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素人の考古学ー千葉県市川市の下総国遺跡巡り

 下総の古代史的位置づけについて概略を説明します。
 (図1)は、市川市教育委員会作成の「市川市遺跡と文化財マップ」です。


図 1 〇で囲んであるポイントが今回訪れた古跡

これを見ると貝塚をはじめ多くの遺跡の集積が見て取れます。この地がなぜこれほどの古代遺跡に溢れているのか、それはこの地が縄文時代(約6千年前)、東京湾の海面もしくは干潟に面していたことに由来します。 (図1)の左側から右低辺にかけて薄い青色に着色してあるところが、当時は海もしくは干潟でした。 縄文海進と呼ばれており、東京湾が現在より遙か北に浸食されており、下総は当時交通の中心であった船で関東内陸へ向かう際のゲートウエイの役割と供に、豊かな東京湾の海産物と内陸を覆う広葉樹林が産み出す堅果や獣肉を享受する、生活の地であったことが見て取れます。 現在においても東京外環自動車道の建設工事に伴い、幾つかの新しい遺跡が見つかっており、 なかでも雷下遺跡からは国内最古(約75百年)の丸木舟が発掘されたことは特筆すべきことです また、地理的に東京に隣接し、明治時代から大学研究室などによる発掘が精力的に進められたことも、この地域の古代史探究を豊かなものにしている一因と考えます。
●堀之内貝塚(国指定史跡):

 北総線北国分駅から歩いて約5分の距離で、市川市考古学博物館・歴史博物館が隣接します。 一見すると単なる緑地帯といった所ですが、縄文時代後期の遺跡で、約20mの高さの台地に竪穴式住居、その傾斜地に貝塚が形成され、現在でも当時のアサリ、蛤などの貝殻が地面に剥き出しで露出し、直に拾って見ることが可能です - 近隣にも多数の貝塚がありますが、剥き出しはここだけです。 この貝塚がアカデミ-の世界で有名なのは、出土品の土器が、「堀之内式」と分類され縄文時代後期の標準土器となっているからです(図2)。

図 2 堀之内土器

●明戸古墳石棺:

 江戸川に面した里見公園の北西部にさりげなくあります。 その昔、太田道灌(15C)がここに陣を築こうとして見つけた石棺と伝えられております。 6Cから7Cにかけて当時の豪族を弔ったものと推定されていますが、それ以上のことは解っていないようです。 またこの石棺がある小高い土塁に加え北に別の土塁が繋がっていることから、前方後円墳と推定されています。 二棺並び、なんとなく夫婦仲良くという雰囲気を醸し出しています、果たしてどのような歴史があったのでしょうか。 想像してみるのもおもしろそうです。

図 3 明戸古墳 組立式箱形石棺 2基

●法皇塚古墳:

里見公園に隣接する東京医科歯科大国府台キャンパス内にあります。 大学の守衛室に「法皇塚見学受付」の看板が掲げられ、守衛さんの了解を得て見学となります。 この古墳は、市川市近辺の古墳のなかで最も大きく(全長65m)、前方後円墳の形もしっかり残っています。 昭和時代に横穴式石室が発見され、甲冑・太刀・轍族・ガラス玉、馬具等の副葬品が出土し、これらの遺物の特徴から、6世紀後半頃に築造された古墳であると考えられております。このようにこの地域では珍しい、古墳らしい古墳なのですが、国・県・市から文化財の指定を受けておりません。 そのせいか、古墳そのものへのアクセスは特に規制はなく、直接手・足で古墳を感じたいカタ向けと言えるでしょう。



図4法皇塚古墳
図 5 出土された副葬品の一部


●弘法寺古墳:

 市川市真間にその昔(天平時代)美しすぎてあまりにもモテすぎるため、終いには入水自殺までしてしまう悲劇の主人公「手児奈」という少女がおりました。この少女を弔うため建立され、弘法大師が弘法寺と名付けられ、その後日蓮聖人まで絡んで、宗派を真言宗から日蓮宗に改宗、何とも色っぽくも賑やかな歴史をもつ古刹でありますが、古墳はこの寺の西端にあります。 が、ここは「真間台地」の端で、日々地崩れしており、古墳の一部分も崩落し、危険すぎてまともな調査は行われていないようです。 歴史性があり、春は桜、秋は紅葉が美しいお寺なので、訪問の際にでも立ち寄ってみる感じだと思います。

図6弘法寺古墳

●下総国分寺・国分尼寺
 時代は古墳時代から天平まで下ります。 天平13年(741)聖武天皇によって発せられた「国分寺建立の詔」により、「金光明四天王護国之寺」として僧寺・尼寺のペアで建立されました。下総国分僧寺の跡が現在の下総国分寺とほぼ同じ場所にあり、奈良県の法隆寺と同じ配置(法隆寺式伽藍配置)で、金堂・塔・講堂が建てられていたことが昭和の発掘調査で確認されました。 現状は寺の境内に当時の伽藍を支えていた礎石の一部が見られるだけです。


図7下総国分寺

尼寺跡は、僧寺跡から約5百  メートル離れた所にあり、昭和の発掘調査から、尼寺と書かれた土器が発見され、また寺領を別ける側溝なども発掘されておりますが、現状只の原っぱで、当時を思い浮かべるには歴史的想像力が試される場所でもあります。 尚、建立当時の正式名称は「法華滅罪之寺」。

図8下総国分尼寺跡

いずれにせよ、国分寺がこの地に建立されたということから、下総は当時の朝廷にとって有数の重要拠点であったことが伺われます。

(参考:古代史同好会報告資料)

                           以上

                           小兵衛

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