衝動人間-homare-

僕には理屈、原因、理由といったものが感じられない。(ないことは、ないので感じられないと書いた)幼馴染に僕とは行動原理が正反対のT君がいる。僕は一般の人と比較することはもうやめて、T君とだけ比較するようにしている。比較はどうしてもしてしまうので、ならば一人だけと決めておこうと思った次第である。僕は衝動、無意識、感情、過程、イメージに近い。T君は理屈、論理、意識、理性、成果、結果。mbtiが世間的に流行する前に僕は診断して(意外と、虜になって一年くらい研究していた笑)、INFPと自認した。T君は機能がすべて反対のESTJだった。と、まあ僕とT君の紹介はこれくらいにしておいて、ささっとタイトルを回収していく。

僕はとりわけ自分で考えることがなくて、常に心の衝動に身を任せている。多分僕は、提携発達とは呼べない。よく言われるのが、自分の興味のあることでしか、脳が機能しないこと。ただここに憂いはなく、僕は誉として生まれてきて本当に良かったと感じている。T君も自分の生き方に満足しているようだ。僕はT君を羨望したことはないが、T君はよく僕のことを羨ましいと言ってくれる。確かに僕から見て、理屈があるということはとても生きづらそうに思える。ただ僕は僕で、この特性に困ることもある。物事を順当に組み立てられない。ゆっくりできない。じっとして何かをすることに抵抗を覚えるなど、物理的な衝動のほか、内的な、例えばイメージが尽きず言語化がうまくできないなどの衝動に駆られる。最近はとにかく自分に納得し始めていて他人に嫉妬することはなくなった。これこそ僕の才能であり素質であり、生き方でありセンスであると自覚して心が楽になった。考えることが嫌いではない。むしろ好きである。夜、暗い部屋でベッドに寝転がり天井を見つめて眠るまで思考するのは至福の時である。ただそこにも衝動はある。もちろん100%衝動なんてことはないが、体感80%以上は衝動である。言語化が難しいけれど、今の僕の頭の中をそのまま文字にしてみる。

2024/5/09   3:48 誉の脳内景色
「この曲いいな、文字を打っている楽しい、いつ終わろう終わらんでもいいな確かに。(右端に縦長方形のピンクの柱、そこに横長方形の黄色が交差している)あれ誰だっけ、ああ星野源だ。(星野源の恋の画像が映し出される)(営みの~)コーヒー。Twitter。」

文字を打ちながらの脳内なので、少し違う。書こうとするから少し意識が入っている。というか刹那的に切り替わるのでいままでがどんな内容かも覚えていない。常に音が鳴り、画像が切り替わり、色が見え、文字も言葉も交差する。常に情報過多である。そんな中、人と会話なんて無理があるのである。質問されたらショートしてしまい、答えられない。こんな些細なとこにも興味が垣間見えれば、さっと回答が可能である。僕はぼくがとても魅力的に見える。最高である!

とにかく順当にできない。だから目次をつけたりも動きづらくて嫌である、というか不可能である。なので概要だけ決めたらあとは心に従うだけである。衝動。

綺麗なものを見ると、壊したくなる。僕はいわゆるマザコンってやつだったわけ。それで小さいころは母に抱き着いて親指に嚙みついていた。母はすごく端麗美人で化粧しなくても、そのままが綺麗だった。ご飯も美味しい。また、食べたい。親指に嚙みついて、そのまま勢い余ってかみちぎってしまいそうになる。足に抱き着いて、そのまま粉砕したくなる衝動。

絵を描くときも衝動である。緻密に描いた風景画を完成間際に目をつぶってペンで刺すようにして、台無しにする。

部屋を掃除した後に、わざと部屋のど真ん中にコーヒーをこぼす。

髪はサラサラ、メイクばっちしの美人さんを川にぶん投げたくなる。

皆勤、エリート経歴のスーパーマンを日本一周に誘いだし、今までの努力を滅茶苦茶にしてやりたくなる。

肺がきれいな純粋無垢の人にタバコを一日2箱吸わせたい

思いつく限りやるときりがないので次へ笑笑、まじわらえる

きっと僕は最初から衝動によって完成していて、あとは僕自身がそれを解き明かす過程こそが人生なんだと思う。最初から答えを知っている、そんな人生である。それをわざと踏み外してまごついたり、時には指示通りに動いてみたりして面白おかしく生きている。ぼくはカオスな状況がとにかく性に合うらしい。電気が止まれば笑って過ごせるし、お金が無くなってホームレスになればワクワクしてしまうし、山に放り出されても自給自足なんて最高じゃんと思ってしまうし(これは妄想だけど)。自負するけど、カオスな状況になれば僕は途端に一番頼りがいのある男になる。みんなが選択に迷って狼狽している間は妙に落ち着いて決断ができてしまう。これも躁鬱の特徴なのだろう。無意識にバランスを取ろうとする。だが基本、周りは秩序を維持しているので僕はいつも根暗でアンニュイで。それを感じないためにも人とは関わらない。成人式にはいかなかった。僕は生涯、5歳のままだし、誕生日を20回開いたとて僕は5歳のままである。なので成人式に行く人を、すごいと思う。彼ら彼女らは、自身が大人になったと自覚している。僕には到底できない。まあ僕もひねくれていて、大学生は元気で活発でお金がなくて、社会人は時間がなくて常に辛そうにしなければならないとか、そういった俗臭芬芬なものを毛嫌いしているのもあるかもしれない。成人式、僕は嫌いである笑笑

