ることのできない生き甲斐の一部になっています。

さて、話を戻しますと、肝心のろ過の実験を授業でした記憶がありません。私が通っていた塾では実験などという非効率的なことは行わなかったものですから、この場合学校の授業で取り扱ったかどうかになるのですが、確か教科書に載っている実験でも実際に行わなかったものもあったはずなので、それは正しいのかもしれません。ちなみにろうとの実物は理科室でみた記憶があります。おそらく何年も使われたガラス製のもので洗っても取れないようなくすみに覆われておりその平凡で実験器具っぽくない感じに失望した気がします。実家に赤いプラスチックの漏斗があるのを知るのは何年も後の話。今一人暮らししている家には、現状無くても事足りているので購入しないままでいます。とりあえず実験に纏わる代わりの思い出一つ。ろうとやビーカーに並んで小学校理科の代表的な器具の一つに丸底フラスコというのがあります。熱膨張の実験で栓をした丸底フラスコの底を熱して栓を飛ばす、という単純な実験があったのですが、フラスコを炙りはじめて飽きるか飽きないかぐらいの良い頃合いにポンッと小気味よく栓が飛び出すので、派手な実験ではないものの不思議と盛り上がったものでした。その実験で使う栓はキョウカショモドキにおいてジャガイモにフラスコの先を押し付けて作ると手引きされていて、これまた崇高なジャガイモ栓と化していたのですが、授業ではどんな栓を使ったのかこれが思い出せません。生徒たちは調子に乗り始め、フラスコに栓を強く押し込めば押し込むほど良い音が出ると思った男子たちがどんどん奥にねじ込み始めて、しまいには中に落ち込んで取り出せなくなる、それをなんとかしようと中に大量の水を入れては振りまくる、そんな蛮行を押さえ込もうと手を伸ばす、手が触れた拍子に彼の手からフラスコが滑り落ちパリン。私が「あーあ、だから言わんこっちゃない」と思うのが先か後か、授業のコンロールを失ってイライラしていた先生の雷が私の頭にも落ちてきたのです。僕は割ってません。そういう、自分は悪くないみたいな態度があかんねんや。こういうことが起きるのは鳥井も一緒になって遊んでいたからや。悔しくて涙が止まりませんでした。誰か女性の先生に慰めてもらった気がしますが、どんな人か忘れてしまいました。さて、フラスコの中に栓が落ち込むということは、コルク栓やラバーのものでは力を入れて押し込んでも入らないと思います。おそらくジャガイモだった。しかし床と洗面台に飛び散ったガラス片のことしかかろうじて引っ張り出すことは出来ず、誤った形でフラスコから出た栓のことは全く思い出せません。憧れのジャガイモ栓の上澄は濾紙を透過して漏斗を流れ管から排出されたのに、屈辱の無念さと無惨なガラス片だけが溶解することなく結晶してしまったのです。授業後もずっと泣いていたし家に帰っても思い出しては泣いていました。

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