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素人の考古学ー千葉県公津原古墳群巡り

概要:公津原古墳群は、千葉県成田市を代表する古墳群で、手賀沼・印旛沼周辺に多くの古墳が分布している。この古墳群は、南から3つの支群に分けられている。
公津原古墳群は、総数120基を超える古墳で、築造開始年代は4世紀の前半から7世紀の後半まで長期間にわたって造られている。特に天王・船塚古墳群には、6世紀代と推定される大型古墳が所在している。しかし、7世紀に入ると大型古墳の造成が減少し、龍角寺古墳群と対照的である。
八代台古墳群
小高い丘の上の外小代公園にあり遠く印旛沼が望める。
八代台古墳群は、成田ニュータウン北端の成田市玉造地区に分布する。宅地開発以前は前方後円墳1基、円墳26基、方墳4基の総計31基からなる古墳群であったが、現在は全長23mの前方後円墳1基、直径9~15mの円墳14基、一辺11mと18mの方墳2基、計17基が整備され保存されている。

八千代台古墳群 23号墳 方墳

ここから南下して住宅街の一角にある八代玉造遺跡に向かう。
八代玉造遺跡
昭和37年、東国で初めての玉作遺跡として調査され、3軒の工房跡から大量の管玉が発見された。
玉作遺跡の調査結果から、この地域が早くから大和政権の支配下にあったこと、玉作工房集団がこの地に居住して玉類の生産に当たっていたことが判明した。

八代玉造遺跡

●戸崎公園
バス通りに出てさらに南下すると右に戸崎公園がある。
公園を出た住宅地の真ん中に小さな円墳があるはずと十数年前の記憶を頼りに歩き小さな円墳が3基あった。

戸塚公園内 円墳

天王塚古墳
天王塚古墳(公津ヶ原21号墳)は吾妻神社の西隣の森にある。
全長63m、前方部幅30m、後円部径35m 高さ4.3mで、公津ヶ原古墳群の中では最大の前方後円墳である。
発掘調査が行われていないので、詳細は不明。
前方部に八坂神社、後円部に浅間神社の祠がある。


天王塚古墳

吾妻小学校内の古墳

正門を入ってグラウンドの右側に17号と18号の円墳、奥には19号と20号の円墳がある。さらに、小学校南側の団地内には10号と11号の円墳がある。10号墳は、直径33mで、公津ヶ原古墳群最大の円墳である。

吾妻小学校内 円墳


 団地内を抜けて麻賀多神社に向かう。

麻賀多神社
印旛郡内にある『麻賀多十八社』の惣社で、船形の手黒社(本社)と台方の稷山社(奥宮)の2社からなる。
手黒社は応神天皇の代に八世孫である伊都許利命が霊夢を受け、杉の下から七つの玉を掘り出し、鏡とともに祀って麻賀多真大神と称した。下って七代の孫広鋤手黒彦が、推古天皇16年(608)に稷山の地に稚産霊命を移し、ここに二つの麻賀多真大神が成立。延喜18年(918)麻賀多神社に改名。


麻賀多神社


印波国造古墳

●船塚古墳(公津ヶ原8号墳)
赤坂公園内。千葉県では数少ない前方後方墳で、全長85mの前方部幅50m 高さ7m、後方部幅45m 高さ7mで印旛地域最大の古墳である。長方形に近い墳形をしている。
発掘調査が行われていないので、詳細は不明である。また、墳丘の表面から埴輪片が採集されている。
築造年代は7世紀代と考えられる。
開発前には船塚古墳の西南には、直径50mの大円墳や全長35mの帆立貝式の前方後円墳などがあったが、現在はその姿を見ることができない。

船塚古墳 方墳

●瓢塚古墳(公津ヶ原3号墳)(公津ヶ原1~7号墳)
全長 45m、前方部幅15m 高さ4m、後円部 径21m高さ6m。全長45mの中規模ながら、稜線が精美な前方後円墳である。前方部の高さに対し、後円部が高い墳丘形態から考えると、比較的古い段階の古墳と思われる。
宅地開発以前には前方後円墳1基、方墳17基、円墳23基、墳形不明1基の42基からなっていたが、現在は、前方後円墳1基、方墳2基、円墳3基が残る。

瓢箪塚古墳

バスと徒歩での古墳巡り、事前にコースと時刻表をチェックしておかないと回り切れない。

          (参考:古代史同好会報告)
                       以上
                       小兵衛

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