嫌いなものはとことん排除、好きなものはとことん身の回りに置くことが、僕の生活を創造する。いいこと、わるいこと。

衝動について書こうと思っているけど、僕がこうして執筆すること自体が衝動性そのものであるため、読んでいれば自ずとイメージがわくだろうと思っている。

僕にとっての「いいこと、好きなこと」
・読書
・パステル画を描く
・眠い時に眠る
・天日散歩
・執筆
・100%ゲーム(だらだらはよくない)
・心に従うこと

僕にとっての「わるいこと、嫌いなこと」
・我慢すること
・だらだらすること
・考えすぎること
・きっちり、ちゃんとすること
・僕らしい、が無くなること
・世間でいう、働くこと

僕、自分の文章を見て、まだ若いなぁなんて思う。当然。恐らく40歳になっても同じことを思うのだろうな。年を取ることにワクワクはしないし、何とも思わない。今しか見ていない(というか見れない)のであるから仕方がない。仕方がない、ということも僕は大事だと思っている。あるところで区切りをつけないと自分を見失う。自分の中の不完全なものと、特異性を理解すること。それが自分だと、半ば開き直ること。そしてそれを、「自分にできること」と名目すること。

そうなると、わざわざ考えなくても、それがそのまま自分であるということに気付ける。自分探しなんてものはない。確かに楽しいけど、やりすぎると不安になる。自己紹介に言葉が詰まるのはここに理由がある。

肩書きとか、そんなこと言われても困る。僕は○○大学を出ました、なんてのを聞いても「いやいや君のことを知りたいんだよ、大学じゃなくて」なんて思う。そもそも人に興味がない僕は聞かないのだけど。自己紹介をするのなら、以下のような回答が適当だと思う。

「僕は誉です。今日は朝起きてパステル画を描き、それをSNSと友達に送ってリアクションを楽しみました。執筆が好きです。毎日書いて描いてます。タバコはhi-liteが好きです。ゲームも好きです。散歩もしました。毎日好きなことをしています」このくらいにラフに。アバウトに。いやここまでくるとすごく詳細にも見える。肩書なんぞ聞いていないのだ。肩書は君ではない、君を保証するものでもない。君自身はどこにある?生活にある。経歴をつくる前に生活を作る。それが君なのだよー。経歴、肩書ではなく生活を出すと、そこに比較は一切生まれず、個性や特異が見えてくる。そうするとすべての人間が素晴らしいものだと思い出す。自己紹介をするときは、今日の生活をペラペラ言うこと。自己とは生活である。

衝動性。忘れていた。何かないかな、話すこと。話すことがないまま分からないまま手を動かしているのも、これまた衝動である。衝動に似たような特性を僕は持っている。持っているとか言いながら、何を書こうかは決めていないのも面白すぎる。何ができるか、完成するかがわからないのってすごくワクワクする。遡及的に物事を組み立てていく。衝動、色のイメージ、言語の交差。では僕が理屈で考えるときはどういった状況なのかも書いていこう。執筆、面白すぎる。僕は本を出版しよう。それがいい。楽しみだね。

理屈で考えるとき、それは衝動を抑えているときである。衝動が無意識ならば、理屈は自我である。自我とは特異、無意識とは根本的に違う。自我とは他人あってのもの。つまり他人が僕に対して創造した僕である。比較が主であるが、その他に褒められた記憶、蔑まれた経験が自我を形成する。他人から見た自分を意識してしまうのが、個性や自我である。なぜ個性なのかも端的に説明すると、個性とはまた、無意識や特異とは違って、社会規範の中の自分である。例えばゆとり世代と言われる教育方針は個性を尊重している、規律のある時代とは打って変わって、一人ひとりの個性を重視して教育していく。しかしそうして育まれた者たちは最後何をするのか、”個性”を生かした職場で働くのである。個性とは、社会が見出し、社会が選択する範疇のものでしかないのである。それとは別の無意識や特異と言ったものは社会とは全く無関係どころか、敵対する”衝動”のようなものである。本能が壊れている人間に備えられた、厄介な特性である。例えば公に言えないようなひどい趣味、癖。性癖もそうだ。社会から外れたものである。つまり、自我は個性であり、衝動は無意識や特異に近いもの。よく「エロは世界共通」と謳われる。Youtubeでエッチな動画を見てみて、コメント欄が荒れていることなんて必ずと言っていいほどない!言語の壁を突き破って跨いで、平和に下品に上品な世界がそこにはある。それは社会とは外れた、衝動の世界である!!

