漠然とした不安

僕は2044年に40歳になる。あと二十年。今のところはその年を晩年と決めている。そうでないとこの不安を抱え続けるのがとても、無謀に思えるのである。克服して老衰に至るか、40になる前に死ぬか、まだ分からない。しかしこの不安を克服してはならないとも思う。克服してはならないが、克服しようと生涯を通して試みなければならない。晩年をあらかじめ決めておくと途端に開き直ることができる。父は40歳で死んだ。あらかじめ決めてはいないけど、決めておけばもう少し落ち着いて死ぬことができただろう。父は焦って死んだ。僕はそのことについて何とも思わない。悲しくもなかった。親戚、兄弟、母、友人、悲しい顔をして涙を流すけど実の息子である僕だけはキョロっとしていた。生まれてきた時点で不幸と、太宰治は言う。僕もそう思っていた。だが、なんとなく違う気がする。物心ついた時から「生きることは何となく虚しい」と感じてきた。元気で活発で誰とでも仲良く話す、帰って父とサッカーをして、シャワーを浴びてDSをして、早く寝る。普通の生活をしているけどずっと虚しさを感じていた。今も同じ気持ち。もう二十歳。生きることがどうも現実とは思えなくて、でもそこで生きている自分がいて、確かに20年生きてきているし、これからも生きていく。それが何となく虚しいのである。それを忘れて目の前のことにいっぱいになるときもあったかもしれない。だが一度思い出すと、そんなときはなかったのだと気づく。これも何回も経験している。ずっと不安だと苦しいから無意識に逃げているのだろうか。こんな日は早く寝たほうがいい。

虚しさ、不安、意味のないことが僕は実は好んでいるのかもしれない。絵を描いて文字を書いて、思うこともないまま喋ったりする。全て虚しさと不安から生じていると思う。僕の生活行動思考すべて。意味のないことは僕にとって真に意味のあることである。意味のあることは僕にとって、意味のないことである。意味があると言われていることをすると、苦しくなる。動きにくくなる。重くなる。心地の悪い重さだ。心地の悪いであろう虚しさや不安は、なんとなく心地がいいものである。こんなことを言っているから僕は他人から理解されないんだろう。他人から理解されないことは至福である。理解されることほど退屈なものはない。もう少し開き直ってみてもいい。お前に理解されるほど私は退屈な人じゃないよ。私も、君が分からないよ。個性。お互い放っておいて自身だけ見れば良い。

今回も書きたいことはこれといって無い。知りたいことも語りたいことも無い。書きたいとも思っていないかもしれない。動かないと死んでしまうから書いているだけかもしれない。自分のことを一番大事に思っているのに、自分のことを一番知らないかもしれない。知ろうとしてるから、分からないことに気づく。他人のことを知ろうとは思わない。どうでもいい、軽薄だけど。だから説教などというおこがましいことは出来ない。他人に説教をしている人を見ると、不思議に思う。暇ではないかと思う。人に影響を与えようとする人、馬鹿らしい。本当は僕、暗い文章は書きたくない。手が進まないので楽しくない。執筆をして2時間が経っているが今のところすべて下書きである。下書きにして、次は手が進む内容を書こうと思ってもどうしても暗くなる。恐らく今日は執筆をする日ではないのだろう。でも書きたいことだけ書くのはいかがなものかと、心に自分の声が響く。これがとても生きづらい。なぜ書くんだろう。自分がわからない。わからないままでいいのだけど、なんだろうね。

下書きに置かないで、さっと出してみる。おやすみ

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