なんの話だったか、忘れていた。理屈で考えるときの僕の話でしたね。失敬失敬。人にはそれぞれバランスがあって、衝動寄りの人は少ないように思える。僕は衝動寄りで、そこに依存していたほうが楽で得意で生きやすいのだが、社会の中で生きているとやはり衝動を抑えて自我や個性に頼る場面も増える。そこで出てくるのが理屈である。考える行為、とも言える。僕にとって今日の話とは別に感じているのは、「考えるとは行動である」と思っているのだが、ここでは考えるとは止まることになってしまう。もう少し簡単に言うと、僕にとってやりやすいのは止まらないことのはずが、社会で生きる上で衝動を抑えるようになると、止まってしまうのである。一度立ち止まってしまうと、自分の中の流れもプツンと途切れてスイッチ完全にOFF。やりづれぇやりづれぇ。この記事も衝動に従って書いているので、もちろん止まらないし、川の流れのようである。サラサラな水が流れている。石に沿ってさらぁっと。ただこの前会った現象で、人に見られることを意識してしまうと、流れが止まる。やはりここでも社会や他人がいるわけ。いかに自分だけで立ち回れるかが、僕にとってすごく重要なのである。川のど真ん中にぼん!っと壁ができる感じがする。思考が止まる。流れが止まる。つまらないことを書いても退屈なので次へ行く。ね、自由でしょ、そのまんまなの、僕。

衝動性、レベル上げ、センスの話

ただ、先ほど述べたように僕は本を出版したいのだけど、こんな衝動だけで出来た文章を(むちゃ面白いのに)僕は見たことがないので不安になってしまうんですね^^。でも、衝動以外が入るとやりづらくなる。やりづらいと楽しくない。楽しくないと僕は死ぬ。なので、衝動で書くしかないことはもう確定事項なのだけど、どうにか衝動のままの文章をレベルアップして本を出版したいとも思っていた。さっきまでは。そう、今の今、気持ちが変わったのである。しかし上にセンスという単語がある。もう最初から知ってんじゃんやっぱり。そう、センスとは簡単に言えば素質と思うわけだが、素質とは衝動のことをいう。(もうわからなくなってきたね、つまり他社が介入していない”自分”ということですよ)例えば僕が衝動をどうにかしてレベルアップさせて人様に見せれるような、つまり書店に置いてあるのと同じような文章が出来上がったとして、そこに面白みがあるかどうか。それは、なんとも。もう僕の文章は最初から完成している。僕の不完全な文章、様々なモデルの中途半端な再現の潜在性、僕の中の衝動という偶然性で出来上がる文章は、もちろん僕にしか書けないわけで、それをセンスというのだから、このままでいいんだよ。なんてわかってるくせに、わざとわからないふりをして書いてるんだから面白い。頑張るな、ほまれ。きっちり、ちゃんとするな、ほまれ。中途半端にはなるな、ほまれ。面白おかしく生きなさい、ほまれ。

5時か。空が明るくなってきた。窓を開けよう。もう二時間もこうして執筆している。収まりそうにない。一生書ける、超幸せ者じゃん!!

これで躁状態じゃないのがまた不思議で面白い。頭に一瞬よぎる、躁状態の可能性…。躁って、自分で気づけないみたいです。まあまだ来るには早いと思うからあんま心配しないでやっていこう。

遠慮の要らない文章、筆者はとても動きやすく、読者ももちろん遠慮がいらないのでそのまま、体で感じることができる。理解しようとする行為が一切要らない。感じればいい。僕は鬱になると考えすぎ状態になるので衝動とは正反対の動きになる。文体はもちろん変わるし、そもそもnoteに公開できない。それくらい退屈な文章。まあ座ることもできないのでベッドの上でスマホのメモ機能に淡々と、ものすごいスピードで自己批判して書きなぐっている。全てに理屈があるのでさらにつらい。

ようやく、流れが落ち着いてきた。ゆっくりと書くのもまたいい。僕は一生自分に飽きないな。常にアップデートが来ている。改良でも改悪でもなく、バグを無くすわけでもなく、仕様をルーレットしているようなアップデートだ。そこに新しいバグが生まれたりして、また楽しい。バグすらも楽しいのだから、今の生き方はすごくいい。生活自体が楽しいと、悪いことが起きても面白く感じるのだ。自分が好きなゲームは負けても楽しいものである。つまり一生憂うことのない、飽きることのない、勝ち確状態。誰に勝ったというわけではない。ただ僕はずっと、自分だけを見て対話してきて、やっとこさ落ち着いてきたことに対して、勝ち確だ!と感じている。安心安堵。ただ最初に述べたように、綺麗なものを壊したくなる衝動性がある。僕は明日にでも、このやっと手に入れた安心安全生活をぶち壊しているかもしれない。その時はまた、執筆します。こんなことがあって、最高でしたと。

これだけ、衝動性を推しておいて、最後は実験として意識的に書いてみる。実験大好き人間である。実験内容としては「もう今日の執筆は満足しているけど、あと2000字書いて原稿20枚分の記事を作る」こと。だからここから先は少し衝動を抑えた社会的な誉である。

もうすでに書くことが浮かばない笑笑
衝動はきっちり動き、きっちり止まるのでグラデーションが存在しない異質な特性である。なので書くことがなくても動けるのが衝動であるが、衝動が止まると途端に動けなくなる。これは先ほど説明した通りである!
意識して文脈をたどって思考してみる。僕は自分のことしか分からないので、他人にことを書けない。が、今回は他人の衝動性にも言及してみることにした。他人は他人。行動した部分しか見えない。行動するまでに働いたであろう内的な思考、衝動性を真に感じることはできない。僕はよく共感性が高いと言われ、確かに自分でも他人の思考を読めるなとも思ったりするが、それは結局思い込みに過ぎない。自分の思考すら分からないから衝動に依存しているわけである。それを他人のことがわかるなんて言うのは、思い込みに過ぎない。まあただ、事実として他人が次にいう言葉だったりをよく予想して的中するのであるが…。僕はもしかしたら、衝動性、いわゆるセンスに長けているのかもしれない。それは「かもしれない」に思いとどめることしかできない。確定はできない。目に見えるものではないからである。現実的、記号的に「水は100度に達すると沸騰する」と、目に見えてわかるのであれば、それも確かめることができるであろう。しかしそのような明示的なものになるとそれは衝動では無くなる。ジレンマ。なので、「かもしれない」で終わる。他人に衝動はあるのだろうか。僕は少し気になる。僕はもしかしたら主人公で、ほかに存在しているように見える他人だったり建物、この世界そのものは全て作り物であるのではと思う時がある。映画の中の世界。なぜなら確認ができないからである。だから気になるけど、どうしても他人に衝動性が存在するかは分からないので仕方がない。T君にはほぼ、存在してないように見える。が、そんなことはない。すべての行動には衝動性が干渉している。意味のあることを意識的に言及したように見せて、その文書の中にも衝動性、無意識、特異が存在している。それは自分では見つけられない。見ようとしたら、無くなっている。意識が動くからである。つかめないものである。だから他人を真に理解するのは他人なのかもしれない。「え、そんなこと言ってた?」「そんな癖があったの?」これを見つけるのは自分ではなく他人である。他人の衝動性。気になる。なぜ気になるのだろう。他人には興味ないと言っておいて。それは多分、探して最後は自分に帰結するからであろう。僕も自分の衝動性が気になる。その外見を一目見たいと思っている。その実験対象として他人の衝動性を見て比較して、初めて自分とは何かがわかる気がするのだろう。

はい、7300字に達した!これもまた面白いかもしれない。本当にそんなこと思ってるの僕?と思いながら書いている。ただ面白いことにスラスラかけているから、なんだろうと。文体がいきなり変わった。思考体系も別のものに。僕というのは存在しない。イメージでしかない。この執筆が終わったら何をしよう。寝てもいいんだけど、眠くはないのだ。パステル画を描いてもいいし、読書してもいいし、ゲームをしてもいいし、悩むなあ。全部好きなことだ。これほど最高なことはない。

おかしいね、前とは違う。当たり前だけど僕は日々刹那的に変わっている。意識してやったわけではない。ただ自分が楽しいことを毎日徹底的にやっているだけだ。アップグレードは衝動に任せている。もう、何も心配することはない。そう暗示するのは、鬱が少し不安だからだろう。これだけ楽しそうに生きているのに、必ず鬱がやってきて、必ず自己否定をする日がやってくる。そうすると、「今までの自分は偽りだったんだ。」と思ってしまう。それを心なしか恐れて「大丈夫だよ、君はうそをついていない。君は君。不安になるのも君。いつ鬱になっても、大丈夫だよ」と震えた声で自己暗示。とにかく死なないように、生きるのだ。でも、いつ死んでもいい。僕はずっと100%で生きている。100%で生きて、それでも死んでしまうのならもう仕方がないね。腹をくくっている。大丈夫だよ。

さ、今回は衝動について書いてみました。次に何を書こうかは、これまた衝動のお楽しみ。衝動生物の誉でした。タバコを吸います。


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